第25話 叶美の単独捜査
時を同じくして、森崎叶美は雑踏の中を一人歩いていた。いつも隣にいる筈の沢渕晶也の姿はない。
今日この街にやって来た最大の目的は、武鼻自動車サービスの社長と面会することである。この会社の敷地内には二台のマイクロバスが停めてあった。数年前に廃業した鏡見谷旅館の送迎バスである。その一台の車内から誘拐事件の被害者、片比良七菜の直筆メモが発見されたのだ。
近所の者の証言によれば、武鼻社長は現在一人暮らし。仕事の上でも従業員は一切雇わず、まさに一匹狼でいるらしい。
沢渕の推理では、誘拐犯は共通の利害関係で結ばれた数人のグループの可能性が高いという。もしそうであるなら、この孤独を絵に描いたような武鼻という男は誘拐犯のメンバーとは考えにくい。
しかしたとえ彼が実行犯でないにせよ、バスを所有していた事実は残る。犯行グループと何らかの形で接触したことは否定できないのだ。
叶美は真っ直ぐ歩きながら考える。
今日何とか面会までこぎ着けて、マイクロバスの入手経路は聞いておきたい。
しかし、まずはその前にやるべきことがある。
今、彼女の手にはコンビニで貰ったビニール袋がぶら下がっていた。足を動かす度に、乾いた音を出している。中は和菓子や飲み物で満たされていた。
次第に目的地が見えてきた。子供たちの歓声が徐々に大きくなってくる。
最初の仕事は、植野老人に会うことであった。
町のことをよく知る人物である。彼には仲間もいる。叶美は探偵部だけの調査に限界を感じ、細かい調査は彼らの力を借りようと考えた。
以前、彼はこの町に停めてあるマイクロバスにいくつか心当たりがあると言った。あれから思い出してくれただろうか。
叶美は一つのストーリーを考えてみた。
犯行に使用したマイクロバスは当初、この町のどこかにひっそりと置かれていた。つまりその場所こそが犯人の根城、同時に人質の監禁場所であった。その後数年が経過すると、犯人たちはバスを処分した。すなわち証拠隠滅を計ったのである。それからバスは最終的に武鼻自動車へと流れ着いた。
こう考えてみると、本当の意味でのバス探しはまだ終わっていない。あの二台のバスがどこからやって来たのか明らかにする必要がある。
公園の入口に立つと全体が一望できた。果たして植野は居るだろうか。
いつかのベンチが目に入った。次の瞬間、自分は無駄のない捜査をしているものだと感心した。
三つの丸い背中が寄り添うように並んでいた。
余程話に夢中とみえて、叶美が近くに寄ってもまるで気づいてくれなかった。
「こんにちは」
「おお、あなたでしたか。よく来てくれましたね」
植野が真っ先に顔を上げて、目を細めた。
「あなたが噂の森崎さんかね。お会いできるのを楽しみにしておりましたよ」
立木と名乗ったその老人は嬉しそうだった。まるで学生時代の同級生に再会できたかのようだった。
植野はさらにもう一人、佐伯という人物を紹介した。
彼は一瞬愛想笑いを浮かべたが、言葉は何も発しなかった。初めて会う若者に少々警戒しているのかもしれない。
植野に勧められ、叶美は真ん中に座った。袋から和菓子を取り出すと三人に配った。
「どうぞ召し上がってください」
「いつも済まないね」
植野が恐縮して言った。
叶美はしばし彼らの話に付き合った。
三人は病院で知り合ってもう十年来のつき合いだと言う。老人とはいえ、実に様々な話題を口にした。叶美は喫茶店を経営する祖父と比べても、三人は圧倒的に博識であることを知らされた。
植野はその昔タクシーの運転手をしていたらしいが、他の二人はどのような経歴を持っているのだろうか、叶美は少々興味が湧いた。
ずっと聞き役に徹するつもりでいたのだが、彼らは要所要所で若者の意見を求めるようなところがあった。特に植野は孫がいるからなのだろう、どこかで若者との接点を見い出そうとしているのかもしれない。
叶美も正直な意見を述べた。山神高校を代表する生徒会長の意見に、三人は興味津々といった顔で聞いてくれた。
話が一段落すると、
「ああ、そうだ。実は、あなたが来るのをずっと待っていたんだよ」
植野が突然そう言い出した。
どうやら待ち望んでいたものがようやく現れた、叶美はそんな思いだった。
「ほら、前にマイクロバスの停めてある場所が思い出せない、そんな話をしたね。それであれから毎日みんなで町を歩いてみたんだよ」
そう言うと、植野は書道に使う半紙を一枚取り出した。
そこには墨で書かれた達筆の文字が並んでいた。
「五件あったよ」
叶美は感激しきりだった。まさか町を練り歩いて調べてくれるとは思ってもみなかった。若者にこれほど親切にしてくれる老人がいることに驚きを隠せなかった。
「本当にありがとうございます」
叶美は何度も頭を下げた。
「これからそこへ向かうのかい?」
立木が訊いた。
「はい、そのつもりです」
「ワシらが案内してあげようか?」
老人はどこまでも親切であった。
「いえ、お気持ちだけで結構です。私一人で回りますので」
叶美はきっぱりと断った。
ここから先は自分の仕事である。これ以上、お年寄りの世話になる訳にはいかない。
「そうか、そりゃ残念だ」
立木の言葉に、佐伯も頷いた。
「そうそう、大事なことを忘れてた」
植野が手を叩いた。
叶美の手から半紙を取り上げるようにして、
「ここに『犬』と書いてあるでしょう。ここの敷地は大型犬を放し飼いにしてあるから気をつけた方がいい」
「分かりました。ご親切にどうも」
「それじゃあまた、いつでも遊びにいらっしゃい」
そんな声を背に受けて叶美は公園を後にした。
植野から手渡された半紙をもう一度眺めてみた。
上から順に、老人ホーム、自動車学校、私立幼稚園、観光タクシー会社の名前が並ぶ。これらは全て営業中とある。確かにどの施設もマイクロバスは必要不可欠なものであろう。
問題は最後の一軒、廃業したボーリング場であった。さらに犬が放してあるという要注意物件である。
叶美は考える間もなく、その場所へ向けて歩き出した。
このボーリング場は最も怪しいものと言えるだろう。
廃墟と化した建物は、人質を監禁するのに理想的である。加えて特殊な施設は、人質を一カ所にまとめておくのに十分の広さを持っている。
それだけではない。大型犬が放し飼いにしてあるという点は見逃せない。人の通わぬ施設内に犬が居るのはどう考えても腑に落ちない。
逆に言えば、これは外界からの侵入を防ぐ策とは考えられないか。あるいは人質を逃がさぬための策かもしれない。
いよいよボーリング場が見えてきた。
地図で見ると、敷地はかなり広そうだ。その半分ぐらいを駐車場が占めている。平屋の建物が長く伸びていた。
不思議なことに駐車場には何台か新しい車が停めてあった。どの車にもナンバープレートが付いている。この朽ち果てた建物に、今でも人の出入りがあると言うのだろうか。それとも近所の人が勝手に停めているだけなのか。
建物はひっそりと静まりかえっている。人の気配は感じられない。本当にこの中に犬がいるのだろうか。犬が襲いかかってきたらどうしようか、そんな不安が重くのし掛かる。しかしここまで来た以上、建物内を見ておきたい気がする。
叶美は広い駐車場を斜めに横切って廃墟に近づいた。
ひょっとすると犬が飛び出してくるのではないかと気が気でなかったが、何も起こらなかった。
奥まで来たが、やはり人の居る気配は感じられない。ただ不気味に大きく口を開けた玄関が叶美を待っていた。暗くてここから中の様子を窺い知ることはできない。
まさかこの中は犬の王国と化しているのだろうか。もう少し植野から詳しい情報を聞いておくべきだった。
叶美は歩くのを止めて、しばらく耳を澄ませてみた。中から何か音が聞こえてくるかもしれないと思ったのである。
しかしまるで音はなかった。
「すみません」
叶美は奥に声を張り上げた。
この声を引き金に何頭もの犬が飛び出してくるのではないか、そう身構えてみたが何も変化はなかった。
叶美は意を決して壊れた開口部から廃墟へと足を踏み入れた。
窓という窓は木材が打ち付けられていて、外光は遮断されている。暗闇の中で積み上げられた廃材が濃い影を作っていた。日の当たらない空間は空気がひんやりと冷たかった。
闇の中もしばらくすると目が慣れてくる。
玄関を入ってすぐ、ロビーと思われる空間には自動販売機が真横に倒され、壁がぶち抜かれていた。木の床が所々腐っているのか、歩く度に不気味な音を立てた。
このまま外へ出られなくなってしまったらどうしようか、そんな妄想もここでは現実になりそうだった。
その昔、ここは客で溢れかえっていたのだろう。奥の方には球を転がす長いレーンが何本も見えた。
ロビーを端まで歩いていくと、鉄の大きな扉にぶつかった。防火扉だろうか。
この扉を開けてみて、もし何もなければ、このまま立ち去ろうと心に決めた。これ以上長居はしたくない。
きしみ音を立てて扉が開いた。途端に異臭が立ち込めた。
やはり見込み違いだった。こんな場所に人が暮らせる訳がない。叶美は直ちに引き返そうと身体を反転させた。
その時である。
開いていた扉がもの凄い勢いで閉じられた。鉄と鉄のぶつかる音はまるで天井を崩落させるかのように感じられた。同時に建物全体が共鳴した。
叶美は血液が逆流するほどだった。扉は自然に閉まったものではない。明らかに向こうから誰かが力を加えたのだ。
しまった、罠に嵌められた!
敵は姿を見せることなく、侵入者が来るのを静かに待っていたのだ。大きく口を開けた虫籠に今一匹の蝶が舞い込んだ。
そして捕獲は成功した。
叶美は逃げ場を失った。恐怖で足の震えが止まらなかった。
意味もなく、足下を見た。
異臭の原因がそこにあった。どうやら犬の屍らしかった。何頭か居るようだが、どれも原形をとどめていない。
今、暗闇の奥で何かが動いた。
叶美は息を殺して、精神を集中させる。
次第に目が慣れてきた。徐々にその輪郭がはっきりしてくる。
それは不思議な光景だった。
妙に白い顔をした人物が、微動だにせずこちらを窺っているのだ。いや、顔ではない。能面だ。能面を被った男が立っていた。
理性が崩壊する瞬間。
あれは人形なんかではない。生身の人間だ。その証拠に、息をする度、肩が小刻みに揺れていた。
それは不思議な格好だった。
右手に何かを持っているのだ。あれは鉄パイプか!
恐怖で足が動かなかった。声一つ出すことができない。
いよいよ身の危険を感じた。全てが悪い夢であってほしい、叶美は小さな胸で祈った。
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