第15話 叶美と晶也の共同捜査

 金曜の朝。

 沢渕は人混みを縫って駅を出ると、立ち止まって一呼吸した。毎日の儀式とはいえ、朝のラッシュには未だ馴染むことができない。これがこの先三年も続くと思うと途端に気が滅入る。

 駅前は多くの学生でひしめき合っている。空から見れば、彼らの制服は色とりどりの点であり、ある種の幾何学模様を生み出していることだろう。やがてその模様は色別に一本の線となり、それぞれの学校目指して流れていくのだ。

 沢渕は自分の決めた歩幅で進んでいく。この時間は彼に自由な思索を許してくれる。時には新しいアイデアが浮かぶこともある。

 今彼の頭を占拠しているのは、やはり誘拐事件に他ならない。

 十七人の誘拐に成功した犯人グループは、この四年間どのような暮らしをしてきたのだろう。人質は少なくとも最近まで生存していたことが確認できている。すなわち犯人たちは人質を生かし続けていることになる。もっと言えば、四年間生活を共にしている訳である。

 これは一体何を意味するのだろうか。

 一般に誘拐事件では、犯人にとって人質の処遇は困るべき筈のものである。確かに人質は大事な金づるだが、厄介な存在であることに変わりはない。そのため犯人は身代金の受け取り後、素直に人質を解放するか、あるいはすでに殺害しているか、そのどちらかである。

 しかし今回の事件は違う。

 明らかに犯人たちは人質を殺さずに生かし続けている。その目的は一体何なのか。身代金を手に入れられなかったとはいえ、四年も共に暮らす理由が果たしてあるだろうか。

 一つ考えられるのは、今もなお人質を利用しているということである。以前直貴が指摘した、人質を洗脳し、犯罪に利用するというものである。もしそれが成功しているなら、一部の人質は実は犯人と結託して自由に外界を飛び回り、犯罪に手を染めていることになる。

 いや、そんなことはあり得ないのだ。沢渕は頭を振った。

 それでは女子高生が書いた隠しメッセージの説明がつかない。雑誌にははっきりと「カンキン」と書かれていた。「監禁」とはある場所に閉じ込められ、自由を奪われている状態である。建物の外へ出ていける道理はない。

 それでは十七人を二つのグループに分けて、一方のグループの命と引き替えに、もう片方に犯罪の片棒を担がせてはどうか。

 いや、これも難しい。なぜなら十七人は偶然選ばれた者に過ぎず、そのほとんどは面識のない者ばかりだからである。家族のような強い人間関係ならともかく、この程度の関係では、犯人の指示に従うどころか、外へ出た瞬間全員が逃げ出しているだろう。

 思考を続ける沢渕の耳を突然、威圧的な声が襲った。一人の世界に埋没していただけに、内容がまるで聞き取れなかった。

 反射的に振り返ると、すぐ間近に制服姿の女子が迫っていた。

 朝日を顔に受け、やや眩しそうな表情を浮かべているのは、森崎叶美だった。

 唖然とする沢渕の顔に、

「こら、そこの新入生。思い悩んでいると溝に落っこちちゃうわよ」

 そんな一声を浴びせた。

「何か悩み事があるのなら、一度生徒会にいらっしゃい」

「生徒会長っていうのは大変なんですね。朝から新入生が溝に落ちないように気を配らなければならないんですから」

「ちょっと、沢渕くん。あなた最近、先輩に対する敬意が希薄じゃない?」

「そうですかね?」

「そうよ。以前は緊張して、『はい、はい』って可愛かったのに、今じゃ悪態までつくようになっちゃって」

 叶美は少し早歩きで隣に並んだ。

「事件のこと、考えていたんでしょ」

 決めつけるように言った。顔は前を向いたままだった。

「ええ、まあ」

「それじゃあ、今日の放課後、例の調査しない?」

「いいですよ」

「学校が終わったら隣町の駅前で待ち合わせ。いいわね?」

「はい」

 叶美はその返事を合図に、さらに歩幅を大きく取って沢渕を抜き去っていった。以前は左右に大きく揺れていた長い髪が、今では短く上下にふわふわと舞っている。

 彼女は沢渕の方を一度も振り返ることなく、ひたすら前に進んでいった。今、大通りから合流した学生の中に友達を見つけて足早に合流した。両手を大袈裟に動かしながら、友達の冗談に応えている。

 そんな姿を目で追って、沢渕は不思議な感覚にとらわれた。

 入学式で初めて叶美と出会った時、互いに住む世界が違うのだと考えていた。生徒会など自分には無縁なものだと決めつけていた。

 それがどうしたことだろう。今では彼女と共に行動をするまでになった。お互いに言いたいことが言える仲でもある。彼女は過去の秘密まで包み隠さず語ってくれた。

 しかし、考えてみれば、それもこれも探偵部という組織の上の間柄であって、果たして真の人間関係と言えるのであろうか。

 その証拠に、先ほど叶美は周りに人気がないことを確認した上で、追い抜きざまに声を掛けてきた。そして一方的に指示を与えると、すぐさま立ち去った。これではまるで会社の上司と部下である。どこまでいっても、二人はそんな関係でしかないのだ。

 沢渕は心のどこかにぽっかりと穴が開いているような感じがした。


 夕方になって、沢渕は駅を目指して歩いていた。校門を出た頃は同じ制服に囲まれていたのだが、商店街を抜ける頃には、すっかり一人きりになっていた。

 券売機で切符を買って、自宅とは逆方向の電車に乗った。この時間はまだラッシュ前である。座席はいくらでも空いていた。

 沢渕は鞄を足下に置いて、窓の外に目を遣った。列車は加速すると、田園地帯をあっという間に通り抜けて市街地へと滑り込んだ。十分も掛からないうちに隣町に到着した。

 重要なのは、いかに効率よく監禁場所を特定するかである。こればかりは人海戦術に頼るしか他はない。住宅地図をプリントアウトして、面積の広い、監禁に適する建造物には予め赤丸を付けておいた。今日は二人でどれだけ廻れるだろうか。

 改札口を出ると、真正面の壁を背に森崎叶美がうつむいて立っていた。チェック柄の短いスカートからすらりと伸びた足を交差させている。ヘッドフォンを耳から垂らして、時折改札口に目を遣ることも忘れない。

 ありふれたデザインの制服も彼女が着るとまるで違って見える。ファッション雑誌から飛び出してきたモデルのようだ。駅構内の最も激しい往来の中にあっても、彼女の姿は人目を惹くのに何の苦労もなかった。沢渕の前を行く男子高校生は、誰もが彼女に強い興味を示しているのが分かった。

 叶美は沢渕の姿を捉えると、すぐさま壁から剥がれた。ヘッドフォンを外す。

「それじゃあ、行きましょう」

 駅を出るとまだ西日は高かった。駅前の騒音が二人を包み込む。

 叶美は少し前を歩き出した。沢渕は足早に真横に並んだ。

「アバンダン」

 突然、叶美が口を開いた。

「はい?」

 沢渕は聞き返した。

「アボリッシュ」

 彼女は構わず続ける。

「何ですか、それは?」

「あなた、全然英語の勉強してないじゃない。もうすぐテストなのよ」

 叶美は冷ややかな視線を浴びせた。

「英単語よ、英単語。アバンダンは『見捨てる』。アボリッシュは『廃止する』でしょ。これ単語帳の最初のページよ」

 どうやら英単語リストのことを言っているらしい。

「もちろんこれから勉強するつもりですよ」

 沢渕は憮然として言った。

「ひょっとして先輩がさっき聞いてたのは、英語のリスニングですか?」

「そうよ、当たり前じゃない。何だと思ったの?」

 さすがは生徒会長。不真面目な男子には手厳しい。

 二人はバスターミナルを抜けて大通り沿いを歩いた。しばらくして捜索エリアへと入った。

 沢渕にとっては以前歩いた道である。風景もしっかり覚えている。

「さあ、ここから調査開始ね」

 叶美が言った。

「ここで二手に分かれましょう。私はこの道を真っ直ぐ行くから、あなたは一本隣の道を同じように進んで頂戴」

「分かりました」

「二つの道はこの先の公園にぶつかるから、そこを合流地点にしましょう」

 叶美は小さく折り畳んだ地図を確認して言った。

「あの、先輩?」

 早速二、三歩進み始めた叶美の背中に声を掛けた。

「なに?」

「一人で無茶しないでくださいよ」

「大丈夫よ、滅多なことはしないから」

「もし怪しい場所を見つけたら、一人で行かず、僕に連絡をください」

「分かったわよ。沢渕くんって心配症なんだから、もう」

 そう面倒臭そうに言ったが、顔は笑っていた。

 沢渕は叶美と別れて、バス大通りを奥へと入った。地図を片手に対象となる物件を探した。

 最初の大きな敷地は近づいてみると何のことはない、ただのマンションだった。あちこちのベランダには洗濯物が干してある。何とも平和な光景である。これは探し求めている建物ではない。

 さらに行くと、「仕出屋」の古看板を掲げた商店に出くわした。木造家屋の店はすっかり商売をしている様子がない。店の裏側が民家になっていた。ここに十七人もの人質を監禁することは不可能である。沢渕はそのまま通り過ぎた。

 続いて訪れた場所は工事現場になっていた。地図には広大な敷地として載っている。四方は全て白いテント生地の布で覆われて、中を窺い知ることはできない。壁に掲げられた看板には、完成予想図として五階建てのマンションが誇らしげに描かれている。工事開始日は先月の日付となっていた。

 しばらく沢渕は道路を隔てた反対側に立って様子を見ることにした。五分ほど経ったところで、中から白いヘルメットを被った背広姿の男性が出てきた。大工というよりは設計士のようだった。丸めた図面を抱えている。

 沢渕は駆け寄った。

「すみません」

 その男性は道路の真ん中で立ち止まってくれた。眼鏡の奥の目は柔和で、どうやら人と接することに慣れたビジネスマンのようだった。若い高校生の話でもしっかり聞いてやる準備があるようだった。

「私、こちらに住んでいた方とは親戚でして、数年ぶりに会いに来たのですが、工事中だったのでびっくりしました」

「ああ、そうでしたか」

 男は頷くように言った。

「高嶋さんの親戚の方?」

「はい、そうです」

「今、高嶋さんは駅裏のアパートに一時的に引っ越してましてね。ここにマンションが建ったら、管理人としてお入りになるのですよ」

「ああ、そうですか。それを聞いて安心しました」

 沢渕はわざとホッとした表情を見せた。

「前の建物はいつ取り壊したのですか?」

「あの八百屋は、ちょうど一年ぐらい前に解体して、しばらくは更地になってましてね。なかなか次の物件が決まらなくて」

「そうだったのですか。あの店は子供の頃から知っているものですから、なんだか惜しい気がします。マンションの完成はいつ頃になるのですか?」

「来年春に入居者募集の段取りです」

「なるほど。その頃また来ます。ありがとうございました」

「いえいえ、どういたしまして」

 沢渕は一礼するとその場を離れた。男の視界からすぐに消えるように最初の辻を折れた。

 元々八百屋ということなら、建物自体はそれほど大きいものではないだろう。注目すべきは、取り壊しが一年前という点である。例の女子高生のメッセージは去年の秋頃と推定されるので、その時点ですでに八百屋は存在していない。この物件も事件とは無関係だ。

 突然、沢渕の携帯が鳴り出した。森崎叶美からである。

 彼女の身に何か起きたのだろうか。恐る恐る電話に出た。

「沢渕くん、お疲れさま」

 叶美の無事な声がした。しかしいつもとは違う緊張感が伝わってくる。

「どうかしましたか?」

「あのね、一軒怪しい建物を見つけたの。今すぐ来て頂戴」

「了解。僕が行くまで待っていてくださいよ」

「分かってるわよ」

 叶美は地図上のある場所を伝えた。

「すぐに行きます」

 沢渕は猛然と駆け出していた。


 息せき切って路地を飛び出すと、遙か遠くに叶美の姿を捉えた。背筋をぴんと張り、両手を後ろに回して立っていた。微動だにしないその姿からは並々ならぬ緊張感が漂っている。一体これから何が始まろうと言うのか。

 辺りを見回したが、怪しい人影はない。よって彼女の身に危険が迫っているという状況ではなさそうだ。何はともあれ、ひと安心である。

 沢渕は走るのを止めて、今度はゆっくりと距離を詰めていった。これから起きる事態に備え、呼吸を整えておかなければならない。叶美はそんな沢渕に一度だけちらりと視線を寄こしたものの、すぐにまた正面の大きな敵を睨み付けている。

 今、彼女の視線の先には、薄茶色の三階建てのビルがあった。コンクリートの壁は所々剥がれ落ち、大袈裟なひび割れが至る所を蝕んでいる。築二十年はゆうに超えたと思われるアパートだった。

 沢渕は叶美のすぐ横まで迫ると、小さな声で訊いた。

「これですか?」

「そうなの」

 彼女は建物から目を離さずに言った。どんな小さな異変も見逃さないといった様子である。

 沢渕は正面玄関に立って、入口の真上に取り付けられた看板に目をやった。建物同様すっかり朽ち果てた文字を何とか読み取った。

「○○スポーツクラブ男子寮」

 両開きの扉は外から木の板が打ち付けられていて、人の侵入を拒んでいる。見上げると各窓から茶色に変色したカーテンがずり落ちそうになりながら外を窺っていた。人の気配は感じられない。

 どうしてこの建物に目を付けたのか、沢渕は問い掛けるように叶美の顔を覗き込んだ。

「こっちよ」

 彼女は質問に答える代わりに歩き始めた。

 二人は建物の裏側に廻った。この寮はちょうど道路の角に立っているので、何の苦労もなく別の角度から内部を観察できるという訳である。

 しかしこちら側は敷地を囲う鉄板が隙間なく立っていた。そのため視界は遮られ、寮の三階部分がかろうじて見える程度である。それでもやはり人の営みは感じられない。上端部に取り付けられた有刺鉄線だけが黙って仕事をしているようであった。

 一見、工事現場に見えなくもないが、工事をしている様子はない。概要を記した看板もなければ、建設機械の音もしないからである。遠くでカラスの鳴き声がゆっくりと通り過ぎていった。

 地図で確認すると確かに敷地は広そうだ。これならマイクロバスを停めておくことができる。

「ここを見て」

 叶美は沢渕の制服の裾を引っ張った。

 出入口と思われる鉄板の勘合部に鍵が取り付けてあった。

 ステンレス製の頑丈な鍵は明らかに最近の物である。崩壊寸前の寮を守る鍵としては、立派過ぎるぐらいである。今も誰かが出入りしていることを物語っていた。

「妙に厳重だと思わない?」

「確かに」

 沢渕は率直に言った。

「中に何があるのかしら?」

「もしマイクロバスが停まっていたら、まさに僕たちが探し求めていた物件ですね」

 寮ならば厨房設備はあるだろうし、十七人を監禁する広さも十分にある。しかし一つ気になるのは、人の暮らしている気配が微塵もないことである。

「単なる廃墟かもしれないけど、あなたはどう思う?」

「分かりません。しかし一応可能性がある以上、白黒はっきりさせたいですね」

 一瞬二人の間に沈黙が生まれた。

「肩車をすれば中を覗けそうですね」

「そうね」

 鉄の壁は高くて厄介だが、二人で力を合わせれば何とかなるだろう。

 叶美と沢渕は互いに顔を見つめ合った。しばらく無言の時が流れた。

「沢渕くん、何ぼんやりしているの?」

「え?」

「早く下になってよ。肩車してくれるんでしょ?」

 叶美が業を煮やして言った。

「いや、先輩が下の方がいいんじゃないか、と思いまして」

「こういう時は普通、女の子が上じゃないの?」

 叶美は頬を膨らませた。

「だって先輩、そんな短いスカートで大丈夫なんですか?」

「えっ?」

 一瞬彼女の動きが止まった。全身で何かを考えているようだった。

「そんなこと、あなたが心配することじゃないわ」

 叶美はスカートの太もも辺りを両手でパンと叩いた。

「しー」

 沢渕は思わず寮を見上げた。中にいる見張りに気づかれては元も子もない。しかしそんな心配をよそに、辺りはまるで時が止まっているかのように静まりかえっていた。今がチャンスかもしれない。

「先輩がそう言うのなら、僕は別に構いませんけど」

「それじゃあ、早くして」

「分かりました」

 沢渕は壁に手をついて、膝を落とした。

「言っておきますけど、わざと上を見たら、即刻、退部してもらいますからね」

「はい、はい」

 沢渕の両肩に叶美の白い足が跨がった。最初ふらついていたが、すぐにバランスを取った。

「先輩、それではいいですか? 立ちますよ」

「いいわよ」

 沢渕はゆっくりと身体を伸ばした。叶美の身体がすうっと空へ持ち上がっていく。

 膝が完全に伸び切った。

「どうですか、何か見えますか?」

 叶美の返事を待っていると、まったく予期せぬ方向から野太い声が襲いかかった。沢渕は倒れそうになるほど驚いた。

「こら、君たちそこで何をしている?」

 振り返ろうにも、鉄板に体重を預けている今、それは無理な相談である。この瞬間自分にできることは何だろうか。頭が混乱して、思わず天を仰いだ。そこには叶美の両足が空に向かって伸びていた。彼女も突然の出来事に驚いたのか、バランスを大きく崩した。

 沢渕は慌てて背を縮めた。膝を半分ほど曲げたところで、叶美は我慢できずに飛び降りた。

「何をしていたんだ?」

 さっきと同じ声が言った。

 振り向くと、そこには制服制帽の警察官が立っていた。白い自転車を携えているところを見ると、どうやら巡回中だったらしい。これまたマズい相手に見つかったものである。

 沢渕はうまい言い訳を探そうとしたが、心臓の動悸が収まらない。言葉が出ないのだ。

 しかしどういう訳か、

「実は弟とボールで遊んでいたら、この屋敷の中に入ってしまって」

 叶美の落ち着き払った声がした。これはあまりにも見え透いた嘘である。しかし相方がそう口にした以上、辻褄を合わせるしかなかった。

「ボールだって?」

 警官は案の定、怪訝そうな声を上げたかと思うと、突然、

「ひよっとして、それって赤いボールかい?」

「はい、そうですけど」

 不思議と会話が成立しているのである。何が起きたのか、沢渕には理解できなかった。

「それなら、あそこに落ちてるじゃないか」

 彼の指は地面の数メートル先に向けられていた。見ると、確かにそこには赤いボールが転がっている。

「あら、そんな所に。どうも助かりました」

 叶美は頭を下げた。

 警官はまだ何か言いたそうだったが、

「こんなところで遊んでないで、早く帰りなさい」

と言い残し、自転車に跨がって行ってしまった。

 急に静けさを取り戻した路地で、沢渕は叶美の方を振り返った。

「いやあ、危なかったですね。偶然とはいえ、ボールが落ちていて助かりました」

「何呑気なこと言ってるの。これが偶然な訳ないでしょ」

 呆気にとられていると、叶美は赤いボールを拾って戻ってきた。

「何かに備えて、予め私がそこに転がしておいたのよ」

 赤いボールはスポンジ製で、彼女の手のひらでキュッと小さくなった。

「そんなの、いつも持ち歩いているんですか?」

「探偵部なんだから、このぐらいの装備は当たり前でしょ」

 沢渕は感心しきりだった。

「さあ、ここにはもう用がないわ」

 その言葉で叶美は歩き出した。沢渕も続く。ちょっと先に合流を予定していた公園が見えていた。小学生がすべり台や鉄棒に元気よく群がっている。

 叶美は木製のベンチに腰掛けた。沢渕も隣に座った。

「中には何かありましたか?」

「ちらっと一瞬だったけど、バスは置いてなかったわ。卓球台やバットやゴルフクラブなどが散乱してた」

「ふうん」

 有刺鉄線を張り巡らせて管理を厳重にしているのは、そういった運動器具が置いてあるからなのだろう。

「あの建物はシロね。人の気配がまるでないもの」

 それは沢渕も同意見だった。十七人の人質は今日も生きている筈である。あの建物からは、そういった生活感がまるで伝わってこなかった。

「そんなことよりも、沢渕くん。あなたさっき上を見たでしょ」

「何のことですか?」

「とぼけないで。実はスカートの中、見たでしょう」

「見てませんよ」

 沢渕は憮然とした声で言い返した。

「本当に?」

「はい」

「そんなこと言って、何だかちょっと顔赤くなってない?」

「なってませんよ」

「いいえ、私には分かるわ。沢渕くんはいつもの冷静さを欠いていたもの。私、探偵部の部長であると同時に生徒会長ですからね。男子生徒の破廉恥な行為は断固として許しませんから」

「だから、わざと見た訳じゃありません」

「ほら、やっぱり見たんじゃない」

「見ましたけど、残念ながら真っ暗で何も見えませんでしたよ」

 半ばやけ気味に言うと、叶美はくすくすと笑い始めた。

「わーい、引っかかった。引っかかった」

 彼女は肩を小刻みに揺らして、まるで子供がはしゃぐように言った。

「短いスカートの下は、こんな風にスパッツ穿いてますからね」

 そう言うと彼女はスカートの裾を軽く持ち上げた。確かにグレーの体操着のようなものがちらりと見えた。

 いたずらっ子のような目をした彼女に言葉がなかった。今隣に座っているのは、本当にあの森崎叶美なのだろうか?

 沢渕は一人困惑していた。

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