第14話 鍵谷先生の鑑定
昼休みを迎えていた。
開放された窓からは柔らかな風が入ってくる。大きなカーテンがそのリズムに合わせて、恥ずかしそうに踊っていた。
今教室内は授業の抑圧から解放された生徒たちの笑顔で満たされている。
沢渕はそんな彼らを横目に、自然な仕草で席を立つと扉に手を掛けた。教室の片隅に目を遣ると、多喜子は友人と談笑していた。沢渕にはまるで気づいていない様子である。
廊下に出ると、化学準備室へと向かった。今朝学校へ着くなり、叶美から集合メールが入ってきたのだ。今回どうやら多喜子は呼び出されていないらしい。
別棟に足を踏み入れると、廊下は途端に人気がなくなった。沢渕の足が床を蹴る音だけが鳴り響く。階段を上がって化学準備室のある長い廊下に出ると、ちょうど反対側から一人の女子が現れた。その動きはどこか落ち着きがない。両足をばたつかせるようにして沢渕の方へ向かってくる。彼女は肩を上下させながらも、正面を見据えることだけは忘れなかった。その視線はどうやら沢渕に向いているのだった。
近づくにつれて、顔の輪郭にピントが合ってきた。何のことはない、多喜子である。彼女も実は呼ばれていたのだ。
しかしさっきまで教室に居た彼女が自分よりも早くここに到着するとは、いかにも不思議な光景であった。
二人はちょうど化学準備室の前でぶつかった。
「沢渕くんったら、遅い、遅い」
呼吸を大きく乱しながら、多喜子は短く声を出した。
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
「沢渕くんを驚かそうと思って。教室では気づいてない振りをして、あなたを油断させたって訳よ」
沢渕は思わず苦笑した。
「私だって探偵部の端くれだもの、このぐらい余裕よ」
その割に、全身で呼吸する姿からまるで余裕が感じられない。そのギャップが妙に可笑しかった。
扉を開くと、室内は賑わっていた。
「おう、二人とも遅かったじゃねえか」
クマの大声に出迎えられた。
狭い部屋の中には、叶美も直貴もいた。さらにもう一人、椅子に腰掛けた鍵谷先生の姿もあった。
沢渕と多喜子は揃って会釈をした。
「タキちゃん、例のあれ持ってきてくれた?」
手ぶらの多喜子はベストの背中に手を入れると、平たいビニール袋を器用に取り出した。
「そんなところに隠していたのかよ?」
クマが目を丸くする。
「だって友達に見つかったら説明が面倒なんだもの」
袋の中からは例の中古車雑誌が出てきた。
「先生、これなんです」
叶美は雑誌を受け取ると、教師の目の前に置いた。
「二冊目か」
付箋のつけてあるページを広げてから、眼鏡を持ち上げるようにしてメッセージを確認した。
「なるほどね」
「先生、前の女性雑誌からは何か出ましたか?」
直貴が横から声を掛けた。
「まずは指紋の採取をしてみたんだが、実に数が多くてね。全部で百種類を超える指紋が検出された」
メンバー全員が黙って彼の続きを待った。
「それで特にメッセージのページを念入りに調べてみた。すると事件の被害者である辺倉祥子の指紋が出た」
「もう一人、片比良七菜さんの指紋は?」
すかさず叶美が訊く。
「そちらの指紋は検出されなかったね」
沢渕は一人考える。
あの女性雑誌には、確かに二つのイニシャルが残されていた。だがそれは必ずしも二人で書く必要はない。犯人の目を盗んで書き付けたことを考えると、どちらかが代表して書いた可能性が極めて高い。それにしても辺倉祥子の指紋だけが残されているということは、何を意味するのだろうか。二人は同じ部屋に監禁されているのではないのか。そうだとしたら、片比良七菜の生存については最悪の事態も覚悟しておかねばなるまい。
「先生、他の被害者の指紋はどうですか。その中にあったのですか?」
思わず沢渕は訊いていた。
「いや、不思議なことに、十七名中採取できたのは辺倉祥子の指紋だけなんだ。被害者の指紋は全てデータベース化されているんだが、それと照合して一致したのは彼女一人だけだった」
沢渕は、人質は全員一つの部屋に監禁されていると考えていたのだが、それは違うというのか。それとも辺倉祥子だけがその本に触れるチャンスがあったということだろうか。
それにしても指紋の数が多過ぎる。これは一体どういうことだろう。
古本屋で立ち読みする際に客が付けたものだろうか。あの雑誌は今年二月に持ち込まれたことが判明している。この数ヶ月の間にどれだけの客がその雑誌を手に取ったのだろうか。
これはまったくの勘でしかないが、本屋で付いた指紋としては数が多い気がする。すなわち古本屋に持ち込まれる以前に、すでにある程度の指紋が付いていたとは考えられないか。
沢渕と同じことを考えたのか、直貴が彼の代弁をしてくれた。
「例の女性雑誌は事件に関係ない不特定多数の人間が触れたことに間違いないね。問題はその場所だ。それらの指紋がもし古本屋で付いたのなら、それは我々の関与することではない。だがそれらが監禁場所で付いたのなら、その場所は人が大勢集まる施設だと考えられる。つまりその本はロビーや待合所に置かれていたという証拠だよ。すなわち監禁場所は小型バスを所有する商業施設だという、沢渕君の推理に力を与えることになる」
それには全員が頷いた。
「それからもう一つ」
鍵谷先生が付け足した。
「実は、表紙の端っこからコーヒーの成分が検出された」
「コーヒー、ですか?」
直貴がオウム返しをした。
「そうなんだ。一見しただけでは到底気付かないんだが、表紙の角にコーヒーと思われる染みがあった。コーヒーというのは、そのほとんどが水分なんだが、微量にカフェインやクロロゲン酸、その他のアミノ酸といった物質が配合されている。これらの成分が検出されたことから、おそらく雑誌にコーヒーがこぼれたのではないかと推測できるんだ」
「先生、それは缶コーヒーか、それとも本格的に淹れたコーヒーか、断定できますか?」
直貴が訊いた。
「なかなか良い質問だね。缶コーヒーには一般的に着色料や保存料、安定剤などが入っているんだが、そういう物質は一切検出されなかった。だからおそらく個人で淹れたコーヒーだと思うね」
そう言ってから、鍵谷は新たな雑誌の表紙を日光にかざして確認した。
「だけど、コーヒーがこぼれたからって何か特別な意味があるのか?」
クマがみんなに疑問を投げ掛けた。
今度は叶美が口を開く。
「どういう経緯でこぼれたものか分からないけど、もし辺倉祥子さんがわざとこぼしたのなら、大いに意味があるんじゃないかしら?」
「どういうことだ?」
「彼女は何冊かに分けてメッセージを書き付けた。しかしその雑誌は他人の目に触れなければ意味がない。それでわざとコーヒーをこぼして本の表紙を汚した。そうすることで犯人にその雑誌を早く捨てさせるように仕向けたのよ」
「だが、コーヒーをこぼしたと言っても、あの雑誌はほとんど汚れてなかったんだぜ。現に俺たちが気付かなかったぐらいだからな。そんな程度で犯人は本を捨てる気になるものかね?」
「確かに彼女にとっても賭けだったのかもしれないわ。だって本全体がコーヒーまみれになってしまったら、そのままゴミ箱行きになってしまう。そうなるとせっかく書いたメッセージが誰にも届かない。雑誌は監禁場所を出た後、せめて古本屋に売られる程度に綺麗でなければならない。だからおそらくメッセージを書いた雑誌の上に、ダミーの本を一、二冊積み上げておいて、そこへコーヒーをぶちまけたのじゃないかしら。そんな汚れた本が積み重なっているのを見て、犯人はまとめて古紙回収に出したんだと思う」
「つまり辺倉さんの機転で、メッセージが早く外に出た訳ですか?」
すっかり息を整えた多喜子が訊いた。
「そう、タキちゃんの言う通り」
叶美が微笑んだ。
「しかしそれが事実だとして、何か事件解決の糸口になるのか?」
クマが無遠慮に問い掛けた。
「もちろんよ。人質たちが誘拐されてからすでに四年という月日が経っている。誰もが絶望の淵に立たされて、もはや無気力になっていると思うの。そんな中、辺倉祥子さんは望みを捨てないでいる。危険を承知の上で勇気ある行動を起こした。つまり彼女には強い精神力や体力が残されているってことよ。人質救出の際には、内部の状況を熟知した彼女の存在がとても役に立つと思うのよ」
「なるほどな。そこまで読むか」
クマはすっかり感心したようだ。
「ところで先生、この本からもコーヒーの成分は出てくるんでしょうか?」
多喜子が積極的に質問する。
「うむ、どうかな。ちょっと見たところ、そんな形跡はなさそうだけど、本格的に調べてみないと分からないからね」
鍵谷は研究者らしく慎重に答えた。
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