第16話 多喜子の心配
いつしか新緑の季節は過ぎ、今年もまた夏の到来を感じさせる時期が巡ってきた。教室の窓の日差しが、一人また一人生徒の上着を奪い取っていく。
「ねえ、今日はどうするの?」
昼休み、沢渕が廊下に出たところで、背後から小さな声がした。振り返ると佐々峰多喜子がぽつりと立っていた。
彼女が訊いたのは、探偵部の勉強会のことである。すでに二回、いつものカラオケボックスにメンバーが集結していた。
騒がしい環境の下、果たして勉強がはかどるのか正直疑問であった。しかし実際に参加してみると、防音対策が施された部屋は快適そのものであった。意外にも他の部屋の雑音が入ってこないのだ。
もっともこれは後で知ったのだが、バイトリーダーの奈帆子が気を遣って、他の客をなるべく大部屋に近づけないようにしていたらしい。
「どうしようかな」
沢渕は腕を組んで天井を見上げた。
「ねえ、行きましょうよ。私一人じゃ寂しいもの」
多喜子は懇願するように言う。
「分かったよ、行くよ」
「よかった。それじゃあ、放課後一緒に行こうね」
弾んだ声を残して、多喜子は教室へと戻っていった。
沢渕が躊躇したのには理由がある。
まもなく夏が訪れる。あの誘拐事件が発生してから、ちょうど五年になる。これ以上、事件の解決を遅らせてはならないと思うのだ。
森崎叶美からは、試験終了まで捜査の中止を命じられているが、沢渕としては居ても立ってもいられない気分なのだった。
確かにこれまで経過した年月からすれば、数週間のブランクは無視できる程度のものであろう。しかし捜査自体は進展させなければならない。たとえ一歩でも、いや半歩でもいい。とにかく前に進めたいと思う。
無論学生の本分が勉学であることに異論を唱えるつもりはない。この時期、事件のことをあれこれ持ち出すのは、勉強から逃げる口実に過ぎない、おそらく叶美はそう言うだろう。
いずれにせよ、定期考査まではもう残り十日を切った。あと少しの辛抱である。試験が終われば、沢渕は自由な時間を全て捜査に充てるつもりでいた。
「私、一つ心配な事があるのよ」
校門を出ると、すぐ横で多喜子が口を開いた。
試験前、ほとんどのクラブが活動を停止しているため、周りは家路を急ぐ制服で溢れていた。そんな中、二人はカラオケボックスを目指して歩き始めたところであった。
「赤点のことかい?」
小さな多喜子を見下ろすように言った。
「違うわよ。そんな縁起でもないこと言わないで」
彼女は身体全体を震わせるように否定した。
「沢渕くん、今朝のプリント見た?」
「いいや」
ホームルームで担任から配布された学年通信のことである。確か来月の予定表が載っていた筈だが。
「あのね、今度、生徒会役員選挙があるみたいなの」
なるほど、そういうことか。沢渕は一瞬にして多喜子の心の内を見透かした。
「生徒会長が誰になるか、心配ってこと?」
「そうなの。もし森崎先輩が生徒会長でなくなったら、探偵部はどうなるのかしら?」
「そりゃ、部長が交替するってことだよ」
探偵部の部長は、生徒会長が兼任することになっている。さらにメンバーの人選も生徒会長に一任されている。
「もちろん、そうなんだけど、部長が突然変わって、私たちは今まで通りうまくやっていけるのかしら?」
多喜子の不安はもっともである。
今の探偵部は森崎叶美を中心に、メンバー全員が強く結束している。それに解決すべき重大事件を抱えているのだ。そんな中で新しい体制を構築していたら、それこそ事件解決を大幅に遅らせることにならないか。
「このまま、叶美先輩が部長だったらいいのになあ」
それは沢渕も同感だった。
森崎叶美は選挙に立候補する筈である。彼女の人気はどの学年の男女を問わず、揺るぎないものだと思われる。よって何事もなければ、無事生徒会長を継続できると思うのだが、それはあくまで希望的観測に過ぎない。
「ところで、君の姉さんはどうだったの?」
沢渕はふと思いついたことを口にした。
「お姉ちゃんは、三期務めたって言ってたわ」
「へえ、そりゃ凄いね」
「それでお姉ちゃんが、一年の代表委員だった叶美先輩を探偵部に誘ったんだって」
「そうだったのか」
実はこの辺の事情は叶美から聞いている。交通事故の被害者である奈帆子が、どうして加害者の娘である自分を選んだのか、理由が分からずに日々悩んでいたと彼女は打ち明けた。
いつの間にか二人はカラオケボックスに到着していた。
「いらっしゃいませ」
派手な入口を抜けると、カウンターの奥で奈帆子が迎えてくれた。
「仲が良いのね、お二人さん」
「からかわないでよ、お姉ちゃん」
多喜子はぴしゃりと言った。
いつもの広い部屋では、堀元直貴が一人黙々と勉強していた。中央のテーブルを独り占めして、教科書や参考書を散らかしている。全照明を最大に点灯すれば、ここは大画面テレビと高級オーディオだけのごく普通の部屋に変わるのだ。
「堀元先輩、今日も数学教えてもらっていいですか?」
多喜子が問い掛けると、
「もちろん構わないよ。何でも聞いてくれ」
直貴は胸を張るようにして答えた。
「僕たち、先輩の勉強の邪魔になりませんか?」
「そんな心配はいらないさ。英語や数学は一年と繋がっているから、自分の勉強にもなるしね」
「ありがとうございます」
二人は直貴を左右から挟むようにして座った。
「沢渕君は、ここしばらく勉強が手につかないって感じだね」
多喜子も手を止めて、沢渕の方をじっと見つめた。
「実はそうなんです。事件のことが気になって」
「ははは、君らしいね」
直貴は笑った。どうやら沢渕の心の中は筒抜けのようだ。
「でも今は事件のことを口にすると、部長に怒られるよ」
「そうですね」
前回ここにメンバーが集合した時、試験が終わるまでは絶対に事件のことを話題にしないようにと釘を刺されている。
「ところで今日、部長は?」
沢渕が訊いた。
「さっきメールがあって、逃げ出したクマを捕獲して、その後職員室に寄ってから来るってさ」
「それって、もしかして生徒会選挙の件ですか?」
多喜子が勢い込んで訊いた。
不思議そうな顔つきの先輩の前で、沢渕はさっきの話を繰り返した。
「なるほど、二人とも心配って訳だ」
直貴は口元を緩めた。
「そんな君たちを脅して申し訳ないんだが、実は今回、森崎にとって強敵が現れた」
「そうなんですか?」
沢渕の声に思わず力が入った。多喜子の顔色も一気に曇った。
「僕のクラスから一人選挙に立候補する者がいる。橘
二人は見つめ合うと揃って首を横に振った。
「橘は体操部の副部長を務めていて、これまで数々の大会で連戦連勝を果たしている実力者だ。うちの高校の体操部は強くてね、彼女の支援者は多い」
「もしかして橘さんって、三年生にお兄さんがいる方ですか?」
多喜子がすかさず訊いた。
「そうだよ、サッカー部主将の橘
「よく知ってるね」
沢渕が感心すると、多喜子は目を輝かせて、
「だって女子の間では有名だもの。ハンサムでスポーツ万能な先輩だから、とっても人気があるのよ」
「ふうん」
そう言ってから沢渕は思い出した。
以前叶美が三年男子から告白されたと話していた。ひょっとして、その相手は橘雅希なのかもれない。
「もしも橘先輩が生徒会長になったら、探偵部はどうなるんですか?」
多喜子が一番の疑問を口にした。
「もちろん、部長は橘ということになる。そして探偵部のメンバー選定は彼女に委ねられる」
「そんなの嫌だわ」
「仕方がないさ、そういう決まりなんだから」
直貴はまるで他人事のように言った。
「ですが、今回は大きな事件を捜査中ですので、体制はそのまま維持するという訳にはいかないのですか?」
「まあ、その辺は森崎と新部長とで協議することになるだろうね。もし新しい生徒会長が誕生したら、森崎は部長の座を明け渡さなければならない」
「先輩、探偵部のことをしばらく内緒にしておくっていうのはどうでしょうか?」
多喜子は真剣な眼差しで訊いた。
「森崎の性格からして、そんなことはしないと思うよ。それにこれは昔からの決まりだから、私情を挟む訳にはいかないからね」
「それじゃあ、今度の選挙は何としても叶美先輩に勝ってもらわないと」
多喜子は小さな身体に力を入れた。目元にはかすかに涙が浮かんでいた。
ドアがノックされて、森崎叶美と久万秋進士が入ってきた。
「遅くなってごめんなさい」
いきなり多喜子は立ち上がると、叶美に抱きついた。
「森崎先輩っ」
二つの制服が一つに重なった。誰もが一瞬言葉を失った。
「ちょっと、タキちゃん一体どうしたの?」
多喜子は気持ちを高ぶらせているのだった。叶美はそんな彼女の頭を優しく撫でると、ソファーに座らせた。
さすがのクマもこれには驚いたようだった。身体を硬直させたまま、
「許されるのなら、今度俺もやってみよう」
「バカなこと言わないで頂戴。あなたが体当たりしてきたら、私、店の外まで吹き飛ばされちゃうわ」
「いや、だからタックルする訳じゃないっての」
そう言ってから、直貴と沢渕を等分に睨むようにして、
「おい、お前ら。タキに一体何を吹き込んだんだ?」
「お二人さん、まさか事件のことを話していたんじゃないでしょうね?」
叶美は鋭い口調で言った。
「いや、そういう話じゃない」
「じゃあ、何の話をしてたのよ?」
「探偵部の将来についてさ」
「この試験前の大事な時期に、そんなどうでもいいことを話し合うなよ」
クマの怒りの声。
「そういうクマ、あなただって放課後こっそり姿を消してたじゃない。勉強会から逃げる気満々だったくせに。よく言うわ」
叶美は腰に手を当てて言った。
「それは森崎の勘違いだよ。俺は一緒に勉強会へ行こうと、お前を探していたんだからな」
「その割には、私が近づくとどんどん遠ざかっていたみたいだけど」
「そりゃ、気のせいだろ」
クマは往生際が悪い。
「それはそうと、今度の選挙に森崎は出るんだろう?」
直貴が訊いた。
「ええ、そのつもりだけど」
「実はウチのクラスの橘雅美も出るらしいんだ」
「何っ」
クマが大声を上げた。
「俺、あいつだけは苦手なんだよ。あいつがキレると手に負えないぞ」
「あんた、橘さんに何したの?」
隣で叶美が訊いた。
「去年さ、体育館で体操マットを丸めて、ぶつかり稽古をしてたんだよ。それがあいつに見つかって、そりゃもう烈火のごとく怒り出してさ。汚い身体でマットに触れるとは体操部に対する最大の愚弄だとか、もうとりつく島もなくて、すげえ騒ぎになったんだ」
「でもそれって、クマが悪いんじゃないの」
「客観的に見ても、そうだと思います」
多喜子も叶美に寄り添って援護射撃をする。
「タキ、お前最近、俺に対して妙に攻撃的だよな。これからお前のことを『ミニ森崎叶美』って呼ぶぞ」
「何よ、それ。そんな言い方は失礼よ。ね、タキちゃん?」
「いいえ、たとえミニでも叶美先輩になれるなら、私は嬉しいです」
「だめだ、こりゃ。全然悪口にならねえ」
クマは気を取り直して、
「それにな、あいつの兄貴が、これまた気にいらねえんだよ」
「橘先輩のことですか?」
多喜子の顔がパッと輝いた。
「ほらね。こういう信者がいるから、あいつも調子に乗るんだよ、まったく」
「だって一年女子みんなの憧れの人ですから」
「なにが憧れだよ、そもそもサッカーなんていう、人目を盗んで球蹴ってカゴに入れるってのが許せねえ。男だったら堂々と身体で勝負しろってんだ。ちょっと女子から人気があるからって、主将なんぞやりおって。あいつと対決したら絶対俺の方が勝つに決まってる。自慢のシュートを打とうとしたら、俺が得意の投げ技で阻止してやるぜ、ふん」
クマは日頃溜まっている不満を一気にぶちまけた。
「何だかもう、支離滅裂ね」
「意味不明過ぎます」
叶美と多喜子。
「俺が言いたいのは、学校中の女共はどうして俺の魅力に気がつかねえのか、要はこういうことだ」
クマの怒りは収まらない。
「なあ、森崎。お前もそう思うだろ?」
「どの部分に同意すればよいのか分からないけど、まあ、クマの情熱だけは十分伝わったから、安心して」
「そうか、それならよかった」
さすがに叶美はクマの扱いには慣れている。
「さあ、それじゃあ、勉強に取り掛かりましょう、ね」
「ちょっと待て。お前もまさか、橘のファンって言うんじゃないだろうな?」
叶美の言葉に被せるようにクマが言った。今日はよく喋る。
「わ、私は違うわよ」
そう言うと沢渕の顔にちらりと目を遣った。
やはりそうである。叶美に告白したというのはこの橘雅希に違いない。沢渕は全てを理解した。
「そうだろ、そうだろ。もし生徒会長のお前まであいつにうつつを抜かしてたら、こりゃ生徒会だけでなく探偵部としても見過ごせない問題だからな」
叶美が言葉に迷っていると、直貴がその沈黙を埋めるように、
「僕らは、もし仮に橘雅美が探偵部の部長になったらどうしようか、って話をしていたんだよ」
「そりゃ困るぜ」
ここでまたクマの出番。
「何か指示される度に、俺は怒りに任せて部長を投げ飛ばすぞ」
「と、いうことらしいから、森崎、ぜひ選挙では当選してもらいたい。それがみんなの願いだ」
直貴はそんな風に言葉をまとめた。
「そうね、みんなありがとう。私、頑張るわ」
「俺が心配してるのは、お前が髪を短く切ってから、男子の支持率が低下したんじゃないか、ってことだよ」
「生徒会と髪の長さに何の関係があるのよ」
「そうですよ」
「うぐっ、森崎叶美が二人もいると、どうも調子が狂っちまう」
クマは渋い顔で言った。
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