第9話 カット、カット、カット

 次の日の朝、ホームルームの前にメールが入った。慌てて確認すると、それは堀元直貴からの呼び出しであった。

「昼休み、化学準備室」

 沢渕はやや肩透かしを食らった気分だった。実は、朝からずっと森崎叶美からのメールを期待していたのだ。昨日の厳しい言葉を受けて、果たして彼女がどう返答してくるのか、期待半分、不安半分といった気持ちであった。

 教室の片隅に座っている多喜子の方に目をやった。彼女は何事もなかったように、隣の女子生徒との会話に夢中である。どうやら呼び出されたのは沢渕だけのようである。

 多喜子の笑顔に、自然と叶美の話が重ね合わされる。

 多喜子は母親の事故死について、姉から何も聞かされていないのだろう。真実を知った時、果たして彼女は正常でいられるだろうか。彼女の行動いかんによっては、探偵部が空中分解することだってあり得る。授業中、そんなことばかりが頭を占拠していた。

 沢渕は食事を早めに済ませると、一人教室を抜け出した。多喜子には声を掛けなかった。

 化学準備室には、二人の男が待ち構えていた。窓から差し込む強い日差しのせいで、一瞬どちらも顔が判別できなかった。それでも窓際に立つのは直貴に間違いなかった。もう一人は見知らぬ人物だった。落ち着いた様子で椅子に掛けている。目が慣れてくると、白髪交じりの初老の男性であると分かった。

 沢渕は自然と頭を下げた。

「紹介するよ、こちらが鍵谷先生だ」

 直貴が手のひらを彼に向けて言った。

「初めまして、一年の沢渕晶也です」

「鍵谷笹夫です、よろしく」

 二人は握手を交わした。

「君の噂は森崎クンから聞いているよ。鋭い洞察力を持っているとか」

 鍵谷は笑顔を浮かべた。

「堀元君に、沢渕君か。いよいよ我が探偵部も頭脳派が台頭してきたという訳だ」

 コンロにかかったやかんが沸騰を始めた。慌てて直貴がそれを止めに行く。

「沢渕君、君は例の同時多発誘拐事件について、面白い推理をしているらしいね。さっき堀元君から聞かせてもらったよ」

「どうも」

「あの事件から実に四年以上が経過している。四年と言えば、結構な時間だよ。警察だって無能じゃないからね。水を差すようで悪いんだが、君の推理はすでに警察内部からも出て、実際に検証が済んでいるんだ」

 沢渕には言葉もなかった。

「先生、それは本当ですか?」

 お茶を運んできた直貴も驚きの声を上げた。

「私は警察から鑑定の仕事を頼まれているから、刑事とも仲がいい。その筋から様々な情報も入ってくる。バスの前にバスを走らせるという考えは、実は事件発生後、しばらくして若い刑事が思いついたんだ」

「それで、その検証の結果はどうだったのですか?」

 沢渕は勢い込んで尋ねた。自分の推理には絶対の自信がある。この点はどうしても譲ることはできなかった。

「大通りに面する店舗やマンションの出入口には、監視カメラが設置されている場合がある。それを解析した結果、定期バスの前を走行するバスは存在しないことが証明された」

 直貴も沢渕も二の句が継げなかった。

 鍵谷は構わず続ける。

「確かに直接バス停を写しているカメラがないので、絶対とは言い切れないのだが、少なくとも大通りを十数分の差で走行するバスは写っていない」

 直貴は負けじと、

「では、カメラに撮られないよう、大通りから一本奥へ入った路地を走り、バス停手前で本線に合流したとは考えられませんか?」

「先輩、それは難しいと思います。路線バスはかなり大きな物です。バス停で人を乗せてから細い道に入って、また次のバス停に出てくるという芸当はたぶん無理でしょう。時間が掛かり過ぎる。もたもたしていると後から来る本物のバスと出くわしてしまう。何よりもそんな狭い道に路線バスが入ってきたら、たちまち住民たちの話題になってしまいます」

「私もそう思うね。警察がビデオを解析したのだから間違いない。犯人はバスを使わなかったということだ」

 この推理は、路線バスに成りすました偽のバスが、乗客を騙すため正規の路線を走ることが前提となっている。路線通りに走らないというのなら、何も大型バスである必要はなくなってしまう。

 沢渕は考え込んでしまった。

 鍵谷はお茶を一口すすってから、

「まあ、その話はさておき、次に犯人側の目的だよ。この事件は当初から警察が犯人側に掻き回されていることは否めない。それは従来の誘拐からすると規模が大き過ぎるのと、犯人の意図がまったく読めないことが原因だと思うんだ」

「その通りだと思います」

「それで沢渕君の意見を聞きたいんだが、犯人の本当の狙いとは一体何だろうか?」

「正直、僕にはまだ分かりません。ただ色々と考えるヒントはあります。身代金に興味がないところから、犯人は人集めが目的だったのではないかと思われます」

「十七人の人間が狙い、か」

 鍵谷は腕を組んで小さなうなり声を上げた。

「これがもし、屈強な男ばかりを誘拐したというのであれば、例えばどこかへ連れていって強制労働させるというのも一つの目的になるでしょう。しかし今回はそういう人選ではない。むしろ女性が多いし、年齢的にも若者が大半を占めています」

「では、洗脳して犯人の都合のいいように動かすというのは?」

 横から直貴が言う。

「人質を手なずけて、例えばテロ活動に利用するということかい?」

「男性では警戒されるような場所でも、若い女性なら潜入しやすくなることはありませんか」

 それには沢渕が割って入った。

「洗脳するにはちょっと年齢が行き過ぎています。それに要人警護やセキュリティーの厳しい場所では老若男女は関係ないでしょう。女性だからといってそれほど有利とも思えません。それならば、むしろもっと要職に就いている社会人が必要となる筈です」

「君の言う通り、確かに社会的地位のある人間を介せば、成功しやすくなる犯罪があるかもしれない。だが今回の被害者は、高校生やOL、サラリーマンといった社会的地位が高い者ではない」

 沢渕は鍵谷と直貴を等分に見て、

「それなら、彼らの家族を利用するのはどうでしょう。医者とか科学者とか、政治家とかそういう人を脅迫するために人質を利用する」

 それには直貴が応じる。

「しかし調べてみたけど、関係者にそういった職業の人間はいないんだ。みんな平凡な家庭で生まれた普通の人ばかりだよ。ただ、会社の社長の娘なら一人だけいたが」

「新野工業の社長ですね?」

 沢渕はすかさず言った。

「しかし一企業の社長にできることと言っても、大したことはないだろう」

 鍵谷の言う通りである。しかもその一人のために、他の十六人を誘拐したのでは、いかにも効率が悪過ぎる。

 三人は黙り込んでしまった。

「沢渕君、人質たちは今どうなっていると思う?」

 鍵谷はお茶を飲み干してから訊いた。

「いくら凶悪犯でも、まさか十七人もの人間を意味もなく殺すとは思えません。これまで被害者の死体が出てきたという話もない。そう考えると、意外に全員無事で生きているような気がします。逆に言えば、犯人は今も人質を生かし続けている。すなわち彼らを使って何をしているのか、という話です」

「そこで、先生にはこの雑誌の鑑定をお願いしたいのです」

 直貴はビニール袋に入れられた古雑誌を手渡した。

「これが人質の監禁場所を割り出すのに役立つかもしれん、という訳だね」

 鍵谷は袋を受け取った。

「ところで、森崎先輩は?」

 話が一段落したところで、沢渕は直貴に訊いた。

「今日は学校を休んでいるんだ。何でも体調が悪いとかで」

「そうですか」

「何かあったのかい?」

「いいえ、別に」

 さすがに昨日の話をする訳にもいかない。

「朝、メールで君を鍵谷先生に引き合わせてくれ、という指示をもらったんだ。先生にもよろしく、と」

 昨日のことが尾を引いているのだろうか。やはり彼女を傷つけてしまったか、沢渕はさすがに後悔し始めていた。

「取り敢えず、私はこの雑誌の指紋、その他の分析をしてみるよ。何と言っても、事件発生から四年経って、新たに出てきた証拠品だからね。大切にしなくちゃな」

「お願いします」

 直貴と沢渕は同時に頭を下げた。


 次の日の朝を迎えた。

 いつもと違って、妙に廊下が騒がしかった。生徒たちが集団になって、一斉に駆けていく。

「一体何の騒ぎだい?」

 登校したばかりの男子生徒が、教室に入るなり女子に訊いた。沢渕も気になって、少し離れたところから耳をそばだてた。

「森崎先輩、知っているでしょ?」

「ああ、生徒会長のだろ?」

「そうそう」

 沢渕は身を固くした。彼女の身に何が起きたというのだろうか。昨日は体調不良で欠席しただけに、余計に心配になった。

「実はね、先輩、髪を切ったのよ」

 沢渕は拍子抜けしてしまった。

「あの長い髪を?」

「そうなの。肩にかかる髪が先輩のトレードマークだったのに、短く切っちゃったんだって」

「そりゃ、勿体ない」

「それでみんな朝から騒いでいるのよ。先輩を一目見ようと学校中の生徒が押しかけて、教室前は大混乱なんだって」

 沢渕は胸を撫で下ろした。一人の女生徒が髪を切ったぐらいで、どうしてみんながこれほど騒ぐのか不思議でならなかった。

 突然背中を指で突く者があった。振り返ると、多喜子だった。

「ねえ、先輩に何かあったのかしら?」

「さあ」

 多喜子は心配そうな表情を浮かべている。

「私、ちょっと見て来ようかしら」

「おいおい、止めておけよ。先輩が迷惑するだろう」

 沢渕はたしなめた。

「そうよね」

 多喜子はそう言うと、大人しく自分の席に帰っていった。

 昼休みになると、また多喜子がやって来た。

「ねえねえ、これから一緒に先輩の教室まで行かない?」

 目を輝かせて言う。

「僕は止めておくよ」

「それじゃあ、私だけ行ってくるわね」

 沢渕は何かを言いかけたが、それよりも先に彼女の姿は廊下へ消えていた。

 まもなく午後の授業が始まるという頃、ようやく多喜子が戻ってきた。

「見てきたわよ」

 興奮冷めやらぬといった様子で語り始めた。

「廊下は凄い人だかりで、窓からちょっと中を覗いただけなんだけど、森崎先輩は確かに髪を短くしてた。あれはショートボブね」

「何だい、そりゃ?」

「口では説明しにくいんだけど、おかっぱみたいな感じの、こう短くまとめた髪型のこと」

 多喜子は自分の髪をつまんで見せた。

「おかっぱ?」

 それはまた随分とイメージチェンジしたものである。

「森崎先輩には長い髪も似合うけど、ショートもありだと思うな」

「ふうん」

 沢渕はわざと興味なさそうに答えた。

「放課後、もう一度見に行ってみるわ」

「もう止めとけって」

 多喜子は沢渕の言うことを聞きそうになかった。

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