第10話 叶美の決断

 土曜日の朝、森崎叶美は車に揺られていた。今、車はゆっくりと大橋に差し掛かった。遙か眼下に広がる川面が朝日を受けてきらきら光った。

「カナちゃん、本当に髪を切ったのね」

 ハンドルをさばきながら、佐々峰奈帆子がしみじみと言った。助手席に座る叶美は、さっきからずっと彼女の視線を感じていた。

「どこか変ですか?」

 そう言って短い髪の後ろに手をやった。こうやって触れるとまだ自分の髪ではないような違和感が生まれる。

「ううん、そうじゃないのよ。何と言うか、とても新鮮な感じ。そうねえ、一見すると仕事のできるOLって感じかな」

「そりゃまた、年だけ取ったみたいじゃないですか」

 叶美はやや口を尖らせて言った。

「いえいえ、本当に似合っている、って意味よ」

 奈帆子は慌てて言った。

「あんたたちも、そう思うでしょ?」

「しかし、初日は学校中が騒然となりましたよ」

 後部座席から堀元直貴が返した。

「多喜子から聞いたわ。カナちゃんを一目見ようと、廊下には黒山の人だかりができたそうね」

「俺は最初見た時、転校生が来たのかと思ったぜ。こりゃまた随分と生意気そうな奴が入ってきたなって」

「うるさいわね」

 叶美は一喝してクマを退治する。

「ところで、森崎。どうして突然髪を切っちまったのか、まだその訳を聞いてないぜ」

 クマにはまだ反撃する力が残っているようである。

「別に訳なんてないわ。ただの気分転換よ」

 一瞬車内は沈黙に包まれた。小型のエンジンだけがうなり声を上げている。

「でも、不思議なんだよな。最初はその髪型に圧倒的な違和感があったんだが、しばらくすると目が慣れてきて、実はこっちの方が正解だったんじゃないか、って思えてくるんだよ」

「そんなものかしら」

 叶美はぶっきらぼうに言った。

「とにかく授業中は、ずっとお前の頭ばかりに気を取られて、勉強どころではなかったんだぜ、まったく」

「いつも勉強どころじゃないくせに」

 最後にそんな一撃を食らわせた。

 車は市街地を抜けて田園風景に差し掛かった。

 叶美はシートに身体を預けると、軽く目を閉じた。

 真っ先に思い浮かぶのは、沢渕晶也である。髪を切った私のことを、彼はどう見てくれただろうか。あの日以来、彼とは会っていない。次に私と会った時、何と言ってくれるだろうか。

 しばらくすると、奈帆子の車は停車した。そこは古紙回収業者、建川のアパートの入口であった。約束の時間に少し遅れて、彼は姿を現した。それを合図にメンバー全員が車から降りた。

「おはようございます」

 叶美が一番に笑顔で挨拶をする。

 建川は叶美の他に三人の若者を見て、ちょっと驚いた表情を作った。

「こちらが、今日お手伝いさせて頂く、久万秋君です」

 叶美が巨漢を紹介した。

「よろしくお願いしますっ」

 建川の口元に自然と笑みが生まれた。そしてクマの二の腕辺りを遠慮なく数回叩いた。

「実に仕事のできそうな身体だ。でも、この巨体が俺のトラックに収まるかな?」

 それには、みんな顔を見合わせて笑った。

「大丈夫ですよ。私の小さな車にもしっかり載りましたから」

 奈帆子が言う。

「それからこれは、差し出がましいようですが」

 彼女は建川に包みを渡した。

「よろしかったらお昼に食べてください。私の妹が作ったお弁当です」

「わざわざ、すまんな」

 建川は恥ずかしそうに受け取った。

「味は俺が保証しますよ」

 クマが付け加えた。

「それと、これは車に取り付けてもらいたいのですが」

 今度は直貴が切り出した。

 彼の手には黒い小型の機器が収まっている。

「これは?」

「GPS付のビデオカメラです。フロントガラスが写るように、運転台に固定してくれませんか。録画と同時に走行した経路も記録します。撮影後パソコンで地図上にそれを表示できるんです」

「ほう、そんなことができるのか」

 建川は驚いたようだった。

「それでは建川さん、今日と明日、どうぞよろしくお願いします」

 叶美がそう言うと、全員が一斉に頭を下げた。

 建川は満更でもない顔で、弁当を片手に歩き出した。クマも後に続く。そして二人の乗った車は駐車場を出ていった。

 大通りに出るまで、三人は建川の車を目で追った。それから奈帆子の車に戻った。

(うまくいきますように)

 叶美は一人心の中で祈った。

「思ったより、悪い人じゃなさそうね」

 エンジンを掛けるなり、奈帆子が言った。

「そうですよ。私たちの良き協力者なんですから」

 叶美は助手席で答えた。

「弁当まで用意するとは、森崎もなかなかうまくやるもんだね」

 直貴が感心して言った。

「別に深い意味はないのよ。今日はクマのお弁当が必要になるでしょ。だからタキちゃんに相談したの。そしたら一つも二つも作る手間は同じだからって、建川さんの分も快く引き受けてくれたのよ」

「そう言えばあの子、昨日の晩から、やたら張り切ってたわ」

「こういう時頼りになるね、多喜子さんは」

 直貴はそう言ってから、

「それで今、彼女はどこに?」

「駅に待たせてある。今日はこの後、私たちは例の古本屋で雑誌探しをする予定だから。本屋が開くまで、まだ時間があるのよ」

「なるほど。ところで部長、沢渕君は?」

「今日は呼んでないわよ。こちらから指示を出さなくても、あの子は自分で勝手に動けるでしょ」

 そんなぶっきらぼうな言い方に、直貴はすかさず、

「彼と何かあったのかい?」

と尋ねた。

「別に。どうしてそんなこと訊くの?」

「いや、大した理由はないんだが、確か君が学校を休んだ日に、随分と気にしてたみたいだから」

「私のことを?」

「ああ。ほら、彼に鍵谷先生を紹介した日さ。化学準備室に君がいないと分かると、ひどくがっかりしたように見えたんだが」

「そんなの気のせいでしょ」

 叶美はそう言うと、窓の外に目を遣った。それ以上は何も言わなかった。

 駅に到着すると、多喜子が駆け寄ってきた。

「先輩、おはようございます」

 ドアを開けるなり、元気のよい挨拶が飛び込んできた。

「お姉ちゃん、ちゃんとお弁当渡してくれた?」

「もちろんよ」

「タキちゃん、今朝はありがとう。二人ともすっごく喜んでいたわよ」

 叶美が身体を後ろにひねって言った。

「これぐらいお安いご用です。それに、どんな中身にしようかって考えるのが楽しいんですから」

「何だか凄そうな弁当だね」

 隣で直貴が言った。

「はい。今日はクマさんのお弁当に仕掛けをしておきました。たぶん蓋を開けたらびっくりすると思いますよ」

 多喜子は一人嬉しそうだった。

「さて、古本屋が開くまで、どこかで軽く食事でもしましょうか?」

 そんな奈帆子の提案に、

「賛成」

と叶美と多喜子が同時に手を挙げた。


 駅から真っ直ぐ進むと、二十四時間営業の漫画喫茶が見えてきた。奈帆子が大学の友人とよく利用する店である。会員証と割引券があるので、その店で時間を潰すことになった。

 早朝にもかかわらず、店内は多くの客で賑わっていた。週末ということもあるのだろう、昨夜からの徹夜組もいるようだ。手足をだらしなく床に垂らして眠っている連中を横目に、四人は指定されたテーブルへと進んでいった。

「本当はあっちにカラオケの部屋があるのよ」

 奈帆子が通路の先を指さした。

「でも残念ながら、今は全部使用中なんですって」

 本来は、個室に籠もって事件を語るべきところだが、これも仕方がない。注文を済ませると、全員が自然とテーブルの中心に顔を寄せ合った。

「直貴、捜索範囲の絞り込みにどのくらい時間が掛かる?」

 叶美が訊いた。

「明日GPSカメラを回収して直ちに解析を行うつもりだが、そうだな、一日もあればできると思う」

「それじゃあ、捜査会議は火曜日ね」

「部長、随分と慌てているみたいね」

 奈帆子が不思議そうに言った。

「実は来月早々に中間試験があるんです。だから早めに着手しておきたいと思いまして」

「そうか、試験か。すっかり忘れていたわ」

「えっ、もうテストなんですか?」

 多喜子が驚いた声を出した。

「タキちゃんにとっては初めての試験よね。高校では赤点があるから、しっかり準備しておかないとダメよ」

「赤点、って何ですか?」

「あんた、そんなことも知らないの? テストで三十点取れないと赤点といって、追試か補習か、そうそう親も学校に呼び出されるのよ」

「ええっ、そんなの嫌だわ」

「タキちゃんなら、大丈夫。テストが近くなったら、みんなで一緒に勉強しよ」

 叶美が優しく微笑んだ。

「先輩が教えてくれるなら、安心です」

 しばらくしてテーブルには軽食がずらりと並んだ。コーヒーを片手に話は続けられる。

「それにしても、人質が監禁されている場所を発見するまでに、一体どのくらい時間が掛かるのかしら?」

 奈帆子が大きくため息をついた。

「該当する区域をいくつかに分けて、手分けして捜索に当たろうと思います。ですが、想像以上に大変な仕事になるかもしれません」

「一番手っ取り早いのは、建川さんが例の雑誌の回収場所を思い出してくれるか、あるいは今日か明日にでも同じ種類の本が捨てられることね。そしたらすぐに場所が特定できるでしょ」

 奈帆子が言う。

「果たして、そんなに簡単にいくでしょうか?」

 叶美は続ける。

「慎重な犯人なら、監禁場所が特定されるような場所で古雑誌を出すとは思えません。今回私たちが手に入れた本も、実はどこか遠く離れた場所から流れ着いた可能性も捨てきれません」

「でも先輩、それじゃあ場所の特定は不可能じゃないですか」

 多喜子が率直な意見を口にした。

 直貴はコーヒーカップを手にしたまま、

「そう、正直に言えば、この捜索は見当違いなものになるかもしれないんだ。だけどね、僕は人質の監禁場所は、同時に犯人の生活の場でもあるんじゃないか、そう睨んでるんだ」

「少人数で十七人を見張らなければならない、そんな犯人側の都合があるとしたら、確かにその可能性は高いわね」

 叶美が同調した。

「恐らく犯人は人質のメッセージには気づいてないだろうから、何の疑いもなく、日常生活の延長で古本を処分していると思うんだ。そこには犯人の気の緩みがある。最初のうちは緊張していた奴らも、四年という歳月を経て、うっかりボロを出しつつある。そこをうまく突ければ、我々に勝ち目が出てくる、そう考えているんだが」

「でも、犯人たちが尻尾を出さなければ、捜索範囲を広げることも覚悟しておかなければならない訳でしょ? そうなると犯人に辿り着くには何年も掛かっちゃうんじゃないかしら」

 口をへの字に結んで奈帆子が言った。

 叶美はそんな表情に微笑んで、

「まともに捜索していたのでは、時間がいくらあっても足りません。ですから、ある程度ヤマを張ろうと思うんです」

「どうやって?」

「監禁場所に必要な条件とはどんなものか、考えてみましょう」

 そう言うと、叶美は小さな手帳を取り出した。

「まずは効率よく監視するために、できれば十七人は一カ所に集めておきたいものだね」

 直貴が自信ありげに言った。

「そうなると、かなり広い部屋が必要ね。とすれば、普通のアパートやマンションは捜索から除外してもいい」

 叶美はそう言いながら、手帳に書き付けていく。

「他にはどんな条件があるかな?」

 直貴が女子三人を見回した。

「みんな、食事やトイレやお風呂はどうしているのでしょうか?」

 多喜子が言った。

「タキちゃん、なかなか鋭いわよ」

 叶美が褒めた。

「私も食事については気になっていたの。人質と犯人を合わせると、恐らく二十は超えると思うんだけど、それだけの人間が朝、昼、晩と食事をするのは結構大変なことだと思うの」

「そうねえ、毎日どこかのお店で弁当を二十個も買い込んでいたら、それこそ町中の噂になってしまうわね」

 奈帆子が言った。

「ということは、犯人は人質の食事を作って食べさせている訳ですよね。つまり監禁場所には厨房設備が整っていることになります」

 多喜子は目を輝かせて言った。

「それは最も重要な条件かもしれないな」

 直貴がそう言うと、多喜子は満足そうな表情を浮かべた。

「あと、人目につかない場所というのは?」

 奈帆子も妹に負けじと言った。

「二十人もの人間が生活するのって、近隣から結構目立つと思うのよね。だからなるべく周りに民家がない方が都合がいいんじゃないかしら?」

 直貴は腕組みをしたまま頷いて、

「周りに人家がなく、広大な部屋を持ち、さらに厨房設備がある、そんな物件か」

「ホテル、病院、工場」

 叶美が列挙した。

「学校」

 多喜子が付け足した。

「でもね、毎日人が出入りする場所では、それこそ大勢の人質を監禁するなんて無理じゃない?」

 奈帆子が口を挟んだ。

「それなら、今は使われていない物件ならどうだい?」

 直貴が提案する。

「じゃあ、廃墟になったホテル、潰れた病院、閉鎖された工場、廃校ですか?」

 多喜子が言い直した。

「だけどね、そんな人が寄りつかない場所で、人の気配がしたり、調理の際に煙でも立っていたりしたら凄く不自然よ。すぐにバレちゃう気がするな。これまで誰にも気づかれることなく、四年間を過ごせたとは到底思えないんだけど」

「そうすると、やはり人里離れた場所にひっそりと立つ施設、か」

 直貴は眼鏡を持ち上げて言った。

「山奥のお寺なんてどうでしょうか?」

 多喜子の意見。

「確かに寺院は全ての条件を満たしているね」

 直貴は感心したように言った。

「でも、あんた、お寺なんかじゃ、みんなに一斉に逃げられてしまうんじゃない?」

 姉の厳しい意見に、妹はがっくりと肩を落とした。

「まあまあ。今は監禁場所の推測だから、寺院というのも一応候補にはなると思うわ」

 叶美は多喜子を慰めるように言うと、さらにペンを走らせた。

(彼ならどう考えるだろうか?)

 自然と沢渕晶也の顔が浮かんだ。

 早く彼に会いたいと思う。会って話がしたい。探偵部部長としてのひたむきな姿を彼に見せてやりたい。

 叶美のコーヒーは一度も口がつけられることなく、すっかり冷めてしまっていた。

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