第8話 告白

 今から六年前、雨の降る夜にその事故は発生した。森崎叶美の父親が運転する車が反対車線に飛び出し、対向車と正面衝突したのである。その時、助手席に座っていた小学生の叶美は、この交通事故の一部始終を目撃することとなった。

 降りしきる雨の中、突然叶美の目の前に現れたのは、自転車に乗った人影だった。彼はまるで磁石に吸い寄せられるように車道に入ってきた。次の瞬間、経験したことのない急制動が叶美の全身を襲う。四本のタイヤは一斉に断末魔の叫びを上げ、闇夜を切り裂いた。

 ワイパーが激しく動くガラスの向こうに、一台の車が迫っていた。叶美は今でもその光景を鮮明に思い出すことができる。ライトに浮かび上がったのは、ハンドルを握る女性の顔だった。刻一刻と迫る死の恐怖に、彼女の顔は凍りついていた。それでも衝突の直前、彼女は激しく唇を動かした。それは『タキコ』という叫びらしかった。

 その後何がどうなったのか、叶美にはうまく説明できない。脳裏に浮かぶのは、おぞましい現場の光景である。気がついた時には、叶美は車外で、天から降り注ぐ雨を全身に受けていた。

 いつの間にか救急隊が車を取り囲んでいた。鉄の塊を無理矢理ほぐして助けられたのは、まだ幼い少女だった。彼女はぐったりとして意識がないまま、病院へ運ばれていった。その少女が、佐々峰多喜子だった。彼女はしばらく生死の境をさまようことになった。

 姉の奈帆子と父親が病院に駆けつけた。事情を知った奈帆子は廊下で泣き崩れ、父親は大声で罵った。目の前で父に掴みかかり、二度、三度彼の顔を殴りつけた。

 叶美は子供心にも、自分たちが犯した罪の重さを実感した。その場から消えてしまいたい衝動に駆られた。二人の前で、一体どういう態度でいればよいのか、まるで分からないのである。せめて自分の父親を軽蔑しなければ、その場には立っていられないような気がした。

 その後、警察の捜査によって、事故の第一原因となった男が浮かび上がった。彼は酒に酔って自転車を運転し、ふらふらと車道に飛び出したことを認めた。彼の自供により佐々峰家とは示談が成立し、叶美の父親は刑事罰を受けることを免れた。

 叶美の父親は、佐々峰家や多喜子の病院に足繁く通っていたようである。しばらくして多喜子が全快して、無事退院したと聞かされた。

 あの晩以来、叶美は佐々峰姉妹と二度と会うことはなかった。

 忌まわしい事故から四年が経過した。その頃にはすっかり心の傷は癒えていた。父親は一時期、近所や職場で辛い思いをしたようだったが、突然母親を失った家族のことを考えれば、それぐらい何でもないと娘に聞かせたこともあった。

 叶美は小学、中学を無事に卒業して、山神高校に入学した。入学式の日、叶美は心臓が飛び出るほど驚いた。新入生歓迎会で舞台に姿を現した生徒会長は、何とあの佐々峰奈帆子だったからである。叶美は彼女の顔を忘れてはいなかった。自分は運命のいたずらに翻弄されているのだ、と身体が震えた。

 しばらくは何事もない学校生活を送っていたが、叶美はクラスの代表に選ばれて、生徒会と関わるようになった。そしてある日、奈帆子から探偵部の存在を知らされた。彼女は事もあろうに、探偵部に入るよう熱心に勧誘するのである。人は自分の犯した罪から、決して逃げることができないのだと、叶美は観念した。

 覚悟を決めて、探偵部に入ってみたのだが、奈帆子は一度も事故の話を持ち出さなかった。だが彼女が気づいていない筈がない。私情の一欠片も見せない奈帆子と接することが、逆に叶美には辛かった。

 しばらくすると部長は、当時中学三年生だった妹多喜子を引き合わせた。これにはどういう意図があるのか、叶美には分からなかった。しかしそんなことよりも、あの事故の少女が、今はこんなに立派に成長していることが素直に嬉しかった。自然と彼女を抱きしめていた。涙が溢れて止まらなかった。

 しかし多喜子の方は、叶美のことをまるで知らなかった。初対面の人物がいきなり抱きついて涙を流したのには、さぞびっくりしたに違いない。


 叶美は時に肩を震わせ、涙混じりになりながらも、全てを語ってくれた。

 沢渕は静かに彼女の話を聞いていた。話が終わってからも、しばらくは口を開かなかった。

 こればかりは自分は何もしてやれない。全ては叶美自身が乗り越えなければならないことである。もし自分にやれることがあるとすれば、それは彼女の心の叫びを受け止めてやることだ。微力ではあるが、それが彼女の支えとなればよい。

 そう言えば、去年叶美は無謀な捜査活動を一人行っていたという話を思い出した。それは彼女の絶対的な自信から来る無鉄砲さと最初は考えていたが、実はそうではなかった。部長奈帆子の下で、自分の命を投げ出す行為が、事故の償いになると考えたからではないか。少々無理をして傷ついたとしても、それは叶美にとって本望だったのかもしれない。


 どこか遠くで救急車のサイレンが過ぎ去っていった。ふとカウンターに目をやると、いつの間にか客の姿はなくなっていた。

 沢渕はすっかり冷めたコーヒーを飲み干した。叶美は自分の言うべきことは全て終わったと言わんばかりに下を向いている。次はどうやら沢渕が口を開く番だった。

「その話、多喜子さんは知っているのですか?」

 叶美はうつむいたまま、頭を振った。

「いいえ、奈帆子さんはともかく、タキちゃんは何も聞かされていないと思う。もし真実を知っていたら、きっと私の顔なんて見たくもない筈よ。探偵部だってとっくに辞めているわ」

「他のメンバーは?」

「もちろん知らない。私、みんなの前では格好つけているけれど、秘密がバレたら軽蔑されやしないかって、いつもそんな不安で一杯なの。これじゃあ、部長失格よね?」

「それで、先輩はこの先どうしたいんですか?」

「えっ?」

 叶美は弾かれたように顔を上げた。涙のせいで目元が腫れ上がっていた。

「ですから、これから森崎先輩は探偵部をどうしていくのか、と訊いているんです」

「そ、それは」

 叶美は口ごもった。まるで親に叱られ、逃げ場のなくなった子供のようだった。思いも寄らない質問をぶつけられて、面食らっているのだ。

「探偵部に個人的な感情など必要ありません。僕らの仕事は、真実を突き止め、事件を解決することです」

 叶美は黙って聞いていた。

「部長の仕事は、その任務を遂行するため、部員を仕切ることではないですか。それが的確にできるのなら、何ら問題はありません。しかし、心に迷いがあって事件と真正面から向き合えないというのであれば、部長の資格はないと言わざるを得ません」

「随分、厳しいこと言うじゃない」

 叶美は鋭い眼光を向けた。後輩の前で生徒会長、そして探偵部部長の威厳を取り戻そうと必死なのだった。

「事件が解決できない探偵部に存在意義などありません。それは探偵の真似事に過ぎない。何よりも中途半端に事件に関われば、命を落とす危険だってある。その責任の所在は全て部長にあるんです。先輩にその覚悟はできているか、と訊いているんです」

 叶美は肩で大きく息をし始めた。何か効果的な反論はないものかと模索しているようだった。しかし興奮して冷静さを失った状態では、それも難しいことのように思われた。

「それじゃあ、私はどうすればいいのよ」

「どちらか態度を決めてほしいですね。このまま部長を続けるのか、それとも辞めるのか。もし辞めるのであれば、新しい部長を立てなければならない。こうしている間にも、誘拐された人たちが苦しんでいるかもしれない。事件の解決を遅らせてはならないのです」

 沢渕は続ける。

「逆に、探偵部部長として、事件解決まで戦うという固い意志をお持ちなら、心の整理をつけなければならないでしょう。つまり事故の件は、厳しいようですが僕ら部員には関係がない。それは先輩と佐々峰さんの問題です。ですから探偵部においては、その件は一切忘れてもらいたい」

 叶美は微動だにしなかった。

「でも、今日先輩とこうやって話せてよかったです。先輩は勇気を出して、全てを僕に語ってくれた。それは心の迷いを断ち切るためではないのですか。つまり、先輩としての答えはもう出ているのでしょう」

 叶美は少しも目を逸らさずに、

「本当にそれでいいの? こんな私に、みんなついて来てくれるの?」

「今、探偵部は部長を中心に全員が結束しています。部長を始めとして、誰もが事件の解決に向けて情熱を注いでいます。きっと事件は解決できると、みんな信じています。だから先輩はこれまで通り、自信を持って指揮を執ればよいと思います」

 沢渕は力強く言った。

「ありがとう。そう言ってくれると何だか嬉しい。でも、気持ちがすっきり晴れるまで、もう少し考えさせて欲しい」

「はい」

「今日は、この後もまだ捜査するつもりなの?」

 叶美は少ししわがれた声で訊いた。

「はい、事件当夜と同じ最終バスに乗ってみるつもりですが」

「今日はもう上がって」

「えっ?」

「お願いだから、今日はもう止めにして」

 彼女は懇願するように言った。

「こんな不安定な気持ちじゃ、私、今日は捜査ができそうにないもの。弱い部長でごめんなさい」

「分かりました。今日はもう家に帰ります」

 沢渕は素直にそう言うと、席を立った。

 カウンターの横を抜け、レジまで向かった。一度も叶美の方は振り返らなかった。

 財布を出そうとすると、

「コーヒー代なら要らんよ」

と店主が突然大きな声で言った。それは若者を叱りつけるような勢いだった。

「それより、うちの孫娘を泣かせるようなことはしないくれ」

「もちろん、そんなことはしません。ご馳走さま」

 沢渕は憮然とした態度で店を後にした。


 狭い路地に一人立つと、方向感覚がすっかり失われていた。どちらに向かって第一歩を踏み出せばいいのか、それすら分からない。店に入り直して、叶美に訊くのが確実なのだろうが、今は彼女と顔を合わせる気にはなれない。仕方なくそのまま歩き始めた。

 広い道を求めてひたすら歩くと、見覚えのある大通りに出た。思えば叶美と来た道はまったく通らずに戻ってきたようだ。

 夜のとばりが降りて、見慣れた商店街もまるで様子が違っていた。道行く人は極端に少ない。それもその筈、左右に並んだ店はすっかりシャッターを下ろし、人を寄せ付けないと決め込んでいるからである。遙か遠くで、飲み屋に向かうサラリーマンの声が天井に反響していた。

 腕時計に目を落とした。これから隣町へ行って、例の本屋で時間を潰せば、最終バスに乗るにはちょうどいい時間だった。しかしそんな考えはあっさり捨てた。部長と約束したのである。やはり今日のところは、真っ直ぐ帰宅することに決めた。

 沢渕は、ふと後ろを振り返った。もしかすると叶美が自分を追いかけてきて、一緒に捜査しようと言ってくれるのではないか、そんな気がしたのである。しかしそれは妄想に過ぎなかった。静まりかえった商店街に人影はなく、どこからともなく冷たい風が吹いた。

 沢渕は歩きながら考える。

 森崎叶美は日頃、誰にでも優しく、それでいて圧倒的なリーダーシップを発揮している。しかしそんな彼女も心に深い傷を負っていた。どうしようもない不安を笑顔で包み隠し、威厳だけは何とか保とうとする。そんな自己矛盾を抱えながら、彼女は一人で毎日を戦っていたのかもしれない。

 そんな孤独な女性に対して、少々言葉が厳し過ぎたのではなかろうか。優しい言葉の一つでも掛けてやるべきではなかったのか。そんな後悔が心の中を往ったり来たりした。

 いや、そうではないのだ。

 叶美から悩みを打ち明けられた時、自分にはどうすることもできないと直感した。悩んだ末、彼女が部長を辞めると言い出したら、もう沢渕には打つ手がない。自分には彼女の決意を変えるほどの影響力は到底ないからである。

 そこであの時、強気に出るしかなかった。今にも彼女を失ってしまう状況で、残された道はただそれだけだった。正直、心の中で焦り、冷静さを欠いていたのは沢渕の方である。彼女に向けた厳しい言葉は、実はそのまま自分へ向けられたものと言ってもよかった。

 だが叶美は弱い人間ではないと思う。今はそう信じたい。彼女は苦難を乗り越えて、部長であり続ける筈だ。そのためになら、沢渕はどんなことも投げ打つ覚悟がある。

 果たして森崎叶美は今後どのような身の振りをするだろうか。もし彼女が身を引けば、それは探偵部の崩壊を意味する。これまで代々受け継がれてきた探偵部が消滅する。そうなれば、それは自分の責任である。これまで歴史を紡いできた部員たちに合わせる顔がない。

 そんな迫りくる恐怖に押し潰されないよう、沢渕はわざと胸を張ると、しっかりとした足取りで商店街を抜けていった。

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