第7話 叶美の隠れ家

 カラオケボックスを出る頃にはすっかり日は落ちていた。とうとう森崎叶美は現れなかった。

 店の前でメンバーと別れると、間髪入れずに沢渕の携帯にメールが着信した。立ち止まって確認すると、画面には「カラオケ入口付近」とだけ表示されていた。これは部長からの呼び出しである。

 沢渕は少し前を行くメンバーたちに目を遣った。しかし彼らは何事もなかったように、ずんずん歩いていく。どうやら叶美は自分だけに用があるらしい。

 立ち止まって辺りを見渡してみた。ひょっとして叶美がどこかで見張っているのではないか、ふとそう思ったのである。しかし、彼女の姿はどこにもなかった。

 今商店街は、買い物客や家路を急ぐ人で溢れかえっている。ちょっと目を離した隙に、探偵部の連中も、そんな人波にすっかり飲み込まれていた。

 沢渕はカラオケ店の出入口から少し離れた電柱の陰に立った。ここは店の中にいる佐々峰奈帆子からは目の届かない場所になる。どうして彼女の目を避ける必要があるのか、自分でも説明がつかないが、何故だかそうしておかなければならないという気がした。

 しばらくすると学校の方角から森崎叶美が現れた。沢渕の姿を認めると、小走りで近づいてきた。すぐ目の前で左右に揺れていた髪が動きを止めた。

「ごめんね。遅くなっちゃった」

 叶美はすがりつくように言った。

「会議はもう終わりましたよ」

「それは分かってるの。直貴からメールを貰ったから」

 それならどうして自分だけを呼び止めたのだろうか、沢渕は思いを巡らせた。

「これから時間ある? ちょっと付き合ってほしいんだけど」

「いいですよ」

「それじゃあ、私についてきて」

 二人は肩を並べて歩き始めた。校外で森崎叶美と二人きりになるのは初めてのことである。これまで意識などしたことはなかったが、そう考えた瞬間から、身体全体が緊張感で浸食されていくのが分かる。

 隣を歩く叶美の表情をちらりと見ると、何か考え事でもあるのか、黙りこくったままである。これでは間が持たなかった。

「あの、やはり生徒会の仕事は大変なんですか?」

 そんな風に声を掛けた。

「そうねえ。でも慣れてしまえば、そうでもないわよ」

「それにしても、今日は遅くまで掛かりましたね」

 叶美はそれを聞いた途端、

「もう、変な事思い出させないで」

と頬を膨らませて言った。

「すみません」

「いいえ、いいのよ。別にあなたが謝る必要ないんだから」

 叶美にはいつもとは違う雰囲気が漂っていた。探偵部の部長としての威厳が微塵も感じられない。何と言うか、言動全てが感情任せになっている、そんな感じだった。

「実は生徒会の仕事はとっくに終わっていたの。問題はその後」

 沢渕は聞き役に徹していた。叶美の知られざる一面を垣間見て、それにどう接するべきか思案しているのであった。

「実はね、校舎裏に呼び出されて先輩から告白されたの。それでこんなに遅くなったって訳」

 それは自分自身に腹を立てているかのような口ぶりだった。

 しかしどうしてそんなことを他人に聞かせるのか、叶美の真意が計りかねた。今はただ黙って歩くしかなかった。

「ねえ、ちょっと。この件に関して、あなたからのコメントはないの?」

「え?」

「相手が誰とか、告白にどう答えたとか」

「いや、それは森崎先輩の個人的な問題ですから、僕には無関係ですし」

「何だか素っ気ないのね」

 叶美は両腕を大袈裟に組むと口を尖らせた。

「でも、先輩はその人によい返事をしなかったのでしょう。だったらそれ以上訊くこともないと思いますが」

「あら、どうしてそんなこと分かるのよ?」

「だって、さっき『変な事』だって言ってませんでした?」

「あら、そうだったかしら? 沢渕くんのことだから、また推理でもしたのかと思った」

「先輩の心までは推理できませんよ」

「それもそうね」

 叶美は自然と笑顔になった。

「では一応、型通りの質問を。森崎先輩はモテるのですか?」

「随分とまた、直球でくるわね。まあ、結構いろんな人から手紙とかメールで告白はされているわ。だけど、それでおしまい。私、みんなに気のない素振りを見せてるから」

「それは意外ですね」

「そうそう、これは男子だけに限らないのよ」

「え? どういうことですか?」

「よく分からないけど、後輩の女子から告白されたこともあったわ」

「その点は大いに興味があります」

「バカね」

 叶美は商店街の大通りから細い路地へと向きを変えた。沢渕も遅れず後に続く。

「正直言うと、私、告白とか恋愛とか、そういうの興味ないのよね」

「そうなんですか?」

「そんなことよりも、人助け。探偵部の部長として頑張っていきたいの」

「なるほど」

「だから今日だって、丁寧にお断りしたわ」

「相手は学校で一番人気の先輩だというのに、ですか?」

「えっ、どうして知ってるの?」

「森崎先輩は恋愛に興味がないようなことを言いましたが、今、僕に告白の顛末を聞かせようとしている。つまり心のどこかではちょっと勿体なかったな、という未練があるからじゃないですか?

 先輩をそんな気にさせる相手というのは、恐らく女生徒の人気の的じゃないかと見当がつきます」

「ほら、やっぱりそうやって、女心もちゃっかり推理してるじゃない?」

 叶美は横から沢渕を小突いた。身体がよろめく。

「それで、何て断ったと思う? まさか探偵部の件は持ち出せないでしょ」

「確かにそうですね。どう答えたのですか?」

 沢渕は少し興味が湧いた。

「ごめんなさい、私には好きな人がいるんです」

「ほう」

「何故かしら、その時最初に浮かんだのはあなたの顔だった。直貴やクマじゃなくて、あなたの顔」

 一瞬、次の言葉に詰まった。それでも、

「佐々峰姉妹の存在を忘れてません?」

「あのねえ」

 二人は顔を見合わせて笑った。


「ここよ」

 突然、路地の一角で、叶美が立ち止まった。

 大通りからはもう随分と奥深くに入っていた。狭い通路の左右には一杯飲み屋やスナックが肩を寄せるように並んでいる。店の脇には野菜の突き出た段ボールやビールのケースが無造作に積み上げられていた。

 叶美はすぐ目の前の木製扉に手を掛けると、慣れた手つきで開いた。つたで覆われたその建物が、実は喫茶店であると気づくのに少々時間が要した。

 店内は狭く、空間は奥へと細長く伸びている。カウンター越しに客二人と話していた店主が、

「いらっしゃい」

と気安く声を掛けた。

 客もその声につられて顔を上げた。二人とも白髪の老人だった。

 叶美は軽く会釈をして、店の奥へと進んでいった。通路が狭いので学生鞄が何度か椅子に接触して音を立てた。

 一番奥のテーブルで立ち止まり、すらりと椅子に腰掛けた。やはり慣れた様子である。彼女と向き合って座った。鉄製のパイプ椅子はどこか油でねとねとする感覚があった。

「驚いたでしょ。この店はね、私のおじいちゃんがやってるの」

 木枠の窓越しに表の往来が映っているが、ガラスが曇っているせいで、それもぼんやりとしか見えない。店内には古い歌謡曲が流れていた。

「ちょっとしたカルチャーショックでしょ?」

 叶美は顔を近づけてきた。

「はい、高校生が出入りしちゃいけない場所ですね、ここは」

 二人は笑った。

「おじいちゃんの道楽なの。だからお客さんも、みんな近所の人みたい」

「なるほど」

 そう言ってカウンターの方に目を遣った。商店街でも人目につかないこの店は、老人たちの憩いの場としては申し分ないのだろう。

「テストの前には、ここで勉強することもあるのよ」

 叶美は指先でテーブルを叩いて言った。

「いらっしゃいませ。何にいたしましょう?」

 すぐ横でしわがれた声が聞こえた。見上げると、そこには柔和な表情の老人が立っていた。

「沢渕くん、コーヒーでいいかしら?」

「はい」

「コーヒーを二つ」

「カナちゃんが、男連れとは珍しいねえ。彼氏かい?」

「ち、違いますよ。大切なお友達です」

 叶美は慌てて否定した。

「そうか、そうか。コーヒー二つね。しばらくお待ちを」

 店主はそう言うときびすを返し、カウンター奥へと消えていった。

「もう、おじいちゃんはいつも一言多いんだから。でもね、コーヒーは結構イケるのよ」

 そう言うと、叶美はしばし無言になった。やはり今日の彼女はいつもとは違っている。沢渕は改めてそんなことを考えた。

 お互いが向き合ったまま、口を開かなかった。重苦しい雰囲気だけが流れていく。

 沢渕は耐え切れずに、

「あの、探偵部のみなさんはこの店のことを知っているのですか?」

と訊いた。

「いいえ、みんなにはまだ紹介してないわ」

 それではなおさら、自分をここへ誘った理由は何だろうか。疑問はますます深まる。

 しばらくして、目の前に白いコーヒーカップが置かれた。

「それじゃあ、お二人さん、どうぞごゆっくり」

 老人はそう言い残して、また定位置へと戻っていった。

 コーヒーを一口すすると、確かに美味しかった。

 叶美も一度口をつけてから、静かにカップを置いた。

「今日は話があって、沢渕くんを誘ったのだけど、実はまだ迷ってるの。どうしようかな」

「探偵部のことですか?」

「まあ、そうね」

「事件のことではなさそうですね」

「どうして?」

「だって、先輩はこれまでずっとその話題を口にしてませんから」

「あら、事件のことは忘れてないわよ。むしろ頭からずっと離れないぐらい」

 叶美が饒舌に語り始めたので、敢えて口を挟まなかった。

「今回、事件の被害者は若い人が多いでしょ。高校生だって何人かいる。だから他人事とは思えないの。もうあれから四年が経って、みんな今頃どこでどうしているのか気になるもの。だってそうでしょう? 今私たちは自由だから、こんな風にのんびりコーヒーを飲んで話していられるけど、自由を奪われた人たちは、そんな当たり前のことすらできないのだもの。もし今でもどこかで生きているのなら、一刻も早く解放してあげたいと思う」

「それは僕も同感です。この事件に関わった以上、必ず解決してみせます」

「頼もしいわ」

 叶美は目を輝かせた。

「ところで、話というのはひょっとして、佐々峰多喜子さんのことですか?」

 沢渕は思い切って切り出してみた。

「えっ?」

 叶美は目を丸くする。

「どうして分かるの?」

「やっぱりそうですか」

 沢渕はカップを口に運んだ。

「ねえ、どうしてタキちゃんのことだって分かったの?」

「いや、それほど自信があった訳ではありません。ただ日頃から先輩を見ていると、多喜子さんへの接し方は、明らかに他のメンバーとは違いますから」

「例えば?」

「いつも多喜子さんには気を遣っているというか、どこか母親代わりのように見えるのです」

「さすがに鋭いわね。でもそれがどうしてなのかは分からないでしょう?」

「はい。正直分かりません。ただ佐々峰さんのお母さんは交通事故でお亡くなりになったと聞いています。何かその辺に関係があるのではないか、と思うのですが」

 途端に叶美の表情が曇った。しかし沢渕の言葉で覚悟を決めたようだった。

「あなたの言う通り。実は、佐々峰姉妹からお母さんを奪ったのは、私の父親だったの」

 長い沈黙が生まれた。叶美はもう沢渕の顔を見てはいなかった。うつむいて垂れた髪が彼女の表情を覆い隠している。まるで警察で取り調べを受ける容疑者のようだった。

「ひどい話よね。大切な母親を死なせておいて、タキちゃんの前では母親気取りだなんて」

 沢渕には言葉もなかった。今はただ、彼女の言葉を待つだけだった。

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