第5話 誘拐事件発生

 翌日の放課後、探偵部のメンバーはカラオケボックスに集結していた。二日連続の招集は、沢渕にとっては初めてである。壁の四隅に取り付けられたスポット照明が、部屋の真ん中をぼんやりと浮かび上がらせている。

「お待たせしました」

 突然扉が開かれて、エプロン姿の奈帆子が現れた。グラス満載のお盆を片手で支え、みんなの身体を縫うようにしてテーブルの中央まで辿り着いた。手際よくグラスを配ると、最後にお菓子を盛ったバスケットを一つ置いた。

「部長はどうしたの?」

 奈帆子は本来森崎叶美が座る場所に腰を下ろした。

「実は生徒会の仕事がありまして、遅れて来ると思います」

 堀元直貴が答える。

「ひょっとして、高校見学会の打ち合わせ?」

「ええ、そうなんです」

「あれって準備に時間が掛かるのよ。私立にとって生徒募集は最大の関心事だから、無理もないけど」

「そんなことより、お姉ちゃん、仕事の方はいいの?」

 妹の多喜子が心配そうに声を掛けた。

「大丈夫よ、十分間だけ休憩をもらったから」

「それでは、始めることにしよう」

 今日は、直貴が進行役を務める。

「みんな、昨日はご苦労さん。部長から全て聞いたよ」

 副部長はそう言うと、テーブルを囲むメンバーをゆっくりと見回した。

「僕もみんなに負けないように、事件の方は完璧に調べておいたよ」

 彼はテーブルに大判のスクラップブックを置いた。

「まずは事件の概要から説明するよ」


 今から四年前の八月三日、隣町では三十五度を超える猛暑日となった。夜を迎えてもその暑さが和らぐ気配はなく、昼間とさほど変わらぬ熱気が町全体を覆い尽くしていた。

 そんな中、事件が発生する。

 警察に第一報が届いたのは、午後十一時半である。辺倉へくら祥子(当時十七歳、高校三年生)の父親から、娘が門限を過ぎても帰宅せず、連絡もつかないという届け出があった。彼によると、祥子はこの日、同級生の片比良かたひら七菜と予備校へ出掛けていた。週三回、二人は大学受験に備え、夜の授業を受けていたのである。

 祥子の父親は帰ってこない娘を案じ、何度か携帯に連絡を入れた。しかし電源が切ってあるのか、一度もコール音が鳴ることはなかった。

 いよいよ父親は娘のことが心配になって、自宅から車で予備校へと向かった。実は後の証言で、この時彼は飲酒運転だったことを自ら告白している。しかし世間はこの父親の行動に極めて同情的で、この件はさほど問題視されなかった。

 彼は車を飛ばし、およそ二十分かけて予備校に到着した。しかしそこに祥子の姿はなかった。事務員に訊くと、いつものように十時過ぎに友人と出ていったという。

 予備校の授業は九時五十分までである。その後娘はバスを利用して駅へ行くことを父親は先刻承知していた。祥子は通学用の自転車を駅前の駐輪場に停めており、そこから自転車で二十分程かけて自宅に帰ってくるのである。

 父親は娘の足取りを追ってみることにした。まず予備校から歩いて十分ほどのバス停へと向かった。大通りに面しているバス停は、道路の両側に立つ街灯の明かりを浴びて夜でも見通しが利く。しかし十時十三分の最終バスが発車した後、この停留所は明朝まで眠りにつく。そのためこの時刻に当然人影はない。加えて大通りに車の流れもほとんどない。田舎の夜は早いのだ。

 父親は、娘は友人と一緒に、間違いなくバスに乗ったと判断した。なぜなら、もし事件や事故が起きているとしたら、付近の住民らが騒いでいる筈だからである。人っ子一人いないこの静かな情景こそが、ここに事件がなかったことの何よりの証拠である。

 父親は続いてバスの走行ルートに沿って車を走らせた。どんな些細な事も見逃さないつもりで、道路の左右に目を配りながら、ゆっくりと運転した。それでも十五分ほどで駅前に到着してしまった。車窓を流れる田舎の街並みはすっかり眠りについていた。この静寂の中、一人の若い娘が姿を消すといった事態が発生したとは信じられなかった。

 駅前の広場には、まばらではあるが人影が確認できた。まだ最終電車には間に合う時刻である。駅の真正面には大型書店が鎮座しているが、それも十一時には店を閉めるので、この時間の辺りはひっそりとしていた。

 父親はバスの発着所に車を乱暴に停めると、娘がいつも利用している自転車置き場に直行した。薄暗い蛍光灯の下、入口から順番に自転車を調べていった。思ったより放置自転車の数は少ない。最近強制撤去が行われたのかもしれない。おかげで捜索は楽だった。

 小さな虫が飛び交う中、一台一台調べていくと、見覚えのある自転車を発見した。高校で貰った通学証のシール、その下にはローマ字で「祥子」の文字が見て取れた。間違いない。娘は予備校を出たものの、駅には辿り着いていないのだ。

 この時妻から連絡が入った。父親は誰もいない自転車置き場で応えた。片比良家に電話を入れたところ、やはり七菜も帰っていないということだった。普段彼女はここで祥子と別れた後、電車で隣町まで帰っていくらしい。果たして彼女が無事に電車に乗ったかどうかは判断できないが、娘と一緒に行動していたのなら、彼女もここには着いていないと考えるのが自然だろう。

 それとも、実は駅までは来たものの、二人はここで何者かに連れ去られたのではないだろうか。いや、そんな筈はない。父親は即座に否定した。なぜならバス停の目と鼻の先には派出所があったからである。

 父親は藁にもすがる思いで派出所に駆け込んだ。この時、部屋の時計は午後十一時半を指していた。奥に声を掛けると、中から若い巡査が顔を出した。父親は二人の若い娘が失踪したことを伝えた。巡査は慌てる父親に冷静に対応した。

 最初にするべきことは、二人がバスに乗ったかどうかの確認である。巡査はバスターミナルの看板に大きく書かれた連絡先を見てから、受話器を持ち上げた。

 身分を伝えて、最終バスの件で運転手に話を聞きたい、と言うと、駅に到着する最終バスは各方面から全部で四本あり、その内どれかと逆に尋ねられた。ここで辺倉氏とのもどかしいやり取りの末、予備校近くを通って駅に向かう一本の路線を特定した。

 そのバスは時刻表によれば駅前に十時二十六分着で、もうこの時点で一時間が経過していたが、まだ運転手は車庫に残っていると言う。そこで派出所の電話番号を伝え、その運転手に連絡をくれるように頼んだ。

 しばらくして派出所を揺さぶるようにベルが鳴り響いた。遠くで通行人が立ち止まって何事かと強い視線を投げかけていた。

 電話口でバスの運転手は小酒井と名乗った。巡査はT町バス停で女子高校生二人を乗せなかったか、と彼に訊くと、二人とも乗ってこなかった、とあっさり答えた。巡査はこの点は大事だからと何度も確認した。しかし彼は絶対に乗っていないと回答した。どうしてそんなにはっきり証言できるのかと問うと、春から何度も同じバスに乗務して見掛ける二人なので、彼女たちの顔はしっかり覚えていると言う。今晩は間違いなくバスに乗ってこなかったと、小酒井は自信を持って答えた。

 彼の証言が正しいとするなら、つまり二人は予備校を出たまま行方不明になったことになる。予備校からT町バス停は百メートル程の距離である。しかもその辺りは閑静な住宅街である。そんな所で二人の人間がこつ然と姿を消してしまうことがあるだろうか。父親は予備校付近の様子を思い出しながら考えた。

 いや、そんなことよりも、今までまったく見当違いな場所を探し回っていたことが悔やまれて仕方なかった。

 それでも彼は巡査から電話を奪い取ると、バスの運転中に街のどこかで二人を見掛けなかったか、と食い下がった。しかし小酒井は今夜は二人を見ていないと答えた。この時間、街にはすっかり人影もないので、何か異変があれば気づくと言うのだ。確かに彼の言う通りだった。父親自身も車を走らせてみたが、街には何の異常も認められなかった。それでもやはり落胆せずにはいられなかった。

 受話器の向こうで、小酒井は父親の重い雰囲気を察したのか、今日の最終バスの運行は実は十分程遅れていたと言い出した。その理由は、T町バス停より三つ手前のバス停で車椅子の女性が乗車してきたため、自分が運転席を離れ、手を貸していたからだと言った。そう小酒井が告白したのは、後にバスが遅れたことが明らかになった時、そのせいで若い娘が行方不明になったと言われるのを恐れてのことかもしれない。

 それはともかく、巡査はこれは重要な情報かもしれないと思った。女子高生二人はバス停で通常よりも十分余計に待たされたことになる。その隙を狙って、誰かが彼女らをどこかへ連れ去ったとも考えられるからだ。

 電話を切ってからすぐに本署からパトカーが一台駆けつけた。巡査が応援を頼んでおいたのである。彼はすぐさまパトカーに駆け寄ると、警官らに事情を説明した。

 これまでの話を総合すると、予備校からバス停までの間か、またはバス停付近で彼女らが事件に巻き込まれた可能性が高い。警官は父親をパトカーに乗せると、現場付近まで案内させた。

 時刻はすでに十二時を過ぎていたが、予備校の明かりはついていた。警官一人が予備校の関係者から事情を聞く間に、もう一人の警官と父親がパトカーでゆっくりと付近を巡回した。

 予備校は大通りから少し奥まった所にある。そこからバス停までおよそ百メートル。予備校の付近は民家が建ち並び、大通りへ出ると商店や貸しビルが並んでいる。果たして二人はどこで連れ去られたのだろうか。もし拉致されたとするなら、当然犯人は車を使ったであろう。もしかすると近所の者が車の急発進や急ブレーキ、あるいは女性の悲鳴を聞いているかもしれない。

 警官は片っ端から民家のチャイムを鳴らし、聞き込みを行った。しばらくすると応援のパトカーがもう一台駆けつけた。

 数人の警官が付近を聞き込んだが、有力な情報は得られなかった。住民は一様に不審な物音は聞かなかったと証言した。

 それなら車で連れ去られたのではなく、この住宅街のどこかに監禁されているとは考えられないだろうか。そういった可能性も考えて、家の庭先や車庫などに注意してみたが、不審な家はなかった。

 何よりも警官と向き合った住民の中に疑わしい者は誰もいなかったのである。確かに深夜の予期せぬ訪問を受けて、最初は不快な表情を浮かべる者もいたが、事情を話せば、全員が協力的であった。彼らの中に何かを隠蔽しようとする者は一人もいなかった。いつもと変わらぬ生活を送ってきた人間が持つ真実味がそこにあった。

 こうなってくると、警官の一人は女子高生二人が自らの意志で姿を消したのではないかと考えた。たった百メートルの間で、誰にも気づかれることなく二人の人間を拉致することが果たして可能だろうか。逆に、二人が示し合わせてこの闇夜に消えたという方が実にすっきりする。

 警官たちは聞き込みを切り上げると、重い足を引きずって予備校まで戻って来た。

 予備校の職員たち一人ひとりにも話を聞いてみたが、彼女らの足取りについて証言できる者はいなかった。最後に見掛けた事務員もいつもと変わらぬ様子だったという。例えば誰かと待ち合わせているとか、これから起こる事態に緊張しているという素振りとかは一切なく、いつもの二人だった。加えて、二人の持ち物は勉強道具の入った鞄一つだけだったというのである。

 以上のことから、二人が自ら失踪したという線は消えた。とすれば、やはり彼女らは何者かに連れ去られたことになる。

 突然、警官の肩から提げた無線機が鳴り出した。それは本署から、別の捜索願を伝える連絡であった。今度は両親と暮らすOLが、十二時を過ぎても自宅に帰ってこないという内容であった。

 実はこの時点で、十七件の失踪事件がすでに発生していたとは、ここにいた警官の誰もが知る由もなかった。


 新野にいの慎一は壁の時計に目をやった。今、時刻は午前七時を数分回ったところである。締め切ったカーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。とうとう昨夜は一睡もできなかった。

 今日は大事な仕事を抱えている。大口客との商談である。しかし今はそんなことを冷静に考えられる精神状態ではない。なぜなら、大事な一人娘である悠季子ゆきこが昨夜から帰宅しないからである。

 もちろん、警察にはすでに捜索願を出してある。しかしまだ何の連絡もない。

 新野にできることと言えば、高級じゅうたんが敷きつめられた書斎を、行ったり来たりするぐらいである。時折、思いついたように煙草を口に咥えてはみるものの、火をつけることもなく、すぐに灰皿にねじ込んだ。

 妻の弥恵子は、娘の交友関係を多少なりとも把握していたので、片っ端から連絡を入れてみた。しかし結果は芳しくなかった。誰もが一様に今日は娘とは顔を合わせていないと言うのであった。

 その弥恵子も今はソファーにだらしなく伏せている。彼女も徹夜したとあって、顔色は優れなかった。二人はもうどれくらい無言でいるのだろうか。

(警察は一体何をやっているんだ?)

 新野は憤慨した。自分はこの町では名の通った会社社長である。商工会や役所関係にはそれなりに顔も利く。もちろん警察にだって知り合いはいる。

 税金だって一般市民よりも多く支払っているではないか。困っている人のためにと、その辺は割り切っている。それがどうだろう。私が困った時には、誰も助けてはくれない。警察ですらも、私の娘を見殺しにしているではないか。

 突然テーブルの上の電話が鳴り出した。妻も弾かれたように起き上がった。お互いが顔を見合わせた。ディスプレイには娘の携帯のナンバーが映っている。娘は無事だったのだ。

 受話器を持ち上げた。

「もしもし」

 自然と威圧的な声が出た。一晩中心配を掛けた娘に、文句の一つも言わないと気が済まなかった。

 しかしそれは期待した電話ではなかった。人間の血が通わぬ、機械の合成音が流れ始めた。一体、何が始まったというのか。朦朧とした頭が、一生懸命にこの事態を理解しようとした。これは妻にも聴かせた方がいい、そう判断して外部スピーカーに切り替えた。

「娘は誘拐した。一億円を用意せよ。九時になったら近くのインターチェンジから高速道路に乗って東京方面へ向かえ。携帯電話を忘れるな。途中、お前に指示を出す。警察には知らせるな。約束が守れなければ、娘の命の保証はない。取り引きは中止とする。チャンスは一度限りであることを忘れるな」

「もしもし?」

 新野は再生音に向かって、声を張り上げた。

 しかし返答はない。同じ事を二回繰り返して、一方的に電話は切れた。

「あなた」

 弥恵子は嗚咽を漏らして、床に崩れ落ちた。

「しっかりしろ、お前がそんな風でどうする」

 新野は自らを落ち着かせるように大声を出した。

「とにかく警察に電話だ」

「あなた、待って頂戴。犯人は警察には知らせるな、って」

 弥恵子は夫を睨みつけた。

「いや、これは誘拐事件だ。我々素人の手に負えるものではない。全ては警察に任せよう」

 弥恵子は再び泣き崩れてしまった。

 新野氏の連絡を受けて、所轄署は誘拐事件の捜査本部を設置した。連絡してから三十分ほどで、牛乳配達員に変装した刑事が表門から一人、作業着姿の刑事が裏口から一人、新野邸に潜入した。

 二人の刑事はそれぞれ、高埜こうのと平山と名乗った。

 高埜刑事は玄関先で、書斎のカーテンを閉め切って、外から中が見えないようにしてくれと、弥恵子に頼んだ。それから二人は書斎に入ると、新野と面会した。

 挨拶を手短に済ませると、若い平山がすぐに電話機に録音装置を取り付けにかかった。

「娘さんの名前は悠季子さん、でしたね?」

 高埜刑事が確認した。

「そうだ」

「悠季子さんが昨夜失踪された経緯をもう一度伺いたいのですが」

「それは捜索願を出す時に、詳しく話したぞ」

 新野は怪訝そうに言った。

「いや、失踪事件が刑事事件に切り替わったのでね。もう一度お聞かせ願いたい」

 実はベテランの高埜刑事には別の狙いがあった。それは動揺している夫妻を落ち着かせることである。事件を筋道立てて話してもらうことが、有効な手段と考えたのだ。

「悠季子は大学二年生で、昨日は家庭教師のバイトに出掛けていた。場所はM町の棚橋さんというお宅だ。中学三年生の子に英語と数学を教えている。いつもは九時半に終わって娘は帰るのだが、昨日は成績が上がったお礼とかで、家族と軽く食事をするということだった」

「それで棚橋家を出たのは?」

「棚橋さんによると、十時十五分頃だったらしい」

「その後は?」

「いつもはうちの家内が車で棚橋家まで迎えに行くのだが、昨日は時間が分からなかったので、バスに乗って駅まで戻って来ることにしていた。家内は駅前に車を停めて待っていた」

「しかしバスには乗っていなかった?」

「そうだ。バスは定刻より十分ぐらい遅れて駅に着いた。だが娘は乗っていなかった」

「娘さんからの連絡は?」

「私も家内も一度も受けてない」

 そこからは弥恵子が言葉をつないだ。

「それで私は娘の携帯に連絡してみたのですが、電源が切れているとかで、全く出ないのです。仕方なく、棚橋家に直行しました」

「棚橋家に着いたのは?」

「確か十一時を少し過ぎていました。棚橋さんに会って確かめたところ、とっくに娘は帰ったというのです。それで私、どうしてよいか分からずに」

 そこまで言うと弥恵子は涙混じりになった。

「犯人の要求は一億円でしたね?」

「ああ、そうだ。金は惜しくないからくれてやる。その代わり絶対に娘を無事に取り返してほしい」

「もちろん、我々は全力を尽くします。どうか今後の行動は警察の指示に従ってください」

「分かった」

 新野氏は渋々言った。

 八時になると、新野は取引先の銀行に連絡をつけ、九時前に一億円を用意してくれるよう頼んだ。支店長は事情を聞くと、すぐに承諾してくれた。妻の弥恵子は体調が悪いと、寝室に引き籠もってしまった。

 今は書斎に刑事二人だけが取り残されていた。

「高埜さん、どういう作戦でいきますか?」

 若い刑事は指示を仰いだ。

「新野氏によると、秘書兼運転手の山宮という男がいる。その山宮が運転する車で新野氏には高速道路に入ってもらおう。何かあった時には人数が多い方がいいからな」

「私が運転手に化けましょうか?」

「いや、それは駄目だ。犯人は新野氏のことを事前に調べているかもしれん。見知らぬ運転手が現れたら、警戒されてしまう」

「それではどうしましょうか?」

「車には発信器と小型の無線を載せておく。我々は少し離れて尾行しよう。高速道路だから、ずっと後ろを同じ車が走っていても違和感はないからな」

「私が車のトランクに乗り込んでおくのはどうでしょうか?」

「それは危険だ。一億円の入るアタッシュケースはせいぜい五十センチ掛ける四十センチ程度の大きさだから、後部座席にも十分置くことはできる。だが、犯人はトランクに載せていると勝手に考えて、どこかで開けさせることになるかもしれん。だからトランクに隠れているのは得策じゃない」

「なるほど」

 平山は頷いた。

「問題は高速道路上で犯人がどう接触してくるかだが、さっき県警に連絡を入れて、交通警察隊に協力を要請しておいた。上りの各サービスエリアに覆面パトカーを待機してもらうことになっている」

「犯人はどこで接触してくるのでしょうか?」

「そうだな。おそらく移動中に新野氏の携帯に連絡を入れるのだろう。そこで行き先を明らかにする筈だ。こちらも発信番号が分かれば、電話会社の協力を得て、犯人の居場所の見当がつく。如何にして取り引き場所に先回りできるかが勝負だな」

 しばらくして、宅配便を装って署員が一つの箱を届けてくれた。中には、GPS発信機と小型の無線機が入っていた。平山は発信機をガレージの車の下に取り付けた。

 八時四十五分、山宮の運転する黒の高級外車が新野邸を出発した。それを陰から見送った高埜、平山両刑事は裏口から邸を出て、少し離れた公園に待っていた警察車両に乗り込んだ。

 平山と同期の田嶋がハンドルを握っていた。

「お疲れさまです」

 田嶋はルームミラーの中に映った高埜の顔を見て言った。車をスタートさせる。

「新野の車はまずは銀行へ身代金を受け取りに行く。我々はインターチェンジで待機しよう」

 高埜がそう指示を与えた。

「実はですね、私が署を出る直前に連絡がありまして」

 田嶋が後部座席の二人に話し始めた。

「もう一件、別の誘拐事件が発生した模様です」

「おいおい、本当か?」

 平山が驚いて訊き返した。

「ああ、どうやら昨日から行方不明になっている女子高生の家に犯人から電話があったらしい。勝木さんと吉田さんが急行した」

「そう言えば、昨夜は十件以上もの失踪事件があったと聞いてるが、それと関係があるのか?」

 後ろで高埜が訊いた。

「どうやらそうみたいです」

「そりゃ、大変ですよ。その十件が全て誘拐事件に発展したら、うちの署員だけではとても対応しきれません」

 平山がそう言った。

 すると突然、無線の呼び出しが入った。

「田嶋、今どこだ?」

 係長の緊張した声が車内に響く。

「今、高埜さんと平山を乗せて、インターチェンジに向かってます」

「すまんが、一旦署に戻ってくれないか。実はもう四件、別の誘拐事件が発生した」

「何ですって」

 すぐさま高埜が身を乗り出して、無線を奪い取った。

「高埜です。こちらはまだ時間がありますから、一旦署に戻ります」

「悪いけど頼む。さっきから電話が鳴りっぱなしなんだ」

 田嶋はすぐに車の向きを変えた。

「やはり昨夜の大量失踪と関係が?」

「そうだ。昨日の段階で把握できている失踪事件は全部で十五件。これが全部誘拐だとしたら、この後大変なことになるぞ」

 係長が悲痛な叫びを上げた。

「県警に応援は?」

「連絡はしたが、まだどういう動きになるか分からん。とりあえず今は各被害者宅に刑事を派遣したところだ。これだけ同時だと、この街の警察組織だけでは対処不可能だ」

 これが犯人の狙いだとすれば、相当に頭の切れる集団だと言わざるを得ない。小さな街の警察署をパニックに陥れることに成功している。

 車は急ブレーキを掛けて、警察署の前に停車した。

 田嶋の後に続いて、高埜も降りた。

「平山、すまんが高速道路はお前一人で行ってくれ」

「高埜さんは?」

「俺は別の現場に走る。いいか、無茶はするなよ。娘の命が懸かっているんだ」

 平山の顔が引き締まった。

「分かりました」

「犯人グループは大掛かりな組織かもしれん。十分気をつけてくれ。高速警察隊としっかり連携を取れ。いいか、くれぐれも無理はするな」

「了解です」

「それじゃあ、行け」

 平山は運転席に座ると、アクセルを踏み込んだ。

 バックミラーには、慌てて署内へ駆け込む高埜の姿が映っていた。

 平山は高速道路入口に向かいながら、無線のマイクを持ち上げた。

「聞こえますか? こちら平山です。新野さん、今どちらですか?」

「今、銀行で現金を受け取ったところだ。これからインターチェンジへ向かう」

 新野の声がはっきりと聞こえる。改造したカーナビゲーションには、彼の車の位置が正確に表示されている。これで準備は万端だ。

 (絶対に人質を解放して、犯人を捕まえてやる)

 若い平山は決意した。

 高速道路入口付近で待っていると、後方に新野の車が見えてきた。大きな外車だから、見失うことはないだろう。

 今、平山の横をすり抜けた。彼らはこの車が警察車両とは気づいていないようだった。

 平山も車を発進させた。加速して本線に合流する。

 平日だというのに、この時間道路は混んでいた。逆にこれならぴったりと後ろを付けていても怪しまれることはないだろう。

「新野さん、聞こえますか? 今あなたの真後ろに付けてます」

 平山は無線で呼び掛けた。

「了解した」

 新野の声はやや緊張気味だった。彼の後頭部が平山の車から見えている。

「何か異常を感じたり、犯人から連絡があったりしたら、すぐ報告してください」

「分かった」

 さて、犯人はどうやって接触してくるのだろうか。

 十五分ほど走ると、最初のサービスエリアが見えてきた。前を行く新野の車に変化はない。ここは無事通過である。平山は待機中の覆面パトカーに、本線へ合流してくれるよう連絡した。

 道路は街から外れると、右に左にカーブして、いつしか山間を走るようになった。山の緑と空の青が目の前に広がる。人工物は今やこの道路だけである。時折、高速道路を跨ぐ一般道が突然現れては消えていく。

 道路はしばらく直線になった。

 突然、無線機が目覚めた。

「何だ、あれは?」

 新野の驚く声。

「どうかしましたか?」

「刑事さん、前を見てくれ。前を」

 直線に伸びた道路の先で、一般道路が空に架かっていた。その欄干から身を乗り出すように、白い垂れ幕を下ろす人物がいた。その幕には墨で書いた大きな文字が躍っていた。この距離ではまだ読むことができない。

「ちょっとスピードを落としてください」

 平山はマイクに向かって叫んだ。

 それでも交わる一般道はどんどん近づいてくる。

 やっと文字が判別できた。

『新野、次の路側帯で車を停めよ』

 二台の車は時速六十キロ程度で橋の下を通過した。平山は通過の瞬間、上空を見上げた。そして垂れ幕を支える人物の姿を捉えた。大きく身を乗り出しているのは、子供のようだった。

「刑事さん、どうする?」

 新野の声が響く。

 平山は決断を迫られた。

「仕方ない、車を停めてください」

「分かった。刑事さんは?」

「そのまま走り抜けます。そちらから見えなくなった辺りで、私も車を停めます」

 果たしてこの対処は正しいのだろうか。平山には自信がなかった。

(高埜さんが居てくれたらな)

 ぽっかりと広い空間が道路の脇に現れた。人の姿はない。

 新野の車はウィンカーを出すと路側帯に入って減速した。その横を平山は突き抜けた。

 直線がしばらく続くので、ハザードランプを点けた車がミラー越しに見えている。

 そのまま刑事は車を走らせた。

「新野さん、何かあったらすぐ知らせてください」

 平山は運転しながらそう言った。

 続いて後ろを追いかけているはずの高速隊の覆面パトカーに連絡を取り、直ちに近くの路側帯に待機するように指示をした。

 これで新野の車は前後から警察車両が挟み込む格好となった。何かあればすぐに動ける筈だ。

「新野さん、そちらの状況を教えてください」

 平山が問い掛けた。

「状況もなにも、ここには誰もいない。周りは山ばかりで、誰かに見張られているとも思えないんだが」

「携帯にも連絡なしですか?」

「今のところ、ない」

 すると無線の中からもう一人の声が聞こえた。おそらく山宮だろう。社長に何かを伝えているようだ。

「刑事さん、ちょっと待ってくれよ」

 新野はそう言うと、車のドアを開けて外に出たようだった。

 何があったのだろうか。平山に緊張が走る。

 しばらくすると新野の声が戻ってきた。

「刑事さん、大変だ。防音壁に紙が挟まっていた」

「紙?」

「新野氏へ。一億円をここから真下へ投げ捨てろ、と書いてある」

「何ですって」

「どうする?」

 新野の焦る声が響く。

 平山は迷った。答える代わりに、

「そこから下は見えますか?」

と訊いた。

「ちょっと待ってくれ」

 そう言い残すと、新野はまた車外へ出たようだった。

「防音壁の切れ間から下が見える。五十メートルぐらい下が沢になってる」

 カーナビで確認すると確かに川の支流があるようだ。

「誰かいましたか?」

「いや、誰も見えない」

 とにかくその沢に警官を急行させなければならない。そのためには、時間を稼ぐしか方法はない。

「新野さん、そのまま車内で待機してください」

 平山は高速隊と連絡を取った。高速道路上のどこかから現着(現場到着)できないかを尋ねた。一つ先のサービスエリアから従業員用の道路を使って近くまで行けるというので、待機中の覆面パトカーに急行してもらった。しかし困ったことに所要時間は分からないという。道路から沢に降りるまでの道筋が分からないからである。

 平山は考えた。垂れ幕の場所から路側帯までは車で数分の距離である。果たしていつまで犯人を待たせることが可能だろうか。あまり時間が掛かれば不審に思われる。

「刑事さん、早く落とさないと怪しまれないか?」

 無線で新野が催促した。

「もう五分だけ待ってください」

「そんなには待てないぞ。娘の命が懸かっているんだ」

 新野は吐き捨てるように返した。

「分かりました。それでは落とす前にもう一度、人影がないか確認してくれませんか?」

「了解した」

 しばらくして、

「誰もいないようだ。それじゃあ、落とすぞ」

「お願いします」

 平山は諦めて言った。

 新野は山宮の手を借りて、アタッシュケースを防音壁の隙間から投げ落とした。

 シルバーのケースは向きを変える度にきらきらと光を放って落下していった。

 平山は現場に向かっているパトカーに連絡を取った。

「今、身代金の入ったアタッシュケースが高速道路から投げ落とされました。付近を走行する全車両に職質(職務質問)をしてください」

「了解」

 続いて平山は後方に停車している高速隊に呼び掛けた。

「そこからすぐ先に一般道路の橋が架かっています。その道路上に共犯と思われる人物がいます。橋から幕を垂らして指示を与えた男です。一見、子供のような背格好ですが詳細は不明。その人物の身柄を確保してください」

「了解しました」

 指示を受けた高速隊はそのまま路肩を緊急走行して、陸橋の真下に到着した。パトカーを降りると、警官二名がフェンスをよじ登り、一般道路へ踊り出た。

 警官の一人が自転車で逃走する人物を発見した。現場からすでに数百メートル遠ざかっていたため、直ちに所轄署に緊急配備を要請した。

 一方、平山は車から降りると、路側帯を走って新野の車まで辿り着いた。

 新野と山宮は車の中で待機していた。

「犯人からの連絡は?」

 平山は息も絶え絶え訊いた。

「いや、何もない」

 新野が憮然と答える。

 平山は身代金の投下場所を自分の目で確かめた。

 防音壁のつなぎ目である。人の身体は通れなかった。顔だけ出して下を覗き込んでみた。遙か眼下には沢が広がっていた。水の流れも確認できる。アタッシュケースはどこへ落ちたのか、ここからは見えなかった。

「山宮さん、車にロープは積んでませんか?」

 平山は横を走り抜けるトラックの騒音に負けじと声を張り上げた。

「牽引ロープならありますが、五メートルぐらいしかありません」

 さすがにここから下まで降りるのは無理だ。仕方なく新野の車に乗り込んで高速隊の到着を待つことにした。

「身代金はくれてやったというのに、犯人はどうして連絡してこないんだ?」

 新野は焦燥感に駆られていた。

「もしかして、犯人は警察の介入に気づいたのではないでしょうか?」

 山宮が恐る恐る言った。

 平山はそんな彼を睨むようにして、

「いいえ、我々はそんなヘマはしていません」

 そう自信を持って言った。

 警察車両は新野氏の車を遠巻きにして停まっていた。それにこの付近は四方を山で囲まれ、犯人が監視できるような場所ではない。もちろん垂れ幕で指示をもらった橋からは遠過ぎて見通しも利かない。そんな中、身代金の投下は新野と山宮で行ったのだ。犯人に警察の動きが察知されたとは到底考えられない。

 高速隊から無線連絡が入った。高速道路の真下で無事にアタッシュケースを回収したという。中身を確認したが、現金一億円は無事とのことであった。

 さらに、現場付近には怪しい車両または人物は発見できなかったと高速隊は付け加えた。

 一方、橋の上から垂れ幕を下ろした人物が確保された。驚くべきことに、それは地元の男子中学生であった。数日前学校帰りにサングラスを掛けた男からこの「仕事」を持ち掛けられたのだという。映画撮影のため、今日の九時過ぎに指定の幕を垂らすことを、前金五千円で引き受けた。遠くの路側帯に黒い車が停まる手筈になっているので、それを確認したら、幕を引き上げて、帰宅してよいことになっていた。後に幕は自宅まで引き取りに来るから、その際に残りの五千円を貰う約束だったと中学生は証言した。

 この取引が失敗したことに、平山は自責の念に駆られた。万が一、逆上した犯人が人質を殺害してしまったら、自分はどう責任を取ればよいのか、そんな不安ばかりがこみ上げてきた。

 平山は新野たちを自宅へ帰らせた。そして重い身体を引きずって、一人署に帰ってきた。

 彼はそこで初めて、十五件の誘拐事件と身代金の受け渡しに刑事課全員が振り回されていることを知った。自分が担当したのは、その内のたった一つに過ぎなかったのだ。

 次々と刑事たちは現場から戻ってきた。どの顔も疲労と苦悩に満ちていた。いずれの取引現場にも犯人は現れなかったというのだ。

 その中には、上司である高埜刑事の姿はなかった。彼は犯人の指示により新幹線で東京へ向かったと聞かされた。しかし後に彼からも取引失敗の連絡が入った。

 この事件は警察始まって以来、最大規模の誘拐事件となった。犯人は一体どんな連中なのだろうか。取引に失敗した今、彼らは次にどういう行動に出るのか。刑事らは皆、戦々恐々としていた。

 しかしその後、十五件の誘拐事件全てにおいて、犯人からの連絡は途絶えてしまった。人質も一人として帰ってくることはなかった。生死は今もなお不明のままである。

 事件発生後、数日を経て、さらに二名の失踪が判明した。捜査の結果、彼らも同じ日に誘拐されたことが明らかになった。彼らは一人暮らしで身近に家族がいないため、身代金を要求する連絡がなかったと考えられた。

 新聞やテレビは連日競って警察を非難した。事件解決を大幅に遅らせた原因は、警察の失態であると酷評した。田舎町の警察は、犯罪史上類を見ない大掛かりな誘拐事件の初動捜査を誤り、その結果犯人と接触する機会さえも逃してしまったためである。

 これにより、署長と県警本部長が辞任した。

 警察はその威信にかけて、この事件を広域事件に指定し、警察庁および関連する都道府県警には継続捜査班を設け、今も捜査に当たっている。

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