第4話 捜査、始まる
次の日の放課後、沢渕は一人でカラオケボックスに到着した。学校から繁華街を抜けてここまでやって来たのだが、他のメンバーとは誰とも会わなかった。
入店すると、奥から佐々峰奈帆子が、
「いらっしゃいませ」
と声を掛けた。そしてすぐにカウンターを飛び出してきた。
「昨日はどうもありがとう。多喜子が面倒をかけたみたいで」
「いいえ、大したことありませんよ」
彼女の言葉が照れくさかった。
それから奈帆子は、
「これからも、どうか多喜子と仲良くしてやってください」
と頭を下げた。
「はい、もちろんです」
こんな自分でも誰かに頼りにされている。沢渕は嬉しくなった。
例の大部屋へ入ると、すでに全員が着席していた。
「遅刻だぞ、新人」
久万秋が言い放った。
「すみません」
すでに全員が集まっているとは思わなかった。いつの間に学校を出ていたのだろうか。
テーブルの上には、女性雑誌が数冊積まれていた。
「これは、昨日佐々峰さんの部屋に置いてあったものですね」
沢渕は定位置に腰を下ろしながら言った。
「へえ、さすがに鋭い観察力ね」
真正面から森崎叶美が感心した。
「それでは、沢渕君。この雑誌を見て、何か気づくことはあるかい?」
そう質問したのは、堀元直貴だった。
一番上の雑誌を手に取った。若い女性向けの月刊誌で、昨年の十月号とある。表紙は今をときめく女優の笑顔で飾られていた。中央をホチキスで留める製本のため、背表紙が尖っている。いつも思うのだが、こういう本は書棚に入れると、タイトルがまるで分からなくなる。
裏表紙を見ると白い値札が貼ってあった。定価からするとかなり安い値がついている。どうやら古本として手に入れたものらしい。
次に中身を確認した。一見したところ、ページを破いたりした形跡はない。
全員が見守る中、沢渕は流れるようにページを繰っていった。特に違和感はない。そのまま何事もなく最後までめくりきってしまうか、という所で手が止まった。裏表紙から数ページ手前の地点だった。
なるほどこれか、と思った。
読者のお便りや編集後記が載っているページだった。本ののど、すなわちホチキスが紙を押さえつけている辺りに、明らかに印刷ではない図形があった。どうやら鉛筆で書きつけたようだ。「力」「十」、そして数字の「1」が縦に小さな文字で並んでいる。
沢渕は本を左右に真っ直ぐ広げるようにして、そのページの反対側ののどを覗き込んだ。こちらは化粧品のカラー広告のページだった。鮮やかな青色が一面に広がっている。その背景色に紛れてはいるが、確かにここにも鉛筆書きがあった。しかしこちらはカラー印刷に負けて、余程注意しないと文字の主張に気づかない。現に先ほどは見落としてしまった。
目を凝らすと、「且」「し」「一」の文字が中央寄りに小さく書いてある。
左右に分かれた文字を合成すると、上から「助」「け」「て」になる。この三文字が本のとじ目で分断されているのだった。
他に何か文字はないだろうか。沢渕はとじ目部分を浮かせるようにして探した。
あった!
「助けて」の下に、さらに小さい文字で、アルファベットが読める。
「S・H」と「N・K」。イニシャルだろうか。
沢渕は雑誌をテーブルに戻すと、ソファーに深く腰掛け、目頭を押さえるようにした。
「よく発見できたわね」
すぐ目の前で叶美が口を開いた。
「いや、暗示を与えてくれたからですよ。それがなかったら、気づきませんね」
「沢渕くん、あなたはこれをどう見る?」
「事件性があるかどうか、ってことですか?」
「そう」
「断言はできませんが、これは何かのいたずらではなさそうですね。こんな目立たないやり方では、誰も気づきません。それにいたずらなら、もっと効果的な文面もあると思うのです。つまり誰かを担ごうとしている風ではない」
「いたずら書きでないのなら、一体誰が何の目的でこんなことをしたんだろうね?」
直貴が眼鏡の奥で鋭く目を光らせた。
「文字通り受け取れば、どうやら助けてほしい、ということらしい。しかしその割には、随分と主張を抑えたメッセージです。おそらくこのメッセージは一緒に居る者に見られたくないのでしょう。だからこんなに小さく、目立たないような書き方にした。たとえこの雑誌が開かれるようなことがあっても、自分の意図に気づかれないようにした。つまりこれを書いた人は、その敵とも思える人物の極めて近くに居るということになる。雑誌を共有できるほど近いのなら、恐らく同じ部屋に居るのだと思いますね」
「同じ部屋に住む者同士が争っているのか?」
そう声を上げたのは、久万秋だった。
「どうしてその部屋から逃げないのかしら。こんな面倒臭い方法で助けを呼ぶぐらいなら、自分でとっとと逃げた方が早いんじゃないかしら?」
多喜子が不思議そうに言った。
それには、直貴が答える。
「いや、この人は逃げようと思っても、逃げられない状況に置かれているとしたら?」
「ひょっとして、監禁されているとか?」
多喜子は自分でそう言っておきながら、身震いをした。
沢渕はそんな彼女に頷いてから、
「少なくとも二名が誘拐され、長期間監禁されているのだと思います」
「イニシャルが二つあったから、二名というのは同意だけど、誘拐され、しかも長期間監禁されているという根拠は?」
今度は叶美が訊いた。
「助けてほしいのなら、普通その場所を明記するか、または犯人の名前を示す筈です。しかしこの文面にはそんな形跡がまるでない。それは、監禁されている人も分からないからですよ。つまり面識のない人物に、どこか知らない場所へ連れて来られたということです」
「英文字が、実は犯人の名前や今居る場所って可能性は?」
久万秋が口を挟んだ。
「まあ、その可能性もない訳ではないですが、そんな回りくどいやり方で書かれても、犯人や監禁場所には迫れません。ですから常識的には、被害者二名のイニシャルでいいと思います」
沢渕は久万秋に向かって説明した。
「それじゃあ、長期間っていうのは?」
叶美が先を促した。
「この雑誌を外部への連絡として使ったからです。当然メッセージは部屋の外、もっと言えば建物の外へ出さなければ意味がない。逆に言えば、これを書いた人物はこの雑誌がいつか外に出て、古本屋へ出回ることを知っていたということになる。つまり部屋の中の雑誌を売りに出すという、犯人の生活習慣を知っていたのです。それを知るには、ある程度犯人と一緒に生活をしなければなりません。ですから、監禁は長期にわたっていると考えたのです」
「なるほど」
叶美は大きく頷いた。
「僕も沢渕君の推理は正しいと思う」
直貴が続ける。
「この雑誌が監禁場所から外部へ出た経緯を調べる必要があるね。犯人が直接古本屋に売ったのか、あるいは古紙回収業者を経由して、最終的に古本屋に流れ着いたのか」
「それから、監禁されている二人の生存についてですが、少なくとも去年の九月頃までは生きていたことが証明されます」
沢渕が言った。
「雑誌の発行月だね」
「そうです。通常十月号というのは九月に店頭に並びますから」
「いや、たぶん、このメッセージはもっと後から書いたものだよ」
直貴は自信たっぷりに言った。
「買ったばかりの雑誌は犯人も頻繁に目を通すだろうから、そんな時期に書き付けるのは発見されるリスクが大きい。となると、犯人が雑誌に興味がなくなって、すっかり読まなくなってから、行動を起こすんじゃないか。そうだとしたら、もうひと月ぐらいは後になると思う」
「それじゃあ、監禁されている二人は、少なくとも去年の十月頃までは確実に生きていた訳ね。今も生きているといいんだけど」
叶美が言った。
「女性雑誌を読んでいるってことは、犯人は女ってことになるよな」
久万秋の声が響いた。
「いえ、まだそれは分かりません。ただ女が共犯者という可能性はあり得ます。ところで、メッセージが書かれていたのは、この雑誌だけですか?」
沢渕は叶美に訊いた。
「慌てて他のも調べてみたけど、これだけね」
「他の雑誌に、メッセージの続きが見つかるといいのですが」
その言葉で、叶美は多喜子に強い視線を投げかけた。
自然とみんなの視線も彼女に集中する。
「タキちゃん、この雑誌を手に入れた経緯を説明して」
「はい」
多喜子は緊張した顔で、
「私、先月隣町の病院に、親戚のおばさんのお見舞いに行ったんです。その帰りに電車待ちの時間があったので、駅前の古本専門店に寄ったのです。そこでたまたま見つけて購入したのがこの雑誌だったのです」
沢渕はテーブルの上の雑誌を表紙が見えるように並べてみた。全て違ったタイトルである。偶然多喜子が古本屋で手にした雑誌の中に、一冊だけ監禁場所から出てきたものがあったということか。
犯人がもしこの雑誌を定期購読しているのなら、同じ雑誌の違う号を調べてみる価値はありそうだ。
沢渕と同じ事を考えたのか、叶美が立ち上がった。
「私、今からその本屋へ行ってみるわ」
久万秋もつられて立ち上がった。
「俺も行くぜ」
「クマと沢渕くんは私と一緒に来て。直貴は未解決の誘拐事件を調べて頂戴。検索条件は、二人の被害者のイニシャルよ」
「了解」
「叶美先輩、私は?」
多喜子が訊いた。
「タキちゃんは、その雑誌をビニール袋に入れて、鍵谷先生に渡せるように準備して。指紋を取ってもらうの」
「はい」
そこへドアが開いて、奈帆子が顔を出した。
「部長、車を出しましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。隣町の駅前だから電車で行きます。それに先輩はまだお仕事あるでしょ?」
「そうね。久しぶりの事件だから、舞い上がってしまって」
それにしても、相変わらず叶美の指示は素早く的確であった。
カラオケボックスを出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。繁華街は派手にネオンサインを競い合い、漆黒の空を焦がしている。
森崎叶美の後を追うように、沢渕晶也と久万秋進士が続いた。今、彼らは商店街を抜けて駅へ向かっていた。
先を急ぐ叶美の制服の背中で、長い髪が右に左にリズムよく揺れていた。沢渕は気のせいか、彼女の背中にいつもとは違う雰囲気を感じ取っていた。
緊張しているのは、何も叶美だけではない。もし雑誌に残されたメッセージが本物であるならば、これは探偵ごっこでは済まされない。誘拐監禁された者の命が懸かっている。彼らの叫び声を聞いた以上、一刻も早く救出してやらなければならないのだ。
三人は駅に着くと、隣町までの切符を買い、電車に乗った。
この時間、電車は家路を急ぐ学生や勤め人らでごった返していた。叶美は何を考えているのか、一言も口を利かなかった。
駅を出ると、多喜子の言う通り、すぐ目の前に大型の古本屋があった。オレンジ色で満たされた暖かい店内に、次々と街の人が吸い込まれていく。
三人もまっすぐ店の中へと入った。
「まずは、女性雑誌のコーナーを探して」
叶美が指示を出した。
それは苦労することもなく、すぐに発見することができた。しかし天井まで届きそうなその棚は、上から下まで隙間なく雑誌が並べられている。これらを全部調べるには相当時間が掛かりそうだ。
叶美はクマの背中をトントンと叩くと、
「ここはあなたに任せるわ。例の雑誌の別月号を探して頂戴」
「分かったぜ」
次に、沢渕のシャツの袖を引っ張って、
「あなたは、私と一緒に来て」
と言った。
叶美はレジの方へと歩いて行く。
「私が一人で喋るから、あなたは黙って見ていて」
「了解です」
ここは部長のお手並み拝見という訳である。
カウンターの中では、数人の若い男女が動き回っていた。レジ付近に客がいなくなるのを見計らって、叶美は店員の一人に声を掛けた。
「いらっしゃいませ」
「ちょっとお尋ねしたいことがあって、店長さんを呼んで頂けませんか?」
「少々お待ちください」
男の店員が奥へ消えると、すぐに丸眼鏡をかけた中年の男が現れた。
「私が店長の北山です」
叶美は丁寧に頭を下げて、
「店長さんにちょっとご相談がありまして」
「何でしょうか?」
北山は怪訝そうな声で言った。ひょっとすると何かクレームでも付けられると思ったのかもしれない。
「こちらのお店で、ある雑誌を買ったのですが、実は中からこんな物が出てきまして」
(一体何をする気だ?)
「これなんです」
叶美は制服の胸ポケットから一万円札を取り出した。
「ほう」
北山は、叶美の手から高額紙幣を受け取った。そして裏返したり、蛍光灯にかざしたりした。
「実を言うと、こちらにいる弟が黙って貰ってしまおう、なんて言うものですから、一瞬私もぐらついてしまったのですが、違うページからもう一つ、こんな物も出てきまして」
北山はいつしか女子高校生の話に引き込まれているようだった。沢渕はいつの間にか彼女の弟になっていたが、それよりも続きが気になった。
手には白い封筒が握られていた。随分と準備がいいと感心させられる。
北山は今度は封筒を受け取って、宛名を確認した。
「重要」というペン書きの文字が見えた。
「これの中身は?」
「中までは見ていません」
「どうやら手紙が入っているみたいですね」
「そうなんです。お金だけならともかく、そんな手紙まであったので、勝手に処分する訳にもいかないと思いまして」
「お姉さん、あなたは正直な方ですね」
北山は一瞬、沢渕を睨むようにしてから、そう褒めた。
「もしできましたら、この雑誌を売った方にお会いして、これらを手渡ししたいと思うのです」
「ほう、そりゃまた何故?」
「だって、落とし物を拾うと、いくらかお礼が貰えるという話じゃないですか」
「ああ、なるほど」
北山は快活に笑った。
「まあ、それは冗談ですが、特に封筒の方は大切な物ではないかと思いまして」
「そうですね」
「ところで、雑誌を持ち込んだ人って、こちらで分かるものですか?」
「はい、分かりますよ」
北山はあっさりと答えた。
「この店の商品は全てコンピュータ管理されておりまして、商品をいつ誰が持ち込んで、当店がいくらで買い取ったかが、すぐに分かるようになっております」
彼は自社のシステムを自慢しているような口ぶりだった。
「へえ、凄いんですね。店長さん、その仕組みをちょっと見せてもらう訳にはいきません?」
北山は天井を見上げて、
「どうしようかな」
「私、この業界には大変興味がありまして、将来就職も考えているのです。ですから勉強のために拝見できたら嬉しいのですけれど」
叶美は甘えるような声で頼んだ。
「分かりました、ちょっとだけですよ」
「ありがとうございます」
「それでは、こちらにお入りなさい」
北山は叶美の肩に軽く触れるようにした。
沢渕も続こうとすると、
「タケシ、あんたはここで待ってなさい」
(誰だよ、タケシっていうのは?)
二人は奥の事務所に消えていった。
沢渕は仕方なく女性雑誌のコーナーへと戻った。
久万秋は巨体を揺らすようにして、雑誌の山と格闘していた。
「クマ先輩、どうですか。別の号は見つかりましたか?」
「一冊だけ見つけたよ。だが、中には何の書き込みもない。念のため、お前も確認してくれ」
沢渕は、久万秋に差し出された雑誌のページをゆっくりと繰っていった。時間を掛けて隅々まで目を通してみたが、メッセージは発見できなかった。
しかし沢渕にそれほどの落胆はなかった。
例の監禁場所から出てきた本は、この棚の中に何冊あるか分からないが、それら全てにメッセージが残されている訳ではないからだ。むしろ犯人に発覚することを恐れて、限られた本にしか書き込まなかったことは十分考えられる。
それに監禁場所に置かれていた本が、全て女性雑誌ばかりとは限らないのだ。連絡に使われる本は、特にジャンルを選ばない。そうだとすれば、メッセージが残された本は、この店内で各ジャンル別に拡散されたことになり、一カ所だけ探しても見つけられるものではないからである。
とにかく、もう少し情報が欲しい。叶美や直貴、あるいは雑誌を分析してくれるであろう鍵谷先生から何か追加情報が得られれば、一歩前進できる筈である。
十分ほど経って、叶美がこちらに歩いてきた。彼女の足取りは軽く、笑みを浮かべていた。何らかの情報を掴んだことは明らかだった。
「お二人さん、一旦店を出ましょう。タキネエが駐車場で待っているらしいの。クマは私たち二人が外に出てから、しばらく時間をおいてから来て頂戴」
二人が自動ドアを通り抜けて外へ出ると、駐車場の一角でパッシングする車があった。叶美は沢渕の手を引いて駆け出した。
白い軽自動車だった。運転席の窓が下に降りて、中から奈帆子の顔が現れた。
「お疲れさま。どうだった?」
叶美は前席に、沢渕は後席に分かれて乗り込んだ。
部長は奈帆子の質問には答えず、携帯を取り出すと、何やら独りで喋り始めた。沢渕と奈帆子は呆気に取られて、ただ彼女の行動を見守るしかなかった。
数字を区切りながら、テンポよく口にしていく。途中、言葉が出なくなることもあったが、それでも何とか最後まで捻り出した。
続いては雑誌の名前である。芸能、テレビ、映画、自動車、パソコン、ゲームの雑誌名を次々と口にした。
叶美は店長が操作したパソコン画面の情報を記憶していたのだ。それを携帯のボイスレコーダーに吹き込んでいるという訳である。
「以上、おしまい」
全て出し尽くすと、叶美はボタンを操作して携帯を閉じた。そして大きくため息をついて、身体全体をシートに預けた。
「さすがね」
奈帆子が感心して言った。沢渕も彼女の記憶力に舌を巻いた。
「ごめんなさい。情報は忘れないうちに記録しておかないと、ね」
「クマが出てきたわ」
奈帆子はそう言うと、さっきと同じようにライトで合図をした。
久万秋もすぐに気がついて、一直線にこちらに向かって来た。そして巨体をひねるようにして乗り込んだ。
後部座席で、沢渕と久万秋の身体が密着する。
「みなさん、お疲れさま。これは差し入れ」
奈帆子は三人に菓子パンを手渡した。沢渕はずっと空腹を感じていたので、これは有り難かった。
「三十分もしたら、例の雑誌を売った人物がここへやって来るわ」
叶美が出入口から目を離すことなく、そう言った。
「あら、そうなの?」
「店長に頼んで、面会させてもらえるようにしました」
「カナちゃん、やるわね」
「実を言うと、一万円で釣ったんですけど」
「それは必要経費として認めるわ」
「森崎、どうやって売った奴を特定できたんだ?」
クマの大きな声が狭い車内に響いた。
「この店は商品をコンピュータ管理しているんだって。それで携帯で撮ってきた例の雑誌のバーコードを読み込んだら、氏名と売買履歴が全て出てきたわ。運転免許証のコピーまでスキャンしてあった」
「それなら本人に間違いないな」
「そうね。あの雑誌が売られたのは、今年の二月。同時に様々なジャンルの本が持ち込まれてた」
「それらを調べて、またメッセージが見つかれば、ますますそいつが怪しいってことになるな」
「でも、ちょっと気になるのは、本の種類があまりにも多岐にわたっている点ね。個人で読むにしては、ジャンルがバラバラなのよ」
「つまり、古紙回収業者の可能性があると?」
沢渕が訊いた。
叶美はフロントガラスの方へ顔を向けたまま、
「そうかもしれないわ。毎月平均二回、本を売りに来てるの。個人がそんな頻繁に本を売るものかしら?」
「しっかし、どうにも回りくどいな。こいつが誘拐犯なら、事件も即解決ってことになるんだが」
久万秋が舌打ちをする。
「それはこの後、本人と直接会えば分かるかもね」
奈帆子が続けて言った。
突然、叶美の携帯が爽やかなメロディーを奏でた。
「直貴からだわ。もしもし?」
「今、誘拐事件のことをインターネットで調べているんだが、これは、もしかすると大きな事件に当たったかもしれないぞ」
狭い車内では相手の声までよく聞き取れる。直貴はいつになく興奮している様子だった。
「今から五年前なんだが、その街で十七人もの人間が一斉に誘拐されるという事件が起きてる。森崎は知っているか?」
「いいえ」
沢渕もまるで知らない事件だった。五年前と言えば、まだ十歳である。小学四年生では誘拐事件など記憶に残っていなくても無理はない。
叶美は自然と年長者の奈帆子の方を見た。
しかし彼女も小さくかぶりを振る。
「こちらにいるメンバーは誰も知らないみたい」
「この事件、今も未解決のままなんだが、この被害者の中に、辺倉祥子と片比良七菜という女性がいるんだ。二人は当時高校三年生で、友達だったらしい」
「イニシャルは、『S・H』と『N・K』ね」
「ああ、そうなんだ。これは偶然なんだろうか?」
「まだ分からないけど、その事件についてできる限り資料を集めて頂戴」
「分かったよ。で、そちらの状況は?」
「今、本屋の駐車場。これから雑誌を売った人物と会うところ」
「おお、もうそこまで辿り着いたのか。だが森崎、あまり無茶するなよ」
「大丈夫よ」
「くれぐれも気をつけてな」
直貴は電話を切った。
「おいおい、十七人の誘拐事件って一体何だよ。ちょっと今回の事件は、大き過ぎやしないか?」
そう言ったのは久万秋だった。
奈帆子がハンドルの上で軽く両手を叩いた。
「そう言えば、思い出した。この事件、当時は毎日テレビでやっていた気がする。子供心にも怖かったのを憶えてる」
「どんな事件だったのですか?」
沢渕が訊いた。
「誘拐って、普通被害者は一人よね。それが一度に十七人も。それに身代金の受け渡しはことごとく失敗して、誰一人帰ってこないの」
「何だか不気味な事件ね」
叶美が前を向いたまま言った。
「おい、本当にこの事件、俺たち探偵部で何とかできるものなのか。もし今ここに犯人が現れたら、俺たちも消されちまうなんてことはないよな?」
「案外、クマって気が弱いんだから」
叶美がそう言うと、前席の二人は肩を揺すって笑った。
そうは言うものの、叶美の緊張は一段と高まったように感じられた。
四人は車の中で、一人の人物を待ち続けていた。
森崎叶美によれば、それは建川という男である。店長北山のパソコン操作によって、モニターに映し出された名前である。この古本屋に「助けて」と書き込まれた雑誌を、数ヶ月前売りにきた人物である。
叶美は建川を一万円でおびき出すことに成功した。店長が彼に連絡をつけたところ、三十分後に取りに来ると言ったそうである。果たして彼はこの誘拐事件にどう関わっているのだろうか。
駐車場はひっきりなしに車が出入りしている。この店は駅前の、しかも大通りに面しているので車の来客も多いのだろう。店の出入口に客の姿が絶えることはなかった。
沢渕は一人考えていた。
建川という男は叶美に危害を加えることはないだろうか。叶美はどこか無鉄砲なところがある。それは彼女の自信から来ているのだろうが、過信は禁物である。相手が凶悪な人物だった場合、予想のつかない事態に発展することもあるからだ。
四人は黙ったまま、店の入口付近を注視していた。事件の関係者と実際に会うとなると、どうしても緊張が走る。
その重苦しい雰囲気を打ち破るように、
「沢渕くん、建川って今度の誘拐事件に関係あると思う?」
奈帆子が身体をよじるようにして訊いた。
「この男が犯人だったら、これほど簡単な話はないと思いますが、おそらく事件との関係は薄いでしょうね」
「どうしてだ?」
久万秋が横から訊いた。
「誘拐事件の犯人が、人質の監禁場所に置かれてあった雑誌を、のこのこ古本屋に売りに来て、運転免許のコピーを残していくとは到底思えないからです」
「なるほど、確かにそうだよな。それじゃあ、例の雑誌はどうやって手に入れたのか、そこが問題だな」
フロントガラスの先に、突如、不審な男が現れた。辺りをきょろきょろ見回しながら歩いていく。
「あの男だわ」
叶美が短く声を上げた。
男は店の中へと消えていった。
すぐに叶美の携帯が鳴り出した。出ると、店長北山からの電話であった。売り主が来店したら、連絡を貰うことになっていた。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるわ」
叶美は勢いよくドアを開けて車から飛び出した。沢渕も後に続く。
「私一人でもいいのよ」
「いや、僕は弟ですから」
二人は男を追いかけるように店に入った。真っ直ぐレジカウンターを目指す。
落ち着きのない様子で男が立っていた。日焼けした顔や腕は、彼が肉体労働者であることを物語っていた。
北山は叶美の姿を認めると、
「こちらの方が、本に挟まっていた一万円札と封筒を見つけてくれたのですよ」
とその男に紹介した。
「どうも、はじめまして」
叶美は会釈をした。
男は無言だった。
「これはあなたの物ですよね?」
北山が一万円札をカウンターの上に置いた。
「ああ、そうだ」
男は意外にもしっかりとした口調で言った。
「こちらの封筒もですか?」
「そうだよ」
今度は面倒臭そうに答えた。
北山はちらりと叶美の方に目を遣ってから、両方とも男に手渡した。
「それじゃ、もう帰っていいんだろ?」
男はわざと乱暴な声で言った。
「ちょっと待ってください。私、まだお礼を貰ってないのですけど」
叶美は、今にもその場を立ち去ろうとする男の前に立ちはだかった。
「お礼?」
「そうです、お金を拾ったんだから、そのくらい当然でしょ」
「脅迫するのか?」
「いえいえ、人聞きの悪いこと言わないでください。正直に届けたのだから、そのお礼に二割ほど貰えるかな、と思いまして」
「一応、礼は言うが、金をやる気はない。それは俺の勝手だろう」
男はそう言うと、叶美を退けるようにして出口へと向かった。彼女はすぐに体勢を立て直して男を追いかけた。沢渕も駆け足になる。
自動ドアが開くのももどかしく、男は全力で駆け出すと、さっさと自分の車に乗り込んでエンジンを掛けた。
二人は奈帆子の車まで走っていった。
「あの車を追いかけて」
「了解」
奈帆子は手際よく車を始動させる。
「今、駐車場を出た車よ」
「オッケー、気づかれないように尾行するわね」
奈帆子がハンドルを切りながら言う。
国道に出ると、男の車は信号待ちで停車していた。その後ろにゆっくりと車を付けた。黒の軽自動車である。右のブレーキランプが切れていた。ナンバープレートはすぐに読み取れた。
どうやら建川はこちらに気づいてない様子である。まさか制服姿の女子高校生が、車で追跡してくるとは思ってもいないだろう。
「絶対見失わないでね」
「大丈夫よ」
車はどんどん町から離れていく。片側二車線の広い道もいつしか一車線になり、高層ビル街も住宅街へと姿を変えていった。
「もしあいつが犯人だとしたら、十七人が監禁されている場所に案内してくれるって訳だな」
久万秋は後部座席から身を乗り出すようにして言った。
「残念だけど、建川は無関係ね」
叶美はあっさり否定した。
「どうしてだ?」
「本人と話して分かったの。確かにあの男はどこか怪しいところがあるけれど、おどおどしていて、とても誘拐をするほどの人物じゃない」
沢渕も同感だった。
前の車はゆったりと一級河川に架かる大橋を渡っていく。尾行にはまったく気づいてないようだった。
しばらくして車は細い路地に入った。
「このまま通り過ぎて」
奈帆子の車は何事もなかったかのように、スピードを落とさずに通り抜けた。
「次の路地で曲がって」
「はい」
車は建川が曲がったのと同じ方角を向いた。周りは田園地帯なので、見通しが利く。
「あれかしら?」
月明かりの下に、三階建てのアパートが見えた。その駐車場で、前に後ろに低速で動く一台の車が見えた。
「間違いない。さっきの車です」
沢渕が自信を持って言った。
「車を停めて」
叶美は奈帆子の肩を軽く叩いた。
「ここで待っていて。すぐに戻るから」
「僕も行きます」
慌てて沢渕も後ろのドアから降りた。
「森崎、俺も行こうか?」
クマが訊いた。
「大丈夫よ、沢渕くんがいるから」
二人は歩き始めた。田んぼからは蛙の鳴き声が聞こえてくる。
目標の建物まで、まだ五十メートルほどの距離がある。
「部屋の電気が点くから、よく見てて」
「はい」
すでにアパートの半分以上の窓は黄色い光を放っていたが、そこへもう一つ新たな光が生まれた。
沢渕は位置を記憶した。
「あそこね」
「今度は僕が話します。もし何かあったら、部長はすぐ逃げてください」
叶美は一瞬考えて、
「分かったわ。あなたのお手並み、拝見させてもらうわね」
と言った。
単身者用のアパートだった。外から見当をつけた部屋へ二人は直行した。
沢渕が呼び鈴を鳴らした。
奥から玄関に向かってくる足音が聞こえた。それからしばらく静かになった。ドアスコープからこちらを確認しているらしい。
男は躊躇しているようだった。沢渕が今度はドアをノックするような素振りを見せると、鍵を外す音が聞こえた。
ドアが細目に開かれた。
「お前たち、俺をつけていたのか」
建川が吐き捨てるように言った。
沢渕が何か言おうとすると、
「いい加減にしないと痛い目に遭うぞ」
と大きな声で凄んだ。しかしすぐに廊下の左右に目を遣って、他の住人に気づかれていないかどうか、気にしている様子だった。
「では、警察を呼びますか?」
沢渕は落ち着いた声で言った。
「ああ、それは名案だ。金を脅し取ろうとしている高校生二人組がいるって通報してやろうか?」
「どうぞ、どうぞ。しかし実際に警察に来られると困るのはそちらの方ではないのですか?」
「何だって?」
男はまた大声になる。
「僕たちは別にお金が目的ではありません。あなたに正直に答えてもらいたいだけなんです」
「何を?」
「売った本の出所を、です」
「だからあれは俺の本なんだよ。自分の持ち物を売りに出して何が悪い?」
「もちろん、それが事実なら問題はありません。しかしそれは嘘ですね」
「お前、何の根拠があってそんなことを言っているんだ?」
「あなたはさっき本屋で、僕の姉に『脅迫するのか』って言いましたね。一万円を拾ったお礼の話を持ち出した時にです。しかしその言葉は妙なんですよ。僕たちは、ただ単に権利を主張しているだけなのですから。
もし言うのであれば、『お前たちにそんな権利はない』ってことでしょう。
それなのに建川さん、あなたは何故か勝手に『脅迫』と思い込んだ。それはあなたにやましいことがあるからですよ。本の所有権について、お金を支払えば見逃してやる、と言っているように聞こえたのです。だからそれが『脅迫』という言葉になって出た。違いますか?」
建川はすっかり黙りこくってしまった。
「さっきも言いましたが、あなたが自分の物として売った本について、僕たちはあれこれと言うつもりはありません。ただ僕たちはあの本がどこから来たのか、出所を知りたいだけなんです。一万円はそのための協力金と考えてください。後から返せとは言いません。正直に話してもらえませんか?」
建川は観念したようだった。
「まあ、ここでは何だから、中へ入れ」
押し殺した声でそう言った。
二人は中へ入れてもらった。
「確かにお前たちの言う通り、この本は俺のじゃない。俺は古紙回収を仕事にしているのだが、トラックに集めた古紙の中から、金になりそうな古本を会社に持ち帰らずに、あの本屋に売っているんだ。その方が金になるからな。もちろん会社には内緒でやっている。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりだったんだ」
「それで、あの本はどこで回収したものか、分かりますか?」
沢渕は勢い込んで訊いた。
「俺の受け持ちエリアは広いから、ちょっと思い出せねえ」
「大体の見当でいいんです。分かりませんか?」
「無理だな。一日回って、会社に戻る前に金になりそうな本をチェックして売りに出すんだ。いちいちどこで回収したかは憶えてないんだよ」
それでも建川は天井を仰ぐようにしながら、
「だが、一冊だけ回収するということはないから、同じ場所で、他にも何冊か回収してると思う」
「つまりあの本以外に、他にも本はあったのですね?」
「そうだ」
「いつも回るコースは決まっているのですか?」
「大体な」
「それじゃあ、もう一度同じコースを回ったら、思い出せませんか?」
「いや、古本を出す家庭は毎回違うからな。ただもう一度出してくれるのなら、雑誌の種類は同じだろうから、見当はつくかもしれんな」
「なるほど」
沢渕がそう言うと、
「いい考えがあるわ」
と叶美が言った。
「ねえ、建川さん。あなたのトラックに一人同乗させてもらえないかしら。もちろん仕事のお手伝いはしますから」
「簡単に言うけど、仕事はきついぞ」
「体力だけは自信があるから大丈夫」
「しかし、バイト代は出せねえぞ」
「ええ、それは分かっています。もちろん無償で働きます」
「そこまで言うのなら、別に構わんが」
建川は渋々承諾した。
沢渕と叶美がアパートを出ると、目の前に奈帆子の車が着けていた。
今度は先に叶美が後部座席に乗り込んだ。
「どうだった?」
奈帆子が心配そうに訊いた。
「一歩前進、ってとこかしら」
「二人とも何ともなかったか?」
久万秋が訊いた。
「大丈夫です。話し合いで決着がつきましたから」
沢渕が答えた。
「それじゃあ、もう帰りましょう」
奈帆子が車のエンジンを掛けた。
「クマちゃん、お願いがあるの」
突然、叶美が甘えた声を出した。
「何だよ、気持ち悪いな。森崎がこんな風に俺に優しくする時は、大抵悪い話なんだよな」
「あのね、今度の土日に古紙回収業のアルバイトをしてほしいの」
「バイト?」
「そう、建川さんのトラックに一緒に乗って手伝ってくれないかな?」
「まあ、それはいいけど。俺もいろいろと買いたい物があるし。で、時給はいくらなんだ?」
「それがね、そのバイト代はなし、ということで」
「おい、待てよ。給料が出ないバイトって何だよ。そもそも、そういうのはバイトって言わないだろうが」
クマが身体を揺すって抗議すると、車全体がバウンドした。
「おい、沢渕、今の聞いたか? あり得ないだろ、そりゃ」
「そこはクマ先輩を男と見込んで」
沢渕は苦し紛れにそう言った。
「お前ね、そんなの男とか女とか関係ないだろ。無給で働けって、これ労働基準法に反してねえか?」
「まあ、クマちゃん。そんなこと言わずに、ね?」
「森崎、お前可愛い顔して、言っていることが凶暴なんだよ」
どうにもクマの怒りは収まりそうにない。
「あっ、そうだわ。仕事明けに二人で焼肉食べに行こ。私、おいしい店知ってるんだ」
「焼肉?」
「そう、ホルモンが特においしいの。私、ホルモン大好き」
「嘘こけ」
前席の二人は吹き出した。
「分かったよ。じゃあこちらからも一つ条件言わせてもらうぞ」
クマの逆襲が始まった。
「今年の夏、俺と一緒に海に遊びに行くこと」
「えっ?」
「いいだろう、そのぐらい」
「分かったわよ」
「あと、その時は水着になって泳ぐこと」
「何よ、それ? 条件二つじゃない?」
「あのなあ、土日二日働くんだから二つだろ」
「仕方ないわね。別に学校の水着でもいいんでしょ」
「駄目、駄目。お前は男のロマンがまるで分かってない」
「そんなこと言ったって、私、水着なんて持ってないもの」
「だったら可愛い水着を買えばいいだろ。デートするのに、学校の水着なんて着るかよ、普通?」
「しょうがないわね、もう」
叶美は腕組みをして、ため息をついた。
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