第5話
「なぁ、西の国の様子がかなりおかしいって本当か?」
第一王子が騒ぎを起こす数日前。
西の国境を守る兵士たちの間では、不穏なうわさが飛び交っていた。
「あぁ、聞いてる。 国境近くの砦にずいぶんと兵を集めているらしいな。
戦争を仕掛けてくるかもしれない」
話しかけてきたまだ若い同僚に対し、中年に差し掛かった兵士は暗い顔でそう答えた。
「くそっ、何もこんな時に……せめてハンネーレ殿下さえいてくれたならば!」
彼女は西の兵士たちにとって文字通りのアイドルであり、彼女がいるだけでこの地を守る兵士たちは命がけで戦える。
だが、逆に言えば彼女が国の権力者たちによって幽閉されそうになっており、それを避けるためにパイヴァーサルミから出てくることができないという状況は、彼らのやる気をそぐのに十分な力を持っていた。
「こんな時だからこそ仕掛けてくるんだろ。
相手が弱っているときに攻めるのは、戦略の基礎以下の話だ」
中年の兵士の言葉に、若い兵士は顎に指を当てながら舌打ちをした。
「負け戦か……第二王子の下で死ぬのはちょっとなぁ」
「すでに退職希望者が、騎士団の事務所に殺到しているらしいぞ」
誰だって負けるとわかっている戦いに参加したいとは思わない。
今ごろ上官たちは、部下をどうやって戦場に放り込むか考えながら胃薬を飲んでいる頃だろう。
「せめて戦争を回避できるように外交でなんとかしてくれんかねぇ」
「そんな離れ業ができるとしたら、王弟閣下かあの小説家ぐらいのものだ。
だが、この状況自体が、件の小説家の描いたシナリオだって話、知っているか?」
無いものねだりをする若い兵士に、中年の兵士はあきらめろといわんばかりの言葉を投げつけた。
効果はてきめんで、若い兵士は涙目になりながら手で顔を覆う。
「うげぇ、マジかよ。 そりゃちょっと勝ち目が薄すぎるだろ……」
「今、王弟閣下が第一王子に西の国に対する戦力の提供を求めるらしいが、どうなることやら」
この西の領土を治める第二王子とは、犬猿の仲である。
国家の危機とはいえ、いまだに王位を争う敵である人物に助けをよこす器量があるかといわれれば、あってほしいなと答えるしかない。
そして彼らの予想は、想像をはるかに下回る形で的中してしまうのである。
「……聞き間違いで無ければ、いま独立宣言といわなかったか?」
その報告を聞いた公爵は、今聞いた言葉が信じられずにもう一度聞きなおした。
「は、はい。 第一王子殿下は、父である国王陛下を王としてあがめることはできぬと、自らの領地であるこの国の東部を独立国家として宣言されました」
そして公爵の機嫌がすさまじい勢いで低下する気配に怯えつつも、伝令の兵士は全身から汗を噴出しつつ、もう一度その事実を告げたのである。
「あの……愚か者が!!」
次の瞬間、公爵の拳が重厚なつくりの執務机の上に振り下ろされた。
「そんな暴挙が認められるはずもないと、なぜわからんのか!!」
この国の地形において、海に面しているのは東と西である。
だが、北は山に閉ざされた魔境ケーユカイネンと蛮族のはびこる未開の地であり、必然的にこの国の港はすべて東側の海岸線に存在していた。
つまり、第一王子の独立を認めるということは、この国の海路を失ってしまうということである。
「ただちに制圧に入りますか?」
「無理だ。 それはできない」
そんなことをすれば、すでに国境線へと移動を終了した西の国の軍隊が、嬉々として攻めこんでくるだろう。
そもそも……その西の国への対抗策として第一王子に軍備の増強を許可しておいただけに、征伐するのも容易ではない。
恐ろしく皮肉な結果だ。
ならば、どうするべきか?
「いずれにせよ、独断では決めることができぬ。
王にも報告し、会議を開くよう申し伝えよ!」
おそらく集まったボンクラ貴族はただ嘆いて叫んで責任を誰に押し付けるかということのみに労力を使い果たすだろう。
そんな連中に道理を説き、被害を最低限に抑える方策を王に示さなければならない。
そのあまりにも困難な仕事を想像し、公爵は胃の中のものをすべてぶちまけたくなった。
むろん、こんなことが自然におきるはずが無い。
果たして、いったい誰が国家独立などという恐ろしい妄想を第一王子に吹き込んだのか?
そして、それをなしえる手段を与えたのか?
そんなことのできる人間など、一人しかいない。
「おのれ……クラエス・レフティネン。
人の心をもてあそぶことにかけて、お前ほど巧みな者を他に知らぬわ」
おそらく、かつて瀕死の王を助けたのは、まだこの状況を作り出すための準備が整っていなかったからだろう。
あのまま王が亡くなっていたならば、自分が王の遺言により王位継承権を取り戻し、次の王となって平和裏にこの国の未来を作り上げていたに違いない。
それを許すものかとこのような策を弄する……まさに邪神のごとき苛烈な悪意とその情熱に背筋が思わず寒くなる。
「クラエスよ……貴様、なぜわしの子として生まれてこなかった? いや、兄の子でもいい。
さすれば、そのゆがんだ心に親としての愛情を注ぎ、万難を排してでもこの国への憎しみを忘れさせてやったものを」
この期に及んでも、公爵はクラエスを憎む気にはなれなかった。
なぜなら……自らと同じく、親によってその心のあり方をゆがめられた存在として、誰よりも彼を理解し、共感を覚えていたからである。
できれば味方であってほしかった。
そして、彼が憎しみを捨てるよう出来るだけの事はしたつもりだった。
だが、それはもう叶わないだろう。
公爵はおそらく滅びるであろうこの国の最後をいかなるものにするべきか……そんな絶望に満ちた妄想をしつつ、自分のなすべきことについて考え始めた。
そして翌日。
彼の元に西の国の軍隊が動いたという報告が彼の元に入ったのである。
まるで死に体の病人に、嬉々としてトドメを刺しに来る悪鬼のように。
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