第10話
「俺の願いだと?」
「そう、あなたの願い」
名も伏せられし冥府の女神は、そう告げながら熱を帯びた視線を俺に向けてくる。
だが、それとは正反対に俺の気持ちはどんどん気持ちがさめていった。
なぜなら……。
「悪いが、お前がどんなにがんばってもそれは無理だな」
「……挑発されているのかしら?」
やや不機嫌な声が返ってくるが、事実だから仕方が無い。
こいつ、まさか自分のことを万能だとでも思っているのだろうか?
だとしたら、とんだ傲慢だ。
「まさか。 冥府の女神をおちょくるほど俺の神経は太くないさ」
「そんな馬鹿にした顔で、よくそんな台詞が言えるわね。
あなた、その図太さだけは確実に人間離れしていてよ?」
クスクスと笑っているが、その目は確実に機嫌を損ねている。
不機嫌なままにしておくのも危険なので、理由の説明だけはしておくか。
「じゃあ、俺の願いを言うから、それができるかどうかをまず判断してくれ。
一方的にかなえるのは無しだ」
「いいわよ。 契約は相互の同意に基づいて行われるべきだわ」
よし、言質はとったぞ。
俺は女神に約束を取り付けると、自らの願いを口にした。
「では……もし、俺の願いが『今の住人たちと一緒にずっと平穏に暮らしたい』だったらどうする?」
そう、もしも願いをかなえようとしても、生贄として村の住人を残らず召し上げた時点で、願いはかなえられないことになる。
殺した後で幽霊となった住人を送りつけたとしても、今度は俺にとって平穏ではないという矛盾が生まれてしまうのだ。
さぁ、どうする? 女神よ。
お前に、俺の願いをかなえることができるのか?
「あら、やだ……無理よ、それは。 本当に、なんてこと!?
うふふふふ、ひどい裏切りだわ。 えぇ、本当にありえない。
貴方、私の化身が見えるほど世界に絶望しているのに、どうしてそんな願いを口にできるの?
教えてくださらないかしら?」
台詞と口元だけは笑っていたが、その目だけは視線だけで人が殺せそうなほど怒り狂っていた。
それはそうだろう。
女神からすれば取るに足らない人間に、神である自らの傲慢を指摘されたのだから面白いはずがない。
「それはな……俺が弱いからだ」
「弱い?」
理解できない。
視線だけでそう語りながら、女神は俺の言葉を待った。
「人間はな、何があっても希望を持ち続けていられるほど強くも無いが、何があっても絶望しつづけていられるほど強くも無いのだよ、女神。
怒りはやがて疲れへと変わり、絶望はやがて諦めと日常に埋もれてゆく。
何のことは無い、それこそがお前の……すべてを死の安息へと導く冥府の理ではないのか?
愛すべき住人、豊かな未来、尽きることなき満足感。
疲れ果てた後に都合のいい幸せが転がってきたら、俺だってうっかり夢や希望を抱いてしまう。
わかるか? 俺は弱いのだ。 怒り続けることも絶望し続けることもできないほどに。
俺の弱さを図り損ねたのが、お前の敗因だ」
その次の瞬間、女神は腹をかかえて笑い転げた。
文字通り、白い砂の上に転がり、何度も寝返りを打つほどの笑い方だ。
「なによ、それ! ぜんぜん弱くないわよ!
むしろしたたかで、しぶとすぎよ、貴方!!」
「まぁ、視点の違いという奴だな」
サラリと答えた俺に、女神は再び笑い転げる。
「ほんと、意地悪な人ね」
ひとしきり笑い終えると、冥府の女神はため息をつき、やっとのことでそんな台詞を搾り出した。
そんな女神の隣にしゃがみこみ、俺は覆いかぶさるような距離で殺し文句を叩き込む。
「なぁ、その住人の中に、お前も含まれているといったらどうする? お前だって、このケーユカイネンの住人だぞ」
「あら、もしかして口説かれているのかしら?」
砂の上に座ったまま、大人びた微笑みで女神は俺を見上げた。
なんだ、本気で口説いてほしいのか?
「上辺だけの言葉でいいのならば、耳が蜂蜜漬けになるほど甘い台詞を捧げるぞ。
それが俺の仕事だからな」
「そのままいい夢を見せ続けるのも仕事のうちじゃないの?」
「あいにくとジゴロと小説家は違うんだ。 読者諸君はくれぐれも虚構と現実の境目をよく理解した上で、俺の作品を楽しんでくれたまえ」
俺が芝居っ気たっぷりにそう宣言すると、女神は再びクスリとわらった。
「まぁ、やっぱり意地悪ね。
貴方を堕とすという私の楽しみを、いったいどうしてくれるのかしら?」
「勝手に
そもそも、俺にはお前に願いを告げる必要も無い。
なぜなら、俺の目的はこの病魔をここに捨てることだ」
そう告げながら、俺は鞄の中から氷付けになった病魔を取り出してコンコンと叩く。
ふむ、かなり衰弱している感じだな。
氷の中で蠢く物体の動きが遅い。
「つれない人。 まぁ、今はそれでいいわ。
でも、あなたがかなえたい願いがあるなら、いつだってここに来ていいのよ?」
「大きなお世話だ。 自分の望みぐらい、自分でかなえるつもりだからな。
苦労したのに費えそうな夢があるのならともかく、努力もなしに願いをかなえるのは、得られる喜びを安物に変える愚行に過ぎない」
「まぁ。 そういう強がり、嫌いじゃないわ」
「そういうことにしておけ。 俺もそういうことにしておくから」
そんな欺瞞に満ちた言葉を交わし、俺たちはひとしきり笑いあった。
「それと、そこの死に掛けの病魔が何か話があるようよ?」
「あいにくと、精霊の言葉は聞こえない」
まぁ、いわんとすることは想像できるが、往々にしてこういうものは聞かないほうが結果的によいものである。
「あらあら、必死で命乞いしているのにかわいそうねぇ」
冥府の女神の視線を浴び、病魔は怯えたように氷の中でビクンと跳ねた。
「どうしてもというなら、通訳をしてあげてもいいのよ?
ただし、私のかわいい契約者に不利益を与えるようなら、この場で塵ひとつ残さず無に還してやる」
冥府の女神に凄まれ、病魔が臆病な犬のように震え上がる。
そして……精霊の墓所から帰ってきた俺の隣には、魔境の中で何があったのかすっかり忘れていつもの調子を取り戻したエディスと、一匹の黒い犬の姿があった。
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