第9話
その悪意に満ちた物語は、人知れずひっそりと紡がれ始めた。
人の足をいまだ知らぬ処女のごとき深い森の中。
夏の日差しが緑の梢の上を刺すように照りつける午後のこと。
「クラエスってば、ほんとひどいよねぇ。
こんなか弱い私にぃ、人食いの魔物の巣に行ってこいだなんてぇ」
エディスは全身を
なお、今日の彼女の体は、いつもの木製の人形ではない。
家畜の肉を削って骨に貼り付け、その上から樹脂を塗って作り上げた精巧な肉人形であった。
「うふふ……あぁ、もぉー本当に痛いなぁ。 本当に痛いってどんなものなのかわからないけどぉ」
その言葉の矛盾と、現在の自分の状況の悪趣味さがおかしくて、エディスは庭で戯れる幼子のように笑う。
人形に宿った精霊であるエディスにとって、痛みというものは根本的に理解できない感覚である。
ただ、痛みを訴えることで自分がたしかにそこに存在すると実感できるがゆえに、彼女はまるで痛みを知っているように振舞うのが好きだった。
むろん、彼女の頭を茶でも飲むような気安さで砕くクラエスもそれは承知の上である。
ただの虐待に見える二人の関係だが、そこには恐ろしくゆがんだスキンシップが存在しているのだ。
やがて、エディスの体は食い尽くされ、その残骸から金色に輝く光が抜け出した。
魔力の薄いこの場所では、彼女は長くは活動することができない……ゆえにまるで巨大な蛍のようなそれは、真昼の光にも負けない明るさで森の陰を照らしながら、あわただしくどこかへ飛んで行く。
だが、その時からである。
森は恐ろしい勢いで歪みはじめた。
まず、エディスの体を食らった魔物が、突如として苦悶の悲鳴を上げはじめる。
エディスの体には、竜をも悶絶させるほどの猛烈な遅効性の毒が含まれていたからだ。
やがて、毒によって息絶えた魔獣の体を、もそもそと小さな生き物が喰らいはじめる。
それは、エディスの体であった人形の頭蓋骨から這い出してきた一匹の小さな虫であった。
それから数日後のこと。
第二王子の直轄地で異変が起きた。
まず、農家で飼っていたニワトリや羊が野犬に食い殺されて全滅するという事件が起きる。
現場に残された足跡から判明した犯人は、森から出てきた狼の群れ。
だが、それはどこにでもあるような話であり、被害者である農家のほかは誰の注意も引かなかった。
それからさらに数日後、狼たちに対して怒り狂った農夫によって、近くの町の冒険者ギルドに依頼が出される。
――農場を荒らす狼たちを退治してくれ。
「なんだ、またかよ」
「最近多いな。 まぁ、当面の酒代ぐらいにはなりそうだし、受けてみるか?」
いつものようにそんな会話が交わされ、七人の冒険者が名乗りを上げた。
彼らはその日のうちに森へ出かけ、その日のうちに依頼にとりかかる。
だが、その途中でふと気付いた。
「なぁ、なんか森の様子がおかしくないか?」
そんな言葉が呟かれたのは、彼らがウォーパル・ディアーと呼ばれる魔獣と遭遇したときのことである。
「あぁ、こいつはこんな森の外側にいるヤツじゃない」
「さっき、ちらっとグリーン・アルミラージも見かけたぞ」
どれも本来ならば警戒心が強く、森の奥から出てこない生き物だ。
そんな生き物がなぜこんな森のはずれに姿を現したのかと聞かれたら、導き出される答えはさほど多くは無い。
「たぶん何かいるな。 森の奥にヤバいのが」
「あと、なんか甘酸っぱい香りがしないか?
ちょうど、オレンジの香りに死臭でもまぜてしつこくしたような……」
その瞬間、全員の顔が恐怖に引きつった。
冒険者になるには、最初に何日か基礎講習があるのだが、そのときに必ず言われることがある。
――もしも森の中で甘いオレンジに似た気持ち悪い香りがしたら、すぐさまそこから逃げて冒険者ギルドに報告しろ。
それは、とある危険な魔物がいるという知らせだから。
「おいっ、まさかアレか!?」
「嘘だろ! 冗談じゃねぇ!!」
そう叫ぶなり、冒険者たちは自分の衣服を猛烈な勢いではたき、周囲の草むらを恐怖に満ちた目でキョロキョロと見回す。
「……よし、まだヤツのテリトリーには入っていないようだな」
「撤収しよう。 本当にアレがいるのなら、俺たちの手には負えない」
そして恐れていたものがそこにいないことを確認すると、彼らは即座に森の外へと走り去った。
冒険者たちの報告を受けた後、ギルドの反応は早かった。
即座に森への立ち入りを禁止し、住民への警告を発令。
だが、その警告に文句を言うものは一人もいなかった。
彼らもまた、その存在の恐ろしさを寝物語に聞いて知っていたからである。
そして冒険者ギルドは銀級冒険者を派遣し、そこに本当に恐るべき魔物が発生したのかを調査した。
同時に、ギルドの調査結果を待たずして街にいた旅人たちがいっせいに他所の町へと旅立つ。
翌日、ギルドは住民への通達を避難警告に切り替えた。
世界最小の激甚災害級モンスター、【クリムソン・アルメイヤ】の存在を確認したからである。
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