第13話 パラダイムシフト
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1999年夏。恐怖の大魔王はやってこなかった・・・。
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エレベーターのかごの中は明るいが、外はすでに暗くなっている。
男と2時間は、しゃべりつづけてきただろうか。
奇怪な話をしたにも関わらず、男に対する妙な親近感が沸いている。
新聞配達をしている男はかつて経営コンサルタントをしていた。
私が、世界経済が国際金融財閥に牛耳られていることを指摘すると、話は陰謀論に波及する。
そして、マトリックス宇宙観になった。
マトリックスとは図表という意味である。
マトリックス宇宙観を簡単に表現すると「この世界は五感をともなったテレビゲームである」というもの。
この世界はプログラムであり、この世界とは別の場所(異次元)にプログラムのコードが保存されている。さらに、私たちの人生は、「ゲームを遊んでいるに過ぎない」し、プログラムを書いている人たちが、どこか別の次元に存在する。
今までの私は、目に見えない〈彼ら〉とは誰かを追求してきた。
しかし、この世界が〈彼ら〉に支配されていることが重要なのではない。
本質的に意味があるのは「この世界とは何か」である。
エレベーターの扉が突然開いた。
扉の前には、若い男が立っている。
彼は、私と男が床に座っているのを見て、驚いてる。
「またですか・・・」
私と男は、ゆっくりと立ち上がりながら安堵した。
「最近、このエレベーター調子が悪いんですよ」
若い男は、私たちにふたりに閉じこめられた場合の緊急脱出法について教えてくれた。
「かなり古いビルだから、仕方がないですよね」
何のことはない。このやり方を知っていれば、閉じこめられることなどなかった。
若い男の話では、クレームをあげると立ち入り禁止になり、建て替えになってしまうので、それもできないのだとか。
古い建物だけあって家賃が格別に安い。若い男は、この建物の住人のようである。
新聞配達用の自転車を押す男と私は、駅に向かって並んで歩いた。
チャネラー(異界とコンタクトできる人)の男と、偶然のように出会い、突然のように分かれる。
彼のような人と出会うことを必死で望んでいたのだから、それは、セレンビティティー・偶侑性と呼ぶこともできるのかもしれない。かなり深い話だったが、エレベーターの扉が開くことで、突然終わってしまった。
私は男に自分の名刺を差し出した。
「あとは委細メールで・・・」
男はメールはしていないという。
その代わりに、名刺を差し出した。彼の名前はどこか惑星の名前をイメージさせた。
「こんな話、いままで人にしたことがないのに、驚きましたよ」
男はくったくのない笑顔を見せた。
「こんな話、誰が聞いても絶対に信じないでしょう」
ふたりの笑いが濃密な時間の緊張を解いていく。
「スペイン語を勉強するといいですよ。スペイン語は人を朗らかにする」
男の細君はカリブ海出身の人なのだとか。彼女の明るさに、彼は助けられてきた。そして今、彼が生きているのは、彼女と家族を悲しませないためである。
エレベーターの籠から解放されてから、マトリックスや陰謀について話すことはなかった。すべてを語り合ってしまったという充実感・満足感が、ふたりにはあったからに違いない。
男と私は違う人生を歩いてきた。
そして、偶然出会い、お互いの見識を交わしあう。私は、男の体験や知識を受けるばかりだったが、男の突拍子もない話を素直に受け取れる人がそうそういるはずもない。彼も私との対話を楽しんだに違いない。
「信じるか、信じないかはあなた次第です」などという言葉は必要ない。
高いところから低いところに水が流れるような、りんごが木から落ちるのを見て、重力の存在に気づかされるような、きわめて自然な対話だった。
「それじゃ」
駅の明かりが見えると、男は自転車にまたがり、走り去った。
私は暗闇に消えていく男に手を振った。
電車に乗ってからも、静かな興奮につつまれていた。
車窓に映る自分の顔を見つめた。だが、それまでの自分と一切変わっていない。電車の中の風景も、すべてが以前と全く同じことが不思議だった。
ふと、パラダイムシフトとは、こういうことなのかもしれないと思った。
○
「アクエリアス」という名曲がある。
この曲は、ヒッピー文化の延長線上で企画されたミュージカル「ヘアー」の代表曲である。
地球が水瓶座に入ると人類は変わる。新しい時代が始まると歌っている。物質文明の時代が終わり、人と人が心を通い合うことが一番大切な時代になる。
だが、アクエリアスの時代。何か変わったというのか。
ヒッピー文化、フラワージェネレーションの時代はすでに終わっている。
その頃、中世イタリアの学者・ノストラダムスが書いた予言書が日本に紹介され、ベストセラーになった。
その予言書によれば、1999年夏、恐怖の大魔王がやってくる。つまりは人類は滅亡する。
テレビのゴールデンタイムにも、「ノストラダムスの大予言」の特集が組まれ、有名タレントや文化人たちが、予言書の意味について真剣に語り合い、戦慄した。
だが、不思議なことに新世紀が近づくにつれて、「ノストラダムスの大予言」について語る人は少なくなっていく。
人類最後の日とあれほど、あおっていたのに、結局、その日、何も起こらなかった。
世紀末には終末思想が流行し、人々は享楽的になり、世相は乱れるという。だが、そんなことは起きなかった。
バブル経済が1990年代前半に崩壊していたから、人々の懐具合は退廃的な暮らしをするような余裕はなかったのである。
○
映画「2001年宇宙の旅」は、太陽系の惑星が直列した時に何かが起きる。人類が「新しい時代に突入する」ことを予言している。
しかし実際の2001年は、スタンリー・キューブリックが監督した映画のような惑星間有人宇宙飛行は実現していない。人工知能のレベルも、チェスなどの特定分野をのぞけば人工知能が人間を凌駕するにはほど遠い。人工知能は東京大学の入学試験をいまだ突破していない。
映画のような惑星直列は起きたのかもしれないが、映画に登場する謎の黒板の発見のような、人類が新たな時代に突入する大きなトピックスも見当たらない。
当時のSF映画とは全く次元の異なるレベルで制作された「2001年宇宙の旅」。月面着陸の映像をねつ造するためにアメリカ航空宇宙局が全面協力したという噂があるが真相は分からない。国家的な協力がなければ、レベルの高い作品が実現しないことは確かだとしても、映画に月面着陸のシーンがあるのではない。
「博士の異常な愛情」「時計じかけのオレンジ」「シャイニング」「フル・メタル・ジャケット」など、キューブリック監督は、時代を挑発する作品を数多く作っている。
「シャイニング」ではスピリチュアルな世界が表現されている。映画で、伝奇的に神秘の世界が描かれることは珍しくない。しかし、キューブリックの場合は、精神が病んでいくプロセスに、神秘の世界が加わり、独特のリアリズムをもって表現されている。
キューブリックの「シャイニング」はサイエンスを否定しているが、観客のほとんどは「ありえない話」と拒絶するのではなく、当然のこととして受け止めた。キューブリックが描いた世界は「新しい世界」でも「知らなかった現実」でもなく、「忘れていた世界」だったとでも言うように・・・。
キューブリックの難解な作品群の製作が奇跡的に実現した背景には、〈彼ら〉の社会実験としての価値があったのかもしれない。
そのことを印象づけるために、映画監督は謀殺されなければならなかったのか。
キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」は、ニューヨークの医師が興味本位から、秘密結社の謎の饗宴に侵入し、危機的な状況に陥る話である。
巨匠は「人間の営みにおいて、一番重要なことはセックスである」とのセリフを女優に言わせて、作品を締めくくっている。
フリーメイソンを信奉していたモーツアルトは、秘密結社をテーマにしたオペラを書き上げた直後に謎の死を遂げているが、キューブリックも秘密結社を題材にした映画を完成させた直後に急死している。
モーツアルトはヨーロッパで亡くなり、キューブリックはアメリカで亡くなった。時代も大きく異なるが、偉大な二人の芸術家の死に至る状況はあまりに似ている。
○
男は「ゴジワニの首をへし折ってやりました」というが、何かが変わったのだろうか。
自然災害や戦争が無くなった訳ではない。
世界大戦はないが、世界中のどこかで必ず戦争は続いている。
火山の噴火や、地震、台風、洪水などの自然災害も断続的に起きている。
大火災、航空機事故などの人災も絶えることはない。
だが、それらは、千年の歴史、数千年の歴史、数万年の歴史が変わったと実感できるようなことではない。
当事者にとっては、人生の一大事であっても、人類にとってはありふれた日常の風景でしかない。
しかし、本当にそうなのだろうか---。
〈変化〉は気づく人にしか分からないのかもしれない。気づかぬ人に、いくら〈変化〉したことを説いたって無意味。
新聞配達の男と私は、多くのことを共感したが、それを知る人はいない。
私たちはアクエリアスの時代を、ノストラダムスの予言の後の時代を生きている。
いや、そもそも違うのではないか・・・。
有名な歌舞伎役者の辞世の句を息子が読み上げたのを、私は印象的に覚えている。
「色は空、空は色にて、時なき世へ」
息子は般若心経を知らなかったのか、色(しき)を色(いろ)。空(くう)を空(そら)と読んだのはご愛敬だが、日本を代表する名優の一人だった故人は、あの世を「時のない世界」と形容したのである。
アクエリアスの時代、ノストラダムスの予言などと時代を区切ることは「この世界だけに特徴的な考え」であって、普遍的ではない。
「魂は永遠である」と断る必要などもともとないのである。
○
般若心経の文言は、極めて示唆的である。
般若心経はお経だから、当然のことながらテキスト・エクリチュールである。だが、このお経は弟子に伝える形で始まっている。つまり、テキストでありながらも話し言葉・パロールなのである。
お経の内容は、この世の中で起きていることは、感覚(五感)が起こしていることに過ぎないから、物事の本質ではない。
今、見えていることも、絶対的なものではない。すべては空なのだ。そのことを心に念じて、日々を過ごせ。
否、そのように念じることさえも、絶対的ではない。と、意味も分からぬ文言を繰り返して、般若心経は締めくくられている。
「空」を言い換えると、「メタ次元」ということになるのかもしれない。
空即是色、色即是空とは、「この世界」と「異次元」が同時に重なり合って存在していることを意味しているに違いない。
般若心経はマトリックス世界観なのである。
○
家に帰った私は何も話さないまま仕事部屋に向かった。そして、男が話したことを一字一句漏らさぬように、パソコンに入力していった。
入力したテキストを確かめると、それまでの興奮や緊張がほぐれていく。
書き起こしたテキストを眺めていると、新聞配達の男が私に伝えたことが、トリガー(引きがね)として機能していることをあらためて確認する。
新しいことを知ったのではない。男の言葉が、私の中のトリビア(無駄知識)を活性化したのである。
○
「この世界では、君が予想もしないような恐ろしいことが起きている」
祖父が謎の言葉を遺して亡くなったことから、私の興奮や緊張が始まった。
「恐ろしいこと」の実体が私には分からなかったが、友人・小田切によって、それが陰謀論だと知らされる。
しかし、世の中を動かしている本丸は「見えない世界」の中に存在していて、「見えている世界」はつねに、〈彼ら〉によって捏造されている。
猶過論で批判されているユダヤ人も実は被害者である。彼らは戦争をするためにエルサレムの地に舞い戻ったのではない。できれば、平和に暮らしたい。彼らを戦争に駆り立てている人たちは他の場所にいる。
本当の〈邪悪〉は「見えていない世界」「別の次元」に存在する。
祖父が残したもうひとつの言葉は、
「実存主義はダメだ」
である。
実存主義は〈個〉が〈思索〉を突き詰めると〈存在〉が証明できるとする学派である。
中世は宗教の時代であり、〈存在〉は、シャーマン(超越者)が証明してくれた。したがって、「信じること」さえすれば、〈存在〉に悩まなくてすむ。だが、シャーマンは神秘主義。科学の時代において、シャーマンは存在できない。
祖父はアカデミストであり、キリスト者であった。
誠実な彼は、真剣に悩んだ結果、〈実存主義〉に救いを求める。だが、一般的な日本人はそんな悩みと無縁に生きている。
一般的な日本人にとって、異界(彼岸)は死んだ後に行く場所である。したがって、親しい人が亡くなった時に宗教は強く必要とされる。
亡くなった人に感謝を伝えるためのツールが宗教であり、その背後に教義がある。
「善人(修行した僧)なおもて往生とぐ。いわんや悪人(修行していない農民)おや」。理屈は必要ない。念仏を唱えていれば、意は通じる。
自然災害が発生し、人々が不条理を感じた時も、日本人は宗教をツールとして「祈り」を捧げる。
祖父のように〈存在〉に拘泥する人は、アカデミストであり、尊敬を集めるにしても、一般社会から遊離している可能性が高い。
そんな祖父が「実存主義はダメ」とつぶやいたとしても、この世界の何かが変わる訳ではない。祖父の言葉は「モダニズムの時代」が終焉したことを表現している。モダニズムとは近代である。
モダニズムの本質は「個の思索(コギト)」と「進化論」である。だが、祖父を思えば、モダニズムの本質は「恐怖」ではないかと思えてくる。
忘れてはならないのは、キリスト教のような世界宗教は、他民族を支配するためのツールとしての大きな役割を果たしてきたことである。その認識無しに、キリスト教を研究することは空虚である。
○
小田切に電話をした。
新聞配達の男との出会い。陰謀論の奥にあったマトリックスな世界観について、私は手短かに説明した。
祖父の謎の言葉「この世界では、君が思いもしない恐ろしいことが起きている」。小田切との再会で、その言葉の存在感が増幅された。
祖父は天寿を全うして百歳で亡くなったのではなく、殺されたのかもしれない。気むずかしい学者でしかなかった祖父が、時代の最先端で生きていた。
私の中で思いっきり膨れ上がった思いは、陰謀論の大家・太田龍への興味につながり、その思いは、亡くなったはずの彼の生存によって、奈落の底に突き落とされた。
まるでジェットコースターのような思索の日々が続いていた。
その極めつけが新聞配達の男とのセレンビティティーな出会いである。
小田切は深くうなづきながら、私の話を聞いていた。
だが、彼の興味は〈陰謀〉そのものであり、〈存在〉に解決を求める私とは微妙に乖離していた。
彼は、最近起きた北米の都市で起きた市民フェスティバルにおける爆破事件について話題にした。
彼の情報源では、現場で流されたのは「本物の血」ではなく、「演劇用の血」だというのだ。
爆風で脚が切断され骨が見えている市民の写真が報道されているが、市民は劇団員であるという。
犠牲者は生け贄であり、悪魔の振る舞いに栄光を与えるものである。陰謀論の主たちが悪意の虜ならば、わざわざ「偽物の血」を使う必要などない。
とすれば、何が起きているのか。
それこそ、新聞配達の男が言った「彼らは一枚岩ではない。いい奴らと悪い奴らがいる」ということだろうか。
「悪意」の中に「善意」が含まれている。小田切は驚きを隠さない。
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