第12話 ゴジワニ

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 すべての創作は、オートマティズム(自動書記)。

 作家に何ものかが「降りる」ことによって生まれる。


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 人類には「ここは何処?」「私は誰?」という問いがつきまとってきた。

〈存在〉の問題である。


 その問いに宗教(シャーマン)が答えてきたが、近代になると宗教は否定され、科学の時代になった。

 科学の時代では、宗教に変わって「思索する個・コギト」が〈存在〉の問題に答えてくれるはずだった。〈認識〉を突き詰めると〈存在〉が証明できると考えたのである。


 しかし、百年以上の時を経て、それが不可能なことが分かってくる。〈認識〉は主観でしかなく、客観性を得ることさえ難しい。つまり、「人間は神ではない」ことを痛感させられたのが近代である。


〈個〉に対する懐疑は、テキストに、言語に、ギリシア以来の学問に発展していく。

 そのようにして、モダンの時代が終わったのである。


 ○


 男からマトリックスについて教えられた。

 マトリックスとは、この世界は五感をともなったテレビゲームであるということ。


 ベルギーにあるマグリッド美術館の館長が「この世界は、電気信号に過ぎない」と言った。この世界はプログラムなのである。

 インターネットのページは、インターネット・エクスプローラーなどの閲覧ソフトで、画像として見ることもできれば、ソースコードとして、文字列として見ることもできる。同じ文字列でも、HTMLエディターで見れば、タグと内容が色違いになっている。


 男は言う。


「ゴジワニと戦ったんですよ」


〈彼ら〉の異界での化身がゴジワニ。

 異界とはアルタード・ステーツ。別次元である。

 別次元といっても、別の場所というのではない。この場所とつながっているというよりも、同じ場所に同時に存在している。


 さらにいえば、別の次元に〈時間〉という概念があるのかどうか。普遍とか、永遠という概念は、実は、〈時間〉の概念の不在を表現しているのかも。


 同じプログラムを別のブラウザー(閲覧ソフト)を使ってみると、違って見える。QRコードは人間には黒い模様にしかみえないが、スマホで読みとると文字列になる。

 普段目に触れている文字列にしたって、縦読みなど複数のさまざまな意味抽出の方法がある。


 私のイメージでしかないが、ゴジラとワニが合体したような怪物・怪獣がゴジワニということになる。

「ゴジワニって、どんな形をしていたんですか?」という問いは無意味だ。異界の様子を尋ねることも同様。何故なら、形などブラウザーによってどうにでもなる。


 ゴジラ映画の第一作のように、怪獣が大島に上陸し、続いて品川から東京を襲うなどというディテールは些末なことであって、どうでもよい。

 ゴジラをイメージしてもよいし、ワニをイメージしてもよい。

 小説を読む時、読者は主人公の顔を気にしない。顔がどうであろうと、そんなことはどうでもよい。そこが小説と映画の違いである。


 肝心なことは、〈彼ら〉の化身が、私たちの暮らしを壊滅させているというイメージ。それこそが、ブラウザー(閲覧ソフト)に捉われないものの見方だ。


 対立するふたつの〈想念〉が戦った---。

 一つは「パラサイト系のスピリット」で、もうひとつは「自給自足系のスピリット」。


 パラサイト系のパラダイムは「寄生する側・寄生される側」という二元論がある。

 一方の自給自足系には、そのようなものはないから多元論である。


 ○


 ゴジワニが〈彼ら〉の化身なら、男は「正義の味方」といえる。


 正義の味方といえば、英雄的な雰囲気を醸し出しているとイメージできるが、目の前の男から、そのような雰囲気は一切感じられない。みすぼらしいと言っては失礼だが、ジャージの上下を着ている初老のアルバイト新聞配達員である。


 アメリカンコミックの「スーパーマン」では、スーパーマンはクラーク・ケントというさえないサラリーマンである。

 男の場合も同様で、世界平和のために怪獣と戦ったことなど、まったく想像できない。


 というか、ゴジワニという言葉を聞いたとき、私は、単純に、


「ゴジラってのは、本当に存在したんだ」


 と驚いた。


 ゴジラは、東宝映画がゴリラと鯨を合体させてつくった造語である。

 ハリウッド映画「キングコング」が大ヒットしたので、日本の映画人たちが柳の下のドジョウをねらって企画した。

 南太平洋の核実験で突然変異を起こした結果がゴジラ。ふたつの生物が合体し、巨大化した。ゴジラは、現代文明の犠牲者である。


 ゴジラは他の怪獣映画のモンスターと異なるところがある。それは擬人化されていないこと。

 ハリウッド映画のキングコングには心があり、ヒロインの女性を思いやるシーンがある。一方、ゴジラはただ暴れ回るばかり。登場人物たちはゴジラの心を探るが、何かの意味や意図を感じることはできない。

 ゴジラの来襲は、台風の襲来と同じように描かれている。自衛隊がゴジラに対応したが、ゴジラに心はないから容赦ない。


 ○


「首ねっこをへし折ってやりましたから、もう大丈夫」


 男は誇らしげに語った。

 この世界がマトリックスだと理解している人などいない。彼の言うことを真剣に聞いてくれる人などいなかったに違いない。


 男の話を聞いて、私がまっさきにイメージしたのが、「ウルトラマン」である。


 東宝映画で特撮を仕切っていた円谷英治が東宝を独立し、円谷プロダクションを立ち上げた。

 プロダクションは最初に「ウルトラQ」という特撮番組を制作した。

 ゴジラのような怪獣や、宇宙人の来襲、異常現象に主人公たち人間が立ち向かうストーリー。時代は現代である。


 このシリーズが評判を呼ぶと、次に製作されたのが「ウルトラマン」。このシリーズの舞台は、レーザー銃や高性能戦闘機が登場する近未来である。そして、正義の味方のキャラクターとして「ウルトラマン」が登場する。ウルトラマンは、地球人と宇宙人が合体したもの。

 地球に危機が訪れると何処からともなくやってきて、怪獣と戦い、宇宙へと帰って行く。ただし、地球上では3分しか戦うことができない。


 この3分という制限は、制作予算を節約する都合から設定されたものだが、地球での活動を制限されるという意味では、吸血鬼ドラキュラを想起させる。

 吸血鬼は人間の生き血を飲むことで、地球上で活動することができる。

 魔界では自由に活動できる吸血鬼たちだが、地球上では夜しか活動できないとともに、生き血を欲するのである。


 ウルトラマンが独創的なところは、身体が人間よりも遙かに大きいこと。

 海外ドラマや映画のヒーローもの、モンスターものを見ても、人間の大きさから乖離しているのは、ウルトラマンだけだ。


 西洋の伝説には巨人が登場する。だがそれは人間の姿をしていても怪物である。スペインの画家・ゴヤには、人を食べる巨人の絵もある。

「進撃の巨人」というアニメシリーズがあり、実写化もされ、ブレークしたのはご存知の通り。巨人は悪の化身。人間を食べたり、街を破壊する。


 GIANTSの意味を「勇者たち」と理解している日本人がほとんどだが、それは間違いである。その名前を冠した野球チームが、日本プロ野球を牽引したことは注目に値する。

 戦前、アメリカ・メジャーリーグの代表たちが、日本で親善試合を行ったことは広く知られている。ベーブルースが来日し、沢村英治が好投して話題になった。今では、その遠征がアメリカのスパイ活動のひとつだったことも明らかになっている。


 戦後、野球はアメリカ文化が日本に取り入れられた象徴となり、日本人に熱狂された。巨人軍最大のヒーローが長島茂雄である。

 彼は、六大学野球の最多ホームランバッターであり、プロ野球期待の注目の新人だが、彼が時代のヒーローであることを決定づけたのは、天覧試合でのホームラン。戦後の復興、アメリカ文化、天皇制などさまざまな思いが、テレビで日本全国に広がった。

 長島茂雄がメディアがつくりあげたヒーローだということは、その後、日本中が知ることになる。長島はトップレベルのスポーツマンだったが、イチローのような求道者ではなく、「人を楽しませることが好きなエンターテイナー」だった。

 彼の姿を通じて、日本中がアメリカ文化が日本文化として定着したことを実感したのである。


 ○


 ウルトラマンも「テレビの中のヒーロー」である。

 巨大な身体を持っているから、人々から恐れられて当然だが、そんなことは起こらない。ウルトラマンは邪悪なキャラクターではない。

「地球を守りたい」と強く思っている人間(科学特捜隊・ハヤタ隊員)と宇宙人が合体して生まれたミュータントだから、当然といえば当然である。

 もっとも、SFの世界ではまったくないのに「ドラえもん」の登場人物たちは、隣に猫型ロボットがいても驚きもしない。フィクションとはそんなものだ。


 ウルトラマンもゴジラも、映画会社やテレビ局の企画室で生まれた。

 企画会議に参加した人たちは、「企画をヒットさせよう」と単純に思っていただけ。異界で、男がゴジワニと戦った事実など知るよしもない。


 せいぜいが自虐史観の延長戦上で、第二次世界大戦での日本の敗戦に反省し、ファシストのように世界征服をたくらむ勢力を批判すること。そして、正義が必ず勝つことをこどもたちに示し、勇気を与えようということだろう。

 ドラマを成立させる要素は〈アンタゴニスト〉。つまり、心理的な葛藤と登場人物同士の対立である。

 葛藤だけでは文学的な作品であり、活劇的な面白さはない。そこで、「邪悪なキャラクター」を登場させ、主人公を「正義のキャラクター」として単純化する。これにより、誰にでもわかりやすいストーリーが誕生する。

 論理的な帰結ではあるが、「世界制覇をたくらむ」集団を登場させることは、安直な物語づくりともいえる。


 その典型のひとつが、「ショッカー」という「邪悪な集団」が登場するテレビシリーズ「仮面ライダー」である。ショッカーは、顔なしキャラクターの集団であり、全身タイツで登場する。

 視聴者たちは、ショッカーの構成員のひとりひとりの個性を認識することはない。それは、映画「マトリックス」に登場する同じ顔をしたスーツ姿のキャラクター群・エージェント・スミスと同じである。

 特徴的なのは、ショッカーの本部が登場しないこと。善と悪の対決を描くなら、双方の核を描くことが効果的だが、そのようなことは起きない。「ショッカー」は、それを操っている〈彼ら〉が誰なのかが分からないからこそ不気味であり、正体を明かさないからこそ邪悪なのだ。

 戦国時代の川中島の戦いのように、武将や兵士の戦闘の他に大将同士の一騎打ちがある。それが正義と正義の戦い。一方、「仮面ライダー」はそうではない。姿を見せないことこそ、悪が本物の悪であることの証明である。


 仮面ライダーも、人間と昆虫が合体したミュータント。

 ゴジラ・ウルトラマンと東宝だが、仮面ライダーは東映である。


 怪獣と「正義の巨人」の物語が、日本の過去にあったのだろうか・・・。

 ジュール・ベルヌは、「人間が想像したことは、すべて実現する」と言ったが、それまでの日本人が、怪獣や正義の巨人を想像したことがあったのだろうか・・・。

 不可解である。


 ○


「博物館に収蔵されているような大きな隕石を買ったんですよ」


 身分不相応のかなり高価な買い物だったのだと、男は強調した。

 地球の外から飛んできた隕石には不思議なパワーがある。この世界で隕石を持つことが、異界でのパワーにつながるらしい。


 とはいえ、「この世界で隕石を所有すること」と、「異界で有利に戦うこと」の関連性が私にはまったくイメージできない。


 男は腕をまくって見せる。


「これが戦いの時にできた傷なんです」


 だが、私には傷が見えない。

 異界での傷が、この世界での肉体に反映するのか。だとすれば、男は猛獣にも勝てるような頑丈な肉体を持っていてしかるべき。華奢な男ではないが、誇るべき肉体というのではない。


「大枚をはたいて大きな剣を買って大変だったんですよ」


 男は得意気である。

 ゴジワニを退治した後、隕石と大きな剣は無用になったから、押入れに放り込んでしまったという。


 ゴジワニとの格闘の子細を伝えられた訳ではないが、ゴジワニの致命傷は「首をへし折られたこと」であって、剣で斬られたことではない。

 とすれば、剣も何かの象徴であって、武器として使われたのではない。日本刀が武士の魂であるように、大きな剣を使ってパワーを集めたのかもしれない。


 男は、人生でやるべきことはやり尽くしたと言う。

 とはいえ、この世を去ることで家族を悲しませることはできないので、余生をつなぐために新聞配達のアルバイトをしているのだという。


 ○


 私は男の話を疑おうとは思わなかった。

 私には体験がないだけ。だから、実感が沸かない。それだけのことだ。


 もう一度、頭の中を整理してみる。


 この世界は、五感をともなったテレビゲームのようなものである。

 私たちは、この世界を「ブラウザー」によって見ている・体験している。

 つまり、この世界の他に「プログラムの世界」がある。


 男は「プログラムの世界」に行ったことがある。

 その理由は、クラッカーによって改変されたプログラムを修復するためである。

 クラッカーとは、〈彼ら〉の別の姿である。〈彼ら〉とはパラサイト系のスピリットである。


 そして、男はクラッカーたちと戦った。

 その次元で、〈彼ら〉はゴジワニになり、男は隕石と大きな剣を武器にした正義のキャラクターである。


 ○


 この世界が五感をともなったテレビゲームのような世界だとすると、私たちのすべてがテレビゲームの世界で暮らしていることになる。

 そうすると、この世界の意味も変わってくる。


 私は、仏教の輪廻転生の概念に妥当性を感じていた。

 人間の魂は永遠である。したがって、この世界の他に、生まれる前の世界として前世があり、死んだ後の世界として来世がある。来世は、次に生まれる世界に対しての前世でもある。

 循環する世界を旅する中で、釈迦やキリストに匹敵するような高級霊に魂を磨いていく。それこそが人生の意味であると考えていた。


 だが、テレビゲームだとすると、人生の意味も変わってくる。

 この世界がゲームに過ぎないとするなら、ゲームに参加する目的は、「ゲームを楽しむこと」である。


 難行苦行として人生に取り組むのではなく、「人生を楽しむこと」が大切になってくる。もちろん、人間は一人では生きていないのだから、刹那的な快楽を求めることが「人生を楽しむこと」ではない。

 家族や友人とともに人生を謳歌することが人生の目的なのである。


 そう考えると、「快適な生活」を求めて進化してきた近代という考え方に、まったくの妥当性がないことに気づく。

 現代社会は、資本家と労働者というふたつの階層を生んだが、それは「人生を楽しむこと」と無縁である。


「ゲームを楽しむ」ことが人生の目的だとすれば、近未来の世界が舞台のファイナル・ファンタジーと、原始的というか人間以前の細胞の世界ともいえるパックマンは等価である。

「始めてすぐに楽しめる」という意味では、パックマンに軍配があがる。


 これこそが究極の意味で文化相対主義。

 ここにおいて、実存主義のサルトルは、レヴィ・ストロースに完全に負けた。

 祖父の言葉通り、「実存主義はダメだ」である。


 ○


 男が〈彼ら〉の首をへし折り、息の根を止めたなら、この世界は画期的に変化するはず。

 男の口振りからすると、ゴジワニを倒した時期が何十年も昔の話では思えない。比較的最近のこと。古くても、十数年前のことに違いない。


 しかし、世界のニュースを知る限り、世界中から戦争が無くなったり、貧困が解決するようなことはない。異界で〈彼ら〉が敗れ去っても、この世界から陰謀的な仕業がなくなった。もしくは、それに向けての変化が始まったとは思えない。

 今も、〈彼ら〉が暗躍していることは確かである。

 資本主義も、国家を基本に構築された国際社会も、法治主義も、そう簡単に無くなるはずもない。

〈彼ら〉の支配する以前に戻るというなら、日本の歴史では江戸時代に戻ればよい。時計の針を200年ほど戻すだけのことだが、ヨーロッパは近代以前の400年、ひょっとすると、ギリシア時代以前2500年ほど戻らなければならないのかもしれない。


 悩ましいのは〈時間〉という概念。

「魂は永遠である」というのではなくて、実は「時間という概念は、この世界にしか存在しない」のかもしれない。


(以上)





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