第10話 陰謀論
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「陰謀論=トンデモ」と決めつけるのは、ステレオタイプのトンデモである。
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「君が思いもしないような恐ろしいこと」。
祖父の言葉によって、世の中が違って見えてきた。
祖父と同じ日に亡くなったという太田龍という陰謀論者。
本を読んでいたのだけでは分からない何かがあるに違いない。
私は、彼の書庫を見ることを目的に、彼が暮らしていた家に向かった。
小田切から渡された私製のパンフレットの連絡先は奥多摩である。
9時過ぎに我が家を出た私は、JR奥多摩線の小さな駅で降りた。
ちょうど12時を過ぎたところだったので、駅前の小さな食堂に入った。
お腹が空いていたのではない。
太田龍氏の地元での評判を知るためである。だが、店主は彼のことを知らなかった。
最寄りの駅から山あいの道を30分ほど歩くと、山の斜面を背景にした小さな家が見える、辺りにはわずかな畑が広がっていた。
「ごめんください」
訪問者は不審者ではないという思いも込めて、大きな声で叫んだが、返事はない。
「こんにちは」
私の声はむなしくこだました。
野中の田舎家である。周囲に塀で囲われている訳ではない。私は家の周囲をぐるりと歩いてみた。
質素なたたずまいだが、家にほころびはない。
見回して見ると、畑には手入れがされているよう。彼が亡くなった後も、誰かが暮らしていることは明らかだ。
誰かが帰ってくるに違いない。私は門口でしばらく待つことにした。
生前の太田氏はこんな田舎暮らしをしながら、どんな現代と向き合っていたのだろうか。
1時間も経った頃だろうか。
突然、窓が開いた。私が振り返ると、老人の顔が見えた。
「こんにちは」
私が呼びかけると、老人は怪訝な表情をした。
「ここは、太田龍さんのお宅ですよね」
私が立ち上がると、老人は窓を閉めた。
不審者と思われたかと思ったが、しばらくすると、玄関から外に出てきた。
彼の思想を知るために、書庫を見てみたい。私は、老人に訪ねてきた理由を説明した。
「君はなぜ太田龍に興味があるんだ? 彼の言うことなんか、トンデモ系だろ。あんな男の本を読む奴がいるなんて、世の中がおかしくなっている・・・」
「そうでしょうか」
老人は書庫を見せることはできないと言う。自分は留守番であり、他人を家に入れることは許されないと。
私は、自分の熱意を伝えるために、太田龍の思想を説明する。
太田龍氏は青年期、革命思想家だった。その後、40歳を過ぎて自然食運動、反家畜制度、反ユダヤ主義、反国際金融支配に思想の中心を移した。
彼は昭和5年に生まれているから、60年安保は30歳である。
60年安保は一般学生も学生運動に加わっていた最後の時期である。
国会前のデモで、東大の女子学生・樺美智子さんが亡くなっているが、それがターニングポイントだったのかもしれない。
その後、学生運動はセクト化し、テロリスト集団になっていく。
革命を達成したソビエト連合や中華人民共和国も行き詰まり、社会主義・共産主義という理想が虚構だったことが次第に分かってくる。
そういう時代の流れの中で、彼の思想が変化したことは納得できる。
太田龍は、樺太の出身である。
幼い頃から、アイヌの史跡や伝承にふれてきたはずの彼だから、革命思想家を廃業するにあたって最初に取り組んだのが、アイヌだったのは、きわめて自然なことだったに違いない。
それまでの彼は進歩主義たる社会主義、原理主義たる共産主義を思想の軸にすえており、進歩的なイデオロギーこそ「よりよく生きる」ために人類が選択すべき方策と考えていた。
しかし、ベルリンの壁の崩壊やソビエト連邦の解体に遭遇し、「人類が進化する」という〈進化論〉が虚構であり、一般的な妥当性を持たないことに気づく。
それは彼にとって、天地がひっくり返るような出来事であり、彼のアイデンティティーを喪失させるほどの一大事だったに違いない。
彼の思想を信じて、テロニズムに加わり、人生を台無しにした若者も少なからずいたに違いない。
そのことを彼は、謝罪したのだろうか・・・。Wikipediaには、そのような記述は一切存在しない。かといって、思想は行動をともなってこそ価値がある。頭脳明晰な彼が無自覚だったとは思えないから、謝罪したい気持ちがあふれていたに違いない。
だが、彼一人が謝罪して済むような話ではない。「時代全体が若者たちを騙していた」のである。その状況で、謝罪することは、過去の自分を全否定することは勿論だが、すべては時代の責任であって、私は関係ないとする無責任である。
彼は、過去の自分の言説を放り出したまま、アイヌの問題に取り組んだに違いない。
では、アイヌとは何か。
アイヌは、日本の重要なルーツのひとつである縄文文化が、現代までかろうじてサバイバルした文化である。
誰でも知っていることだが、日本には縄文時代があり、その後、弥生文化がある。
学校では、縄文時代があった後に弥生文化があったと教えられるから、こどもたちは、奈良時代の後に平安時代があったというように、同じ人たちの文化が変わったのだと考えてしまう。
だが、縄文遺跡は台地にあるが、弥生遺跡は平地にある。縄文人と弥生人は別の部族・民族なのだ。
太田氏は、まず、アイヌの生活から、縄文人としてのルーツを読みとったに違いない。縄文人の特徴は、採集生活である。
採集は、農業以前の未開の文化だと考えられている。しかし、それは間違い。農業とは自然の秩序を崩壊させる「邪悪な人間の営み」である。
昨今、工業による自然破壊が社会的に糾弾されているが、農業も同じ。人間に都合がよいように自然破壊をしているのだ。
弥生文化は「自然を搾取する」文化であり、縄文文化は「自給自足」の文化である。
自給自足の根っこにあるのは「他者を支配しない」という考えである。
奴隷制などもっての他である。
民間の研究者には「古い日本語には動詞が存在しなかった」と言う人がいる。動詞がなければ、命令形は存在しない。「人が人に君臨すること」はありえない。
長年連れ添った夫婦は、亭主が仕事から帰ると「飯・風呂・寝る」の三語ですませるのだという。
男は動詞を使わないことで、命令形になるのを避けている。
もし、女が体調不良で反応しなければ自分でやる。良好な夫婦関係であれば、そういうこと。動詞などいらない。
採集が進化した形が農業である。だが、進化系はもうひとつあって、それは畜産。家畜を持つことである。
縄文文化は家畜を持たなかった。「家畜を持つ」と、その意識は「人間を奴隷にする」ことにつながるから。その精神は様々な変化を遂げて「肉食の禁止」につながっていく。
動物も同じ生命とすれば、当然の拡大解釈である。
スタンリー・キューブリックのSF映画「2001年宇宙の旅」の冒頭は、人類の起源が表現されている。
類人猿が骨を使って争っている。
その様子は、世界中のどこかで戦争が続いている現代を表現している。
その場合の骨は、道具であるとともに武器である。
放りあげられた骨が空中に舞い上がり、宇宙ステーションに変化することで、数万年に及ぶ人間の歴史を一気に飛び越える。
このシーンでまったくもって見過ごされているのは、類人猿のまわりに家畜と思われるような動物が徘徊していること。
海が割れるシーンで有名な映画「十戒」の出エジプトのシーンでは、エジプトを追われた人たちが、家畜とともに流浪の旅に出るという演出がなされている。彼らは「食べるための生命(livestock)」と一緒に暮らしている。
現代を思えば、愛玩動物も家畜も同時に存在する矛盾はありふれたものであり、私たちは違和感を感じることもなく、見過ごしてしまう。
だが、奇才・スタンリー・キューブリックが、人類の本質を描く象徴的なシーンにおいて、家畜を登場させたことは印象的である。
観客が気づくべきことは、映画「2001年宇宙の旅」が表現した人類の創生は、「自給自足的な人類」の起源ではなく、「パラサイト系の人類」の起源だったこと。
あらためて言うまでもないが、自給自足系の人類とは縄文人であり、パラサイト系の人類は弥生人である。
○
左翼思想に洗脳された太田龍が、ベルリンの壁崩壊やソビエト連合の解体に接して、無力感に押し流されても尚、思想することをやめなかったことは、尊敬に値する。
陰謀論に接した彼は、東西の二大勢力の両方が巨大財閥から資金提供されていたことを知る。資本主義と社会主義の対立は、彼らによってつくられていたのである。
左翼をやめることはブル転、ブルジョア転向などと呼ばれるが、太田氏は、左翼思想は放り出したのかもしれないが、思想家としての生涯を貫いた。
思想家の目標は、この世界の本質を突き止めること。〈本質〉とは〈存在〉に等しい。
祖父は実存主義者だったが、太田氏も思想家として、この世界の〈本質〉を突き詰めようとしていたのである。
我が父も、青春の一時期を左翼活動に準じたが、はやばやとブル転し、無為な人生を過ごしたのである。
○
日本人とは何か---。
それは、この世界の〈本質〉に迫るテーマであり、取り組むことは、思想家・太田龍にとってきわめて自然である。故郷に関連したアイヌから縄文。縄文から日本人に、彼の研究領域は変化していく。
日本の歴史には、石器時代がほとんどなく、土器文化の時代だった。
その理由は、石器が武器に転用するからではないか。
日本人のスピリットは、極度に自給自足。そのコミュニティーでは、部族間の戦争に発展しかねない発想につながる家畜制度を否定するとともに、武器を持つことも禁じたに違いない。物質文明ではない縄文人が、人の気持ちを大切に暮らしていたなら、当然である。
そんな平和な人たちが、「他者を支配することに躊躇しない」精神と武器を持った弥生人の侵略に無力だったのは言うまでもない。
あっという間に、縄文人のコミュニティーは崩壊し、弥生人たちに皆殺しにされるか、奴隷にされたに違いない。
敗北の歴史の中で、縄文人たちはサバイバルのために弥生人たちと同化・混血していく。アイヌ民族がかろうじて現代までサバイバルしてきたのは奇跡である。
驚くべきことは、混血化の過程で、縄文人たちの自給自足のモラルがサバイバルしたこと。「パラサイトなスピリット」たちの精神の底に、縄文人の自給自足の精神が残滓のようにたまっていく。
その理由は、パラサイトにおいて切実な事情があること。「寄生する側」「寄生される側」の区別をどうするか。自他の境界領域の問題である。
「支配・被支配」と無縁な自給自足のコミュニティーでは、自他の境界領域などどうでもいい。しかし、パラサイトのコミュニティーでは大問題である。人間は、赤子として生まれ、老人になり死んでいく。とすれば、西欧の個人主義のように「自他の境界線」を自分とそれ以外と割り切ることはできない。結果、血族、姻族を含めて一族が形成され、それが民族となり、自他の境界線となる。
それが領土と結びついて制度化されたのが国家である。
スイス民間防衛の冊子は、自家中毒を防ぐために作られた。コミュニティーは外部からの侵略によって滅びるばかりではない。知らない間に異分子が侵入して、内部から崩壊していく。
○
太田龍氏の思想は転々と変化したため、節操がないと批判されたことがある。すると、彼は、
「私の思想は終始一貫しています。それは反米です」
と答えていたという。
アメリカとは何か---。というよりも「アメリカなるものは何か」。
太田氏は、アメリカを牛耳っているのはワシントンではなく、ウォール街であると断じる。ウォール街を取り仕切っている名門の人たち、とりわけロックフェラー財閥がアメリカを導いている。
ロックフェラー家の創始者は、極貧の中からスタンダード石油を創業すると、手段を選ばない同業者つぶしや買収によって、マーケットを独占した。
戦車、戦艦、戦闘機、軍用車など、近代戦争で石油の役割は大きい。当然のように、戦争により、ロックフェラー家は巨大財閥になっていく。
戦争は「悪魔の所作」である。しかし、ロックフェラー氏は、倹約をむねとする敬虔なキリスト者であり、悪魔教を信じていた訳ではない。彼のビジネスマンとしての冷徹な振る舞いが、彼を「悪魔」として世の中に信じ込ませただけである。
晩年の彼に面会した自動車王・フォードに、ロックフェラーが、
「次は天国で会おう」
と言った。その時、フォードは、
「もし、あなたが天国に行けるのなら」
と答えたのは有名な話である。
晩年、慈善活動に邁進した彼は、悪魔とは一番遠い場所にいたのかもしれない。だから、現場を実際に知っている人ほど、陰謀など信じる気にならない。
フリーメイソンも社会的に成功者たちの慈善団体であって、それ以上の情報はない。
しかし、秘密なのだ。フリーメイソンやイルミナティーなどの裏に、本当の秘密結社が存在する。「見えない組織」を「見えている団体」の名前が形容するから、おかしなことになる。
ロックフェラーの創始者が悪魔なのではない。
悪魔は、見えないところに存在する。
太田龍の思想を解説したつもりだったが、彼の思想は私の中ですでに変容していた。
○
庭先の椅子に座って、1時間は話したのかもしれない。
「蛇人間がいるなんて、本当に信じているのかぃ・・・」
老人はニヤリとした。
「あ、それは・・・」
蛇人間とは、爬虫類人、レプティリアンのことである。
太田龍が翻訳した本によれば、人類は、爬虫類人によって支配されている。
インターネットで調べてみると、英国のエリザベス女王の瞳孔が爬虫類のように縦に鋭い円形になっている合成写真があった。
ダイアナ妃の写真にも、そのような加工が施されているのがある。
なぜ、エリザベス女王なのか。
それは世界支配の中心にイギリスがあり、イギリスの冠が英国王室だからである。
陰謀論によれば、明治維新はイギリスによる日本侵略のプログラムである。
イギリスは、中国を麻薬によって退廃させることによって混乱させ侵略した。日本は鎖国をしていたし、中国に学んでいたので、同じ手は使えない。そこで、薩摩・長州の対立を利用して、幕府を倒し、傀儡政府を樹立しようと企てた。
フルベッキ写真という偽写真がある。偽というのは、合成写真という意味ではないから、不思議である。
英語教師(オランダ人宣教師)・フルベッキを中心に、明治政府の中枢を占めた将来の要人たちが数多く写っている。坂本龍馬は勿論、江戸の無血開城を実現した双方、勝海舟と西郷隆盛が写っている。
西郷は写真嫌いとして知られており、彼が写っていることが、この写真が偽写真であることの理由の一つである。だが、そんな彼でさえ、写真に写ることを許容せざるを得ない理由があった。それこそが、イギリスの巨大資本ではないか。
長崎のイギリス人商人・グラバーの命を受けた坂本龍馬が薩摩・長州に働きかけた。資金提供、武器供与の提案を持っているなら、天下の浪人ともいえる坂本龍馬を門前払いにすることはできない。
龍馬は江戸の有名道場の師範であり、周囲から尊敬をあつめていたし、勝海舟との人脈もあったろう。だが、決定的な役割を果たしたのは、イギリスの資本。長崎の外国人たちは、進捗状況をイギリス本国に知らせるために、フルベッキ写真を撮影したに違いない。
昭和のはじめまでは「龍馬がイギリスの傀儡にすぎないこと」を知っている人たちが生きていた。生前の龍馬の伝承する人がほとんど亡くなった頃に、司馬良太郎が「龍馬がゆく」を書いた。
司馬が小説を発表するまで、龍馬はほとんど無名だったのである。
司馬は、龍馬のような幕末の志士ばかりでなく、明治の偉人たちも小説にした。その理由は、幕末・明治の日本に対する「イギリスの介在」を忘れさせるためであったに違いない。
司馬は産経新聞の出身の元記者。彼の作品が世相誘導に利用されるのはきわめて自然である。思想誘導のほとんどは、左翼の自虐史観など、民族や国家の求心力を削ぐためのものだが、司馬小説が果たした役割は、まったくの逆であった。
幕末から明治にかけて、イギリスが世界を牛耳っていた。それが20世紀になると、世界の中心はアメリカに移っていく。第二次世界大戦以降、それは誰の目にも明らかである。
陰謀論によれば、イギリスを陰であやつっていたのがロスチャイルド家ある。ロスチャイルド家の起源はドイツのフランクフルトにあり、その末裔たちがウィーン、ロンドン、ナポリ、パリなどヨーロッパ各地に広かったのである。
フランクフルトは秘密結社・イルミナティーが誕生した場所としても知られている。
歴史のどこを見ても蛇人間の話などあるはずもない、神話のレベルなら蛇がは存在する。
蛇はお金の神様でもあり、世界保健機関(WHO)のマークにも蛇が登場する。だが、蛇と人間の混血の話など聞いたことがない。
マイケル・ジャクソンのスリラーの動画にも、最後、一瞬、悪魔のような顔をするマイケルのシーンがあり、マイケルの眼が蛇の眼だったと記憶する。もしかすると、レプティリアンをイメージして演出されたのかもしれない。
しかし、それはエリザベス女王を蛇人間に合成したのと同じ。演出である。異次元の出来事だとしても、私には、とうてい信じることができない。
○
太田龍が翻訳した書籍で、私が信じられない記述はそれだけではない。
それは、地底人である。
地球の内部には別世界があり、そこで地底人が暮らしている。昔、行方不明になった飛行機が、そこに迷い込んだことがあるのだという。
ジェームス・キャメロンが監督した映画「アバター」は、その世界を描いているかのようである。だが、それが現実が実在するとは、私にはとうてい思えない。映画人たちが「私たちの現実を批判するため」に拵えたの架空の世界である。
レプティリアンも地底人も別次元に存在するという。
しかし、日本人が感覚する別次元の代表「彼岸」とは別世界であり、神様がいるような「天国・極楽」とも、閻魔様が待っている「地獄」とも違う。私には、想像すらできない。
私は、太田龍の思想を理解・擁護してきたが、蛇人間だけは信じることができない。
蛇人間の存在を肯定することは、それ以外の太田龍の思想を否定することにもなりかねない。
私が返答できずに口ごもっていると、老人は
「では」
と一声。そして、玄関の中に消えていった。
そして、5分経っても、10分経っても戻ってこなかった。
私は書庫を見せてもらうことをあきらめて、
「おじゃましました」
と玄関の中に向かって声をかけ、家を後にした。
帰り道の電車の中で、私は回想する。
老人は朗らかに、愉快そうに、私の話を聴いていた。
他人に話すことで「太田龍の思想が自分のものになっている」のを私は確認した。
そして、私の太田龍に対する愛の深さを知ってもらい、書庫を見せてもらおうとしたが、果たされなかった。
こんなことなら、老人から生前の太田龍のことを聞き出しておくべきだったと残念に思った。
○
自宅でパソコンに向かうと、今日起きたことをテキスト化した。
新たなる発見はなかったが、太田龍が暮らしていた風景は記録しておくべきである。
テキスト化にともなって、あらためて「太田龍」でグーグル検索をかけた。
そして、驚いた。
画像検索で出てきた太田龍氏の画像は、老人そのものであった。
双子の兄弟がいなければ、太田龍は生きていることになる。
私は、小田切に電話をして、今日あったことを手短かに話した。
小田切は唖然としながらも、すばらくすると、次のようにため息をついた。
「ありえないことではない」
小田切曰く、太田龍はクセモノ。
言葉とは何か別のことを考えている。小田切は生前の太田氏の印象を語った。
私はとても残念に思った。
熱意が伝われば、書庫を見せてもらえる。私は、太田龍への熱量を伝えるために一方的にしゃべりまくった。
祖父の書庫が私に何かを教えてくれたように、太田龍の書庫も、私にインスピレーションを与えてくれるかもしれない。そう考えた。
老人は終始にこやかで、クセモノという印象は私にはない。しかし、そのにこやかさこそクセモノの自然体なのかもしれない。
私は、すぐにでも太田龍を訪ねようと思った。
「それはありえない。もう何をしても、無駄ですよ」
小田切は続ける。
彼は誤報を流してまで、この世から自らの存在を消そうとした。だから、その彼を再び訪問したとしても、彼が何かを語ることはない。追い払われるか、居留守を使われるだけ。
彼が自分を死んだと発表したのは何故か。その理由は、祖父と同じように、身の危険を感じていたからなのか・・・。
(以上)
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