第9話「表現者」になりたい。
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文化的にも、生理的にも、音楽に国境はある。
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「この世界がどうなっているのか」なんて気にもしないで、生きている。
それが突然、「この世の中では、君が思いもしないような恐ろしいことがすすんでいる」という謎の言葉によって、崩れていく。
結局のところ、この世界のことを私は何も分かっていない。
それは、相手の名刺をもらったところで、何も知っていることにならないのと同じ道理である。
俳優になるという娘の夢は、なんら達成されていない。
世界的なミュージシャンのH先生を知ったことは、世界を小さく見せたが、それは自分の小ささを知ることでもあった。
ただし、「演技する」という目標があって、演劇から音楽に転向したメリットは確実に存在している。演技や音楽を越えて、「表現者」という新たな目標ができたのである。
高校1年、卒業生として参加したジャズフェスティバルのステージでは、ドラムのほか、ピアノとMCをこなす。
ピアノではアドリブにも挑戦したから、ジャズ理論も少なからず理解していることになる。吹奏楽やクラシック音楽では、譜面に書いてあることを演奏するだけだが、ジャズはそれだけではない。
「ジャズの魅力は、音楽が生まれる瞬間に立ち会えること」。早稲田大学のモダンジャズ研究会でトランペットを吹いていたテレビタレント・タモリ氏の発言である。
引っ込み思案の娘が自分の殻を破った。
「私を見て」と心の中で叫ぶ女の子とようやく同じレベルになれたのかもしれない。
そして、高校2年。
「誰か歌いたい人」
とH先生は、突然,参加者を募った。
「歌」は音楽の中で最も演劇に近い。
「歌は語れ。セリフは歌え」という古川緑波の名言もあるくらいだ。
この言葉は、築地小劇場・小山内薫の「歌うな語れ。踊るな動け」という新劇運動のスローガンから触発されたのかもしれない。
かつての日本の芸能には、歌と踊りしかなかった。
古典主義は本来そういうものであり、リアリズムが取り入れられるのは、モダニズム以降のことである。
娘は、この日がいつかやってくると予想し、スタンダードナンバーの歌詞を覚えてきた。もちろん、英語の歌詞を覚えることは、英語の勉強にもなるから、この日が来ようが来まいが無駄ではない。
「はい」
即答で、私はやりたいと手を挙げた娘は、やる気満々な意志をH先生に見せた。
「もじもじしているようじゃダメ。いつでも、みんなが見ている前で堂々と歌えないと・・・」
H先生は娘の反応を喜んだ。
一般のお客さんもいる新宿の喫茶店でトランペットを吹いた。名曲「モーニン」で知られるアート・ブレイキーが来日していた時の有名なエピソードである。
他人がどう思うかなんて気にしないで、素直に行動する。反応する。
それが表現者の条件。
○
娘を含めて、ワークショップの卒業生の三人が歌うことになった。
H先生が推薦するジャヴォーカルの先生って一体誰なんだろう。
世界のH先生が呼んでくるのだから、きっと有名ジャズシンガーに違いない。私と娘は、インターネットで調べながら、わくわくした。
そして、5月のある日、GMという現役・女性ジャズシンガーが練習場にやってくる。
私と娘は、彼女の名前を初めて知った。
「人を教えるなんてことはしたくなかったんだけど・・・」
30代の彼女は素直に言った。
その気持ちは理解できる。
教えるという仕事を持った時点で、戦う姿勢は崩れる。それはアーティストとしては、棺桶に片足を突っ込むようなもの。
プロになれなかった人が教師になる。世の中にありふれた景色である。
「私のやり方で型にはめるようなことはしたくないの」
だが、彼女は理想的な教師の考え方を持っている。
「ジャズは、一人民族音楽」と言う人がいる。「誰かを真似る」のはジャズではない。ジャズはモダニズムの典型。
「オリジナルな個性」と「つねに進化する」が重要だ。
ポストモダンの時代だが、彼女はモダンを生きている。
○
ジャズとクラッシックの楽器奏者を比べると、クラッシック音楽のプレイヤーの方が実力があると思っている人が多いかもしれない。
だが、それは正しくない。
その理由のひとつは、クラッシック音楽の奏者は「楽譜に書いてあること」を演奏すればよいこと。一方、ジャズ奏者はアドリブをしなければならない。
アドリブといっても自由ではない。インプロビゼーション、つまりは変奏である。
ジャズプレイヤーはコード理論、スケール理論を理解し、それを自分のオリジナルな表現にしなければならない。
もう一つ理由は 「エニー・キー」(any key) であること。
ジャズプレイヤーがマスターしなければならないコード進行「II-V-I」(強進行)は、転調に転調を重ねていくので、すべての調で演奏することになる。
一人前のジャズプレイヤーになるには、「エニー・キー」 に対応することが求められる。ギターならカポタストを使ったり、ポジションを平行移動すればよいから簡単だが、白鍵と黒鍵があるピアノや管楽器では大変である。
ジャズはヴォーカルの伴奏音楽という側面があり、ヴォーカリストの音域によって、キーを変えて演奏することが求められる。
「情熱大陸」を作曲したことで知られるバイオリニストは、セリーヌ・ディオンの伴奏をしていたことで知られるが、ある朝、午前中の収録で声が出ない彼女は、「キーを下げてほしい」と懇願した。
違う調で演奏するなら、いつもと違う指使いで演奏しなければならない。「エニー・キー」でない彼は、弦のチューニングを下げて対応した。
「エニー・キー」でないとジャズではプロ失格だが、クラッシック音楽では「エニー・キー」でなくても恥ずかしくない。
○
歌のレッスンの初日は、「歌入り」にする曲を選んだ。
だが、中学生のビッグバンドは「エニー・キー」ではない。
そこで、ビッグバンドで演奏している曲のうち、ヴォーカルの声域に合っているかを探すことになった。
GM先生がピアノを弾いて、生徒たちが試していく。
・Take the "A" Train
・In the Mood
・St.Louis Blues
それぞれの声域と曲のバランスから、娘は"St.Louis Blues"を歌うことになった。
○
二回目のGM先生のレッスン。
先生は小学生の頃、ピアノの才能を認められて、オーストリアに留学。そのまま学生生活のほとんどをヨーロッパで過ごした。だから、日本語があまり上手ではない。
GM先生は、ハミングしてみせる。
そして、それを止める。
「ほら、聴こえるでしょ」
実際の音がなくなっても、残像のように音が脳裏に残っている。GM先生は、新しい感覚を教えてくれた。
「ハーモニー感」である。
このテキストを読んでいる人には、理解できないかと思うので、私なりにオーバーランゲージ(言い換え)してみる。
同じ音楽を何度も飽きるほどCDで聴いていると、頭の中に曲順が染み込んでしまう。ある時、その曲がFMラジオで流れると、曲が終わった時、鳴っているはずのない次の曲の冒頭が聴こえてくる。
実際にない音が、頭の中で響いている。
ジャズヴォーカルにおける「ハーモニー感」とはそんな感じ。
ヴォーカルは単音でしかないが、和音を含んで聴こえる。それがジャズヴォーカル。
その響きは音を越えて、聴く人の〈感覚〉の中で「残響する」。
ジャズヴォーカルの特徴であるシャウトも、〈コード感〉の共有の上で初めて魅力的になる。身体の中でコードが鳴っていて、その上で〈コード構成音〉を重ねていく。その究極の形がシャウトである。
日本のジャズヴォーカリストは「ジャズな雰囲気」を出すことを目指しているが、「ジャズの雰囲気」の本質は「ハーモニー感」なのである。
音響学的にいうと、多くの正数倍音を含んでいるのが「ハーモニー感」のある声である。
一方、日本の木曽節や木遣りなどの発声は、倍音を含まないのを理想とする。
同じ歌であっても、洋の東西で、まったく異なる。
ミッシェル・ペトルチアーニというジャズピアニストのアドリブは独特である。
彼は「A列車で行こう」のアドリブで単音(トニック)を連打する。
聴こえているのは、「ダダダダダダダダ・・・・」という単音の連続だけ。だが、観客には幻のように「A列車で行こう」のテーマが聴こえてくる。
ジャズでは共演者どうしは勿論のこと、演奏者と観客の間で、「タイム感」という律動を共有するとともに、「ハーモニー感」という和音を共有する。
その共有を元に、グルーヴやインプロビゼーションで、共有されたリズムやハーモニーとの乖離を楽しむ。それがジャズ独特の鑑賞法である。
単音なのに和音として聴こえる。
それがすばらしいジャズヴォーカリスト。
それだけではない。GM先生は、アカペラなのにグルーヴを感じさせることができる。
つまり、歌だけなのに、メトロノーム的な時間感覚と、それを微妙にずらした感覚的な時間感覚。つまりは、クロノス時間とカイロスが時間のふたつを同時に表現することができる。
世界的なピアニストとしてグレン・グールドが有名である。
私はずっと、彼の演奏の何が凄いのかが、分からなかった。ピアノ演奏中にハミングすることや、指揮者として名高いレナード・バーンスタインが「彼のテンポに私は納得していない」と演奏前に断ってから指揮を始めたエピソードを楽しむだけで、音楽的に何が違うのか、まったく分からなかった。
彼の代表傑作である「ゴールドベルグ変奏曲」にしても、何が評価されているのかまったく分からない。
「眠るための曲を書いてほしい」と頼まれたバッハが作曲したのがこの曲であり、グールドの演奏を聴いて「眠くなる」なら、作曲家の意図を100%実現している。
批評家たちの文章を読んでも、なんのヒントも得られなかった。
しかし、タイム感やクロノス時間・カイロス時間という概念を知ってしまえば、グレン・グールドの何が凄いのかがよく分かる。
彼の演奏は、堅調なクロノス時間があり、そのうえで右手のカイロス時間と左手のクロノス時間が独立して存在している。
簡単にいうと、一人でピアノを弾いているのに、まるで連弾のように聴こえるのだ。
こんなピアニストは彼を除くと、スビャストラフ・リヒテルぐらいのものである。
つまり、世界的な名声を誇るピアニストでも、ほんのわずかしかタイム感を持ってない。クロノス時間とカイロス時間という二つの時間感覚を同時に持つことができない。
そして、そのことがプロの暗黙知になっていて、観客はもちろんのこと、演奏家たちも、教育者たちも、それに気づいている人はほとんど存在しない。
しかし、その評価基準を知ってしまうと、「プロ中のプロ」「本物」を見分けることができるようになる。
クラッシック音楽には「テンポルバート」という用語がある。その意味は、自由にテンポを揺らして良いということ。
これは、アチェルランドやリタルランドしても良いということであって、特定の拍だけを長くしたり、短くして良いということではない。
しかし、日本人の伝統的な時間感覚は「間」であって、それが許容される。というか、「間」の表現こそ〈芸術の神髄〉であると信じられている。
ある時、車でFMラジオをつけると、ブラームスの交響曲が流れていた。
そして、グランドポーズ(すべてのパートが休符)のところになると、拍という概念がなくなったのを私は感じた。
これは日本人の指揮者に違いないと確信して、終演後のアナウンスを待った。すると案の定、日本人指揮者・小沢征爾だった。ピアニストの園田高弘は、小沢の師・斎藤秀雄を「教育者は頑固者で、融通のきかない演奏をするので困る」と形容していたが、融通のなさとは、斎藤のチェロの演奏には〈タイム感〉がないということかもしれない。
小沢氏に限らず日本人音楽家には、タイム感のない人が少なくない。ベルリンフィルを指揮したこともある佐渡裕もその一人だが、彼はヨーロッパで芸術監督として活動している。
ジャズではタイム感の欠場は致命的だが、クラッシック音楽では必ずしも致命的ではないのだろう。
○
私たちは、西欧人も日本人も、同じ人間。だから同じだと思っている。
だが、そうではない。
ドイツ人の方が体温が低いし、西欧人は虫の声を右脳で聴くが、日本人は左脳で聴く。つまり、日本人は「人の声と同じように」虫の声を聴くが、西欧人は環境音、雑音として聴くのである。
私は、日本の音楽と西欧音楽の基本的な違いは、彼らと日本人の聴覚における生理的な差が原因ではないかと思う。
西欧音楽を日本に移入した明治の教育者たちは、それに気づかないまま、譜面として記されるものだけを対象に、義務教育の音楽を構築していった。それでもクラッシック音楽は何とかなった。
しかし、ジャズ。とりわけ、スウィングすることにおいては、日本人の感覚では、まったくダメなのである。
西欧人と日本人の生理的感覚の決定的な違いは「残像」がより強く残ることである。
「赤ワインには肉料理。魚料理には白ワイン」と、フランス人はお酒と料理の相性を気にする。
フランス文化を上等と信じる人は、「とりあえずビール」の日本人を軽蔑する。
だが、フランス人の味覚は〈残像現象〉が大きいため、一緒に飲むワインとの相性が重要になる。
フランス料理がコースで出てくるのもそのせい。味が混ざってしまうと料理がまずくなるので、一品、一品、別々に出てくるのだ。
だから、彼らにとって日本の幕の内弁当など考えられない。味が混ざってしまう。
日本では、カレーライスには福神漬けが添えられる。箸休めという意味である。だが、フランス人の味覚なら、それは無意味である。
もし、フランス人がカレーライスで福神漬けを食べるなら、カレーと福神漬けを混ぜて食べるようなものだ。
ハーモニー感でいえば、西欧人はお風呂で音楽を聴いているように残響が大きいので、音が混ざりやすい。そんな状況でも心地よい音楽にするための工夫の積み重ねが、西欧音楽を形成していったに違いない。
タイム感も同様である。
リズムの反復の残像が西欧人には強く残る。
残像からわずかに音だしのタイミングをずらすことで、リズムの残像を印象的に表現する。それがグルーヴである。
一方の日本人には、残像が少ないから、ハーモニーを楽しむという習慣がない。従って、合唱ではハーモニーではなく、ユニゾン。斉唱になる。
ハーモニーでは、ベース音は基礎だから、とても重要である。
しかし、日本ではハーモニーの感覚が希薄だから、ベースを担当するチューバは単なる裏方でしかない。
ベース音が根っこあり、その上にハーモニー・和音が形成される。ベース音と和音があって、はじめてメロディーが活きる。
楽曲において、重要なのは、和音を規定するベース音であり、ハーモニーであり、メロディーは表面的なお飾りに過ぎない。
しかし、日本人はそれを感じないし、日本の音楽教育でもそれが教えられない。
一方のジャズでは、タイム感とハーモニー感がなければ、ジャズにならない。スウィングできない。
だが、スウィングしなけりゃ、ジャズじゃない。
私はここで形式知化を試みたが、このあたりの事情は、プロフェッショナル・専門家たちにとっても暗黙知のままである。
関西は薄味で、関東は味が濃い。だから、関東人は味覚音痴だという人がいる。だが、真相は、関東に水が悪かったので出汁が活きない。そこで、仕方なく味を濃くしただけ。合理的な理由である。日本の斉唱文化と西欧の合唱文化の違いも、優劣ではなく、明確な理由がある。
○
H先生は日本人ミュージシャンとしては希有な、タイム感を持ったジャズミュージシャンである。
彼が認めたミュージシャンたちも、タイム感を持っている。
○
保育園に通う頃からエレクトーン教室で合奏を経験。小学生になるとドラムでバンド活動をやってきたためか、娘には絶対音感ばかりでなく、ハーモニー感とタイム感があった。
自分が歌って教えてくれるGM先生は、娘の才能を十二分に引き出してくれた。
ジャズヴォーカルは英語で歌を歌うのだから、まず、英語の発音をレッスンしなければならない。娘の場合、幼少期の外国人との交流や、英語スピーチコンテストのための猛特訓があるから、発音の問題はまったくない。
指導がはじまって1ヶ月も経つと、3人の新人ヴォーカリストの差は歴然とした。
そして、リハーサルの度に、
「君は歌っている時ばかりでなく、歌っていない時もグルーヴしている」
と、ビッグバンドジャズ界で知らない人はいない、誰からもリスペクトされているK先生から絶賛された。
そして、本番。---拍手喝采。
終演後、H先生から、
「おまえは大成する」
と過分な言葉を頂戴する。世界のH先生が評価したのだから、なんとかなるに違いない。
そこで、ヴォーカル・オーディションに応募した。
CATVで人気の韓国のオーディションの日本予選が開催された。
このオーディションの一次予選は、応募者全員が参加できる30秒の審査だった。
娘は、ステージで喝采を受けた曲で挑戦するが、一次予選で敗退する。一度に数百人が受験するオーディションだから、審査員も数十人が必要になる。とはいえ、一次予選の審査委員が、H先生のような鑑識眼を持っているはずはないのだから、落選も仕方がない。
オーディションの参加者たちは、合格しようと、全身全霊を賭けて努力する。だが、審査員たちは、審査のために努力するということなどないだろう。勿論、それは彼らが本業ではないので怠慢ということもだろう。
だが、審査のために特別な準備すると先入観を持ってしまい、特定の流派をえこ贔屓することになる。わざと何もしない。自分の感覚をまっさらにしておこうとするのかもしれない。
これこそモダニズムの芸術論である。
モダニズムの芸術論とは、芸術作品は、芸術家の個性のオリジナルな表現であること。そして、過去の作家・作品は否定されなければならない。芸術は〈進化〉〈新しさ〉を求めている。
だが、今はもうポストモダンの時代である。
○
数ヶ月後、娘はメジャー音楽レーベルのジャズ・ヴォーカル・オーディションに応募する。一次審査は、音声ファイルによるもの。
アメリカの有名ジャズヴォーカリストの名前を冠したオーディションだから、審査員のレベルもマシなはず。しかし、ここでも、娘は一次審査で敗退する。
結局のところ、オーディションは宣伝・プロモーションの一環として開催されるのであって、合格者はあらかじめ決まっている。
関係者が絡んでいる養成所の生徒や、有名プロダクションの新人が上位に進出し、そこからデビューしていくに違いない。
私と娘は、そう理解した。
ある有名ミュージシャンは、デビューするために必要なのは、運・縁・実力だという。勿論、本来は、実力・縁・運の順番であるという思いを込めての発言である。
実力などなくてよい。必要なのはルックス。
なまじ実力があると、プロデューサーやトレーナーの言うことをきかないから困る。
実力もあり、ルックスも申し分ないGM先生が低迷している。
ジャズシーンが低迷しているから彼女の一般的な知名度が低いのではない。圧倒的な実力があるのに、評価しているのはH先生ぐらい。メジャー音楽レーベルの「いち推し」ヴォーカリストではない。
日本のロック・シーンでは、YMOの細野晴臣や大瀧詠一、作詞家の松本隆も加わっていた「はっぴいえんど」が日本語のロックを始める。それ以降、ロックの大衆化が急激にすすんだ。
一方、ジャズのヴォーカルはいまだに英語。そのことがジャズをマニアの音楽にする一因になっている。
江利チエミの「テネシー・ワルツ」は日本語の訳詞でヒットしたが、ジャズのスタンダードナンバーが、日本語に翻訳されて歌われることはない。
GM先生は英語が得意だから当然のように英語で歌。だが、それでは、日本の観客を感動することはできない。
英語が不十分な日本人にを取り込む、巻き込むようなパフォーマンスをしないとダメだ。
今、マスコミに露出している唯一のジャズシンガーはJUJUぐらい。彼女が純粋なジャズシンガーかといえば、必ずしもそうではない。彼女は、CMソング、映画テーマ、ドラマの主題歌などで広く名前が知られた歌手であり、その知名度を使ってジャズヴォーカリストとしての活動をしているに過ぎない。
タイム感・ハーモニー感で劣るJUJUのヴォーカルが日本のジャズシーンの最高品質であるかのように流通している。
そんな日本のエンターテインメント界で、娘の活きる道などない。どんなにがんばっても、GM先生のレベルになれるはずなどないのだから。
音楽も演劇も、実力だけでは、どうにもならない。
すばらしいプロデューサーや、プロモーターに出会う幸運があって始めて、名声が得られる。
今でこそテレビにCMにひっばりだこの吉田鋼太郎も、蜷川幸雄に見い出されなかったら、未だに無名の俳優だったに違いない。
実力は名優になるための十分条件だが、必要条件ではないのである。
○
「実力のある人が有名になる」なら、マスメディアなど必要がない。
かつてマスメディアのマスディストリビューション(大量配信)が登場するまでは、「実力のある人が有名になる」という状況だったに違いない。
それが、マスメディアの威力を見せつけるために、このような社会構造ができあがった。
「思いもしない恐ろしいこと」はこの世界に満ちている。
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