第6話〈子育て〉は洗脳

---------------------------------


「怒るな。叱れ」の子育て論は間違っている。

イデオロギーではなく、喜怒哀楽のすべてで、親は子に接するべき。


---------------------------------


遠浅の海の鴨狩りで、夫は船の転覆事故により死亡。

その三年後、妻が自宅で、強盗により絞殺され死亡。


私の推理によれば、二つの死は謀殺である。

〈彼ら〉はその謀殺を使って、小田切の祖父を脅していたのではないか。


小田切の祖父は、日本のジャーナリズムの未来を担うような重要なポジションにいた。そんな彼が早々とリタイヤーして、悠々自適な生活をした。

その理由を彼は黙して語らなかった。社会に向けては勿論、家族に対しても。

だから、私の推理が事実かどうかは分からない。


秘密を語れば、秘密を知った人間の身に危険が及ぶ。そんな想いから、祖父はこどもたちに何も語らなかったに違いない。

こどもが知らなければ、孫が知るはずもない。


西欧では仕事のパーティーに妻を同伴することが普通だが、かつての日本ではそうではなかった。その理由は、血なまぐさい仕事の場所から家族を守ろうという意識があったのではないか。

「仕事関係者に家族を紹介し、家族を養っているという責任感で信用を高めて、ビジネスをすすめる」という習慣はない。結果、ビジネスの懇親のシーンでは芸伎が活躍した。



家族は宗教教団に等しい。したがって、こどもが持つ「価値観」の多くは、良心によって決定される。


与謝野晶子が「君死にたもうことなかれ」と弟に書いたのは、実家が商家であり、武家ではなかったという単純な理由であって、それを反戦歌に仕立てられたことを歌人は快く思っていない。


私の父と母は60年代安保世代。イデオロギーに洗脳された人たちである。

学生運動はその後、武装テロ集団に変質していくが、両親が参加していた頃は、お祭りのように市街を練り歩くという極めて牧歌的なものだった。


「世の中で成功した人たちは悪い人」。

「野党を支持するのが進歩的な文化人であって、保守党を支持するのは無知な田舎もの」。

この国は革命によって、生まれ変わらなければならない。


私が両親から刷り込まれたのは、そんなところ。


今となってみれば、北朝鮮は巨悪な国家だが、私が幼い頃はそうではなかった。

映画監督の今村昌平は、晩年のインタビューで、在日朝鮮人の北朝鮮への帰国を賛美する映画をつくってしまったことを反省するコメントを残している。

当時、朝日グラフは文化大革命の特集を出し賛美していたし、「チビっ子猛語録」なる「毛語録」をもじった出版物も話題になった。

文化大革命で大規模な粛正が行われていたことが判明するのは、それから何十年も経ってからのことである。


当時、慶應義塾の小泉信三は「社会主義は、体系化された怨念」であり、一般的な妥当性はないと看破している。


平成の私たちは、ソ連の解体によって、小泉の正しさを一も二もなく理解する事ができるが、父の世代には難しかった。


父は北陸の港町の廻船問屋につらなる家系に生まれており、地元では財閥と呼ばれていた。父は怨まれる側であっても、怨む側ではなかった。階級闘争とは無縁な生い立ちのはずの彼だが、何かに屈折し、イデオロギー洗脳に殉じた。


私の推測では、京都の医大を受験したが、まったく歯が経たなかったこと。もうひとつは、「働かないで暮らす人たち」の欺瞞。そんな父母に反論できない自分の不甲斐なさではないか。


父が小さなベンチャー企業を立ち上げ、小さな工場ができあがった時、北陸の両親を招いた時の祖母が放った言葉は強烈である。


「お前は、働かなければならんのか」


東京から日光まで人力車で旅行したことがある廻船問屋のお嬢様にとって、働くことはハシタナイこと・卑しいことだったのである。


学生運動の影響で、父は一流企業に就職できなかった。

その後、教授の紹介で研究所の職員になり、スポンサーを得て小さなベンチャーを立ち上げたが、なかなか上手くいかない。

人生の逆風の中で、父の左翼思想はダダイズム(社会の否定)に変容していく。父のダダイズムを刷り込まれた私は、いたまれぬ成長期を過ごした。


父は「うちは放任主義」と公言する。

素直な私は、それを「自由主義」と捉えていた。だが、それが「育児放棄」だと気づく。その時、私は30歳代の半ばである。


あるクラッシックの作曲家氏は、「自分の意志で音楽家になった人はいない」と言い切る。

ピアノもバイオリンも小学校に入学するかしないかの時点で、レッスンを始めなければ一流になれない。プロフェッショナルになるには、絶対音感は必須である。

彼は、作曲家になれなかった父親から、作曲家になるための教育を受ける環境を与えられ、作曲家になったのである。


親の意志がないとなれない職業は、音楽家だけではないだろう。東大受験だって、生来の頭の良さや運だけで合格できる程、甘くはない。


そんな私が、娘の〈子育て〉において、何をしたか。それは、今思っても、涙ぐましい。



娘が小学校にあがった頃だと思う。

私と娘は、小田原に住む友人の家を訪れた。

そして、彼の娘(うちの娘よりもひとつ下)の四人で、湯河原の日帰り温泉に行った。

私と友人は男湯に、娘と友人の娘は女湯に、それぞれ分かれた。

それぞれが入浴を終え、休憩室で合流すると、私は娘に次のように言った。


「男湯には、象さんがいて、鼻からお湯を出してシャワーになっていたんだよ」


父と娘だけの密室ではない。友人と彼の娘という第三者が立ち会っている。この機会を絶好のチャンスと、私は考えた。


「・・・」


ありえない話だが、怪訝な表情をすることもなく、娘は素直に信じたようである。

仕方がないので、私はさらに続ける。


「カバもいて、大あくびをしていたんだよ」


友人は、私が娘をからかっていると思ったのか、あきれた顔をしている。

だが、私は真剣だ。娘をからかったのではない。父も嘘をつくことを知ってもらいたかったのである。


「キリンが、キリーンと鳴いていてね・・・」


そこで、友人宅を後にした小田原から東京への車の中でも、キリンを登場させ、話をさらに大きくした。


車が東京が多摩川を越えた時点で、娘は私が嘘をついていることにようやく気がつくことかできた。勿論、当初からおかしいとは思っていたのだろう。それをようやく口にできたのが、数時間程経ってからということだ。


「いいか。何でもかんでも、親の言うことだからといって信じていると大変なことになる」


ハンドルを握っている私は、娘をたしなめた。


「親だって間違うこともある」


暗闇で表情は分からないが、娘は混乱していたに違いない。


「自分に都合の良い嘘を言うことがある」


親の言うことを信じて生きてきたのに、それが信じられないとなると、これから何を信じて生きていけばいいのか。途方に暮れていたに違いない。


「温泉に象がいて、鼻からシャワーが出るなんて、バカな話を信じるなんて、バッカじゃないの」


その後、何度も私は、その話を繰り返した。


成長した娘は、嘘をついた私を責める。


だが、私は反省しない。このエピソードには、「親の刷り込みに負けるな」という強烈なメッセージがあった。


そんな私にとって、親ばかりでなく、社会全体が子供をだますことを奨励する「クリスマスのサンタクロース」はまさに巨悪だった。

それは「赤ちゃんはコウノトリが運んでくる」というような、必要に迫られた嘘ではない。「真実だから、どのような場合も言っていい」なんてことはない。それくらいのことは私も分かっている。

だが、クリスマスは、大人がこどもたちをだますことを楽しんでいる、あってはならないものだった。



ある時、妻が私に言う。


「お母さんは青みの魚、青海苔、シラスが嫌いなんだって」


初耳である。


たかが食べ物の話と簡単に片づけてもらっては困る。笑い話ではすまない。このエピソードがあったからこそ、数年後、娘に象の話をしたのだ。


30歳を過ぎた大人(私)が、「自分が母親に騙されていたこと」を知らされるのである。母は、こどもに好き嫌いをさせないために「自分には、好き嫌いはない」と、嘘をついていた・・・。


私は、育児放棄の父親とうそつきの母親に育てられた。


さらにいうと、母は、すぐに泣く私に対して、「お前は女の腐ったような子」だと怒鳴りつける。

泣く子どもなんて、どこにでもいるのだから、「女の腐ったような子」は世の中に沢山いるものだと私は思っていた。だが、あたりを見回しても、母の口から以外「女の腐ったような」という形容に出会ったことはない。

そのようにして、母が望んだ通りの「女の腐ったような大人」に私は成長していく。男子小学生なのに冒険マンガ・探偵マンガに興味はなく、昼メロ・恋愛ドラマに熱中する。


母の「お前は、ケアレスミスが多すぎる」との言葉は、私を算数恐怖症にさせる。

30歳をすぎて尿閉で入院する。カテーテルで1リットルを越える尿を膀胱から抜き取るり、一週間程様子を見ると症状は解消する。しかし、さまざまな検査をしても、原因が分からない。そこで、医師は私に


「100から7を引いて」


と言う。


ここで間違うと精神障害と判断されてしまう。わたしは母親の刷り込んでくれた恐怖と戦いながら、暗算をした。


「100引く7は93。93引く7は86・・・」



娘が中学1年になった。


幼なじみがイギリス人・兄妹だった娘は英語の発音が良かった。だが、英語が喋れない。そのことは、娘の劣等感だった。

しかし、ネイティブの英語教師は、娘の発音を評価して、英語スピーチコンテストのクラス代表に選んだ。

その後、学校代表にも選ばれ、区のスピーチコンテストでも、決勝に進出。朗読の部で第三位になった。中学生が1万人近くいる区で第三位であるから、素直に喜べばよい。


だが、私と妻はそう考えなかった。発音も表現も娘はずば抜けており、どうどう考えても優勝だった。そのことは親の欲目とばかりはいえない。


授賞式。

プレゼンターをつとめる名誉職のベテラン英語教師は、名前を呼ばれて壇上に上がった娘をみると、手元の賞状が第三位なのを手違いと判断し、優勝の賞状に差し替えた。

しかし、アナウンスが第三位と呼ぶのを聞きと、自らの間違いに気づく。

ベテラン英語教師が、娘の発表をナンバーワンと確信していたからの勘違いである。


発音も申し分ない。パフォーマンスも自信に満ちている。

優勝した子は、日本人にありがちな発音で、LとRの違いが明確ではない。曖昧母音を強調することで英語らしくさせている。演技も大げさでわざとらしい。私は、審査にあたった日本人英語教師の英語力のなさに落胆した。


この経験から「捲土重来」を胸に秘めて、中学2年。娘と私は本気で英語スピーチコンテストに取り組むことになった。

1年では決められたテキストの朗読だったが、2年では、オリジナルのスピーチ原稿をつくらなければならない。

本番の3か月以上前から、「勝つスピーチ」の条件を教えながら、私と娘はスピーチ原稿づくりに取り組んだ。


勝つための条件とは以下である。


・アピールするテーマ。

・インパクトのある題材。

・具体的な記述。

・思索。


一か月以上をかけて、私は娘に次のような説明をしていった。


…アピールするテーマとは、自分のことよりも、世界や社会など、普遍性のあるテーマにすること。平和だったり、環境問題だったり…。

スピーチなのだから、エッセイのように自分の思いを語るのではなく、相手に伝えるべきメッセージがないといけない。


…インパクトのある題材とは、おしっこを漏らした話よりも、うんこを漏らした話の方がインパクトがあること。

推理小説に殺人事件が多いのは、人を殺すことや殺されることが、一番刺激が強いから。同様に、蚊に刺された話よりも、骨折した話の方がインパクトが強い。虫刺されはキンカンを塗って終わりだが、後者は病院に行き、手術をして、さらにリハビリをするから大変だ。さらにいえば、虫刺されは日常的に起きているが、骨折は一生に一度あるかないかだろう。


…具体的な記述とは、頭の中で考えただけではつまらないということ。

「こうなるんじゃないかな…」と思ったことは、そのままではインパクトに欠ける。物語にするには、それが実際起きたことにすると効果的。メッセージを強くするには、「私は、こう考えている」では弱い。「私はこういう経験をした。だから、こう考える」とか、「私はこう思ったから、行動した。行動の結果、こう思う」などという語り口にすべき。


…思索は、「実際に、自分に起きた事」から考えることが一番だということ。つまり、「人から聞いた話」は、自分が経験したことではないので二番。「テレビや新聞で知った話」は、それをキッカケに自分が行動していればよいが、それがないなら三番である。


私は、娘がそれまでの人生で経験したことを大きな紙に書いていく。

英語でのスピーチだから、テーマは当然のように、娘の幼馴染たちとの交流の話になった。

イギリス人の兄と妹、ドイツと日本のハーフの女の子。そして、アフリカの大使館員の女の子。

英語が話せるようになって欲しいと、一緒に遊ぶように仕向けたのだが、娘が英語を話すことはなく、彼らの日本語力が上がった。これは笑い話だが、私の失敗談であって、娘のではない。


私は英語のゲームをさせたかったが、こどもたちが楽しくやっていたのは犬棒カルタである。


娘は、一緒に動物園に行った時のことや、山に登ったこと。海辺で誕生パーティーをやったことを題材にしたいという。

だが、この場合のテーマは何か。


彼らとの習慣の違いや価値観の違いを乗り越えることをテーマするのが、一番、自然だろう。だが、ありふれているし、インパクトに欠ける。それ以上に、「私には外国人の友達がいるの」という優越的な感じが嫌だ。


そこで、私は一つの提案をした。


出来上がったスピーチは、中学生の私が幼馴染と遊んだ時代を振り返るというもの。

言葉がいらない遊びの時はとっても親しかったのに、彼らがインターナショナルスクールに通うようになり、私も小学校に通うようになると、言葉が通じないと一緒に遊ぶことは難しい。そして、いつか離れ離れになってしまった残念さ。

そして、アフリカに帰ってしまった女の子。彼女の国は、世界で一番エイズを発症している人の数が多い。


あの頃それを知っていたら、無邪気に一緒に遊んでいただろうか。という問いかけでスピーチは、締めくくられる。


中学2年生でも、世の中でエイズが話題になっていることぐらい当然知っている。その病気が死に至る病であることも。私は、娘に理解を求めながら、


娘のクラス担任は英語教師だったので、英語に翻訳した原稿を見せた。すると、


「あなたの意見はどうなの?」


と、娘に詰め寄った。

女性教師は、こんな文章を中学生の娘が書けるはずはない。これは全部、親の意見と断じたのである。


「親の考えがそのまま、こどもの考えになっているのは当たり前」

そのことを担任は分かっていないと、娘は私に担任に対する文句を言う。


私はその場にいた訳ではないから、娘が担任に向かって文句を言ったかどうかは分からない。きっと、担任のとりつく島のなさに、反論もせず、無言を貫いたに違いない。


娘は「(親から)洗脳されている自分」を意識しているし、「親から独立した個」など、ありえないと達観している。

家族は宗教団体。そのことを自覚しているだけまし。私の中学時代とは雲泥の差だ。



女性担任は、「自我」や「独立した個」の存在を信じて疑わない。娘と担任の対立は、サルトルとレヴィ・ストロースの対立に等しい。


担任は、〈コギト〉や〈自我〉を中心にすえた〈モダニズム〉の教育論を刷り込まれてきた。だから、「こどもに無理強いする親」は許せない。こどもは「自由」に育てることが理想なのだ。


そんな理想のもとに、「こどものやりたいこと」を思う存分やらせる〈子育て論〉、「叱らない」〈子育て論〉が存在する。

だが、親が「喜怒哀楽」のすべてをこどもに見せない親は、こどもをイビツにする。


担任も、自分が洗脳されている〈イデオロギー〉を絶対化せず、自らを〈客観視〉して、〈相対化〉し、娘と接しなければ、頑迷な〈モダニスト〉でしかない。



女児は猫のように気ままだから、致命的な影響にはならないが、親の影響をまともに受ける男児の場合は、幼少期にゆがんだ〈子育て〉を受けると、青年期になると、引きこもりや家庭内暴力に発展するケースも珍しくない。


私には、一歳上の姉がいるが、彼女は早い時期から「自分が親に操られている」ことを自覚していた。だから、その復讐として「自分の子育て」に協力させた。

母は「いつまでも娘のつもりでいる」と不満を漏らしているが、姉の本意はそこにはない。復讐なのだ・・・。


もっとも、親も親で、姉がヨーロッパに駐在しているので、「孫の子育ての手伝い」を言い訳に、海外生活を楽しんだ。


一方の私は、親の偏狭な価値観に気づかぬまま、人生に立ち往生する…。


自分たちがしたことを一番理解している私の両親は、私が結婚して、10年も経たぬ頃に、絶縁を言い渡してきた。その理由は、私の顔を見ると、私にした仕打ちがフラッシュバックするのだという。


犯罪被害者は一瞬の出来事だから、犯行の瞬間をあまり覚えていない。だが、犯罪者は、その動機が芽生えた時から犯行までの一部始終を覚えている。

私の両親は、そのような道理を教えたくれた。感謝している。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る