第5話 メディア
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テレビはプッシュのメディア。 一方、インターネットはプルのメディア。
(デジタル用語)
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祖父の納骨も終わりしばらく経つと、私は従来の日常に帰っていた。
私の本業は、インターネット上のニュースサイトの運営である。
マスコミが発信したニュースのうちで、閲覧者の興味を引くものをピックアップする(ニュース・アリグレーション)とともに、独自のニュースソースで記事をあげていた。
すでに数年、この作業を続けているが、この作業の中で、私は、「新聞やテレビ」などのマスコミとインターネットの違いは何かを考えてきた。
インターネットが始まった当初、よく言われたのは、「誰でも、世界中に発信できること」。IBMのコマーシャルで、砂漠の真ん中で、ビジネスを始めようと意気込む若者のシーンを覚えている。
しかし、英語で発信しなければ、外国の人が情報を受信してくれることなどありえない。
日本語なら、日本人は受信してくれるなどと考えたら大間違い。
発信者が有名人でなければ、受信者はごくわずか。ブログで稼いで生活することも不可能ではないが、それを実現しているのは芸能人か、テレビでおなじみの人ばかりである。
一般人には、2ちゃんねるでマツリになり、罵倒されることでしか、多くの人に受信してもらえるなんてことは起こらない。
なぜなら、「テレビはプッシュのメディア」であり、「インターネットはプルのメディア」だから。
とすれば、マスコミは情報を大衆に押しつけているのだから、「マスコミュニケーション」と言うのは正確ではなく、「マス・ディストリビューション」と言うのが正しい。
私は、本来、インターネットが目指すべきは、本来の意味での「マス・コミュニケーション」と考えた。
その具体的な行動が、市民参加型ジャーナリズムである。
これにより、体制と大衆の相互通信・情報共有・相互理解を実現する。
この発想をした時、小田切が教えてくれたような陰謀論系の情報を私は知らなかった。
○
小田切に〈陰謀系〉のさまざまな情報を教えてもらうと、私にとってのインターネットの地平は大きく広がった。
そのことは、新聞社で扱っていた情報が、如何に「限られている」情報だったかということを思い知らされる。
私たちは、「実際に起きたこと」か、「誰かによってねつ造された情報」かを問題にする。
それを突き詰めなければ、覚醒した個ではないと、受信者には、メディア・リテラシーが求められた。
「メディアの都合」を勘案して、「メディアの情報」の真偽を問え。
だが、ニュースソースに触れることができない受信者たちにできることは、「真偽を決定する」ことはできないのだから、「正しいと思われている情報」と「間違っている・ねつ造されたと指摘されている情報」を等価に扱うとともに、発信者たちと、発信場所(メディア)の利害(ステークホルダー)を洗い出すこと。
したがって、どのような情報であっても、その〈存在〉までを否定してはならない。何故なら、「ねつ造された情報」であっても、ねつ造した「誰か」の意図は、「実際に存在したもの」に違いないからである。
そのパラダイム(構図)を眺めることで、情報全体から意味が立ち上がってくる。
そのような作業こそ、あるべきメディアリテラシーではないか。
決定論的に何かを言ってしまうのは、何かに〈洗脳〉されているからに違いない。
○
・・・だが、そうではなかった。
メディアの最大の権力は、「数多くの情報から、大衆が知るべきニュースを選択すること」。そのことを隠蔽するために、メディアリテラシーと称して、〈正誤論〉が話題にされたのである。
考えてみれば分かる。
マスメディアを銀座通りの歩道。
そうでないのを、田舎のあぜ道としてしよう。
それが「銀座通りの歩道」に存在すれば、人々は「それが何か」が気になる。注目する。それが、〈正誤論〉に発展する。
しかし、それが「田舎のあぜ道」にあれば、誰も「それが何か」など気にしない。そこを歩く人は皆無だし、それに「気づく」人は皆無。たとえそれが爆発物であったとしても、誰もいないのだから、被害者もでない。
とすれば、私たちが吟味すべきことは、「提示された情報」の〈妥当性〉〈重要度〉であって、〈正誤〉ではない。
メディアリテラシーという単語のように、突然、世の中に登場した概念は、疑ってみる必要がある。
○
最近では、Twitterというのが一般的だが、その日本語訳は「つぶやき」だという。だが、英語の辞書でツイートとは、「さえずり」である。
誰が、そう翻訳したのかは分からないが、どこかで誰かが、アメリカ人が「さえずり(外部に向けた発信)」としたものを、日本人にとっては「つぶやき(内部に向けた発信)」であると変換し、それが一般的になったのである。
当然のことだが、私は、それがマスメディアをめぐる陰謀の一つのタイプであると確信している。
○
私たちは必ず何かに〈洗脳〉されている。
それは、母や父が施した幼児期の「子育て」。さらに、小学校以降の「義務教育」。
私たちが気づかなければならないのは、「教育」が絶対善ではないこと。
だが、民主主義と同様に、教育を否定したら、言論者として、世の中から抹殺されるだろう。
殺人が否定されているのに、戦争も死刑もこの世の中に存在している。この世界は矛盾に満ちている。
民主主義や人道主義を否定する情報を発信することは、会社が許さないから新聞記者には無理。フリーライターでも、出版界が許すはずはない。
さらにいえとば、たとえ架空の世界。SF小説の世界でも許されないに違いない。
だが、教育によって、伝統的なコミュニティーが崩壊させられきたのは歴史的な事実である。
大航海時代、西欧列強が教会と学校を世界各地に作ったのは、それらが〈洗脳〉のために都合のよいツールだったからに違いない。
学校に行かずとも、二宮尊徳のような形でも勉強はできる。中央政府が学校を作らずとも、寺子屋のような地域住民の自主運営の塾でも、一向にかまわないのである。
「アルプスの少女ハイジ」に出てくる少年ペータは、学校に通わないが、放牧を仕事にして、楽しく暮らしている。南アフリカ共和国の中にある山岳国家のレソトには、現在もそのような少年たちが沢山いる。
国際社会では、彼らが学校に通っていないことを問題視しているという。
とはいえ、少年たちの生活が悲惨な訳ではない。都市生活者のクララが行けば、きっと羨むような日々である。
ハイジのような幼友達がいるかは別にして、都市の勤労少年とは異なる。工場で油まみれになって長時間拘束されるようなことはない。確かに、子供が働いているのかもしれぬが、人間本来の生活がそこにある。
だが、もし、少年たちが学校に通うようになったらどうなるだろう。
彼らは資本主義に〈洗脳〉され、放牧の仕事を未開の仕事として軽蔑するようになる。
彼らの内のごくわずかは西欧人の手先になって、裕福な暮らしをするだろう。だが、大部分は農園労働者や工場労働者になり、低賃金で搾取される。そのようにして、少年たちは貧民の仲間入りになる。
放牧の親方は、少年が住んでいる町にいたり、せいぜいが隣町だろう。したがって、少年が搾取された富は、地域に還元される。
一方、資本主義の親方は、地球の裏側にも等しい、遠く離れた場所に住んでいる。ならば、少年が搾取された富が、地域に還元することない。
資本主義は、すべてがニューヨーク証券取引所の出来事で決まってしまう。
勤勉に労働していても、オイルショックのようなことが起きれば、すべての努力は台無しになる。バブル経済のように、汗をかかなくても大金が手に入るような理不尽はない。
レヴィ・ストロースが提唱した〈文化人類学〉は、〈進化論〉によって、進んだ制度とされる「資本主義」を相対化する。「文化相対主義」である。
進化論の反対語は、文化相対主義なのだ。
○
小田切が口にした固有名詞は、一般的には「トンデモ系」「電波系」とされ、一般社会では是認されない類である。
新聞社では記事を掲載する時、「裏取り」が重要であり、それができない限り、記事を発表することはできない。裏の取りようがないのが「トンデモ系」である。
職業記者である限り、そのようなものを相手にしている暇はない。だが、小田切と再会して、少し違う気分になった。
グーグルが一般的な現在はほとんど死語になっているが、私はウェブサーフィンを行った。つまり、ひとつのサイトから、リンクをたどって、いくつものサイトを渡り歩いた。
その代表的なものがWikipediaである。
Wikipediaは、集合知が生み出したものであり、署名はない。このことを理由に、Wikipediaを信じることができないと批判する人がいる。
だが、信じなければよいのである。信じない上で、参考にすればよいのである。そもそも、署名記事にしたって、正誤の保証はない。間違っていたからといって、責任をとってくれる訳ではない。
Wikipediaで重要なことは、サマリー(要約)を提出してくれることだ。
今まで、人文系の学問では、「読んだ人」にしか、語る権利はなかった。しかし、Wikipediaを閲覧することで、概要を知ることができる。
ティム・バーナーズリーは、「コンピュータがものごとを理解するとは、それぞれの人間のレベルに併せて、情報を要約して、情報をアウトプットすること」だという。
その意味では、オリジナルテキストは、すべての読者が容易に読解できるものではない。専門家の解釈や、教師の助言が必要だったりする。
たとえば、Aというテキストを理解するために、Bというテキストを理解していることが必要などということは珍しいことではない。
「ウェストサイドストーリー」を理解するには、「ロミオとジュリエット」を理解する必要があるし、四則演算ができなければ、二次方程式など理解できるはずはない。
Wikipediaをはじめとするウェブサーフィンによって、瞬く間に私は多く「アンダークラウンド情報」を知ることになった。
それは、精読close readingの時代が終わり、速読distant readingの時代になったことを表現している。
情報は、それそのもので意味が決定するのではない。相対化される中で、意味が決定するのである。
インターネットで興味を持ったいくつかについては、図書館で本を借り、精読することにした。
「トンデモ系」の本は、発行部数も限られるから数千円もすることが珍しくないので、なかなか買うことができない。
だが、私が住んでいる世田谷区の図書館ネットワークなら稀少本も在庫している。さすが、小さな県にも等しい人口を保有する世田谷区である。
最初の頃に、私が取り寄せたのは、「タヴィストック人間研究所」という本である。
イギリスのロンドンには、ロンドン大学に隣接してタヴィストックという街区がある。そこに、大衆を陽動したり、世論を操るための研究所があったのだという。
カナダの思想家・マクルーハンが「メディアとメッセージである」と言ったが、そのための研究をしていたのが、「タヴィストック研究所」。
一言でいえば、〈洗脳〉の専門研究施設である。
内容をここで明かす必要はない。本を読んでもらえばいい。
この研究所をつくった〈彼ら〉について、私は、決定論的に何かを言いたくない。
陰謀論系の本を読んでいるとはいえ、その内容90%、否、99%はガセネタではないか。そう思うことで、私は陰謀論に〈洗脳〉されることを防ごうとしていた。
では、〈彼ら〉とは・・・。
「英雄は作られる」というが、「世論」も、英雄と同じで、たまたま誕生するのではなく、〈彼ら〉によって作らたものに違いない。
そして、〈彼ら〉を形容するなら、「他民族の支配をくわだてる」者たち。
そのツールの第一が〈情報〉なのだ。
戦争は武力によって行われ、多くの血が流される。しかし、その前戯として、〈情報による戦争〉が行われる。
まずはじめに行われるのが、次のふたつだと思われる。
・「他民族のアイデンティティーを崩壊されること」
・「他民族の秩序を崩壊させること」
その場合、「恐怖」という心理がうまく使われる。
○
示唆的だったのは、「スイスの民間防衛」というテキストである。
このテキストは、冷戦時代のスイスが、武力による侵略の前段階として、外部勢力による「社会に対しての侵略」が存在することを明確にしている。
この本を踏まえれば、今の日本が腐敗しているのではなく、「外部勢力による武力ではない侵略が行われている」と認識できる。
同著のサマリーとして、「戦争をせずに他国に侵略する方法」がまとめられている。それは、以下。
第1段階「 工作員を送り込み、政府上層部の掌握と洗脳 」
第2段階「 宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導 」
第3段階「 教育の掌握。国家意識の破壊 」
第4段階「 抵抗意識の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用 」
第5段階「 教育やメディアを利用して、自分で考える力を奪う 」
最終段階「 国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量移住で侵略完了 」
(引用終わり)
そのサイトの著者も述べているが、日本はすでに以下のような状況にある。
第1段階は、戦後の左翼系の人たちを教育機関や政府官僚に送り込むことで達成。
左翼の人はイデオロギーでコントロールされた人たちである。だが、日本人の内省・自省的な心理が彼らの心情に近いため、良心ある人たちと誤解されてきた。彼らが批判する立場の場合はよいが、彼らが権力の座につくと、「空虚な理想論」しか持っていないことが明らかになった。
第2段階は、メジャー新聞、地上波テレビなどが、何者かにコントロールされていることは明白である。それらは、営利組織であるにも関わらず、商業的ではない何かによって、コントロールされている。
「おもしろくなくっちゃ、テレビじゃない」のスローガンで知られるテレビ局の低迷も、その現象の一つ。
ウェブの住人とって、マスコミはマスゴミでしかない。
第3段階は、日教組の存在が大きい。日教組が学生たちに刷り込んた「自虐史観」は、日本人としてのアイデンティティーを崩壊させている。その延長線上にあるのが、従軍慰安婦・・・。
「非武力による侵略」はすでにさまざまなところで行われており、日本人たちは、ギリギリのところで侵略を回避しようと、散発な抵抗を繰り返している。
複雑なところは、侵略に手を貸している人たちも、日本に憧れているところ。非武力な侵略者でありながら、日本を侵略から守るための行動をする人も少なからず存在する。
「スイス民間防衛」というテキストに別の見方をすれば、この本は、〈彼ら〉が自家中毒を起こさないために作ったテキストではないかということ。自家中毒を防ぐとは、フグが自分の毒で死なないようにすること。
つまり、この本がなければ「他民族のアンデンティティーを崩壊させよう」と思ったのに、自分たちのアイデンティティーを崩壊させてしまったり、自分たちの秩序を崩壊させてしまう。
だが、スイスの軍隊は、侵略のための軍隊ではないだろう。したがって、私は、スイス人がが〈彼ら〉であると思わない。
非武力な侵略を理解しているなら、〈彼ら〉に近しいが、〈彼ら〉そのものではないだろう。
この本の指摘を心にとめて、この日本で何が起きてきたのか。戦後の歴史、最近の話題、さらには、フランシスコ・ザビエル以来の日本の西欧との交流の歴史を振り返ってみるべきだろう。
○
幕末の偉人・西郷隆盛は、阿片戦争など、西欧列強がアジアの諸国家を征服した歴史を知って、「野蛮である」と言ったという。
「彼らが真に進んでいるなら、道徳的にも優れているはず。しかし、彼らがアジアの諸国にしたことは悪徳である。彼らが本当に進んでいるなら、モラルにも優れているはずであり、すすんで自らの文化をアジアの未開の人たちに教え、幸福の拡大を願ったはず」だと。
スイスの民間防衛をイメージすれば、西欧列強の人たちは、他民族侵略のための〈思想兵器〉によって、それまで持っていたモラルを捨てざるをえなかった。そのため、自らをエゴイストと定義することになり、エゴとコミュニティーの折り合いがついた社会制度を新たに構築する他なかった。それがパブリックの概念である。
戦国時代の下克上は、主君・家来、親と子の秩序が乱れた。その原因は貨幣経済に他ならない。貨幣経済は、非武力な侵略ツールである。
土地を介した親子の関係では、子が圧倒的に不利であり、子が親に刃向かうことはできない。したがって、保守的な人間関係が堅持される。
しかし、貨幣経済が広まってしまえば、親子の関係は崩れ、主君・家来の関係も崩れる。それが戦国時代の根本的な構造である。
織田信長がはじめて賽銭箱を作ったというが、封建制度よりも貨幣経済。それが織田軍団を強くしたのに違いない。
徳川家康はそのことに気づいていたので、貨幣経済の入る余地のない、米本位制を導入した徳川幕藩体制を築く。そのシステムが正しかったから、270年の長きに渡り、徳川の治世が続いた。
だが、それも、イギリス商人・グラバーが持ち込んだ資金と武器によって、薩摩長州が力を息を吹き返し、明治政府が実現する。幕末において、家康の政治体制はインターナショナリズムに敗北するのである。
○
陰謀論系の本を読んでいて、印象的だったのは以下。
・〈大事な情報(真実)〉は、大概の場合、隠されていること。
・〈彼ら〉はけっして姿を表さないこと。
私の印象に大きく残ったのは、〈彼ら〉は「大事なことは、一番目立つところに隠す」という言葉である。私は、その意味がしばらくの間、わからなかった。
そこで私は、「見つけられるところに隠さなければ、隠した意味がない」。または、「隠した人が見つけられる場所に隠さなければダメ」と解釈した。
だが、具体的な事件が思い浮かばなかった。
そんな折り、小田切の祖父のことを思い出した。小田切家の始祖は明治の元勲であり、先祖たちの殆どは日本の中枢で活躍してきた。彼の祖父もその一人で、日本を代表する通信社の役員だった。しかし、40代で引退し、丹沢の山奥で自給自足な生活を過ごす。
その生活は、都市生活者、サラリーマンにとって夢の生活なので、雑誌などで紹介されることも多かったので、私も知っていた。
だが、すでに指摘しているような謀殺は、「脅し」のために実行されるとすれば、キャリアの半ばで引退した人は、「脅しに屈した」可能性が高い。小田切の祖父も「脅しに屈した」一人ではないか。
占領下の日本のメディアには、Press Code for Japanというのがあったという。それは、以下である。
(以下は、ウェブより引用)
1.SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
2.極東国際軍事裁判批判
3.GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判
4.検閲制度への言及
5.アメリカ合衆国への批判
6.ロシア(ソ連邦)への批判
7.英国への批判
8.朝鮮人への批判
9.中国への批判
10.その他の連合国への批判
11.連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
12.満州における日本人取り扱いについての批判
13.連合国の戦前の政策に対する批判
14.第三次世界大戦への言及
15.冷戦に関する言及
16.戦争擁護の宣伝
17.神国日本の宣伝
18.軍国主義の宣伝
19.ナショナリズムの宣伝
20.大東亜共栄圏の宣伝
21.その他の宣伝
22.戦争犯罪人の正当化および擁護
23.占領軍兵士と日本女性との交渉
24.闇市の状況
25.占領軍軍隊に対する批判
26.飢餓の誇張
27.暴力と不穏の行動の煽動
28.虚偽の報道
29.GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
30.解禁されていない報道の公表
(引用終わり)
小田切の祖父は、通信社の役員。ジャーナリストのトップである。ジャーナリストなら「報道の自由」を矜持とするのは当然である。その理想のためだったら、生命を失っても構わない。「報道の自由」は職制が求める理想であるばかりか、ひとりの人間の生命と引換えても惜しくない理想のはず。
占領下において、Press Codeが存在するのは、理解できる。だが、それが独立国家において行われていいのか。Press Codeが存続するなら、占領状態は継続することになる。
最近でも、マスコミが「報道の自由」を侵害していると、政府を批判することは珍しくない。
だが、この項目を眺めていると、占領が解かれた今も、Press Codeが継続しているのではないかと、気づくことができる。ならば、小田切の祖父は敗北していることになる。
それが、小田切の祖父が、通信社重役のキャリアを捨て、丹沢での生活を選んだ理由ではないか。
私は、日本のピュリッツァー賞と言われるボーン・上田国際記者賞に注目した。
マイルス・ボーンは、UPI通信社極東担当副社長であり、上田碩三は、通信社の社長である。
彼のWikipediaには次のようにある。
1949年、親友のUPI通信社極東担当副社長マイルス・ボーンらとともに和船で浦安沖で鴨猟に出たところ、乗っていた船が転覆し、ボーンらとともに水死体で発見された。享年64。1951年、妻のミエも、品川区の自宅で絞殺体で発見された。享年55。
死の翌年である1950年に、上田とボーンを記念しボーン・上田記念国際記者賞が創設された。また上野恩賜公園に、上田とボーンをたたえた「真友の碑」が建てられている。
別のサイトには、遭難した場所が、現在の東京ディズニーランドのあたりの遠浅の海であり、波も穏やかだったとの情報もあった。上田の妻の死の三日後に、マッカーサー元帥の解任が発表された。
(引用終わり)
小田切の祖父が上田氏に親しい立場にあり、戦後の日本のメディアの行く末を左右できるポジションにいたなら、 上田氏の遭難が謀殺されたと気付いたに違い。
だが、ジャーナリストの矜持もあり、「報道の自由」を諦めることはできない。自分を曲げて生きることはできない。しかし、家族の生命にまで危険が及ぶなら、諦めざるをえない・・・。
小田切の祖父が「・・・もはやこれまで」と決断し、「ままよ・・・」と引退したことを私は理解できる。
小田切の祖父は、自らを曲げ、家族のために隠遁生活に入った。したがって、その理由を周囲には勿論、家族には絶対に伝えることはない。
小田切は、ボーン上田賞は知っていたが、上田氏の謀殺については知らなかった。
これこそが「一番目立つところに、隠された秘密」である。
運命の歯車が少しでも狂っていれば、小田切は生まれる前に「殺されていた」かもしれなかった。
私の推理を知らされた小田切は戦慄した。
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