第3話 マスゴミ
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あるべきはずの情報が、そこにないとき。それは真実である。
長尾真(元・京都大学総長)
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「あるべきはずの情報が、そこにないとき。それは真実である」だなんて意味不明。学校の先生の発言とは思えない。
だが、私なりに言い換える(オーバーランゲージ)と、「存在する情報」は必ず真実とは限らない。「存在しない情報」こそ真実であるとなる。
京都の大学の先生だけに、その発言はどこか「禅」めいている。
長尾真氏は情報工学の研究者である。東京大学の安田行動で開催された第一回ウェブ学会の基調講演での発言である。
はてさて、どういうことか。
稗史(はいし)という言葉がある。戦争に負けた民族の歴史という意味である。
歴史とは、戦争に勝った将軍・部族・民族が作るテキストであり、それを作成することで「自らの正統性」を世の中に示す。
正当性・正統性がある者が、勝利するとは限らないとすれば、それらが欠落した勝者こそ、歴史を作成する。結果、そのテキストは、勝者の自己都合に満ちた記述である。必ずしも真実を保証しないのは当然であり、上手な嘘を書いた者こそ、歴史編纂者として多くの褒美をもらったに違いない。
戦いに勝利したとしても、統治は続いており、いつ反乱が起きるかわからない。
統治を円滑にすすめるには、未来に向けて「歴史をねつ造する」のが効果的。歴史を信じた後世の人たちは、いつしか、外来者・異分子だった統治者を、自らの代表と信じてしまう。そうなると、支配者と非支配者の構図は解消され、国内統治は安定する。反乱の危険性が減る。
その時代では、反乱は、非支配者と支配者の間で行われるのではなく、支配者の間の摩擦・反発によって発生するようになる。
○
日本書紀において、聖徳太子がスーパーマンのように記述されているのは、彼がそのような特殊な能力を持っていたというのではなく、蘇我一族が中央政府を形成していた時期があり、その期間を歴史から抹消するために、史実がねつ造されたのだろう。
「どうせ嘘をつくなら・・・」とエスカレートしたのが、聖徳太子の活躍。事実は小説より奇なりというが、歴史は事実よりもエンターテインメント。でなければ、誰も、歴史などに見向きもしない。
藤原家の始祖・藤原鎌足は百済の王子・豊璋(ほうしょう)だったという。
だが、そのような記述は、日本書紀に存在しない。
当時の朝鮮は、日本にとって先進国である。ならば、今のアメリカやヨーロッパのような、日本人があこがれる国だったろう。とすれば、歴史のテキストで、朝鮮の王族だったことを誇っても良い。
だが、それをしなかったのは、歴史が「事実を記すため」にあるのではなく、「正統をねつ造するため」に作成されるということだろう。
○
一方、稗史はテキスト化されることはない。なぜなら、そのような記述が勝者たちに見つかれば、殺されるからである。
結果、父から子、子から孫へと、秘密裏に口伝された。
それだけでは心許ないので、神話が作られ、それが稗史の暗号として機能した。
昔話・桃太郎はそのひとつであり、それが岡山県に伝わることは、かつてその地に、日本を代表する国家があったことの証明であるとの説もある。
グリム兄弟はドイツ各地の民話を収集し、グリム童話集を編纂した。
その理由は、群雄割拠により多数に分裂していたドイツ国家をまとめるため。まとめるなどというのは正確ではない。ドイツの制覇をたくらんだ将軍・王家にの命令されたのだろう。
同じ言語を話しているなら、同一民族である。だが、基本単語や文法が同じことが、そのまま一体感を生むとは限らない。言葉が通じることが逆に、お互いの微妙な感情の違いを察知させ、それが摩擦・反発を生むことも珍しくないから。
そこで、神話・童話の登場となる。物語を共有することは、国制において、きわめて重要である。
それの構造が現代においても同じことは、大阪のユニバーサル・スタジオのフォグワーツ城に行けば分かる。世界中から、「ハリー・ポッター」のファンがやってきて、日本のファンとの間で、言葉が違っていても、同じ感動を共有している。
物語は「グローバリズム」のために、とても重要なツールなのである。
○
藤原氏との戦いに破れた蘇我氏・物部氏の末裔たちは、稗史をしたためていたはず。
それがテキスト化されたのが、「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」。西暦806年~906年の間に成立したのではないかといわれる神道の神典である。
Wikipediaによれば、以下。
序文には推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したもの(『日本書紀』推古28年(620年)に相当する記述がある)とある。このことなどから、平安中期から江戸中期にかけては日本最古の歴史書として『古事記』・『日本書紀』より尊重されることもあった。しかし、江戸時代に入って偽書ではないかという疑いがかけられるようになり、多田義俊や伊勢貞丈らの研究によって偽書であることが明らかにされた。
敗者だった彼らのほとんどは稗史を胸に秘めながら、支配者と対立するよりも、稗史を捨て支配者に従順に従うことでサバイバルするリアリズムを選んだのであろう。
勿論、稗史がつくられる理由によって、そのテキストがねつ造されることも多いだろう。だが、ここで気が付かなければならぬことは、正史は、「現実に迎合すること」であって、それに関係する人たちを「住みやすくする」。
一方、稗史は「現実を住みにくくする」。ならば、何故、稗史をしたためなければならなかったのか。そう考えるなら、稗史こそ、多くの「真実を含んでいる」と納得できるのかもしれない。
正史とは、「存在している情報」。
一方、稗史とは「あるべきはずの情報」。または、「消された情報」。
長尾教授が長年暮らした、古都・京都には、テキスト化されない稗史が多く眠っているのかもしれない。
現代においても、勝者と敗者は存在するのだから、「あるべきはずの情報」や「消された情報」が続々と発生しているに違いない。
ならば、私たちが疑いもしない社会通念・常識・モラルも、実は、正史によって刷り込まれたものに過ぎない。実は、稗史の方が現実的であり、妥当性がある。
たとえば、ヒューマニズム(人道主義)。
いかなる場合にも、人間の生命が尊重されるという思想だが、戦争では、大多数(国民)のために、兵士の生命が消費されることも許容される。
戦争をしないですむなら、ヒューマニズムは現実的だが、戦争が無くならないなら、ヒューマニズムに妥当性はない。私たちがヒューマニズムを無条件に受け入れることに、妥当性はない。
ラマダンの時節、テロが頻発しているが、テロとは軍服を着ない者たちの戦争である。彼らが卑劣なのは、兵隊対兵隊の戦いではなく、戦意のない市民を相手にしているところである。
ジュール・ヴェルヌは「人間が想像できることは、すべて実現する」と言った。
「あるべきはずの情報」とは、「人間が想像できる情報」ということかもしれない。
「自分が考えていること」は、必ずしも「自分だけが考えていること」ではない。
「自分が考えている」なら、「他の誰かも考えている」のであって、それが情報として存在していないのなら、それは「別の誰か」によって、抹消されたに違いないということを、長尾氏は指摘しているのだろう。
ウェブとじっくりつきあったことがある人なら、「発信する」ことよりも、「抹消する」ことの方が手間がかかることが、理解しているだろう。
2ちゃんねるに誹謗中傷のコメントを投稿することは、いとも簡単である。だが、他人が書いた誹謗中傷のコメントを削除しようと思っても、簡単にはできない。システム上それは不可能だし、一般人が運営者に訴えてもなかなか実現しない。
なのに、早々と「マツリ」が収束する場合がある。
学生が主催する国際インターン団体の仲介で、東欧を訪れた女子大学生が、到着した首都空港から乗ったタクシーの運転手により、近くの森林で強姦され、殺された事件があった。
治安の悪い東欧の空港に、深夜訪れるようなスケジュールにも関わらず、現地で迎える関係者は用意されていない。
旅行会社なら、そのような危険なスケジュールが組まれることはない。学生という素人集団だから、危険性が明らかなスケジュールが組まれた。
ウェブの噂では、移動スケジュールを組んだ学生は、男子学生をめぐって殺された女子学生との間に感情的な摩擦があり、あえて危険な旅程を組んだとの憶測があった。
彼女の送り出した成田空港で、被害者は「行きたくない」と泣いたとの情報もある。
その時、学生団体の誰かが「危ないから行くのをやめたら・・・」とひとこと言っていれば、事件は起きなかったのかもしれない。これが真実なら、これは単なる悲劇ではなく、防ぐことができた事件である。
学生団体は社会的に批判されても当然。「マツリ」は盛り上がり続けるだろう。
だが、意外にも、驚くべき速さで、「マツリ」は収束していった。
そのことは、「誰かが、何かをした」と、想像できる。
国際インターン団体の顧問には、第一党の幹部が名を連ねている。そのようなレベルでなければ、なかなか「情報を削除する」ことは難しい。
歴史と伝統の京都には、「隠された情報」があふれているに違いない。
京都人は「(思っていることを言わない)いけず」との評判があるが、実は、「言えないこと」が多すぎるのである。
そのような街で研究生活をつづけた長尾氏が、「失われた情報」に価値を見いだすのは、極めて自然なことだろう。
長尾氏が歴史学を否定していることに変わりはない。
そのような人物が、大学のトップにまでのほり詰め、その後、国立国会図書館の館長をつとめたのは、ほとんど奇跡といえるだろうし、そのことは、神秘主義とアカデミズムが必ずしも水と油の関係ではないことを表現している。
○
小田切と話をしていたのは二時間にも満たない。お互いのアドレスを交換し、「後は、委細メールで」を合い言葉に別れた。
小田切から聞いた話は初耳ばかり。したがって、私は多くのことをインターネットで検索しなければならない。
私は、「教えて君」にはなりたくなかったのである。
遅れてしまったが、自己紹介する。
私は、三枝祐一というジャーナリストである。正確には、元ジャーナリストと言うべきかもしれない。
かつて、東京ローカルの新聞社に勤めていたが、ある事件をきっかけに、上司と喧嘩して退職した。今は、インデペンデント系のウェブ・ニュースサイトをほそぼそと経営している。
ある事件とは、松本サリン事件である。
松本サリン事件は、カルト系宗教団体が起こした事件であり、その後の地下鉄サリン事件に続く重大事件である。
もし、松本サリン事件の発生当時に、カルト系宗教団体が犯行に及んだことが分かっていれば、地下鉄サリン事件は未然に防ぐことができたに違いない。
その意味では、松本サリン事件において、警察が、K氏を犯人として断定し、半年にわたって無為な時を過ごしたことは、とても残念な出来事である。
当時、私は、東京のローカル新聞の駆け出しの記者だった。文系の学部を卒業している私に、化学のことは分からないので、学生時代の友人に、農薬からサリンが合成できるのかを聞いてみた。
すると、
「農薬からサリンが合成するなど、ありえない」
とのこと。
これはスクープだ。私は俄然、盛り上がった。
社会が注目するビッグニュースだから、スクープを出せばメジャー各紙を抜くことができる。
警察の誤審を明らかにするのは、反体制を矜持とするジャーナリストの面目躍如であり、先輩同僚からも誉められるに違いない。
私は、興奮を押さえながら、「農薬からサリンは合成できない」ことをデスクに伝えた。すると、デスクの上司は、彼の上役に、その上役は、中央に連絡をとった。そして、その答えは、
「何も、するな」
だった。
農薬からサリンが合成できないことは意見ではない。科学的な事実である。なのに、それを記事にできない。発表できないとは、どういうことなのか。
大学で化学を専攻する学生なら、誰でも知っていることを、新聞記事にできないとはどういうことなのか。
私は、素人なりに化学を理解しようと、サリンの化学式を取り寄せるとともに、それと農薬の化学式と比べてみた。
それを見たデスクは、化学兵器の化学式を新聞で公表することなど、ありえない。それを見た過激派組織がサリンの製造を試みる可能性もある。
スクープをあげて、新聞社を盛り上げる。メジャーなんて糞食らえと普段言っていた上司の対応は意外だった。
記者クラブを通じた、マスコミと警察の癒着が、背景にあるのかもしれない。
○
マスコミは腐っている。
それは、昨日、今日の話ではない。
ある頃から、メディアリテラシーという言葉が盛んに使われるようになった。それは、マスコミが「自分たちは嘘をつく」のだから、「騙される方が悪い」と、自己肯定をするようなものだ。
だが、取材能力のない市民に、何が真実で、何が虚偽かなんて、分かるはずはない。せいぜいが、記事の内容が広告主にとって都合のよいものに書き直されていることを予想するぐらいのものである。
さらに言えば、密室での出来事を第三者は知ることができない。密室での出来事は、その場にいた人全員が口ぐらを合わせてしまえば、世の中を騙すことはいとも簡単だ。
小泉純一郎氏が、議会を解散して、郵政民営化を問う選挙の決断をした時、森元首相が干からびたチーズを交えて、密室での出来事を話したことを覚えている。
Wikipediaには、次のような記述がある。
2005年8月6日、首相の出身派閥領袖であり前首相である森喜朗が小泉に衆議院解散を思いとどまるよう説得を試みたが、小泉は「信念だ。殺されてもいい」と解散回避の説得を聞き入れなかった。この時、小泉は高級チーズ・ミモレットを供し、森は小泉のこの歓待をネタにしてその決断を「干からびたチーズ一切れ(ミモレットはかなり乾いた食感を有する)と缶ビールしか出さなかった。俺もさじ投げたな。あれ(小泉)は『変人以上』だ」と評した。後に森は「あの時は小泉君に怒って出て行った風にしてくれと言われたのであのように言った」として、党内外に小泉は本気で解散をやるぞというシグナルを送ったつもりだった旨を述懐している。
干からびたチーズは、演出のための小道具だったという訳である。とすれば、シナリオは別にあったはず。
隠されたシナリオとは、郵政民営化は、「小さな政府」を作るためではなく、民営化することで、外資が日本最大の金融商品を手に入れることを可能にするためだったのか。
インターネットが普及すると、マスコミはマスゴミと揶揄されるようになった。既存のマスコミは、すでに自浄能力はない。
私はマスコミに見切りをつけて、十年あまりを過ごした新聞社を私は退職する。そして、友人たちとインターネットでのニュースメディア会社を立ち上げたのである。
マスコミとはマスコミュニケーションのことだが、言い換えるなら、マスメディアとである。
テレビが世の中に登場した頃、カナダの思想家・マーシャル・マクルーハンは、「メディアはメッセージである」と言っている。
日本にテレビがやってきた時、評論家の大宅壮一は、国民がテレビを観ると、考えることをしなくなる。したがって、「一億、総白痴化だ」と発言した。
映画人たちはブラウン管が小さいことから、「電気紙芝居」と揶揄した。さらに、視聴者が見たい作品にお金を払う映画と違い、広告主の宣伝によって経営を成り立たせるビジネスモデルも批判された。
世の中から批判を浴びる中、マクルーハンの言葉を知った日本のテレビマンたちは、「テレビにはメッセージ性がある」と解釈し、自らの立場を誇った。
だが、マクルーハンの言葉の意味は違っていた。
「メディアはメッセージである」とは、テレビのコンテンツが世の中にメッセージを送っているのではなく、「メディア自体が、すでにメッセージである」という意味である。
マクルーハンは、為政者たちが国民たちの思想を扇動するために、テレビというメディアを作ったことを暗示したのだ。
より分かりやすく言おう。
不良たちに体育館の裏に呼び出された時点で、すでにメッセージは分かる。
この場合のメディアとは、「体育館裏の会合」であり、その場合のメッセージとは、「恐喝や脅し」である。つまり、メッセージは「呼び出しを食らった時点」で、すでにメッセージは伝わっているのであって、体育館裏で実際に何が話されるかは、重要ではない。
テレビも同様であって、スポーツ番組やお笑い番組があったとしても、それらはテレビ放送の本質ではない。
テレビ放送の本質は、大衆の世論を操作することなのだ。
○
家に戻り、中に入ろうとすると、庭先に出ていた妻が制止する。
「ちょっと待って」
妻は、台所に行き、塩をひとつまみ持ってくると、私に振りかけた。
「キリスト教なんだから、清め塩なんて必要ないだろ」
「そんなことないのよ」
妻曰く、塩には特別の力があるのだという。
というか、「穢れ」という感覚に、宗教の別はないのだという。
彼女と結婚して、二十年近くが経っている。私は結婚するまで、妻に霊能力があるとは知らなかった。
幼い頃、二度程死にかけている。その時に、幽体離脱も臨死体験も経験しているとか。透視能力や予知能力もあるらしいが、母に「自分の能力を他人には教えてはダメ」と躾られたため、妻の姉妹でさえ、妻の能力を知らなかった。
そして、自分の奇異な能力を「閉じこめる」ことで、普通の生活を過ごそうと努めてきた。
だが、彼女には「見える」し、「感じる」。
宗教者たちが荒行をして初めて到達できる能力や境地に、生まれながらにして存在する。
シャーマンとは教祖という意味ではなく、異界のスピリットとコミュニケーションできることである。
彼女はお嬢様育ちであり、中学高校をキリスト教系の女子校で過ごしている。予知能力だけでなく教科書のページを一度見ただけで、全部覚えてしまうというスキャンリーディングの能力もあったから、成績は抜群。
ただし、ミッション系の学校の特徴である「宗教の時間」では、彼女が「見たり・感じたこと」と聖書の記述には誤りがあり、それをそのまま答案に書いたものだから、落第点になる。
クラスの担任は、優等生なのに進級できないのは可哀想と、彼女を連れてシスターのところに謝りに行ったという。
聖書の記述がすべて正しいなどということはありえない。
ルネサンス芸術の巨匠・ミケランジェロは、のばされた腕の先の指先が、つくか、つかないかで知られるバチカンのシスティナ礼拝堂の「アダムの創造」において、聖書の記述通りならば居てはいけないはずの女性を描きこんでいる。
聖書における男性の女性に対する優越を、つまりは、聖書の内容を、その総本山の壁画において、ミケランジェロは堂々と否定したのである。
壁画には続いて、アダムのあばら骨からエヴァが生まれたことを表現する「エヴァの創造」があるが、放送大学の青山昌文教授によれば、「アダムの創造」における神の傍らにいるのがエヴァ。
芸術の本質は〈真実〉を描くことであって、発注元のローマ教皇・ユリウス2世の依頼に応じることではない。この事実を持って教授は、ミケランジェロが新プラトン主義の学徒であり、第一級の芸術家であると讃美する。
その構図は、映画「ET」にも引用されている。
結婚した直後に、彼女の叔父が亡くなったので、妻と私は葬儀に参列した。
すると、祭壇の背後に叔父の顔が浮かんで見えたのだという。その表情は穏やかであり、そのことを彼女は叔母につたえると、遺族たちは一様に安堵したのだとか。
だが、四十九日忌のことである。
本堂での度胸の最中、2歳に満たない甥っ子が、大声で泣き出す。その瞬間、思いもしないことが起きていた。
叔父は、一人のこしてきた叔母のことが心配になり、一緒に三途の川を渡ろうと言う。妻は、叔母さんのことは心配しないでいいからと叔父を説得した。すると、叔父は少し寂しそうにしながら、三途の川を渡っていったのだという。
つまり、幽体離脱が起きていたのだが、それを現実に引き戻す役割をしたのが、姪っ子の号泣。姪っ子は、その様子を一部終始を見ていて、自分をかわいがってくれるおばあちゃんと引き離されるのが嫌で、泣き出したのだろう。
その話を遺族にすると、「オヤジらしいや」と従兄弟の涙を誘ったが、叔母は「恐ろしい・・・」「死んでからも、自分勝手な・・・」と憤慨していた。
○
「珍しい奴に会ったんだよ」
私は小田切の話をした。
そして、小田切が祖父の葬儀に来た理由。当然、祖父の最期の言葉「この世の中では、君が思いもしないような恐ろしいことが行われている」について、初めて妻に話した。
小田切、妻に対して話題にすることで、祖父の言葉は俄然現実味を増してくる。
「思いもしない恐ろしいこと」とは何か・・。
考えること自体が、すでに、恐ろしさに繋がっている。こんな気持ちをむやみに他人と共有してはならない。
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