第2話 モダニズムの時代の終焉。
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環境破壊が世界中で問題になっている今、「人間がこの世界を征服してかまわない」というモダニズム(近代主観主義)の時代は終了している。
青山昌文(放送大学教授・美学芸術学)
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「ひさしぶり」。
背後からふいに声をかけられた。振り向くと小田切が立っていた。大学時代の知り合いだが、何年も連絡を絶っていた。彼が総合商社につとめており、世界を飛び回っていることは、別の友人たちから教えられていた。
私と彼は、人並みに逆らうこともせず、ゆっくりと最寄りの地下鉄の駅に向けて、歩き出した。
「何で・・・」。
私は彼に問いかけた。
「お前こそ」。
それが久しぶりに、お互いに投げかけた言葉である。
表通りまでもう少しという場所にある喫茶店に入った。
扉を開けると鈴が鳴り、客が来たことを知らせるレトロなタイプである。きっと店主は大儲けなどには無頓着で、学生を相手に営業してきたに違いない。もっとも、学生が学校に通うのは、1年のうち半分程度だから、学生だけを相手にしては営業はなりたたない。
そんな店が何年も営業を続けてこられたのは、ほとんど奇跡ではないか。
カウンターの片隅には古びたテレビがある。きっと高校野球のシーズンには、客たちはこのテレビを目当てに来店するのだろう。
季節はずれの今、東京ローカルの番組が流れている。画面には、旧制高校的な教養を誇るかつての東大教授・NS氏が〈公共〉の概念について講義をしている。民主社会にとって、〈公共〉の概念は極めて重要である。
だが、〈公共〉なる概念は、〈個〉がエゴイスティックに振る舞うという言わば妄想を元に、それでは社会が立ち行かないという事情をもとに構想された。〈個〉が独立した〈個〉として世の中に生まれるはずはない。それは、この世に誕生した時に「天上天下、唯我尊」と宣言したブッダとて同じこと。
乳幼児はエゴイスティックに振る舞っているのかもしれないが、だが、それは親の庇護がなければ生きていけない。その状況は、その後、かなりの年月に亘って継続するにしても、そもそも人間は、コミュニティーの中で、エゴイスティックな自己を貫くことなど無理である。
偏差値信仰は、東京大学に特別な権威を与えてきた。その唯我独尊的な信仰に、この大学教授も連なっている。その危うさを隠すためか、彼は帽子を纏い、冬でもないのに手袋をする。
だが、東京大学の本質は、政府の御用学者を育成し、養うための機関に過ぎない。
したがって、普段は真実を追求している学者たちも、政府からの働きかけがあれば、わが身のサバイバルのために恥じらいもなく自説を覆す。
〈真理〉とは、人間の〈主観〉によってどうにでもなる。これこそが近代主観主義(モダニズム)の都合のよいところである。
振り返ると店内の書棚には、ヨーロッパ近代の思想書・哲学書が飾られている。そのことは、店主が自らの教養を誇っていることを露骨に表現していた。それが私が学生街の喫茶店と判断した理由である。
祖父が人生の大半を過ごしたのが、テレビの中の教授が誇るアカデミズムの世界である。
だが、1990年代以降、アカデミズムは世の中から遊離して、色あせている。その事実に、テレビの中の大学教授を筆頭に多くの人がそのことに気づかずにいる。否、うすうす気づいているのだが、自らのサバイバルのために、そのことを公に語らない。
○
私は、故人が祖父であることを小田切に伝えた。
すると、小田切は、祖父の遺体を見に来たのだが、その望みは叶えられなかったと、残念そうにつぶやく。
「お前のおじいさんは、謀殺されたかもしれないんだよ・・・」
思いもしない小田切の言葉に、私は一瞬たじろいだ。だが、すぐにその可能性について、思いを巡らせる。
「君が思いもしないような恐ろしいこと」とは、「自分が殺されること」だったのかもしれない。
私は小田切に「祖父の最期の言葉」を明かした。
「世の中では、君が思いもしないような恐ろしいことが起きている」
すると、今度は小田切の眼が一瞬、煌めいた。
「やはり…」
「(恐ろしいことを)阻止しようとして」、または、「(恐ろしいことを)暴露しよう」として、祖父は殺されたのか。
「何かがある。それだけは確かだ」
だか、私には、小田切の脳裏に何がよぎっているのか分からない。
「何かって…」
私は「殺されたかもしれない根拠」について、小田切に尋ねる。
「殺されたかどうかは分からない。ただ、何かが起きていたことは間違いない」
小田切はゆっくりと生前の祖父の様子を語りはじめた。
「俺が数年前から私淑している陰謀論者がいるんだけど、お前のおじいさんは最近かなり親しくしていたんだ」
実存主義の研究を貫いたとばかり思っていた祖父が、陰謀論にも通じていたとは驚きである。
「その大家がこの間亡くなったんだ。これからどんな発言をしていくのか、とても楽しみにしていた矢先だったから、俺はとても残念だったんだ。そんな矢先、今度は、お前のおじいさんだろ…。これは何かあるに違いない」
自分の直観が当たったことに、小田切は大満足である。
だが、私には何が何だか、まったく分からない。そもそも、陰謀とは何なのか。
J.F.ケネディーの暗殺とか、マリリンモンローの自殺とか、陰謀の噂は絶えない。日本でも、アメリカの占領下で頻発した未解決事件が、陰謀の仕業ではないかと、噂されている。だが、それらは、あくまでも仮説に過ぎず、真剣に考察するようなものだったのか。
陰謀論の大家と祖父は同じ日に死んでいる。これが偶然の一致なのか、仕組まれたことなのか。私の想像・妄想は留まるところがない。
小田切は、祖父が殺されたのかどうかを知るために、つまりは、祖父の死体を観察するために告別式に来たのだという。青酸カリで毒殺されると、頬はバラ色で、アーモンドの香りがするのだとか。祖父の遺体からも何らかの手がかりが得られるのかもしれぬと思ったのだろう。
小田切が私淑する陰謀論の大家は太田龍という。
彼の講演会に何度も参加した小田切は、講演会の会場で祖父を何度も見かけたし、懇親会で話しかけたこともあるのだという。
興味がある人は、太田龍をWikipediaで調べるとよい。
太田龍は若いころ革命思想家だった。1970年代になると、共産主義と訣別。さまざまな著作を発表している。
彼の特徴は、海外の陰謀関係の著作を翻訳して発表しているところ。トンデモ系の学者は、自説を主張したがるものだが、彼の場合は少し違っている。
そのあたりが読者には信頼できるのだが、もしかすると、他者の説に便乗する無責任な輩なのかもしれない。彼が扱うのは、比較的最近の出来事ではなく、歴史の起源にまで遡るような考察が多い。つまりは、3億円事件の真相や、日航機墜落事件などは相手にしない。
さらに言うと、現世と霊的世界の境界にとらわれずに執筆している。というか、そのような立場を取る著者の作品を数多く日本に紹介している。
歴史とは、過去の文献に基づく学問である。したがって、過去に事実があったとしても、文献の消滅によって跡形もなくなる。文化人類学的にいえば、「人間は、事実と同じことを記述しようと思わない」のだから、事情は複雑である。ならば、歴史は「嘘つき日記」の寄せ集めということになる。
一方で、民族の記憶というのがある。それは口伝であり、神話である。民族の記憶は、語り部や聞き手の興味を引くように変質するとともに、支配民族に気づかれぬように、本当の意味が隠されることもある。
たとえば、桃太郎の鬼退治にしても、鬼が島は実際にあった島をモデルにしているのであり、家来として戦いに参加した動物たちも、同盟国を意味するに違いない。浦島太郎の昔話にしても、大陸に渡り鉄の製法を学んだ職人たちが、かの地で幸福に暮らしていればよいものを、里心を出して帰郷したら、鉄の製法を独占するためにて幽閉された。よくも竜宮城から帰ってくるようなバカのことをしたものだ。との寓意があるいう。
それだけではなく、文献にとらわれずに考察するなら、真実に至る方法はまだある。その一つが、前世の記憶である。
ムー大陸やアトランティス大陸が存在したとされる理由は、世界各地に〈前世の記憶〉が散在しているからである。
世界を駆けめぐってビジネスをしている小田切が、なぜ、太田龍に興味を持ったのか。私にはなとなく分かる。
日本で勉強する限りでは、西欧人は皆、キリスト教を信じている文化人である。だが、その実際は、キリストの復活という奇跡を信じている人たちは少数派であって、自分たちのコミュニティーの異分子にならないように、キリスト教徒を演じている。
つまり、西欧の過程に飾られているキリストの絵画や十字架は、戦前の日本の家庭に飾られていた「御真影」と同じ。終戦の時に、皇居前広場で泣き崩れるような教信者を除けば、「生きている人間が、そのまま神である」というようなことを、ごく普通の人が信じる訳はない。
キリスト教も同様であって、イエス・キリストの奇跡があったかどうかはともかく、聖書の内容は、生きていくために役立つと感じているに過ぎない。
その状況は、神道と仏教を同時に信仰している日本人と大差がない。神社にいけば神道を尊ぶ人がいるのは当然だし、寺院に行けば、信仰の熱い人たちに出会うのは当然である。だが、そのような人は稀であって、ほとんどは、正月の初もうでと、冠婚葬祭の時だけ、熱心な信徒になる。
仏教徒であろうと、キリスト教徒であろうと、私たちに見えているのは現世。この世界だけである。霊的能力をもたぬ限り、神秘の世界は別世界なのである。ただし、複雑なのは、ごくわずかだがこの世の中には霊的な能力がある人間がいて、別世界のことをうかがい知ることができる。だが、それが「実際に見た」ものなのか「騙っている」のかは、能力のない人には判別がつかない。
太田氏が何故イデオロギーの世界から、陰謀論の世界に転向したのか、私は知らない。そして、祖父が、実存主義の限界を悟った時、何故、陰謀論の世界に興味を持ったのかも。
ただ一つ言えることは、イデオロギーの世界とアカデミズムの世界は、ともに妥当性を持たない虚構の世界だったということだ。
「何が、起きていたんだ…」
「俺にも分からない」と前置きをして、謀殺されたとの噂があるハリウッドの映画監督・アーロン・ルッソのことを小田切は話しはじめた。
詳しく知りたい人は、Googleで検索をかければよい。その手間を取りたくないなら、続きを読めばよい。Wikipediaであろうと、私が作成したテキストであろうと、どちらも信頼性に大した差はない。私にしても、宮本武蔵の「五輪の書」の章末の警句を引用し、「よくよく吟味するように」と付け加えたい質なのだから。
アーロン・ルッソは、ハリウッドのコメディ映画の監督であり、ベッド・ミドラー主演の「ローズ」や、エディー・マーフィー主演の「大逆転」などのヒットメーカーである。その彼が、テレビの対談番組で、アメリカを影で操っているといわれるロックフェラー家の一員との対談のことを話題にした半年後に亡くなったのである。
対談の内容は、この世界が〈彼ら〉によって操作されていること、そして、近々大惨事が起きること。大惨事とは、後に、9.11と呼ばれることになる同時多発テロのことである。
アーロンの話では、ウーマンリブは、女性の自由のために企画されたのではなく、こどもの教育する機会を女性から奪うことと、女性が働くことによって税収が倍になることを目的にしている。「彼ら」は、リベラリズムを装って、この社会をコントロールしたり、搾取しようと計画し、それを実行に移しているのだという。
〈彼ら〉が誰なのか、ロックフェラー家なのか、それに連なる勢力なのかは分からない。
確かなことは、その後、アーロンは亡くなり、9.11という同時多発テロがニューヨークを中心に発生したことである。
アーロンと同じように、太田氏も、そして、祖父も謀殺されたのだろうか。
とすれば、太田氏や祖父が、何か重大な情報を公開したことになる。そのようなことがあったのか、なかったのか。私には一切分からない。
というか、祖父は、実存主義に行き詰っただけであり、そのことは、社会を根底から覆すようなインパクトを日本社会に与えるとは思えない。
太田氏について、私は詳しく知らないが、トンデモ系の学者は、そもそも世の中から相手にされていない。つまり、ヒット作を連発する映画監督が、テレビのワイドショーで発言し、世の中で話題になるというようなこととは、無縁。
そのところが、祖父と太田氏とは明らかに異なる。
○
小田切は続いて、ワールドフォーラム代表の佐宗邦皇氏を話題にした。読者においては、Google検索をかけていただいて構わない。
佐宗氏は、日航、御巣鷹山事故の真相を究明する言論活動を行っていた。
発言の真偽はともかく、彼は主宰する団体の月例会の途中で、ペットボトルのお茶を一口飲んだ直後に昏倒し、翌日亡くなった。2009年の12月の出来事である。
死因は脳溢血だというが、今となっては、ペットポトルのお茶と脳溢血に因果関係など、調べることもできぬ。というか、これほど明ら様に、謀殺を臭わせる工作があるだろうか。
佐宗氏に一般的な知名度があったとは思わないし、墜落事故にしても、24年前の出来事である。一体何が起きていたのか。
○
考察をすすめよう・・・。
では、「殺される人」と「殺されない人」の違いはどこにあるか。小田切は、「それが分かったら、苦労はしない」
杳として分からないと白状する。そして、ベンジャミン・フルフォードを話題にした。
ベンジャミン・フルフォードは、生前の太田龍氏とも交流があったという。
彼は、上智大学比較文化学部を経て、ブリティッシュコロンビア大学を卒業。アメリカの経済雑誌「フォーブス」のアジア太平洋支局長を経験するというエリートである。
家柄も申し分ない。彼の祖父は電気自動車を開発したが、人類史上初めてともいえる自動車事故にあい、死んでしまう。当然、事業は頓挫した。
太田氏曰く、「彼はセックス中毒。少しは慎むべき」と彼を批判している。何の意図を持って、彼がカナダ生まれの外国人をそのように批判したのかは分からないが、外国人は日本ではモテるに違いないから、彼は日本での生活を満喫していたのだろう。テレビにも出演したことがあるから、顔を見れば知っている人も案外多いのかもしれない。
ベンジャミンは、闇の組織と取引きをしているから、謀殺されることはないと豪語しているが、その実際は分からない。
小田切に言わせると、彼は闇の組織の一員であり、その広報活動の一環として発言しているのであって、彼は陰謀論者ではなく、陰謀の側の人間ではないか。と、疑っている。セックス中毒というのも、陰謀側の人間である証かしかもしれない。陰謀論の知識に乏しい私は、ただただ頷くだけである。
「じゃ、殺される理由は?」
私は、小田切に尋ねた。
「殺すために、殺すことは、ほとんどない」。
口封じは勿論、憎悪や報復のために謀殺することはありえないのだという。
謀殺されるほとんどは、「見せしめ」。つまり、殺人の事実を持って、「誰かを恐喝する」ために、謀殺が行われる。
その証拠に、謀殺が密かに行われることはない。謀殺は、犯行後、必ず多くの人に知られる。つまり、誰にも知られずに謀殺が行われることはない。そして、「知る人」にだけ、それが謀殺であると確認できる。世の中の大部分は、謀殺などありえないことであって、妄想に過ぎないと高をくくる。そのことが「知る人」にとって、次は自分かもしれないという恐怖に繋がる。
自分が謀殺されたとしても、それが明るみに出ることはない。まさに、底なしの恐怖だ。
考えてもみよう。
人はなかなか死なないものである。断末魔の状態であっても、人間は無意識に生きようともがく。
とすれば、自分の身長よりも低いドアノブに紐をかけて、首をつって自殺することなどありえない。しかし、マスコミには、そのような事案が何年かに一度は発生する。
逆にいえば、マスコミに載らないような自殺で、ドアノブに紐をかけて自殺したという話など聞くことはない。
謀殺は、報道とセットで仕組まれている。
○
実存主義者の祖父。
共産党系の活動家だった太田氏。
ふたりを結びつけた陰謀論とは何だったのだろう…。
ふたりの交流の先に何があったのか・・・。
否、私と小田切が考察しているのは、ふたつの死に関係はあるのか、ないのか。
あるとすれば、それはどういうことなのか。
その一点である。
だが、私の思索は一向にまとまらない。
その時の私は、ふたつの死の観察者であって、検体への距離は十分あり、自分に身の危険が及ぶことなど想像だにしなかった。
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