第4話

「もう、6年くらいになるのかなぁ。」

そう語り出したマスターと名乗る男性は、カウンター端に私を座らせ語り始めた。

「彼らがこの店に来るようになった時は、僕はこの店にいなくてね。当時、この店を手伝ってた息子が女の子の方をアルバイトとして連れてきたそうだ。彼は、その後に彼女を訪ねて来たそうだが、まぁ、なんだ。多分、君が心配するような関係ではないのかもしれないよ?彼の彼女さん?なのかな。コーヒーは大丈夫かな?」

そう言って、マスターは私の前にコーヒーと淡く黄色いレモンケーキを出してくれた。


「彼が、私の知らない彼のようで、不安なんです。こんなにも一緒にいたのに、まだまだ知らない事ばかりで。」

口に入れたそのケーキは甘酸っぱく、人を疑うことをまだ知らなかった頃に食べたレモン味の駄菓子のようだった。自分を恥じると同時に、自信がなくなった。自分の右後ろの窓側の席で、私と正反対の女性の前で楽しそうに話す彼。来週末の楽しみは、まるで綺麗に消え去ったかのようだ。


「さ。もうすぐ彼らは店を出るよ。貴女は、どうしますか?」

どれほどの時間が経っただろう。気がつくと彼らの隣の窓から夕日が差し込んでいた。

「彼らは、1度注文をしてから追加注文はしないんだよ。飲み終わったら終わり。多分、もうそろそろだよ。」


「大丈夫。それでも君は、彼が選んだ人なんだろう?自信を持って。」



彼から逃げるように店を出た私は、出町柳駅から出て来る色とりどりの浴衣姿の女の子達から逃げるよう、真っ暗な路地へ隠れた。

目の前を彼らが通り過ぎる。今夜は宵山。京都の街が熱くなる夜だ。


いきなり、電話が鳴った。

「もしもし。今、どこにいるの?」

虚をつかれた言葉に涙が出そうになる。知らないで。

「どこって、私…」

「マスターから聞いたよ。どこにいるの?」

湿気の多い夜風が身体に張り付いて来る。背中にかいた汗は暑さからか緊張なのか分からなくなっていた。

電話を繋いだまま路地から一歩出る。

「ごめんなさい。私…実は、貴方の後ろを…」

彼は優しく私の言葉を遮る。

「心配かけて悪かった。ちゃんと話したいから、顔を上げてくれないかな」

そう言って泣き顔の私を覗き込んだ彼は、私がいつも見ていた彼だった。


2人で選んだ式場にドレス、頑張って作った招待状。全てが無駄になるなら…

彼が私の前に1冊の本を差し出した。

「めくってよ」

その300ページほどもなさそうな文庫本を手にとり、パラパラとめくる。すると、途中の一部にだけ線が引いてあった。

そして最後に一言、鉛筆の走り書き。


その時やっと、先ほどの彼女がいない事に気がつく。

「実はね、僕らはずっとあの店で本の貸し借りをしてるんだ。大学一年の時からだから、もう7年かな?貸す時には、相手に線を引いて渡すんだ。そうするとさ、今までとは違う読み方に変わる。その読み方で感想を話し合うんだ。あの会は、それだけの場なんだ。

現に僕は、あの子の連絡先を知らない。」


【宵山に会いましょう】


そう書かれた最後のページ。

「どうしてそんなに長い付き合いなのに、連絡先を聞かないの?」

「必要にならなかったんだよ。あの店に行けば、あの子は大体いたし。それに、聞けるだけの勇気がなかったんだ。」

そう言った彼は私の横に並び手を取る。

「こんな僕が、唯一、勇気を振り絞ってプロポーズをした時のこと、まだ覚えててくれてる?」


今日は宵山。明日は山鉾巡行で街がたくさんの見物客で埋め尽くされる。

泣き顔が恥ずかしくて前が見れなくて。ただ通り過ぎるだけになった初めての祇園祭は、彼の温かい手に引かれながら祭囃子で声をかき消し、真っ暗な夜空に屋台の灯り。

それはまるで、2人だけの世界だった。

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宵山に会いましょう 岩本ヒロキ @hiroki_s95

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