第三幕 終章 六人の演者によるスペクタクル

 トラックはいつのまにか街道を越え、大鉄橋の中心を駆けていた。街を二分する川に架かる、一番逞しい橋だ。

 ダミアンは横を向いて、その錆びついたアーチに見とれていた。虹みたいに綺麗な弧の線!

 その時、ぱんっと、背後のすぐそこから銃声が響き、彼女は小さな座席の上で飛び上がった。そしてゆっくりと、びくびくしながら振り返る。

 そこにはキャビンの壁があった。

 銃声は妙に間延びして聞こえた。

 ≪街道の警邏≫の先から煙が立ち上り、背後の西詰めへと流れていく。その銃口の先には、あの怪物。

 怪物は支柱の折れた案山子のように、大きくのけ反っていた。はち切れんばかりの胸筋の向こうに頭が隠れ、その顔は見えない。だが――その胸の向こう、頭があるであろう部分からは硝煙が立ち上っているのがわかる。

 ロペの目がころりと動き、自分が抱えている少女を見る。ヤツヲは反動が重かったのか、銃を持つ手をぶらんと垂れさせて、体重をロペへと預けていた。

 柔らかな髪と、硝煙の臭い。


 怪物の右足が浮き上がり、二、三歩地団駄を踏むように後ろへと下がる。それに伴い、上半身も大きくよろける。そして四歩目の脚が腿より高い位置にあがり、傾いた上体が、戻る。

 河川を二つに割らんばかりの絶叫が街に轟く。怪物はしなった背骨をたゆませて、ロペ達へとその眼光を向けた。

 その額には確かに銃創の穴が穿たれていた。その縁は摩擦熱で炙られたようになっていて、血もだくだくと流れ続けている。しかし怪物は倒れない。

穴の奥から小金色に輝く何かが、少しずつ迫り出してきている。それは内部から膨らむ肉に押し出され、排出された。それは弾丸だった。

「き……サま……」

 ロペはその瞬間、肺の空気が全て無くなるほどに戦慄していた。つい先ほどまで、この男は重篤な皮膚患者か、狂人かと思っていた。そうでなくとも、不死の化け物など思うわけがない。

彼の常識が音を立てて崩れていく。

「シの弾丸が、ムだに、なっタら、どうする!」

 怪物がその顔を憤怒に歪ませ、一歩踏み出す。それだけでトラックの荷台は小刻みに震動した。ロペは反射的に足を引くが、その踵は荷台の囲いへ当たった。振り返れば、もはや一歩の余地もそこにはない。

「きさ、マ、きサ、まァ!ワ、た、セ!」

 道路を見る。トラックは蛇行をやめ、十分に加速しはじめていて、今飛び降りたらば無事では済まない。死なないにしても、逃走できなくなる。

 橋の欄干の外まで跳躍して、灰色の水に沈むのは?いや、この四車線の道路の端まで、ヤツヲを抱えたまま飛ぶのは不可能。

 もう逃げ場は、無い。

「じユうヲ、あ゛ぁ、ジユう、銃を!かえせ!」

 銃?

 ロペはヤツヲの手元にある、硝煙を噴き終わった≪街道の警邏≫を見る。この化け物はこれを欲しているのか。≪死の弾丸≫、とも言っていた。でもそれが何?何故?このただの銃に何がある?

 なんにせよ銃を渡せば、この怪物は見逃してくれるかもしれない。しかし銃を渡しては、この後身を護る手段がなくなってしまう。しかしそうしている間にも、怪物はにじり寄って来る。その腕を振り上げる。銃を渡して逃げるべきか、この銃でもう一度打つべきか―――

「なんで」

―――――判断できなかったロペは、一言だけ問う。

「なんで、この銃を、欲しがるんだよ」


 その時、ロペは初めて人間らしい声を聴いた。

 それはまるでラジオが喋っているような無機質なものだったか、怪物が言葉だと、少し遅れて知覚した。

「……任務のためだ」

 そして、巨腕が振り下ろされる―――――。



 咄嗟に瞑っていた目を開ける。そして、ロペはいつまでも自分の身を掃き飛ばさない腕がどこへ行ったかを知った。

腕は、宙を舞っていた。そして重力に弄ばれて、橋の上へと落ちていく。

怪物は目を剥いて、肘から先が無くなった己の腕を見ていた。そしてその視線を傍らへずらし、自分の腕を断ったその白刃を見た。

その白刃の持ち主、伯爵は肺がいまだ十分に再生していないのか、かすれ声を上げながら呼吸している。そして、二重廻インパネスしを脱ぎ去ったことにより露わとなった、その胸元では、黒煙が渦を作りながら噴き出していた。その内の傷が、だんだんと無かったことになっていく。

―――――この人も、怪物なのか。ロペは再び息をのむ。

 腕を断った白刃が、今度は肩の高さで真っすぐに構えられた。弓の弦を引くかのような動作だ。その切りっ先の直線状には怪物がいる。彼の腕が、弓を射るかのように引き絞られ―――放たれた。


 次の瞬間、怪物の右目が爆ぜた。

 赤い花がひとりでに開花したかのようで、ロペにはその過程はまったく見えなかった。それが剣の刺突によるものなのだとすぐに認知できなかった程に、だ。その血が宙を舞うころには、すでに伯爵は赤く塗れた刃を再び構えなおしている。その時になって、やっと痛覚が現実に追いついたのか、怪物の醜い悲鳴を上がった。

 再び、伯爵が刃を引き絞る。シャツとベストの上からでも、その両肩が筋繊維により膨らむのがわかる。怪物は苦悶の声を漏らしながらも、残っている腕を上げ、その顔を隠した。ちょうど刃の切りっ先と自身の眼球の間を遮るような形だ。伯爵はそれに意を解さない。ただただその刃よりも鋭い視線を向け続ける。そして、その白刃が、腕が、放たれた。

 燕が下弦を描きながら、飛翔していく時のような、風が切れる音だけが響いた。


 ロペが気づいたときには、刃は怪物の左目に突き刺さっていた。間にある腕を、その剣は貫いて。


 肉が引き裂かれる甲高い音を響かせながら、その刃が引き抜かれると、怪物はその顔を両の手で覆い、もんどりうった。象のような足が地団駄を踏むたび、荷台が揺れ、伯爵とロペの体が浮く。

「まだ止まらないのか……!」

 伯爵が忌々し気に眉を顰め、怪物をねぶる。それに対し怪物は、肩から伸びる、もはや動かない肉の丸太を力任せに振った。ただでさえ質量のあるそれは、単に振り回すだけでも遠心力が載り、当たったらただでは済まない。

 しかしその時、その時だ。

ぱんっ ぱんっ ぱんっ

その乾いた音は突然やってきて、怪物の右膝に着弾した。火薬によって放たれた鉄の弾が、柔らかくも弾力のある何かに絡まりながらも、突き破るときの音。

 その発信源は怪物の背後、過ぎ去る橋上の景色の中にいた。橋の欄干に背を固定し、大砲のような銃を向けていたのは、塹壕套トレンチコートのあの男。

 その音は六度響いたが、怪物の膝には三つの穴が開いているではないか。そして怪物は、自らの腕の遠心力に引っ張られ、その重心を大きく後ろへと崩す。

 その一秒後には、伯爵は動いていた。剣をするりと捨て去り、床板を垂直に踏み込むと、怪物の胸板に、三角形を描くように両の手を添える。

 そして、撃つ。


 怪物の体は、胸に二つ、手の形をした窪みをつくって、宙へと放たれた。道路を跨ぎ欄干にその身を打ち付けると、そのままその向こうへと落ち、見えなくなる。

 やがて、水しぶきの音がした。



 トラック上に、ヤツヲが初めて落下したとき以来の静寂が訪れた。ロペとヤツヲはもちろん、伯爵も沈黙している。伯爵は小刻みに、不規則な呼吸を、だんだんと長く、リズムを取ってに直していく。

 そして最後に一拍吸い込むと、ロペとヤツヲに向き直った。

「少年」

 ロペもやっとそこで気を正した。意識が白昼夢から現実に戻ってきたかのようだった。彼が警戒してヤツヲを抱きすくめると、彼女は銃をその懐に隠した。

「銃をこちらへ。そして、その少女を離しなさい」

「……あんたは、どっちなんだ?」

 ロペは言いながらも目を逸らし、周囲を見る。橋の上はとっくに過ぎ去り、今や街の港をトラックは走っていた。クレーン機の雁首と、幾本もの鉄骨、そして貨物列車の高架が空を覆っている。その内のどれかに縋りついてここから逃げ出せば、あとは下水道に潜って―――。

「どっちだ?……あの怪物のように銃を求めるものか?それともエドゥアルド氏の関係者か?そういう質問ならば、こう答えましょう。両方です」

「……いずれにしろ、エドゥアルドの手先ってことか」

「ロペ」

「その言い方は少々不快ですね。取引をした、といってもらいたい」

「……じゃあ銃はやるから、僕たちを見逃す、そういう取引もしてくれよ」

「ロペっ」

「―――事情を知らなかったらば、そういうこともできたでしょう。ですか」

 伯爵は床に転がる剣を、その指で拾い上げると、構える。

「生憎ですが、可憐な少女を海外へ売ろうとしている不貞の輩を見逃す程、私は堕ちていないんですよ」

―――――待って、何の話だ!?

 ロペはそう言おうと、口を開いたが、

「ロペっ!前っ!」

 先ほどから何度か聞こえていたヤツヲの呼びかけがそれを制する。なぜならそれは、焦りに満ちていたからだ。

 しかしその意味はわからず、頭に疑問視を浮かべながら男たちはトラックの前を見る。

「えっ……」「馬鹿なっ!」

 そこには、高架の木組みが急速に近づいてくるではないか。

 今まさにトラックは、その縦尺よりも低い位置にある高架の下をくぐり抜けようとしているのだ。当然、衝突するだろう。

 だがトラックは停まらないし曲がらない。それどころか、中からは嬌声が聴こえてくるのだ。

「あの豚小屋みたいな屋根……いよいよ豚さんの国に入場なのだわーーーー!」

 その言葉の意味に首をかしげる暇もなく、トラックは高架に衝突した。

 キャビンの額が力いっぱい押し付けられ、屋根がひしゃげ、はがれていく。その破片が散ったのち、黒々とした高架の橋桁がロペと伯爵の眼前に現れた。

 伯爵もロペも逃れられるわけがなく―――その表面に体を打ち付け、トラックから弾かれる。

 だが、ヤツヲだけはトラックの床に転がり、その高架を潜り抜けていた。高架が目前となったとき、彼はヤツヲを離したのだ。

「ロペ――――!」

 ヤツヲは床から手を伸ばすが、それがトラックの外まで伸びるわけがない。まして、遠ざかっていくロペに届くことなどありえない。

 ロペと伯爵は高架に弾かれたのち、慣性に従って、トラックと逆方向へと飛んでいった。そしてまた、衝突で大きく上下したトラックから弾かれ、男たちと共に飛行する物体が一つ。

 彼らはしばし低空旅行を楽しんだのち、重力の手に捕まる。ロペはごみダメの中へと突っ込まれ、伯爵は倉庫の煉瓦壁に身を打ち付けた。そして、共和国将校の死体は中空にてその毛布から解き放たれると、空中にてくるくると踊る。

 そして、曲線を描きながら、魚問屋の窓へと落下してゆく。


 ガラスが粉々に砕ける気味のいい音が、港町に響き渡った。


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