第二幕

第二幕 一章 伯爵とアンフェル エドゥアルドの邂逅

 たんたんたん 三度ドアがノックされる。

 だんだんだんだだ 少し強めに、そして尾を引くように、ノックは続く。

 だだんだんたた さらに強く、リズムは小刻みに

 だだん、がきゃん 一拍置いた後に一番響く音を鳴らすと、蝶番が弾けドアが飛んだ。


 新たに四角形の窓が開いた部屋に、ずかずか、つかつかと二人が入ってくる。一人は砂色の塹壕套姿トレンチコート  の大男、アンフェル。彼はさながら指揮者の可動式彫像のように、指揮棒を振りかざすような手つきのまま部屋へと入場する。その後ろに続くのは、慇懃無礼、という辞書を引くと、挿絵として出てくるかの様な紳士、伯爵だ。

「よかったのですか?不在のようですが、隣家に騒がれたら厄介ですよ」

 アンフェルは伯爵へ振り返る。その顔は夢の中で海豚と戯れているかのようだ。

「大丈夫だ。ここのアパートの人は皆寝入ってる。青色の空気が満ちてんだ」

「さいですか」

「わかるか?静寂ってのは透明じゃない。いつだって薄い空色なんだよ。俺らが無音だと思ってるのは、極力淡くされた数々の自然音なんだ。そうすると音の原色である青が透けて出てくる。わかるか?」

「さいですか」

 聞き流しているようだが、実のところ伯爵はアンフェルの弁舌を聞きいている。そして彼の言うことには理解できないと結論をつけた。かくスラムの一風景から百の音響を味わえるのは、ひとえに彼の才能故だろう。

 如何なる音からも『色彩』を感じ取り、十二音階へと還元できる才能、つまるは絶対音感だ。

 アンフェルは一見無頼漢にしか見えないし、事実内面の9割もそうである。だが残り一割は、歴史上稀なる程の音楽家なのだ。そしてかつ、彼は不死なのだ。

その理由は知らない。自分のように『魔術』を用いたのか、それとも西方王のように『死神』と取引したのか。それは気になることだが、詮索するほどではない。なぜならば、伯爵が真に求めるものは永遠の命の方法ではなく、それを終わらす方法なのだ。

それを求めて、伯爵はここにやってきた。ホーツゴートの壊死した指先ともいえる区画、クドリャフカ通り。つまるは貧民街の、三番目のアパートの一室。

部屋の中は冷たい空気で充ちていた。それもそうだろう。この部屋には壁紙がない。隙間だらけの木壁から、11月の風が流れ込んでくるのだから。

それに部屋には暖房となるものが一切ない。それどころか、生活に必要最低限のものしかない。ウールの薄い毛布と寝台、僅かな食器、デスク、ゴミ箱。クローゼットが無いからか、部屋の壁から反対側へ、紐が一本張られている。平時はそこに衣服が掛けられるのだろう。

伯爵の、世紀をまたぎ生きながらもなお錆びることない『礼儀』が、この部屋への侵入を躊躇させる。対して、アンフェルは此処は自分の部屋である言うかのように、堂々と闊歩すると、寝台に腰掛けた。

「しっかしいねえなぁ。その……なんだっけ?」

「オリバー・ロ……ファミリーネームがとても長い少年でした。ので、たしか、『ロペ』と」

 確かに、銃器屋グレツキーはそう漏らしたことを、アンフェルは思い出した。その声はミキサーで攪拌されたト短調ジー・マイナーだった。あれが親指を切られた時特有の叫びなのだ。

 彼らは密売商人を『訪問』した後、その足で銃器屋のグレツキーの下へゆき、彼に『薬莢詰めの死』について質問したのだ。

 グレツキーは、『死の弾丸』を、銃と共にとある少年、ロペに渡したのだという。金は無いが、銃を非常に欲する少年で、グレツキーは彼に密売商人の仕事を手伝わせ、その報酬に売れそうにない銃を渡したのだ。

 グレツキーは事前にロペ少年の自宅――彼は孤児であり、一人暮らしだった――を調べ上げていたので、伯爵とアンフェルは今ここにいるわけである。

「お出かけかね。若いからな、湖に女の子を連れていったのかもしれねえ」

「この街に湖畔はありませんし、この部屋を見るに、そんな余裕はありそうにないですが」

「『湖につれてく』ってのは、俺の故郷の隠語で、『隠れてセックスする』って意味なんだよ」

「さいですか」

 伯爵は聞き流すと、部屋を見分しだした。デスクの引き出しを開け、ゴミ箱を探り、寝台の下を覗く。その間に『礼』が彼を詰問するが、その手は止まらない。

彼は既に一つの仮説を立てている。それが正しいならば、いくらこの部屋を争うが、きっとロペ少年もかまわないだろうからだ。

突如機敏に動き始めた伯爵を、アンフェルは呆けて見ている。伯爵がこうなったらば、そのまま任せて置けばいい。彼の装いは吸血鬼のようだが、案外中身はパイプを曇らす探偵に近いのだ。

と、彼が考えていると、目の前に伯爵が仁王立ちしていた。何か言うことでもあるのか、と思い待っていると、彼はそのまま、アンフェルの傍、寝台の上に足を乗せる。

 元々天井の低い部屋だ。伯爵の背丈ならば、寝台に乗ったらば頭を屈めねばぶつかってしまう。これが15歳の少年だったらば、ちょうど手が天井に届くくらいだろう。

 伯爵は首を傾けたまま、天井の木目を手で撫でていく。木のささくれが手に刺さるが、瞬時に煙がわずかに噴き、傷が消える。

 そうしていると、天井の羽目板が一つ、奥へと動いた。押していくと、ちょうど正方形にそれが外れ、天井裏へとつながる。

「気づかなかったな。賢いガキだ」アンフェルがその様子を見上げている。

 伯爵がその天井裏を手で探ると、何かに触れた。それを手で撫で、形を見ていくと、それが箱のようなものだとわかる。それを両手でつかみ、天井裏から下ろすと、事実金属製の箱だった。留め金には南京錠が、はまっていない状態で吊られている。

「ほう。金庫かな」

「ですね。ですがどうせ空でしょう」

 伯爵はそういうと、それを開いて見せる。当然のことながら、そこにはただ空気だけが収まっている。

「彼は貯金の一切を持っていっています」

「あるいは、常日頃から空だ、とは?」

「ならば埃が被っているはず。屋根裏の中で、これだけは埃がつい最近取り払われていました。取り出したと考えるべきでしょう」

「何のためにだ?」

 伯爵はベットから降り、金庫をデスクに置くと、窓から外を見た。薄いガラスの向こうには、ホーツゴートの、軍艦だらけの港が、廃墟と廃屋の間から見える。そして、その向こうには夜の海が、その表面に光を躍らせながら揺蕩っている。

「おそらく―――この街から出た、あるいは出るつもりかと」

「……よくねえな、そりゃ」

「この部屋には物が無さすぎます。この物というのは家具ではなく、衣服や小物といってものです。そういうものを皆持ってくか処分して、ついでに纏まった金と――銃を持っていくとなる、と、そういう結論が一番いいかと」

 アンフェルは塹壕套の裏ポケットより、巻煙草を抜き出すと、マッチでそれに火をつけ、先を炙る。そして煙を吐き出すと同時に、嘆息する。

「それは正直、喜べねえな。俺らが昼間、商人に話を聞いてる少し前に、グレツキーは小僧に銃を打ったんだろ?そして夜になって、俺らがグレツキーのところへいった」

 煙が生き物のように揺蕩い、そして形を変えて部屋に満ちていく。

「そして現在深夜12時、俺らはここにきた。つまり、一日分出遅れたってわけだ。もう小僧はもうホーツゴートから出ていっちまったんじゃねえか?」

「それはどうでしょう。この街から出る通行手段、大陸行きの汽船と共和国行きの汽車は、どちらも特定の日に集中的にやってきます」

 そして今日はその日ではない。明日ならば、汽船が朝、夜にわけて港に押し寄せる。

「つまり彼はまだこの街を出ていない。その足で街を出る、という手段はありますが―――彼の行動には、どことなく『逃げている』といった感じがあります。故に、日数がかかる手段は使わないでしょう。つまり足での逃走は無い」

 伯爵はそう一気に語ると、一つはぁ、と息を吐いた。その意気はガラスに触れたが、ガラスが白く曇ることは無かった。

 ベットから立ち上がり、アンフェルがそのわきに立つ。煙が流れ、伯爵を撫でる。

「アンフェル、私は煙草の臭いが嫌い、と言いませんでしたっけ?」

「小僧はまだ街を出てねえ、とはいえど、探しようがねえよ。人相は聞いたが……」

 それは最もなことだ。港を昼夜張ってればいいとしても、乗客は沢山いるのだろう。さらに彼らは分散し、数ある船のどれかに乗る。その中から見たこともない少年を探し出すというのは難儀なことだ。それでいながら一度見逃せば、彼は大陸へと高跳びしてしまう。

「―――乗客名簿をみりゃあ」

「私が追われている身ならば、そんなものがある高等な船には乗らないでしょうね」

「…………」

 二人は黙って、四角形に切り取られた真宵の港を眺めていた。だがやがて伯爵が耐え切れなくなり、窓に手をかけ、上げる。

 部屋の中に、冷風が待っていたかのように駆け込んでくる。だが伯爵は対照的に、南天の熱病にうなされたかのようにぽつり、と呟いた。

「――――『西方王の死の弾丸』を使えば、私たちは死ぬことができるのでしょうか?」

 それは心の隙間から漏れた問だ。回る車輪の摩擦熱のような、生じて当然の心の揺らぎだ。だがアンフェルはそれを見逃さない。伯爵が思慮深く、碩学の思考を持つがゆえに何事にも確信を持てないのは知っている。だが、その迷いが仕事に差し障ってはならない。彼は伯爵の肩に手をかけ自分へと向かせた。

「何を言ってんだ?伯爵、もう一度言ってみろ」

 彼は煙草を窓の向こうへ吐き飛ばすと、口から煙を曇らせ、相手へとかける。

「お前さんは頭が吹き飛ばされちまったから忘れちまったかもしれねえが、俺らは50年前あの弾丸が使われるところを見てるんだよ」

「……心配なさらず。海馬は健在です」

 伯爵も確かに覚えている。あの光景は、今も現実以上に鮮明に脳裏に焼き付いている。

 神話の一幕のような光景だった。


 彼らがそれを見たのは、移動のため乗り合わせた、暗黒大陸の湾岸を巡る捕鯨船の上だった。幸運な旅とは言い難かった。例年ならば一か月先に来る大嵐が、異常気象により出現し、船を横殴りしたのである。

 海神スリッドが己の領域を、その千の腕で攪拌しているかのようだった。波は山のごとくせり上がり、マストを音を立ててもぎ取っていく。船体は75度に傾き、船員たちは海の腹中へと吸い込まれる。海洋とはこの世で最も巨大な質量を持つ暴力であることを、伯爵は数世紀ぶりに思い知らされた。

 そんな時、船長が船室より姿を現した。その顔は折れた柱にでも卸されたのか、下顎の皮膚がべろりと取れ、肉屋のソーセージのごとく顔にぶら下がっている。

 船長はその瀕死の老躯を引きずり、何かをわめきたてると、一丁のマスケット銃を抱えた。そしてそれをあろうことか、舳先の向こう、踊る嵐の雲へと引鉄を弾いたのである。

 銃弾はマスケット銃の破裂する音とともに飛んでいき――飛沫が作り出した靄の中へと消えていった。馬鹿げた光景だ。天に向かって唾を吐いた愚か者の寓話を思い出す、狂人の凶行としか思えなかった。

 だが、だが突如悲鳴が響いた。天を突く巨人がその身を四つに引き裂かれたかのような、巨大で悲痛な大合奏。それは断末魔だったのだろう。『嵐』という存在の、断末魔。

 雲が裂けていった。風が散っていった。太陽の瞬きが現れて、幸運な生存者たちの目を焼いた。荒波は凪へと変わり、震える弦を指の腹で抑えたかのように、不気味な静寂がやってきた。

 見る影もない船舶は、茫洋とした水面に、傾きながらもなんとか浮かんでいた。


―――――その翌年から、夏になると必ず来る大嵐は、めっきり現れなくなったという。


「思い出したか?嵐でさえ死ぬんだ。死の弾丸は、相手がたとえどんな存在であれ、その文末のピリオドを打つことができるんだよ」

当然、俺らにもな。そう付け加えると、アンフェルは伯爵の肩から手を離した。

「…………失礼、愚問でしたね」

「いや、いいよ。お前さんは俺より三百も長く生きてんだ」

 伯爵の顔は厳しい。丁度月が雲に隠れ、差し込んでいた光が消えたこともあり、その表情は影の薄衣に包まれる。その顔から、アンフェルは目を離さない。

「人は、あんまりにも長く御預けされると、それが来ない方が当たり前に感じちまうからな」

 そうして男たちは口をつぐみ、部屋には沈黙が訪れた。扉を開ける前よりも、深い静寂の青が部屋に満ちた。

 煉瓦屋根の群れの向こうに、波立つ夜が見える。海面は上空を反射し、境界は吞み込まれ、両者は混じりあう。そのずっとずっと先から風はここまでやって来る。潮の臭いに纏われながら、何かに追いすがるように、この部屋までやって来る。


 今度は、伯爵が口を開いた。

「……死の弾丸は一発です。もし、それを手に入れたら、その時は―――」

 そこから先は、かき消された。

けたたましい音の群れが静謐を引き裂いて走る。石畳を回る、空気のよく入ったタイヤの音。熱を持つエンジンのいななき。ブレーキが擦れる短い悲鳴。

 アンフェルが窓から顔を出し、窓の下の景色を見る。アパートの目の前に、一台の高級車が止まっている。この路地において、その景色はまるで住人全員への性悪な皮肉だ。さらにわざわざ運転手が扉を開けて、後部座席の人間を招くところももはや異質な情景とすら言える。

 そして車から出てきたのは、確かな富を持つであろう男だった。灰色狼の毛皮で設えたコートを羽織る、瘦身の壮年。

 アンフェルと伯爵がその男を見下ろしていると、男が視線に気づいたのか、こちらを見上げる。

 その時、アンフェルの中の西大陸の記憶が突如蘇り、眼下の男と重なる。

―――あの男は、狼じゃない。

――――コヨーテだ。西大陸のコヨーテ。荒野で最も冷酷な狩人。


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