第一幕 終章 ヤツヲの入場 エドゥアルドの入場

 彼は暗い路地裏で、くたくたに潰れた鞄からそれを出した。月の光さえ射さない、本物の夜が満ちた路地に、その銃はよく溶け込んでいた。彼はその弾倉に手をかける。暗いこともあり、また彼自身が不慣れなこともあり、銃の弾倉はなかなか開かない。力の入れ方を変えてみたところ、それは外れんばかりに勢いよく、音を立てて開いたので、彼は思わず身を震わせた。

 弾倉には穴が六つ、ぽかりと口を開いている。彼は片手で鞄をまさぐり、六発の銃弾を掴み上げた。彼は穴に、銃弾を一つ一つ、丁寧に入れていく。

その内一つは、なぜかほかのとは違う、光を吸い込む真っ黒な薬莢があった。だが彼はそれを対して気にせず、穴の一つに入れると、弾倉を回す。

 そうしたのはなんとなくだ。あるいはいつか集会所で見た無声映画の影響からかもしれない。彼はそれを止めると、そのまま弾倉に閉じた。

 彼―――ロペはその銃をベルトの腰に差し込むと、背後の、屋敷の背面に向き直る。そこは無数の蛇が這いまわるかのように、巨大なパイプがうねうねと伸びていた。



 ロペは狭く、暗い空間を這っていた。

 少年が脇を閉じてやっと通れるほどの幅と、四つん這いになれば頭がぶつかるほどの高さしかない空間だ。頭につけたライトで、満遍なく炭の粒子で汚された鉄の表面が見える。

 つまりここは排気口なのだ。ロペはその中を、地虫のように這い、進んでいた。

 やがてライトから射される円形の微かな光は、垂直に下へと折れる行き先を照らした。その先からは、僅かに橙色の光が届いている。

 ロペは一息吸うと、その穴へ上半身を乗り出し、重心を傾け、下半身を滑り出した。

 視界の景色が車窓から見るトンネルの壁のように、高速で過ぎ去っていく。闇を追い抜き、やがて光が向かってくる。そして、彼の世界は灰色に包まれた。

 覚悟はしていたし、肘を畳んで受け身をとろうともしていたが、それでも鈍痛が腕から下腹までに響く。関節がじんじんと、発火したように熱い。頭も打ったのか、視界の内を灰色のノイズがちらつく。だけど、痛みに震え、身を縮こませている時間はロペにはなかった。

 視界が明瞭になるにつれ、灰色のノイズが彼の迷走した神経が見せた幻覚でないことがわかってきた。これは現実のもの。宙に散る灰だ。思えば当然である。ここは暖炉の中なのだから。

 身をよじり、暖炉から顔を出す。そこはおそらくこの街で最も金が掛けられている部屋だ。床に敷き詰められた紅の絨毯も、東方の地より取り寄せた調度品の一つ一つも、濡れたように輝くシーツの掛けられた、ダブルサイズの寝台も、ロペが一生パイプ工を続けようが買える金額じゃないのだろう。それらは部屋に一つだけのランプから漏れる、五時半の空のような色の光で染められ、部屋の壁に影を伸ばしている。

 その影のひとつがゆらり、と動いた。影の根元を追ってみれば、その影は寝台の向こうから届いていた。その影の主は、少女だった。

 齢は10かその少し上か、少なくともロペより年下だ。まず目につくのは、この薄暗い部屋の中でも、決して闇に交わらず、埋もれもしない黒髪。夜空を櫛で梳いたような、内に輝きを秘める色無き色。

 それは東洋人の持つ身体的な特徴だ。実際、その少女はロペの知らない東の国の衣服――後に彼は知ることとなるが、それは『着物』という――を纏っていた。

 彼女は暖炉から頭を出した少年を、驚きと戸惑いの目で見ていた。ロペはその眼に真向い、応じる。

「君を、さらいに来た」


 少女の顔は紅潮した。恥からではない。恐怖ゆえの神経の昂ぶりのからでもない。それとは違う感情が、彼女の身を引き裂き破裂しそうなほど湧き上がっているのだろう。だが、彼女はロペから目をそらし、寝台に腰掛けた。

 ロペの脈動が、速く、激しくなるのがわかった。武器屋でグレツキーに脅されたとき以上に、彼の心は揺れている。

暖炉から出て、絨毯を灰色に染める。彼はつとめて音を消して寝台に近づき、彼女の前に立つ。座っている彼女の目線に合わせるため、中腰になり、その顔を覗き込む。

「うん。わかってる。僕は今完全に、独断で動いている。ここから連れ出すことが、君の望むことになるかはわからない。君に尋ねる機会は、結局あの後無かったからね」

 ロペはその手を少女の髪に触れ、かき上げた。

少女はそれに身じろぎ一つせず、熱のある一滴を、その眼からひとつ、流す。

「でも、でもね、君は今、苦しんでると思うんだ」

 ロペの手を、少女が取った。象牙から削りだしたかのようなその手先は、優しい冷たさがあった。

 ロペは彼女の肩越しに、ベットの枕側を見る。艶やかなシーツの上には、そこにそぐわぬ武骨な革の手錠が二つ寝転んでいる。そのサイズは、少女の手首にちょうどいい。

 少女は、ゆっくりと口を開いた。が、その時、

「ヤツヲ!!!」

どこからか怒号が響いた。ベットの側方にあるオーク材のドアの、ずっと向こうからだ。

 ロペは少女から手を離し、立ち上がる。

 ロペはその声が誰のものか知っていた。少女――ヤツヲというのだろう――もその声の主を察し、雪原に裸で投げ出されたかのように震えだす。ドアの向こうより真っすぐに響いてくる、革靴が床を打つ音。来るのだ、あの肉食獣のような男。娼館の主、エドゥアルドが。

 ロペは少女の手を取り、暖炉へと引いた。

「この中に入って、すぐ下から押し上げるから」

 ヤツヲはわずかに逡巡したのち、暖炉に身を入れる代わりに、ロペの体を押した。そして洞穴を抜ける風のような、微かな音を出す。それは声だった。

「あなたが先に―――」

 その瞬間、扉が軋むほど強く打ち付けられる。

「ヤツヲ!!誰と話している!誰かいるのか!?」

 扉の向こうから、威圧的な声が響く。少年も少女もその声に対し、体を硬直してしまった。ヤツヲだけは、か細くも、ドアの向こうまでは響く声でつぶやく。

「なんでもない。独り言だから」

 扉の向こうが静まり返った。ロペはそのうちにゆっくり、ゆっくりと、衣擦れの音にすら焦りながら、腰の銃を抜く。ヤツヲはそれに目を見開きながらも、決して声には出さず、黙する。

 しばし、静寂が続いた。

 壁掛け時計の針の音だけが、妙に大きく聞こえてくる。その秒針が回り切らない程の時間だったのだろう。だけどロペにはその時間が力任せに引き延ばされ、終わりが地の果ての向こうに行ってしまったかのようにすら感じる。

 だが、唐突に沈黙は絶たれた。靴音、それも踵が回る音がしたのち、靴音が離れていく。

 ロペも、ヤツヲも、胸の中で張っていた弦が一気にたゆんだかのようだった。――――――その時突然、ドアノブが回る。

 頭が真っ白になった。彼の弛緩しきっていた神経は、急激に緊張し、その結果歪んでしまったのだ。もはや何もわからず、考えられない。ただ何故か腕を上げ、向かってくる矢でも防ぐように顔を隠す。

 ドアが押される。その一秒前にヤツヲが駆け出し、足を絨毯に滑らしながらもドアまでたどり着くと、そのまま身を使って抑えつけた。

「何でもない!何でもないから!」

 それにより、男も力を籠める。両側から力を加えられ、ドアの蝶番が軋み、金切り声を上げる。

 しかし所詮は、少女の力。ヤツヲが玉のような汗を垂らすほどに力を込めても、向こう側から暴力的に、何度も何度も押され続ければ、ドアの隙間はどんどん開いてくる。

 ヤツヲが振り向き、泣きそうな顔を向け、口を二、三度動かした。ロペはやっとそこで思考を取り戻す。ヤツヲの唇は、「逃げて」という動きを繰り返していた。

 だがロペは何故か不可解な、あるいはとても合理的な行動をした。それは意識が急速に戻ったからかもしれない。山道を弾丸のように走っていた車が、唐突にブレーキを踏むようなものだ。彼のブレーキ液は、沸騰しきってしまったのだ。

 少年は、手にもった銃の撃鉄を、ゆっくりと引いた。

 ヤツヲの腕が震え、その体はだんだんと後ろへと退いていく。そして、扉の隙間から廊下の光と、革靴のつま先が伸びると、彼女はそのまま仰向けに倒れた。

 扉が開いてく。部屋に電灯の眩い光が差し込み、男の顔が影となり、見えなくなる。

 その姿と、ロペの手にするものを見たヤツヲの顔色が変わる。少年は「それ」を構える。男は驚きに目を見開く。ロペは、手に持った『街道の警邏』の照星を、男の胴に合わせる。


 撃鉄が、落ちた。


【残弾数:残り5発】


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