第二幕 二章 ダミアンの入場


――――殺してしまったのだわ。困ったのだわ。


 情婦は一人、麝香の満ちた部屋の中で宙を仰いだ。

 どことなく揺籃を思わせる内装の部屋だ。漆喰の壁や板張りの床に、ピンクの毛布や絨毯が敷き詰められている。その眼球を痛めそうな毒々しい明色は、なんと天井の壁紙にまでも続いているのだ。だからだろうか。人は皆、まだ四本足であったころ、寝台から世界を覗いていた時のことを想い出すのだろう。

 さらに部屋の天井に紫煙が目に見えるほどに焚かれた麝香も、また人の精神を退行させる。この煙はこの女衒が暗黒大陸より取り寄せた、人の理性を溶かす香料なのだ。つまるは、麻薬である。

 ピンクの内装による視覚的作用と、麝香による神経作用。それらによってこの部屋を借りた客は、たとえ相手が料金に見合わぬ貧相な情婦であろうが、安易に快楽の肥溜めに沈むことができるである。

 そんな部屋だからか、情婦ダミアンは目の前の「モノ」がいまだ夢か現か判別できずにいた。

 情婦の膝には、まるであやされて眠ってしまったように、一人の軍服の男が頭を預けている。硬直しきった四肢も胎児の様に縮こまっているので、一切の偏見無くこの情景を見たら、きっと聖母子像のように慈愛に満ちていることだろう。

 ただ一点、その男の首を一回りする、黒々とした痕が見えなければだが。

 ダミアンの手からはベルトが一丁、蛇の抜け殻のように垂れている。

――――いいつけに答えるのは良いことだけど、何事もやりすぎるのは悪いことなのね。


 つい先刻、この共和国軍の将校が息をしており、尚且つ二回目の情事を終えた後のこと。

 将校は部屋に備え付けてある革のロープを徐に手に取ると、ダミアンの青白く――静脈が見える、という意味で――透き通った首にくるりと巻いていく。

 代わって、ダミアンに自分のベルトを手渡すと、自分の首に巻かせる。ダミアンがさも夫のネクタイでも締めてさしあげる時のように、ベルトを巻いている間、男は始終笑顔であった。

 将校はそのままダミアンを押し倒し、その体に馬乗りになると、彼女の首のロープの両端を、左右の手で握りしめる。

 首を絞めあいっこしよう。先に手を離した方が負けで、御仕置だよ。

 そういった途端に、合図もなく将校はロープの両端を引いた。ダミアンはその瞬間から頭がちかちかし、目の前がくらくらしたが、ゲームとあらばここで降りるのはよくない。

 彼女もベルトをぐっと二方向に引いて、男の首を絞めつける。すると男の顔がへらりと砕けた。先ほどの、奮い立ち、突っ張っていた笑顔とは違う、顔の筋肉が柔らかくなったような笑顔だ。

 面白くなって、さらにベルトを男の首に食い込ませる。すると男も負けじと力を籠める。だけどその顔はより弛緩していき、顔の線が弛む。まるでカートゥーンのキャラクターみたいに、どんどん顔が崩れていく。

 それが面白くって、彼女はどんどんベルトを引いた。きっと気持ちいいから、楽しんでいるから、そんな風に溶けていくのだろう。

そう、その顔はずっと以前、年上の情婦より奢ってもらったアイスクリームに似ている。あんまりにも珍しく、食べるたび頬がとろとろする程甘かったから、大事に大事に一匙ずつ、ゆっくりと食べていたら、いつのまにか溶けていてしまったのだ。

また食べたいなぁ、誕生日が来たら、エドゥアルドはくれるかなぁ。そう、いつのまにか呟いていた。先ほどまで吐息すら出せなかったのに。あれ、と思ってみれば、首を絞める手はない。

見れば、すでに男の手はぶらりと垂れている。そしてその体も、ダミアンが引っ張る紐で支えられているだけであり、ぱっと手を離せば、男は膝立ちの態勢のまま、仰向けに倒れていった。

その顔色は手垢にまみれた油粘土に似ていた。


 そして、今に至る。

 ダミアンは自己嫌悪に陥っていた。まったく自分の頭の悪さは幾度も幾度も自覚させられ、そのたびに戒めを定めているのだが、それでも治らぬのならばいよいよこれは不治の病。テントウ虫が高みへといくかのような、犬が野に体を擦り付けるかのような、彼女の習性とも言うべきものなのだろう。

 そうであれば、もう欠点に落ち込んでも仕方あるまい。世界が変わらぬならば、自分自身が逆立ちをするしかないのだ。よってこの悪癖も見方を変えて、長所と見ることもできるだろう。

 そうだそうだ、たとえ失敗しようと、このひた向きさだけは神様も赤いペンでマルしてくれるはずだ!

 何やら愉快な気分なようで、彼女は膝に乗った将校の頭を落とし、立ち上がる。

「なんだか、今日はいい日になる気がするわ!」

 物言わぬ躯しか聞き手のいないこの部屋で、彼女はそう宣言すると、そのまま窓際へと駆け出す。ピンクとピンクに囲まれた窓を、ゆっくりと開けば、そこには鉄格子で十つに切り分けられた、明星は浮かべど未だ暗い空が見える。

「うふふふ、照り付けるお日様。絶好のピクニック日和だわ」

 彼女の目には、きっと天に一つだけ灯る金星が、子供がクレヨンで描いた太陽に見えているのだろう。冬の先駆けが部屋に駆け込んでくるというのに、彼女は目を閉じて、存在しない日向を浴びる。

 その首元には、将校のものよりなお青黒く、痛ましい縄の痕が残っていた。


 筋骨隆々かつ異常性癖なる将校に誤算があるとすれば、それはダミアンが普通のイカレた女ではないということだろう。

 彼女は不死である。首の骨が折れるほど絞められてもその命は散らず、風呂桶一杯の薬を注ぎ込まれてもその体は壊れない(頭はそうではないが、これはもともとだ)。

 それ故に、彼女はこの街で最も扱いの悪い情婦なのだ。

 ちなみに、彼女の住まいであり仕事場であるのは街の外れにある風俗店。俗にタコ部屋と呼ばれる細長の建物だ。運営しているのは狼の外套を来たある男だが、彼の城である娼館とは、だいぶ遠い丘の上にある。


 茫洋たる大海で揺蕩うかのように、穏やかに目を瞑っていたダミアンは、突如そのことに気づき、稲妻が走ったかのように震える。

―――いけない、いけないのだわ。これ、きっとエドゥアルドに怒られる!

 それは彼女にとって、天使がラッパを吹くよりも大変な事態なのだ。

―――お客さんを殺してはいけないのだわ。エドゥアルドがこれを見つけたら、きっとセッカンなのだわ。

 そう考えてくると、彼女の目の前は暗くなり、地球は宇宙の黒色に沈んでいってしまう。目の前の鉄格子を握りしめ、囚われの姫君のように、しくしくと月を見ながら泣くのだ。

―――嗚呼、こういう時髪長姫ならば、王子様が昇ってきてくれるのに!

 いや、もしや自分の髪も昇ってきてくれるのではと思い、襟足を見てみるが、そこにはせいぜい肩までしか伸びていない、ぼさぼさの白髪があるだけだ。

 ただその代りに、彼女は窓の下を見た。3階から見下ろせる、娼館の裏手には、一台のトラックが止めてある。そしてそれは、エンジンが掛けっぱなしのようで、豚が泣くような駆動音を鳴らし続けていた。

 その時彼女の頭の中で、卵が二つにぱかりと開いた。黄色い雛が可愛く鳴き、そのまま夜の闇へ飛んでいく。

「思いついたのだわ!見つかったら不味いなら、隠しちゃえばいいじゃない!」

 そう言い放つと、彼女は鉄格子を取り外した。

その鉄格子は毎日、何気なく舐め続け、鉄の味を楽しんでいたらなぜか取れるようになっていたのである。


 彼女は将校の体を引きずり、窓枠まで持ち上げると、真下のトラックまで真っ逆さまに落とす。窓の下から、巨人の育てたトマトが潰れるような音がした。

 それを聞き届けると、彼女も窓枠に上がり、そこへ腰かける。その視線は天へと向き、左目に煌々と光る明星を、右目に干からびた月を見た。

「やっぱり幸せは、待ってちゃやってこないのだわ」

 彼女の一番好きな歌の一番嫌いな部分を口ずさむと、そこから腰を滑らし、

窓枠から消えた。


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