4:夜

 埠頭に着くと、暗闇を塗りつぶす巨大な影があった。貨物船は圧倒的な威圧感があるのに、現実の光景ではないような不気味さも同時に感じさせた。

 ここで停めて、と指示があり、まだ船まで距離はあったが車を止めた。雇い主の命令は忠実に守る。


「……船で海外に出るのか」

「そう、手配済み。私が仕組んだことじゃないけど。、がね」

「車を手前で止めるのも、先方が誰かを隠すためか」

「ん、知りすぎても、良いこと、ないよ」


 刃渡り15cmのナイフしか扱えない殺し屋でも、実績も能力もあれば引き抜くのに十分なのだろう。今朝、そのことは事務所で嫌というほど見せつけられた。ナイフ一つで武装した事務所の人間を皆殺しにするのに、3分と掛からなかったのだから。腰を抜かした僕に、いつもの制服に返り血一つ浴びていないミサキは、ナイフの血を拭いながら依頼したのだった。


 ――運転手さん、ちょっと、私、連れてってほしいところが、あるんだけど。


 仕事とあれば、冷静に行動する。深呼吸を数回、気持ちを落ち着かせて事後処理をした後、ミサキを車に乗せて目的地を聞いたのだった。遠い遠い、地の果てのような場所にある港の名前を。

 その時、何故か僕はこう思った。


 ――目的地に着いても、ミサキは僕を殺さないだろう。


 その理由は説明できなかったが、何となくそんな予感がした。だからこそ、非常時ではないと自分に言い聞かせることが出来た。合理的に考えるのなら、唯一の目撃者である僕を殺して初めて、彼女は安全に行方を晦ますことができるのだ。殺さない道理はない。

 しかし、その虚ろな予感は的中した。そう確信させる言葉を、彼女は、言った。




「……ねえ、運転手さんも、一緒に、くる?」




 その言葉を意外に思わない自分に驚いた。どうやら、無意識のうちにその言葉を聞かされることを予見していたらしい。


「……先方との折り合いがつかないだろ」

「べつに。私がお願いすれば、いいよ、ってなる。たぶん」

「そこまでの権限があるのか」

「うーん、コネ……かな。今回のも、私のお願いだから聞いてくれた、って感じで。前にね、ある仕事で恩を売ったの。お返しに、しばらくはの手助けをしてあげる約束、だけど」

「組織に顔向けできない」

「証拠消したの、運転手さんのためにもなるよね? 私が今日あそこにいたの、バレないようにってためだけど、それは運転手さんだって、同じ。私を送り届けた後、もう組織に戻らなくても、いいでしょ」 


 お見通しということか。

 事務所を出る前、ミサキの指示で、以前入手したIDとパスワードを使ってサーバーにアクセスし、監視カメラの映像を含む、彼女、そして僕が今日事務所に居たという痕跡を消去済みだ。

 あくまで僕は外部の人間、無事に戻れたとしても疑われるに決まっていた。だから、初めからあの場所に居なかったことにする。


「……運転手さんが、外部の人だって分かって、良かった。辞めるのに抵抗ないでしょ」

「そう単純じゃない。半分籍を置いているようなものだ、って言っただろ」

「でも、私みたいに、組織の中で生まれた、ってほどじゃない」

「じゃあ、どうして」僕は思わず訊ねた。「組織を抜けたくなった?」


 ミサキは少し黙ると、ナイフの刃先でダッシュボードを軽く叩いた。こんこん、と無機質な音が断続して続く。


「……終わりがなかった、から。に行っても、同じことをしばらくは続けるけど、いつか終わりがくる。いつまでも、じゃない」 

「そういう条件だったって訳だ。でも、その約束が守られる保証はあるのか」

「さあ? 守られなくても、いい。それならまた、自分から行動する、から」


 目をつぶって少しだけ考える。考えるまでもないことを、考える。

 結論はとっくに出ていた。事務所の一つを潰したところで、組織の機能が損なわれる訳ではない。痕跡を消して高飛びしたところで、追手が来ないとは限らない。


「運転手さんも、このまま戻るの、リスクあるかも、だよ」


 このまま戻った場合、死体を見れば犯人が彼女だというのはすぐに発覚するだろうが、それによって仕事で彼女と組んでいた僕が疑われるだろう。だが、疑われても逃げ切れるだけの材料は揃っていた。今回の事件がなくても、いつか身を引くときのために用意した備えがある。

 このまま戻れば、時間は掛かるかもしれないが、円満に辞めることができる。

 僕は首を横に振った。


「そう……」彼女は呟いた。「ついてきて、くれないんだ」 

「……悪いな」


 そう言っておいて、何を悪く思うのか、何がここまで罪悪感を感じさせるのか、自分でも分からなかった。


「運転手さんの言うこと、分かるよ。私と、同じ。『いつか終わりがくる』のが、今、なんだよね……」


 ミサキにも僕の立場が、大体把握出来ているようだった。

 それなのに彼女は、突拍子もない質問をした。


「ねえ、運転手さん。もし……もしも、だけど、私と運転手さん、ふたりが、男と女の関係だったなら……ついてきてくれた?」


 意味のない仮定だったが、そう返すのは不誠実に思えた。だから、出来る限りの努力をもって、そんな状況を想像しようとした。だが、上手くできない。仕方なく、こう答える。


「恐らく、関係ないだろうな」

「ねえ、こっち、向いてよ」


 車を運転している時はあれだけ横目で様子を窺っていたが、車を停めてからは僕はフロントガラスを見るばかりだった。ようやく横を向いて、ミサキに正面から向かい合う。

 車内に幽かに差し込む月明かりが、彼女の白く細い首を照らしている。暗闇の中に、幼いながらに整った顔が、ぼんやりと溶け込んでいた。

 彼女は僕を真っ直ぐ見据え、


「……ねえ、運転手さん。昼に食べたファミレスのフォーク、あの持つとこに木がついてるやつ、あれの長さって、覚えてる?」


 突然の質問に、分からない、と答える。


「あれ、16センチ。持つところまで全部含めて、ね。じゃあ、運転手さんが事務所で証拠消すのに使ったパソコン、あれのマウスパッドの長さって分かる? あれはね、横17センチ。あっ、そうそう! 運転手さんが夕日を遮るのに使ってた、サンバイザーの長さ、あれの縦の長さが、ちょうど15センチ……ねえ、何を言いたいのか、分かる?」


 分からない。首を振る。


「私はね、15センチ前後の長さが、正確に分かるの。今の、小数点省略して言ったんだけど、本当に測ってみてくれるなら、小数点まで読み上げてもいいよ。私が言いたいのはね、こういう職業病がある、ってこと。やっぱりね……それ、ふつう、じゃない」


 特定の長さが頭から離れない、というのは職業病として珍しいものではなく、普通ではないと断ずるに値しない。だが勿論、ミサキが言っていることはそういうことではなかった。その長さが何を指し示すのか、それが問題だった。

 ミサキは腰を浮かせると、シートベルトを外し、こちらに身を乗り出した。彼女の顔が徐々に近づき、止まる。顔が近い。


「……運転手さんと私、いまどれぐらいの距離だか、分かる?」

「これも?」

「うん、15センチ」


 そう言い終わった瞬間、15cmの距離はゼロになった。唇に不思議な感触を残し、再び距離が離れた。15cmよりも、遠く。

 助手席に戻ったミサキは、瞬きを繰り返している。さっきと姿勢が違うせいで月明かりに照らされ、濡れた長い睫毛が所在を主張する。


「……ねえ、運転手さん、心構えの話、私に訊いたよね」

「……ああ」

「あの時は誤魔化したけど、ちゃんと、答える……うん、心構え、あるよ。、気にしてる。すっごく」

「……そうか」

「でもね」とミサキは言った。「もう決めたの」


 いつの間にかダッシュボードに置いていたナイフを手にすると、彼女はナイフに目を落として言った。


「……私、繰り返し見る夢がある、って言ったけど……私はその夢を抱えてこれからも生きていくよ。逃げないし、後悔もしない。それが私の、に対する答え、かな」 

「……良い答えだと思う」

「ん、ありがと」


 そう言うと、ミサキは顔を上げた。

 影の中だったのでよく分からないが、ミサキが笑ったような気がした。彼女の笑顔を見たことはないので、気のせいかもしれない。


「……じゃあ、そろそろ、行くね」

「ああ、達者で」


 助手席から降り、扉を閉めようとして、ミサキは言った。


「うーん、何か、無理やりにでも、連れていく方法を、思いつかないかな」

「嘘つけよ」僕は笑って言う。「先方に会うと引き返せなくなるから、車を手前で止めるよう言ったんじゃないか。ついてこさせる方法は、思いついていたんだ。でも君は、僕の判断に委ねたかった」


 ミサキは舌を出した。年相応の、可愛らしい反応だ。


「まっ、結局、運転手さんだけじゃなくて、私も不器用だった、ってことで……それじゃあ――さよなら」


 扉を閉めると、窓越しにミサキは手を振った。照れくさいが、振り返してやると満足したようで、やがて歩き出した。黒い制服姿が消えるのを見届けると、彼女と過ごす最後の一日が、終わった。

 僕はポケットからバッテリーを抜いた携帯電話を取り出し、兼ねてから準備していたアリバイ工作を頭のなかで再確認し始めた。

 





 ……あれからしばらく僕は組織に身を置いたが、彼女に関する情報は全く耳にしなかった。彼女が上手く隠れてしまったのかもしれないし、情報が規制されていたのかもしれないが、今となっては分からない。

 なので、何の裏付けもなく、一方的にこう思っている。きっと彼女は無事だろうと。そして、こうも祈っている。


 ――ミサキが、ふつう、でいられていますように。 





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