3:夕
高速道路の終わりが近づく頃には、夕日がそろそろその身を地平線に隠そうとしていた。陽射しが最後の抵抗とばかりに、ほぼ水平に差し込む。
ミサキは先程から暫くナイフを弄ぶのを止めていた。ナイフを仕舞った訳ではない。ナイフの柄を人差し指の先に乗せて、直立状態のままバランスを取っているのだ。柄が緩やかにカーブを描いているせいで、ほんの一瞬ですら指先に乗せて直立させるのは難しいだろう。
「それも、ナイフの技術に関係あるのか」
「ん……ああ、これのこと?」
ミサキはそう言いながら左手の人差し指で、刃の部分をかつんと弾く。人差し指の上でバレリーナのようにナイフが高速で回転する。バランスは微塵も崩れない。
「まあ、殺す技術にはなにも関係ないよね、これ。ただ、なんていうか、上手く言えないんだけど、ナイフの気持ちを分かってあげなくちゃ、って使命感? そういうのは、ある、かも」
「優しいんだな」
「優しい? そういうのかな、これって? ああ、なんか……義務感なんだよ、自分のため。やらなくちゃいけないな、って。面倒くさくても、自分に返ってくる」
「道具を手に馴染ませる、ということか」
「ま、そういう感じで」
ミサキの声は酷く小さく、感傷的な見方をすれば、まるでナイフに聞かせたくないようだった。
「ねえ、運転手さんはさ、こういう練習? みたいなことするの? 新しいクルマに乗ったときとか」
「いや、まずしないな。ちょっと馴染ませるぐらいのことはするけど」
「へえ……それで不安にならない?」
「ミサキはなるのか」
「ならない、と思う。でも、もう習慣みたいになってるし、いまさら禁止されたら、不安になる、かも」
そう言ってミサキは人差し指の上のナイフを虚空へ向かって倒すと、次の瞬間には柄の部分を握りしめていた。少し力を入れるだけで、刃の先にいるダッシュボードすら刺せそうだ。
「……運転手さんは、組織に入るとき、試験とかあった?」
「あったよ、ミサキは?」
「なかった。私の話より、運転手さんの話、聞かせて。どういう感じの試験?」
「……正確には、組織に入ってからの運転技術を確かめるときの話だけどね。古びた廃工場で、何人か集められて、そこで試験をした。工場内の設備をすり抜けたりとか、外のフォークリフト用の狭い通路を通ったりとか、まあ無茶なものだった」
「なるほど、実際にそういう必要に迫られるかも、っていう試験」
「そうそう、最後は拓けた場所に出て、試験官の車が複数台突っ込んでくる。これを避けながら、ゴールを目指す。かかった時間が短ければ合格」
「運転手さんは、優秀な成績だった、と」
「まあね、1位入賞だった」
「さっすが」
そう言って、ミサキは深く息を吐いた。
「……なんだか安心しちゃった。よく私の送り迎えをしてくれた人は、優秀だったんだな、って」
「腕を見せる機会がなかったことは、良いことだ」
「そうね、運転手さんと組んでからは、仕事を終えてから危ない目にあったことって、2度しかなかったし。2度とも、運転手さんの車を追いかけてくるほどの追手は来なかった」
あの時は、後ろから拳銃を乱射する車が追いかけてくるのではないかと、映画のような状況を恐れた。後ろから迫る光はなかったが、ただひたすらにアクセルを踏み込んだ。
「やっぱり、運転は運転のプロに任せないと、ってことだね。運も向いてくるみたい」
「おいおい、専門家に仕事を任せた方が運が向くことは、僕もそう思うから否定しないけど、僕は別に運転のプロってわけじゃない」
「そう? 私、車の運転とか分からないし、そこは大げさに威張ってもいいよ。運転技術も、組織の中での地位も知らないけど、運び屋としては一流なんでしょ」
「いや、本当に違うんだ。さっきの1位入賞ってのも、あくまで試験を受けた連中の中でってことで、組織には専門の運転手もいれば、運び屋だって別にいる。あと僕は組織専属じゃない」
この発言にはミサキも驚いたようで、声に少し感情が滲んだ。
「そうなんだ、じゃあ運転手さんの仕事って? なに?」
「僕は外部の便利屋でね、いろいろな仕事をやる。いや、押し付けられる。組織には縁があって半分籍をおいている、みたいな感じさ」
「……ふーん」
ミサキは気のない風に返事をした。自分に充てがわられた運転手が、その道のプロでも身内でもないと知って、落胆したのかもしれないし、今更自分には関係のないことだと思い直したのかもしれなかった。
「……運転手さんには興味ない話かもしれないけど、私のきっかけ、っていうか、生い立ち? そういうの、聞いてもらっていいかな」
「どうぞ」
「私が、刃渡り15センチのナイフしか扱えない理由、分かる?」
見当もつかない、そう答えると、
「組織の中でね、そういう技術ばかり開発している部門があって、私はそこ出身。幼い頃から、刃渡り15センチのナイフを渡されて、それだけで練習してたの。運転手さんとは真逆で、ごくごく狭い範囲での専門家ってこと。だってそうでしょ? 色々なナイフを使えた方がぜったい便利だし、そもそも人を殺すなら拳銃使ったほうが強いし、屈強な男をベースにした方がいいでしょ。わざわざ、刃渡り15センチ限定のナイフの達人の女の子、を作ったってわけ」
警戒されない暗殺者を組織内に置きたかった、専門的なジャンルに絞ることで超人的な能力を持つ人間を育成できるか実験した――等の理由は想像できたが、それにしてもあまりに非効率に思えた。
しかし、そのことを指摘しても始まらないだろう。そのアンバランスさや矛盾性は、誰よりもミサキ自身が痛感しているはずだ。
「まあ、骨と骨の隙間とか外から見ても分かるし、他の長さのナイフを使っても、大丈夫なんだろうけど……でも、きっとそれは正確じゃあない。これだけの力で、この角度で、このスピードで、この距離で、どれだけ切り込むか、どれだけ刺し込むか、どれだけ抉りこむか……ぜんぶ。そう、ぜんぶ違ってくる。きっとそれはもう、弱い……私じゃ、ない」
刃渡り15cmのナイフが自分に突き立てられた光景を思い浮かべた。きっと内臓の深い部分にまで刃は致命傷を与えるだろう。あるいはその刃は、腕の腱を切り裂いたし、太腿の動脈を切り裂いて血飛沫をあげ、頸動脈をいとも簡単に断ち、肋骨の隙間を縫って心臓を一突きで刺し穿った。
その全てをミサキは実行できたし、事実、実行してきたのだ。
「……15センチの意味だけど」
「意味?」
「そう。15センチって基準は、ちゃんと意味、あるの。当時の銃刀法でのギリギリいっぱいの長さ、だったんだって」
「見つかっても大丈夫なようにか」
「ん、でも女の子がギリギリいっぱいのナイフ持ち歩いてる時点で、アウトじゃない?」
「そうだな」
「ちなみに今は法改正で、6センチ、だって。これじゃあ人を殺すのは、難しいね」
刃渡り6cmのナイフが自分に突き立てられた光景を思い浮かべようとしたが、何故か今度はうまくいかなかった。
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