(二)友野 優希
デビューして一年が経過した高校三年の夏に初開催となった、友野ユーキのサイン会。
その場所に、文香がいた。
年内最高の猛暑日を記録することとなった八月初旬の炎天下の中、彼女はタンクトップに短いパンツ、それとキャップを被っていた。当選者が自費で用意することになっていたドリーム・リアライザーの初巻と、たった一本のペットボトルを手にして、猛暑をただただじっと耐えていた。
そんな姿を、優希はいまでも鮮明に思い出せる。
サイン会の始まる一時間前に会場入りをした優希は、氷山から「ここから待機列が見えますよ」と手招きされて、遮光シェードの隙間から窓越しに文香を見た。
「同年代かな」と優希が素朴な疑問を口にすると、氷山が「そのようですね」と答える。
「ライトノベル業界には珍しいことです。どうも先生の作品のファンには女性が多い」
「それが珍しいってことですか?」
「ええ。女性の読者ってのは際立つほどに珍しいです」
「そう、なんだ」
微笑を浮かべた氷山が続けざまに「本当に今日は暑い」と音を上げた。黒のパンツスーツ姿はさぞかし辛そうだった。彼女の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「会場は早めに開けましょう。友野先生には早めに控え室に入ってもらいます」
「分かりました」
「それと、良かったですね。あの方たちはサクラではありません。れっきとした読者ですよ」
「……うん」
そうなのだと確認できただけで、優希の胸に溜まっていた不安ははじけ飛んでいた。
限定五十人のサイン会。
一人も集まらなかったらどうしようか、この瞬間まで本当に不安で仕方なかった。五百人を超える応募があったと聞いていたけれど、それでも当日のドタキャンとか、実は全員が運営側で準備したサクラなんじゃないか、などと色々と後ろ向きな想像もしていた。
そもそも、発売して一ヶ月も経たないうちに重版してくれと各書店から悲鳴が上がったということも、二巻が発売する直前で二度目の重版がかかったという話も、まるで現実味がなかった。優希の周囲にライトノベル読者などいなかったという不遇もあってか、自分の本が売れているという実感は露程も湧いてこなかったのだ。
だから、サイン会に応募者が殺到した、なんて話は夢心地だった。
控え室で過ごす時間はあっという間で、部屋になだれ込んでくる足音を緊張した面持ちで聞いていたら、あっという間にサイン会が始まった。
「それでは、友野ユーキ先生のご登場です」
ぱらぱらと自分を迎える拍手が涌き起こる中、すごすごと表舞台に立つと、緊張して脚が震えた。目の前の五十人を一瞥する。
「どうも、よろしくお願い、します」
会釈をして、再び拍手が湧く。
中学生から高校生、大学生、社会人まで。ああ、これがあたしの作品の読者なのだ。唐突に暖かいものが込み上げてくる。あたしの作品は多くの読者に支えられている。その事実を噛みしめる。あたしは、この人たちに、生きていてよいと認められたのだ。
簡単に自己紹介をして、込み上げる気持ちに蓋をしながら席につく。受賞当時の話だの、この物語を着想したきっかけだのと数々の話題を氷山さんから受けつつ、躓かないように口を走らせる。
それも無難に終えると、いよいよサインをする時間が訪れた。
優希の目の前に、トップバッターの彼女がやってくる。
「友野ユーキ先生の大ファンです! 同年代で作家デビューということを知って、凄く尊敬してます。私もいつか先生と肩を並べて仕事したいです。だから今、頑張って先生の背中に追いつこうと思って書いてるんです。先生の作品は面白いですけど、ラノベ愛は先生に負けませんからっ」
挑戦的な笑みで開幕からそう言われて、優希は心底驚いた。自分の作品が他人の心にここまで入り込んでしまっているということ。そして、小説が持つ可能性の大きさを思い知った。
差し出した右手を握る両の手から、燃えるような情熱が伝わってくる。
トップバッターである彼女の双眸には、熱が滾っている。あなたに負けてなるものか、と。そう訴えている力強い目線。
目と目があったその瞬間に、優希は理由も根拠もなく確信した。
この子はライバルになるのだ。いずれ近いうちに、この世界にやってくるに違いない。
「ありがとうございます。これからも応援していただけると、光栄です。サインなので、名前をいただけますか」
今日は、五十名全員の名前と『友野ユーキ』のサインをすることになっている。でも、そんな目的的な理由ではなくて、純粋に、心に留めておきたかった。初めて作家としてサインする相手の名前を、姿を。
将来、肩を並べるかもしれない、彼女を。
「愛生、文香です。愛に生きると書いて、文章の文に、香り、です」
「いい名前ですね。愛生さん」
マジックで彼女の本名を書き、その上に振り仮名でアイオイフミカ、とふりがなを加える。
「一言、あたしから激励を」
『いつまでも、待っています』
そう書き終えて、文香はきょとんした双眸で優希を見つめた。
「あの、これって……」
「頑張ってください。待ってますから」
「は、はいっ! 頑張ります! ありがとうございます!」
握手は交わさなかったけど、それでも、ここから繋がっていくことが、なんとなく優希には分かった。
きっとこの縁は、巡り廻って、あたしとあなたを引き合わせるんだと。
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