(三)愛生 文香
「こんなオチでいいのかな。もっと面白くなりそうな気がするから、一旦寝かせてみようかな」
コンビニで印刷してきた原稿の束を推敲しながら、文香は眉間に皺を寄せて唸っていた。
光熱費を節約するため、クーラーを稼働させず、開け放った窓から流れ込んでくる微風で耐え凌ぐ夏休みの初日。安定した陽気な天候では風が吹くはずもなく、涼しさは微塵も吹き込んでこない。とはいえ、窓を閉めると空気が淀み、もっと暑い。
「あっつい……」
騒々しい蝉時雨をBGMにしながら、冷えたコーラを片手に推敲をしていた時だった。机に置いてあったスマートフォンがぶぶぶ、と振動する。
「ん? 電話だ」
局番を見ると東京都内からだった。見覚えのない番号。きっと間違い電話だろう。そう判断して電話を取らずに文香は推敲に戻った。が、数分してまた電話が掛かってきた。先程と同じ、東京都内からの着信。
間違い電話だったら二度も掛かってこないはずだし、電話には出た方がいいかな。今度はそう思い直して着信を取った。
「もしもし、愛生ですが」
『ああ、繋がってよかったです』
柔らかい、けれど聞き覚えのない大人の女性の声。
「どちらさまでしょうか」
『すみません。名乗るのを失念していました。私、鳳凰文庫の氷山と申します』
鳳凰文庫、だって?
その単語が引金だった。文香の心臓がばくばくと脈を打ち始める。胸が苦しくて張り裂けそうだ。こめかみに激しい脈動を感じて、指で強く押さえ込む。
『用件ですが、愛生さんが弊社の新人賞に応募していただきました作品について、最終選考の結果のご連絡となります』
「は、ひゃいっ……」
声が裏返りそうになるのをなんとか堪え、電話から口を離して大きく何度も息をする。こんなの初めてだ。心臓が口から飛び出るような嗚咽感で、咄嗟に口元を手で覆う。
最終選考の連絡、そう言ったか?
『愛生さんは今回の選考についてご自身でご確認はされていますでしょうか』
「い、いえ。すいません。投稿してからは一度もサイトに足を運んでいませんでした」
『そうですか。であれば、いま、その経過をネットで確認いただくことはできますか?』
氷山に促されてサイトに足を運んだ優希は、悲鳴をあげそうになった。最終選考委員に友野ユーキの名前があったのだ。顔から火が出そうになったのは言うまでもない。投稿するときは全然確認していなかった選考委員一覧の場所に、隣人の名前がある。
あんな、たった十日で仕上げた作品が最終選考に上り詰めていたなんて。しかも、優希に読まれている。
「最終まで、進んでいたんですね……」
『ええ。それで今回、最終選考結果のご連絡、ということでお電話を差し上げたのです』
「そ、そう、ですか……」
『理解いただけたようでなによりです。それでは早速ですがお伝えします。愛生さんの作品は、た――』
「ま、待って下さい! す、すすっ、少しでいいので、心構えに時間をくださいっ」
心の準備ができていなかった文香は電話口で大声を張り上げ、氷山の言葉を止めた。携帯から顔を離し、深く深呼吸をして気持ちを落ち着かせようと試みる。けれど、言いようのない喪失感ばかりが込み上げて、胸を一杯にしていく。
氷山の言葉を途中まで聞いて、半ば確信してしまったのだ。
――愛生さんの作品は、大変残念ではありますが、佳作となりました。
絶対そうだ。そうに違いない。
推敲の時間もたった一日しか取れず、発酵させる期間もなければ何日も徹夜をして仕上げた作品だった。誤字脱字や支離滅裂な文章もあっただろうし、詰め込みだって甘い部分が相当ある。
最終選考に残っていること自体が奇跡なのだ。そもそもカテゴリー・エラーと判断されて
佳作。
それでもいいじゃない。最終選考に残れるだけの力があったということで評価されたのだから、今回はそれでいい。次がある。賞を取れなくても大きな自信になるから。
佳作でいい。文香は自分にそう言い聞かせて、心に予防線を張る。
「落ち着きました。大丈夫です」
『では、改めてお伝えします』
氷山の言葉の温度を冷たく感じて、文香は喉を鳴らす。
『――愛生さんの作品は、大賞となりました。おめでとうございます』
言葉がなかった。理解ができなかった。
電話越しに聞こえてくる文字列を文香の脳は処理できない。
「……えっ」
『選考委員、全員一致で大賞として選出しました。加えて、読者賞もございます』
冗談にしか聞こえない通知が、電話の向こう側で繰り返される。
「嘘……ですよね」
『いいえ、紛れもなく、大賞ですよ』
「そう、ですか……そう、なんだ」
電話口で静かに息を吸い、推敲していた原稿をきつく握りしめながら、文香は天井を振り仰いだ。
止めどなく溢れ出る感情が、頬を伝って、原稿を濡らしていく。蝉時雨の音が遠い。からからに乾いた暑さの中で、干涸らびていてもおかしくないはずのものが目の奥から流れてくる。そういえば、この作品を書き上げた後もこういうことがあったっけな、とふと思い出す。
賞金に飛びついて、好きな作家の小説を見様見真似に書き始めた小説。雨の日も雪の日も原稿を送り、結果が通知されるその度に挫けそうになって、それでも自分なりの小説を模索した日々が走馬灯のようにフラッシュバックする。
文香だから書けた感情と世界観。胸が詰まるほど息苦しい展開。随所に、愛生文香という人間の半生を散りばめた作品。
本物の愛を、僕らは知らない
母親から愛情を注がれず、孤児院で育った主人公とヒロイン。生まれた時から母親のいないサブヒロイン。高校の入学式で再会した、不器用な彼らの、たどたどしい触れ合いと、すれ違いを描いた作品。
孤独を抱えながら互いに依存し合い、価値観で喧嘩して、惹かれ合い、けれどそれは歪な愛の形になって、結局、最後は散り散りになってしまう物語。悲哀に満ちていて、それでもそこに優しい嘘と友情を織り交ぜたエピローグ。
『新人賞のサイトで公開したところ、読者の方々からも数多くの感想を頂きまして。とにかく素晴らしいと、諸手を挙げて賞賛する方が大勢いたんですよ』
「そう、なんですか」
考えたこともなかった。この作品は、文香が過去とけりを付けるために書いた自己満足の作品で、他人に読まれるということを想定したものではなかった。この作品を書き上げて、自分の中で消化し、そうやって次の一歩を踏み出すために己を鼓舞するツールでしかなかった。
それを絶賛してくれた人がいるだなんて、ありがたい限りだ。読者の方々に頭が上がらない思いで一杯になる。
『取り急ぎではありますが、いくつか確認をさせていただきたいことがあります。このまま電話は大丈夫でしょうか』
氷山の淡々とした言葉と自分の中から溢れてくる感情の温度の差が妙におかしくて、文香は「ふふっ」と吹き出してしまった。
『どうか、されましたか?』
「い、いえ、すいません。少し落ち着きたいので、折り返し電話をする形でいいですか? 気が動転しているというか、落ち着いて話せる気がしないので……」
『分かりました。ですが、私が電話を取れない時間だと困りますので、時間を指定させてください。今日の午後五時ごろはいかがですか』
「あ、はい。その時間なら大丈夫です」
『それでは、午後五時に、またこの番号へ電話をかけますので、お願いします』
「分かりました。ありがとう、ございます」
文香は立ち上がって、白い壁の前で深く一礼する。
電話の切れる音がした。その音を合図に、文香は玄関を飛び出す。張り裂けそうなこの気持ちを伝えたい。叫びたい。共有したい。そんな歓喜の感情が抑えきれなくて、肺で呼吸をするのが苦しくても止められない。
間もなく優希の部屋の前に立った文香は、勢いよく何度もドアを叩く。
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