(三)御堂 美冬
自分の部屋に戻ってきた美冬は、ベッドに身体を放り出した。
「どうしよう」
暗い闇の中、天井を無感情に眺める。
優希は部屋に戻ってこなかった。少し待っていれば戻ってきて、また話ができることを期待した。けれど、その少しの間すら待てなかった。
積み重なった本の山に糾弾されているような感覚に耐えきれなかった。自分を見下ろす本の山から「描け」という幻聴が聞こえて、逃げてきたのだ。
待機状態のままにしていたPCが低い唸りを上げている。描け、と脅している。だけど、微塵も触る気になれない。やめて。描けないんだから、急かさないでよ。どうすればいいのよ。
停滞しきった思考回路でこれからのことを考えようとして、失敗する。
今日はもう、このまままどろみに任せて寝るのが一番だよね。
そう目を閉じた矢先だった。
「おーい、いるかー」
玄関の外から声がして、次いでインターホンが鳴る。その来訪者に美冬は小首を傾げた。
「いるなら返事してくれー」
ドアを叩くまではしないけれど、そこそこに大声を張り上げている。いい近所迷惑だし、やめさせないと。身体を起こした美冬はインターホン越しに「ちょっと待って。今、開けるから」と告げて、念のためにドアチェーンを掛けてから扉を開ける。
「よう、美冬」
「こんな時間にどうしたの。渚くん」
「さっきまで優希と一緒に駄弁っててな。喧嘩したって聞いたぞ」
渚からは珈琲の匂いに混じってアルコール臭さが漂っていた。普段は大それた行動をしない彼がこうしてやってきたのにも合点がいった。酒の力で少し大胆になっているらしい。
「優希から話は聞いたぞ。それで、美冬と少し話をしたいと思ってさ」
「そうなの? でも……」
美冬は部屋の中へ視線を戻す。こんな汚部屋に人を上がり込ませるわけにはいかない。商業誌に掲載するラフ原稿だって散らばっている。
「私の部屋は散らかってて、無理だから」
「だったら俺の部屋で話そう。美冬も吐き出したいもんがあるだろ」
「それは、そう、だけど……」
「別に強要はしないよ。僕は先に部屋に戻ってるから、気分が向いたらでいい。ああでも、早く来てくれないと寝落ちしてるかもだから、来ないんだったらメールなり電話なりしてくれ」
「……分かった」
「おう、それじゃあな」
渚が階段を降りて、自分の部屋まで戻っていく。その足音を聞き届けてから、美冬は玄関のドアを締めた。静けさの戻った部屋の空気を、深く吸い込む。
そして次の瞬間には玄関を飛び出していた。
吐き出したい思いと鬱憤と悩みと、背負えなくなった感情を吐き出したくて、渚を求めた。
美冬は、優希への憤りと、周防への恋愛感情と、イラストレーターとしての悩みと矜恃とをすべて渚にぶちまけた。クリエイターではない渚にはその矜恃なんてものは理解できないかもしれない。それでもいいと思った。少しでもいいから受け止めてほしかった。優希にぶつけてもなんの成果もなかった想いの欠片を汲み取ってほしかった。
愛しい彼の前でこんな無様な姿は見せたくない。だから渚に頼った。意地汚くてみっともない、それでいてすごく傲慢で自分勝手な振る舞い。好きな人には見せたくない醜態をさらけ出してでも、美冬は救われたかった。
気付かないうちに大好きなものの優先順位が入れ替わっていたこと。
優希が望んだイラストが描けなくなってしまった遠因が、そんな恋愛にあるんじゃないかと咎められ、否定をしたくて、できなかったこと。もしかしたら、という疑念が拭えないこと。
仕事が手につかなくなってしまったこと。
どうすればいいか優希に相談したら、足蹴にされてしまったこと。
そういったもののすべてを、美冬は一気に吐き出した。
美冬が延々話す間、渚はずっと聞き役に徹してくれていた。話し終えてから、彼は「そうなんだ」とだけ呟いて、目を丸くする。
「美冬と優希がイラスト描いてたり作家だったりっての、全然知らなかったんだけど」
「隠すつもりはなかったの。むしろ口外するの恥ずかしかったから言わないでいたんだ。大して有名じゃないし、売れてるってわけでもないから。ここだけの話にしておいてくれない?」
そう言うと、渚は「分かった」と頷いた。
「どんな作品かってことまでは、教えてくれないんだよな?」
「それも、ごめん。渚くんを信じてないわけじゃないけど、私たちと知り合いだってのをステータスみたいに自慢するような人も、これまでにいたからさ」
こんなに吐露しておきながら、渚の期待には一切応えないなんて都合が良すぎるお願いをしているのは自覚している。それでも渚は、「別にいいよ」と許してくれた。
「匿名のクリエイターなんてごまんといるしね。それに、作家と知り合いだからって得をするわけじゃないからさ」
「ありがとう」
「で、本題だけど。結論から言うなら、やっぱり美冬は自分で決めて、そこに向かって走るしかないんだろうな。ここまで聞いておいて突き放すのも悪いけどさ」
「……えっ」
渚が導き出した結論に、美冬の身体が芯から凍りそうになった。
「イラストを諦めるか、周防くんと別れるか、それを決めろってこと?」
美冬が塞ぎ込むような声を上げると、「いやいや、ちょっと、そうじゃないって」と渚が慌てて弁解する。
「優希が言ったのはあくまで選択肢の一つじゃないか。どっちも続けるって選択はどうしたんだよ」
「でも、そんなことしてどっちも中途半端になっちゃったら……」
一番怖いのは、共倒れになることなのだ。イラストも上手くいかず、恋愛も続かない。どちらかが挫けてしまった反動で、もう一方も不遇な結果に終わること。そんな不幸なことになったら、人生が終わってしまうような気までしてくる。絶望の淵に叩き落され、光の届かない暗がりの中で皆に忘れられたまま、朽ち果てていくしかなくなる。
失敗という二文字が意味するのは、凋落と、暖かい世界との別れ。いまの幸せを手放すなんてこと、できない。
「失敗なんて、誰にでもあることだろ」
渚が、美冬の中でとぐろを巻く根の深い不安を蹴りつける。まるで根っこごと掘り返すように、深く、鋭く。
「一度突っぱね返されたくらいでうじうじするな。どうしようもないって諦めるな。失敗することを前提にするな。自分の願望を叶えるためにどうすればいいか、それを考えて前を向けよ」
「前を向けって言われても、怖いものは怖いのよ」
「怖いんだったら克服するんだよ。逃げたらどっちも失うぞ? できないって喚いてばかりいないで考え抜くんだよ。どうすればいいかなんてのは自分で決断するもんじゃねぇのか? 他人がなんとかしてくれるだなんて甘ったれたこと考えるから、優希に見放されるんじゃないのか」
渚の声が美冬を責め立てる。
臆病な性格や振る舞いを糾弾されたように思えて、美冬は息が詰まる。
「私、甘えてるってこと?」
自覚が持てなかった。考えたこともなかった。無自覚な部分を責め立てられて、初めて自分がそう見られていることに気付く。
「自分の人生だろ。他人になんとかしてもらおうとするな。優希に付き従っていればいいとか、そういう魂胆だから駄目なんだろ。あいつの決めた通りに生きていればいいって、心のどこかでそう思ってんだろ」
否定できなかった。
優希という偉大な天才に惹かれて、その天才に認められたという事実。それが嬉しくて、彼女のために骨を埋める覚悟でイラストの仕事を引き受けた過去。それが始まり。美冬が優希に執着するようになったきっかけ。
「楽でいいよな、そういう生き方。でもこうして優希と喧嘩して、愛想を尽かされて、分かったろ。自分の脚でこの世界に立ててないってはっきり自覚しただろ。支えと道標を失って、それでようやく気付けたんだろ? このままじゃ駄目だってこと」
「やめて。もう、やめてよ」
慰めてもらおうと思って渚を求めたのに。それなのに、どうしてこんな目に遭っているの。優希に愛想を尽かされて捨てられた、その痛みに共感してもらい慰めてもらうはずだったのに。それが、こんな、癒えない傷口に塩を塗りつけられるだなんて。
「もう、いいから。分かったから。だからもう――」
「ここで僕がはっきり言わないと美冬はもっと駄目になるぞ。有耶無耶に分かった気になるな。そうやって他人の言いたいことを勝手に理解したふりをして、傷つくことから逃げて他人に甘えるな。きちんと僕の言葉を受け止めろ」
聞きたくない。もう、これ以上耐えられない。逃げ出したい、耳を鬱ぎたい。閉じこもっていたい。けれど渚はそんな甘えを許さない。渚の部屋から逃げようとした気持ちごと、美冬の手首をがっしりと掴んだ。
そして、美冬に突き付ける。
「いまの美冬は人生の進み方は、間違ってる」
「やめてっ」
「他人に依存してばっかりの人生は幸せかもしんないけど、一つ間違えれば全部なかったことになるような危うい道だ。そんな不安定な道を自分で選んでおいて失敗するのが怖いって、滑稽だよ」
「やめてっていってるでしょ! 分かってるよ! そんなことくらい分かってるから突き付けないでよっ! こんなどうしようもないスランプに陥ってるから相談してるのに、なんでそういうことを言うのよっ!?」
叫びながら、美冬は床にへたり込んだ。
二度目の涙が頬をつたって、フローリングを濡らす。もう、心はぼろぼろだった。
優希も酷いけど、渚もあんまりだ。こんなにも悩んでいるのに、どうして二人して鞭を打つような仕打ちができるの。たった一枚のイラストを描けないだけで、ここまで糾弾されて、心の中を曝かれて、弱っている所をメッタ刺しにされるだなんて。おかしいじゃない。
こんなにも苦しいのに、悩んでいるのに。なんで誰も助けてくれないの。
そう考えた瞬間、渚の言葉が鋭く美冬の心をかき乱した。自分は可哀想。だから助けられてしかるべし。それは、渚がいう『甘え』と『逃げ』の思考に他ならない。
これが私を駄目にする根本。分かってる。分かっているのだ。
「逃げるな。甘えるな。でないと、このまま朽ち果てるしかなくなるぞ」
「……それだけは、嫌」
「だったら、逃げちゃいけないし、甘えちゃいけない。自分の脚でしっかりと立ち上がって、その脚で歩くしかないんだ。誰かを頼っていいのは、自分で自分の道を決められる人だけだよ。頼りっぱなしだと、いつかそいつがいなくなったとき、二度と立ち上がれなくなる」
求められたのは、イラストを取るか彼氏を取るか、ではない。覚悟だ。
甘えを捨てて、優希への依存をやめること。自力で立って、その脚で進む道を決めること。いつまでも他人に寄り添った生き方は、楽だし魅力的だけれど、支えがなくなれば朽ち果てるしかなくなる。その通りだ。いまの私自身が生き証人のようなもの。
「……やれば、いいんでしょ。やれば」
頭を垂れたまま、自らに呪いをかけるように、美冬はぼそりと独り言を何度も繰り返す。
自信なんか持てるわけがない。この程度のことで湧いてくるのであればこれまでだって苦労などしてこなかったはずなのだから。
「どっちも手に入れればいいんでしょ」
恋も仕事も両立させる。どうすれば良いか分からないし、その方向性も見えないけど、たった一つだけはっきりしていることがある。
どっちも諦めたくない。
「やるわ。やってやるわよ……」
自分の脚で自分の人生くらい歩んでみせる。それくらいのこと、私にできないはずがない。
「私、やる――」
カシャリ。
渚を見据えようと美冬が顔を上げた先、眼前にあったのは眩い光だった。呆気にとられる表情を浮かべている間にもう一度機械的なシャッター音が響き、フラッシュが焚かれる。あまりにも場違いな展開に、「えっ」と声が洩れた。
「うん。ぶれないで良かった。中々良い表情してるじゃん」
先程までの真剣な顔はどこへ飛んでいったのやら。デジタルカメラに写る映像に満足げな渚が、「ほら、確認してみろよ」とその画面を見せつけてきた。
どうしてこのタイミングでカメラ? という疑問が大きすぎて、美冬は戸惑ってしまう。それでも次の瞬間には羞恥と怒りが込み上げてきて、あっという間に疑念を掻き消していく。
「それ、今すぐ消して!」
引ったくろうとした手が空を掠める。カメラを握りしめる渚の右腕が真っ直ぐ天井に向かって挙げられる。二人の身長差では、勢いをつけてジャンプしないとあのカメラに届かない。
「ちょっ、駄目だってば」
「馬鹿じゃないのっ!? そんな恥ずかしい写真をばらまかれたりでもしたら親に合わせる顔がないじゃない! 酔っ払ってるからって、許されることとそうじゃないことがあるってことくらい分かってよ」
「いや、それはもっともだけど、この写真を見てなにも思わなかったのかよ」
「恥ずかしさしかないわよっ」
飛びはねながらカメラ確保に躍起になるが、やはり届かない。飛ぶことを諦めた美冬は、握った拳をそのまま渚の鳩尾にねじ込ませた。
「ぐ、ふっ」
くの字に身体を曲げた渚の隙をついて、右手からカメラをもぎ取る。
「このままたたき割って――」
「だ、だから待ってくれって。それ、この前のバイト代でやっと手に入れたんだよ。こんなことで壊されちゃたまらないってば」
「こんなことってなによ。勝手に撮影した渚くんが悪いんでしょ?」
「きちんと理由があるって。その写真、美冬が描きたいイラストみたいだろ?」
そう言われて美冬ははっとする。それからカメラに表示されている、ぐしゃぐしゃになった自分の顔をまじまじと見た。
――憤りと、悔しさと、不甲斐なさと、そして決意が綯い交ぜになった泣き顔をお願い。
「あっ……」
そこにあったのは、自分を追い詰めた渚への苛立ちと、彼のその言葉が正しすぎて反論できなかった悔しさと、突き付けられた自分の不甲斐なさとが両立していた。
決意を露わにして前を向いている、強い意志が滲み出た一枚。
「良い表情してると思うぜ」
「……そう、だね。確かに、こういう表情だったら優希も納得するかな」
「だったら、それで結果オーライだろ」
上手く言いくるめられた気もするけれど、渚は前に踏み出すきっかけを与えてくれた。それは否定できない事実だ。
「……あり、がとう」
「別に、大したことはしてねぇよ。お礼に、その画像を――」
「それとこれとは話が別。私が目に焼き付けたらそのまま消してもらうから」
「えええ……」
至極残念そうな声をあげる渚に、美冬はすかさずフォローを入れる。
「時間のあるときに似顔絵でも描いてあげるから。それで我慢してよ」
「自分で大したことないって言っちゃった手前、まあ、それで手打ちにするかぁ……」
私のファンからしてみれば贅沢な褒美に違いないのに、それはやっぱりこの界隈にいないと理解されないのだろうなあ、と不満を解消しきれていない渚の顔を見て思う。
そこまで考えると、やはり住んでいる世界が違うということを思い知らされるばかりで、それでもこうして自分のことを見てくれる渚はありがたい存在なのだと、そう実感する美冬だった。
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