(二)友野 優希
「くそっ」
とにかくイライラする。ふざけるな。ふざけるな、ふざけるなよ。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
怒りにまかせて玄関を出たすぐ側にあるブロック塀を蹴る。痛い。つま先からふくらはぎがじんじんと唸っている。
くそだ。この世の恋愛などクソくらえだ。
恋愛は人を駄目にさせる魔法であり麻薬だ。ひとたび手を付けた人間を引き込み、そして堕落させてしまう魔物だ。魔物はいつの時代だって滅びる定めだというのに、どうしていつまでも人の心に居座り続けるのだろう。どうしてこうも邪魔ばかりするのか。腹立たしくて仕方がない。
恋愛感情なんて滅びればいい。
友野ユーキは友野優希と互いに幸せを食い合うことで成り立っている。優希という理性でユーキという野性を飼い慣らしながら生きている。このちっぽけな身体に、恋愛感情と創作魂は共存しえない。そんな器用な生き方はできない。
「どうしようもないな、本当に」
幸せになるとクリエイターは駄目になるなんて噂もあるけれど、御堂美冬というあたしが見込んだクリエイターはそんなジンクスに囚われないはずだった。けれど、このざまだ。
正直、ざまあみろ、とも心の中で毒づいた。これで仕事も恋愛も上手くいっていたら嫉妬していたに違いない。どこか清々すらしている。
そしてそんな自分自身を激しく嫌悪する。こんな感情、早くどこかへ捨ててしまいたい。
「……頭冷やそう」
帰るに帰れない優希は、とぼとぼと夏の夜を歩き出した。
目的地は近場の公園。砂場とベンチだけがあり、四六時中閑散としているそこは、大学生の溜り場になるほど人気というわけでもなく、かといって小学生の遊び場として機能しているわけでもない。社会が持て余したような小さな遊閑地。
優希はたまにここで物思いに耽る。行き詰まったとき、進まないとき、脱稿したとき。メモ帳とペンは肌身離さずに持ち歩くのがポリシーだけど、ここに来るときだけはそれもしないことにしている。
徹底的に脱力するにはもってこいの公園には、生憎と先客がいた。
紺を基調とした中に白色の水玉模様が散らばる七分丈のワイシャツ姿。下は優希が着こなしているのと同じ、大学のロゴが入ったスウェット。左脚の膝元から足首のラインに沿ってローマ字で大学の名前がペイントされているものだ。松葉杖を持っていないところを見るに、アキレス腱の断裂はすっかり治っているようだった。
渚が優希の姿に気付いて、軽く手を振った。
「あれ、優希じゃん。こんな時間にどうしたんだ?」
「……なんで渚がここにいるのよ」
「課題が終わんないから息抜きだよ」
「……そっ」
無糖ブラックの缶コーヒーを飲み干した渚は、少し離れた場所に置かれたゴミかごに缶を放り投げた。カツンッ、と金属音が響き、かごの縁に嫌われたスチール缶が砂利の上に転がる。
「なんだかなぁ」
渚は重い腰を上げて缶を拾い上げ、今度はきちんとかごの中へ捨てる。
その間に優希は開いたベンチに腰を落ち着けて、深く息を吐いた。脱力して、堅い木製のベンチに背中を預ける。
見上げた空はどことなく幻想的だった。月の周りに細切れた雲が漂っている。
「そんなため息を吐くなんて、らしくないな。どうしたよ」
「別に。あたしだって人間だし、ため息くらい吐くよ」
「虫の居所も悪いときた。誰かと喧嘩したのか?」
「まぁ……そんな感じ」
「喧嘩するとしたら美冬くらいしかいないよな、お前の場合」
ベンチへと戻ってくる渚に、優希はこくりと頷いてみせる。
「美冬がさ……ってか、そもそも美冬の彼氏の話って知ってるんだっけ」
根本的な前提を確認すると、渚は「えーっと……周防くん、だっけ?」と首を傾げた。どうやらその話は知っているらしい。
「美冬が周防くんと遊んでばっかりで、あたしとの約束を破るもんだから、それでちょっとね。彼氏とどっちが大事なんだよってなっちゃって。そしたら美冬、彼氏のほうが大事なんだってさ。もう、わけわかんないから、二者択一にしろってきっぱり言ってきたわけ」
「ふぅん」
「ほんとに呆れちゃう。恋愛なんかしたって良いことなんて一つもないって思わない?」
時間の無駄。脳の容量の無駄。堕落の種。百害あって一利もない。
少なくとも優希にとって、恋愛とは、悪である。
入学式を前にこっぴどく失恋した渚なら、この価値観を分かってくれるはず。
けれど、彼は優希の期待を裏切るように首を横に振った。
「……いや、そうは思わないよ」
「それは嘘でしょ。付き合ったり振られたりくっついたり別れたり、そういうのを経験したんだったら、面倒くささとか気持ちの無駄遣いとか、少しも思わなかったの?」
「僕は恋愛のマイナス面を否定しないし嫌いにもならない」
「な、なんでよ」
「優希の言うとおり、恋愛は確かに面倒なことのオンパレードだ。自分の都合だけじゃ上手くいきっこないし、相手に合わせないといけないし、自分の意見を殺して相手の希望を優先しないと嫌われたりいじけたりで、また色々とご機嫌取ったりするはめになったりな。でも、それが恋愛ってやつなんだろ。そういうことから逃げてたら、人を好きになるなんてできないじゃん。好きな人に好かれる自分になりたいから、面倒なことだってやるんだ。好きな人の喜ぶ姿が見れるなら、少しくらい我慢する程度、どうってことない」
「なんだそれ……気持ち悪い」
そんなものは、綺麗事だ。そんな感情は、全部まやかしだ。損をした気分にならないように心が勝手に変なバイアスと損得勘定を働かせているだけだ。
「別れちゃったらそういう感情は結局全部無駄になるじゃん。意味なくなるじゃん」
「無駄ってことはない。恋愛にそんな要素は一つだってない」
渚ははっきりとそう断言する。
「好きな人と付き合ってきたことを無駄だなんて思ったことはない。好きな子のために全力になれたし、それで相手が喜んでくれれば報われる気持ちになった。無駄になったものなんてありはしない」
「なによ、それ……」
反吐が出そうだ。
相手の都合に合わせて自分の意見を押し殺しても、それで相手が喜んでくれればそれに越したことがないだなんて、嘘だ。そんなものは、自己犠牲で得られる幸せは偽物でしかない。哀れで惨めで自分を貫けなかったことに対しての慰めを報いと勘違いしているだけだ。
ああ、いらいらする。どいつもこいつも分かってない。
仮初の幸せに浸るために恋愛をするだなんて下らない。どうしてそれが分からない。
優希は「もういい」と吐き捨てて立ち上がり、渚に背を向ける。彼といるだけ時間の無駄だ。この怒りに任せて怒髪天に溢れた短編でも書いてやる。
「逃げるなっ!」
その声に優希は竦んだ。立ち止まった隙を突かれて、強引に手を掴まれる。
「離してよ!」
「最後まで話を聞いていけ。思い通りにならないからって逃げるんじゃねぇよ、餓鬼じゃあるまいし」
「……は?」
誰が餓鬼、だって?
渚の言葉が、優希の中にある衝動を抑え込むための安全ピンを引き抜いた。少しずつ小分けにして廃棄処分しようとしていた感情が暴発するのを止められない。
「……誰に向かって口利いてんだよ、渚」
「他に誰がいるってんだ」
渚と対峙した優希はそこでようやく気付いた。街灯で仄かに照らされた渚の顔が赤い。アルコール独特の臭さが鼻をつく。
「恋したことなんかないんだろ、お前。片思いだってしたことないんだろ。無駄とか、面倒とか、そんな言い訳して恋愛強者を見下してんだろ。欲望に負けた猿が、なんて馬鹿にしてんだろ」
酔った勢いで、渚が核心を突いてくる。けれど、そんな部分を攻撃されても、痛くも痒くもない。
「恋愛なんてしたことないよ。それがどうした。恋愛至上主義でも謳うつもりか? 人が恋愛したことがないのをいいことに、可哀想、ああ可哀想だ、これだから恋愛したことない奴はなんてって、上から目線で説教たれるつもりか」
売られた喧嘩は買うまでだ。爆発してしまったのなら、勢いのままに貫くしかない。後には引けないし、怒りを押さえつけることだってできやしないのだから。
「恋愛したことねぇ奴が恋愛を馬鹿にしてんじゃねぇぞ」
「些細なことなんか気にならないんじゃないの? 恋愛したことないあたしが馬鹿にしたところで痛くも痒くもないんじゃないの? なのに苛立つんだ。どっちが餓鬼だよ」
衝動が威勢に拍車をかける。美冬との言い争いで抑えていた分も込めて、徹底的に言い伏せてたくてたまらない。理性では到底処理できない憤怒が、優希の身体を駆け巡る。
「仕事も友達もダメにしていく。理性ある人を猿にする。こんなに害悪な感情は他にない。恋愛感情なんてなくなればいい。心底そう思ってるよ。それがそんなに悪いことか? 醜いことか?」
優希は本心からそう思う。恋愛感情は理性の敵だ。理性を根っこから腐らせる病原だ。
人は恋愛で幸せにならない。制約は増えるし、気を揉むことが多くなって、相手の些細な言動に気を取られてしまえば最後、気持ちや行動まで支配されてしまう。それを想像するだけで悪寒がする。
恋心のために他のすべてが束縛されるだなんて、まっぴらごめんだ。
「たった、それだけか。そんなちっちぇえ泣き言みたいな文句しかねぇのかよ」
そんな優希をどこか小馬鹿にするような声音で渚が言う。首を振り、呆れた表情を浮かべていた。その態度が、優希の逆鱗に触れる。
「なん――」
「恋愛ってのは、そういうことすらおざなりにしてしまえるもんなんだよ。優希はそんなことも知らないのか? 周囲にそうやってずっぽり嵌まり込んだ友達とかいなかったのかよ。衆目とか気にせずいちゃいちゃし出す奴とか見たことくらいあるだろうが。そういう、優先順位とか理性のたがとか、簡単に外しちまえるもんなんだよ」
「ばっかじゃないの? ふざけたこと言わないでよ。要するに恋愛はなによりも大事だって言いたいわけ? 美冬と約束していたのはね、遊びとかなーなーで片付けられるものじゃないの。恋愛と比較して優先順位付けなんてしちゃいけないものなんだよ」
「だったら恋愛を憎む前にやることがあるだろうがよっ!」
渚の叫びに、優希は肩を怯ませた。
彼の目には、明らかな怒気が宿っている。
「美冬が困ってるんだったら、相談くらいのってやれよ。手を引っ張って助け出してやれよ。一緒に悩んでやれよ。それすらできないでなにが友達だよ。自分が理解できないからって見捨ててんじゃねーよ。恋愛したことねぇからどうしようもない、なんて勝手に諦めつけてんじゃねーよ。美冬は優希に縋ったんだろ? なんでそう簡単に手を払いのけるんだよ」
「そんなこと言ったって……恋愛したことないんだからアドバイスのしようもないじゃない」
「恋愛したことないなんて言葉が免罪符になると思ったら大間違いだぞ」
――恋に溺れていることを免罪符にするなっ!。
美冬に向けた言葉に乗せた鋭利さが、そのまま自分の胸に突き刺さる。
優希は思わず「ぐっ……」と喉元で言葉を詰まらせた。高速に回転していた歯車を無理矢理止められたように、次の言葉が、反抗するための感情がつっかえてしまう。
「恋愛したことないから相談に乗れないって、そりゃ、ただの嫉妬か? 自分の嫌いなこととか価値のないと切り捨てているもんを平然と馬鹿にする奴だとは思わなかったよ」
「……っ」
「そうやって恋愛をこけにしてる奴は、一生、不幸せなままだぞ」
「……黙れよ」
耐えきれず、たった一言、優希はそう口にしていた。
不幸せだ? それは、渚にだけは言われたくない一言だ。
一刻もここを早く立ち去って部屋に戻りたい。腹がたってしょうがない。でもこの男になにか一言いってやらないと気が済まない。ただ、その言葉が上手く出てこない。叫びたい気分だ。このクソ野郎、と罵ってやりたい。でも、愚かでみっともないのは彼ではなくて、負け犬の遠吠えになるような罵詈雑言しか思いつかない自分だ。それこそ惨めな行為でしかない。言い負けているのを認めてしまうような気がして、反論ができない。吐き出したい衝動よりも、悔しさが勝る。
たった一人の冴えない不幸な男の言葉が、どうしてこうも響いてくるのか。優希にはそれが解せなかった。
渚は言いたいことを吐き出してすっきりしたのか、肩で息をしながらも晴れ晴れとした面持ちに戻っている。それが一層腹立たしい。
なんでお前がすっきりしてんだよ。
「話は終わりだ。もうなにもないんだったら、やることができたし僕は戻るわ。じゃあな」
優希の返事も待たず、勝手気ままな酔っ払いが公園を出て行く。
渚にぶつける思いすらまとまらずに取り残された優希は、ふらついた足取りで帰っていく彼の後ろ姿を睨め付けることしかできなかった。
「……ああ、くそ。むかつく」
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