(三)藤代 颯馬
普段と変わらず忙殺寸手の午前中を切り抜けた颯馬は、食堂で氷山と対面しながら午後へ向けた補給をしていた。
「あーそうそう、新人賞の応募作品が届いているらしいから、今回も一次はよろしくな」
氷山がかけ蕎麦を啜りながらぞんざいに呟く。
「そうか、もう来週から始まるんすね」
「いや、ずっと前から言ってたろうが」
「……ド忘れしてたんですよ。友野先生のボイス起こしとかもあって最近、忙しかったから」
「これからもっと忙しくなるのに大丈夫か?」
「……今後はもっと善処します」
ライトノベル作家になるための登竜門である、鳳凰文庫新人賞、新年度第一タームの選考。
年四回行われる新人賞選考は、何百、何千という数の応募作品の中からたった数作品だけが出版権を獲得できる、小説家としてデビューするために設けられた狭き門だ。
「今回は数が少ないといいな……」
「まあ、この時期は数も少ないから前回みたいなことにはならないでしょ。大手の
「
前回はそれこそライトノベル人気を裏打ちするような数の応募があり、てんやわんやで下読みをしたものだった。
「なんか二月締切りは年々増えてるなあ。私が入社した頃はそんなに多くなかったんだが……」
「最近の売れ筋はアニメ化もばんばんやりますし、この界隈に手を伸ばすレーベルも増えてきてますから。少子化だなんだって言ったって、物書きを卒業する人が増えるわけでなし。それに――」
颯馬が口にしようとした小言を、氷山が攫っていく。
「特に冬は、俺でも書けるよこの程度、って思っている人が多いから応募数が増えるしね」
「そっすね」
業界最大手である雷撃書房の新人賞をはじめとした新人賞受賞作品の発売時期は、決まって秋口から十二月頃だ。それらの作品を読み、感化され、刺激を受けた作家志望が応募するのに、二月末締切りは頃合いがいい。
「まあ、応募者がどんな物語を送ってきても、私たちはそれをきちんと評価すればいい。面白い作品はきちんと形になって、出版社のバックアップの元に世界に飛び立っていく。それは変わらない」
「そっすね」
「ちゃんと賞を取る作品ってのは、作者が抱えている感情やメッセージってのが詰まってる。多少拙くても、粗くても、輝いてるもんだ。数百の作品に埋もれてやってきても、きちんと存在感を主張する。私たちの仕事ってのは、それを綺麗に磨いて売り物にしていくこと。そういうことを忘れないようにしないとね」
「そっすね」
「……なんかさっきから生返事ばっかだけど。私の話ちゃんと聞いてる?」
氷山が眉間に皺を寄せて身を乗り出した。寝不足気味の目元が際立ち、
「一言一句逃さず聞いてますって。その心を大事にして、俺もちゃんと新人賞応募作品を読みますから。にしても、ちらほら聞く限りだと今回も数は多そうで……」
「ま、今回もバイトはいれるから、そこの所は心配するな」
「そういや今回は一次で何人投入するんです?」
颯馬が訊くと、氷山は日頃から肌身離さず持ち歩いている手帳を
「ええと……社内で四人、短期バイトで六人程度ってところだな。応募作品数あたりで換算して、おおよそ一人四十から五十作品ってところか」
それだけの数を、たった一ヶ月で選評しなければならないのか。冬ほどではないにせよ、少ないとも言い難い。
数を聞いた颯馬は露骨に本音を漏らしてしまい、氷山に睨まれる。
「そんな嫌そうな顔するな、仕事なんだから。今回で四回目だし、そろそろ慣れただろ」
「慣れるとか、まだそんな域に達してないですから」
「早く慣れなよ。でないと潰れるぞ」
――魂を削り、心血を注ぎ込んだ物語に魅了されないように。
――彼らが創造する感情や世界に取込まれないように。
――軸をぶらさないように。そして、なるべく感情を殺して読むように。
バイトを始めてすぐの頃、新人賞の一次選評に初めて携わった時に、氷山からそんな忠告を受けたことをふいに思い出す。
そして選評に取りかかって間もなく、氷山の言葉を理解した。
「仕事なんだから。変に気負っても、どうしようもないからな」
潰れるな、とは、ぶれるな、ということでもある。
ドライに、冷たく、平等に。氷山はそう言っているのだ。
「氷山さんが言うと、一層重いっすね」
「ま、失敗を経験した人間の話を参考にするのも程々にね」
「失敗談を聞くと、氷山さんも人間だった時代があったんだなと安心します」
「人間だった、ってお前な。人間辞めた覚えはないっつーの」
重苦しくなりかけた空気を茶化そうとしたのか、氷山はわざとらしく口を曲げた。颯馬が軽い調子で「すんません」と言うと、一転して彼女は普段の調子に戻る。
「今回はいつもの布陣になるだろうから、いつものように準備もよろしく」
「はい。それは、了解です」
昼食を終え、デスクに戻るまでに氷山から諸連絡を聞きながら、颯馬はついさっき思い出したことを頭の中で反芻する。
軸をぶらさずに物語の評価に徹するというのは、感情を殺して決して流されず、その一方で、どれだけ揺さぶられたかを具体的に数値化しろということに他ならない。
とても難儀だ。
(そりゃ、休憩がてらに純粋な気持ちで本を読みたくもなるよな……)
イラストレーターの中には休憩がてらに落描きをする者がいるというが、そんな感覚に近いのかもしれない。仕事で描く絵と、好きで描く絵のモチベーションは違うのだろうし。
「さて……メールだけでも片付けておくか」
デスクに戻った颯馬がパソコンを立ち上げると、小一時間の合間に十件近くものメールが届いていた。来月発刊の雑誌のゲラチェック依頼。新人賞応募作選考についての注意事項と選考スケジュールの確認願い。氷山宛てではあるものの、『CC:藤代さん』と打たれた作家校正上がりの原稿データ付きのメール。庶務連絡。その他諸々。
「昼間くらい休めよなぁ……」
誰にも聞こえない小さな声で颯馬は一人ごちる。
「ああ、そうそう。そういえば昨日の件、対応してくれた?」
メールを確認していると、業務を再開した氷山が尋ねてきた。
「友野先生の六巻プロットの件ですか? それなら昨日のうちに対応しておきましたけど」
「ならいいわ。八月刊行の日程だけはずらせないし、六巻は第一部の締めの巻、アニメもここまで進めるつもりだから、なんとしてもスケジュールは死守するよ。何度も言うけど、とにかくこの作品は最優先。編集の都合で関係者の手を止めさせるようなことは厳禁だからね」
鬼気迫るような表情で釘を刺してくる氷山に、颯馬は「了解です」という声とともにこくりと頷いて、再びメール処理に戻る。
未読のメールを開くと、噂の作品の作者からだった。
『颯馬へ。昨日のメールの件、今月中に仕上げる予定でいいかな』
ブラインドタッチでタイピングして速攻で返信する。
『友野さん。お疲れ様です。それ結構ですので、よろしくお願いします』
『りょーかい』
仕事のメールなんだから苗字にさん付けくらいしてくれよな、と。
こうやって優希と仕事のメールをやりとりすることに、いまでこそ、ある程度慣れた。
ただ、少なからず不満に思うこともある。むしろ不満のほうが多いかもしれない。
『初稿あがった。共有ボックスに入れとくんで(共有ボックスのURLなし)』とか。
『来月号の短編、今週末あがりでいい? 今、六巻構成で盛り上がっちゃって』だの。
『帰りに食パンと牛乳よろしく』なんてことまで。
もはや私生活におけるパシリ扱いのメールまでこのアドレスに送ってくるようになってしまい、公私混同も甚だしい有様になっている。ときたまに美冬がフォローをしてくれるものの、往々にして女子二人のメールの応酬が分単位で始まり、更に酷いことになる。
一度、氷山に相談を持ちかけた。けれど彼女ですら「適度に付き合ってやってくれ。
徹底的に社会の歯車になることができないスペックの持ち主があれほどの作品を書くのだから、世の中分かったもんじゃない。
非才は凡人と違って諸々な社会常識に欠いている、なんて言葉を良く耳にするけれど、友野ユーキという作家のそれは典型的すぎるほどだ。なってない人間に限って、どうして多くの人間を魅了する作品を作り上げるもんなのか、不思議でならない。
哲学的な疑問がふっと湧き出てきて、それを吐き出すように颯馬は大きく溜息を吐いた。パソコンから目を離す。身体を預けた椅子の背もたれが、ギシリと音をたてた。
「どうした。疲れたか?」
「いえ、なんだか人生ってままならないなって噛みしめている所です」
「それは当然だろう」
「ああ、まあ、そうなんですけど。そういうことじゃないっていうか。
隣の芝が青く見えないどころか、自分の家に閉じこもって隣人なんかには目もくれない人間だっていて、そういう人間に限って四方八方から羨ましい眼差しで覗かれてる。でも本人は籠りっきりだから全然それに気付かない。そんな状況も成り立つもんなんだなって、そういうことを考えてました」
言ってて自分でもよく分からなくなりそうだった。
氷山が訝しい眼差しを向けてくる。
「そんな哲学みたいなこと考えてどうしたんだ。大学の課題にでも躓いているのか?」
「いや、哲学なんて履修してませんから。俺、経済学部っすよ」
「別に悶々と悩んでてもいいけど、業務に支障だけは来さないようにな。大事な時期なんだし」
「うすっ」
生返事をした颯馬は、たった今、業務に多大な支障を来しているどこまでも私的なメールに目を通し、そのままメールボックスから削除した。
件名だけで済まそうとするんじゃねぇよ、こんちくしょう。
颯馬はそう愚痴りつつも、帰りにカップラーメンを二つ買うことを忘れないようメモを取った。
六月に入ると流石に雨模様の日々が続き、お気に入りのドライブは自粛するようになった。小雨だとしてもバイクで八王子郊外から新宿まで走らせるような真似はしない。この時期に風邪を引いたら迷惑をかけてしまうし、新人賞選評の人員補充をやっている暇もないのだ。
久方ぶりにモノレールと私鉄を使ってみたが、微妙な乗車時間と接続の悪さのせいで出勤するのが億劫になる。雨が降って気分が沈む。愛車に跨がって溜まった気分を発散することもできない。
だから、颯馬はこの時期は嫌いだ。帰りもこのルートを利用するしかないという事実が、沈みきった気持ちに重たくのし掛る。
「お疲れ様です」
「おう、お疲れ」
午後一番に出勤して、氷山に軽く声を掛ける。いつもと変わらない所作でパソコンを起動させたところで氷山が「そういえば」と声を掛けてきた。
「最終的な応募数はどれくらいだった?」
「当日消印でそれなりに駆け込みがありましたけど、総数は四百三十七です。一人四十作品は読まないといけない感じです」
前回は五百作品を超える応募があっただけに、これでも大分落ち着いているほうだ。と思う。
数を告げると、氷山はパソコンから目を離さずに「ふうん」と鼻を鳴らした。
「ぴんとくる作品があったら上にあげてくれていいからね。藤代の世代が評価する作品なんだからそれが時代の感性ということなんだろうし。バイトにも伝えておいて」
「前回みたいなことはないようにしますが……。了解です」
前回の募集では、『冬作品はあまりいいものが揃わない』という下馬評を覆す数の良作があって、一次選考では判断しきれず、異例の二割弱を一次選考通過としてしまっていた。
そのせいか二次選考は難航を極め、社員がいつにも増して残業しながら夜な夜な激論を繰り広げたのだ。そんな経緯もあって、颯馬は二次選考委員に対する申し訳なさを未だに抱えている。あの失敗を、まだ思い出にはしきれていない。あれだけ現場が混乱したのを目の当たりにして、もう一度、その火種を作るだなんて馬鹿なことはしたくなかった。
だから、今回こそは通過基準数は厳守しないといけない。
「そういえば今度の選考委員に沼尻さんがいるでしょう?」
「ええと、そうでしたっけ」
「さっき、運営本部から届いたメールに書いてあったぞ。それに、いつもと布陣は変わらないって言ったろう」
氷山に指摘されて、未読だったメールを開く。そこには確かに、選評委員として沼尻が名を連ねていた。
「確かにいますね。今回も……か」
今回の選考に彼女がいることを知った颯馬は、苦々しい表情を浮かべた。
好きじゃないんだよな、あいつ。
控えめな性格で表立つこともなく、育ちの良さそうな雰囲気を纏う彼女は、しかし鳳凰書店だけでなく、多数の出版社で『冷血の令嬢』だの『神の審美眼を持つ女』というおどろおどろしいあだ名で知られていた。
「彼女にね、もうちょっと、一次通過作品を多くするように言っておいてくれない? 審美眼というか、見抜く力はもの凄いんだけども、落としすぎだから。前回なんて一作品しか通さなかったしさ。そういう厳しさは注文してないからね」
氷山はパソコンの画面から目を離さず、淡々とした口調で颯馬に言った。
颯馬は両手を頭の後ろに回し、背もたれに身体を預けたまま天井を仰ぐ。
「レベルを下げろと伝えて、簡単に落としてくれるとは全然思えないんですけど」
「伝えるだけでいいから。そりゃ、彼女なりに斟酌してくれるかは別問題よ。それにしても、なんであんなに厳しいのかしらね、彼女」
「それは、俺には分かりませんよ」
沼尻は作品を評価する目が誰よりも厳しい。一作たりとも二次選考にあげないという所業も平然とやってものける。選評シートには、応募者には見せることができないような批評が書かれていることもしばしばある。そうしてついたあだ名が、『冷血の令嬢』。血も涙もない選評をする、という由来通りのものだ。
ただ、彼女があだ名をつけられるほど有名なのには、もう一つ理由がある。
曰く、
――沼尻楓が一次選考をA評価で通過させた作品は必ず受賞し、間違いなくヒットを飛ばす。
だから、彼女の前で無惨に散っていった作品へのフォローが大変でも、出版社はバイトとして彼女を雇う。
彼女が拾い上げた作品は間違いなく売れるというジンクスに縋りつくために。
神の審美眼を持つ女――たいそうな二つ名で出版社に歓迎される沼尻を、どうしても颯馬は好きになれない。
「とにかくはっきりしてるのは、なにを言っても無駄ってことです。確かに沼尻は凄いっすよ。力のある作品を見抜く力は一級品です。でも、原石を見つけることにしか興味がない。宝石を見つけることにしか関心がない」
沼尻が突き抜けて優秀なのはこれまでの実績が物語っているし、箔に違わない審美眼は年々洗煉されていくばかり。ただ、あまりに厳しすぎる評価軸。その欠点をどうにかする気配を彼女から感じ取れたことはない。
「沼尻に仕事のクオリティを下げろと伝えても、聞いちゃくれない」
何度か共に仕事をしていれば、沼尻の人となりや仕事への姿勢も見えてくる。
彼女は、手を抜くような真似ができない。それは彼女なりに信条をもって作品と向き合っているからだろう。器用に仕事ができるのであれば、辛口な選評はとうの昔に止めているはずだし、基準を下げるのであればとっくのとうにそうしているはず。
「一応、言うだけ言ってみて。それが出版社の意向だからって」
「まぁ、言うだけだったら。期待はしないでくださいよ」
「言い続けるってのも大事だから。世話かけるけど、よろしく」
デスクに置いてあった缶コーヒーをぐっと飲み干して颯馬は席を立った。吹っ切れたわけではないが、これから向かう場所へ持ち込んではいけない気持ちはここで捨てておかないといけない。
「氷山さん。これから選考会のキックオフですけど、どうします?」
「途中で少しだけ顔を出すよ」
「分かりました」
颯馬はパソコンを脇に挟んで席を立つ。そこへ午後一番の会議を終えたばかりの大崎がぽっこりした腹をさすりながら戻ってきた。
「おお、藤代。これから選考会キックオフか。頼んだぞ」
「任せてださいデスク。一応これで三回目なんで」
「まあ、いつもの布陣だ。冬と違ってごたごたすることはないだろうから、くれぐれも、な」
「はい」
肩を三度ばかし叩かれながら、颯馬ははっきりと返事をした。分かっているだろうな、という大崎の視線が痛い。釘を刺され、少しだけ気が重くなる。
そりゃそうだ。いくら氷山がああ言おうと、現場での混乱と対するやっかみや文句はデスクの大崎に飛んでいくのだから。
過去は過去。反省したら次に活かすしかない。
「うしっ」
気合いを入れ直した颯馬は、選考会場へと向かう。一つ上のフロアに上がり、一番奥手にある大会議室。これから一ヶ月ほど、多くのバイトと選考委員が箱詰めになる場所だ。
「失礼します」
ドアをノックして、いつもより重く感じる銀製のドアノブを捻り、押し開ける。
どうも、という言葉が幾つか飛び交っている室内には、選考委員が集合していた。沼尻の姿もある。
「お、来たな。ポスト氷山」
編集部三年目の
「富樫さん。その呼び方はやめてくださいってお願いしたじゃないですか」
「そうだっけ? でも氷山さんの後釜なんて藤代くらいしかいないじゃんか」
「だから、そういう話は謹んでください」
絡んできた富樫に対応しながら、その隣にいる沼尻を視界の端で見る。目が合うと同時、彼女にそっぽを向かれてしまった。いつもの仕草で、なにも変わりない挙動だが、もうちょっと人当たりが良くてもいいのにと思う。
他の面々も前回の選考会と同じ顔ぶれ。こうして揃うのは二ヶ月ぶりだ。
「応募数は前回と比べて二割ほど少ないです。が、それでも量が量です。集中して、作品をきちんと評価していきましょう」
用意していた枕言葉を述べ、この場にいる全員が頷いたのを確認してから、颯馬は続ける。
「今回ですが、通過作品は一割弱から一割超ほどに留めたいと思います。前回は通した作品が多すぎました。二次選考での人海戦術と社員の方々の尽力あって救われましたが、今回は、夏に一本、秋に一本、アニメ化を控えていますので、上の方々に余裕がありません。数は絞っていきたいと思います」
「通過作品の目安は一人四作品程度って考えていいですか?」
バイトから質問があがる。毎度、こういう基準を聞きたがる人はいるので想定内だ。
「そのあたりでいいと思います。ただ、無理に落とすだとか、お情けで残すという判断はなるべく避けてください。迷ったら、俺とか、富樫さんに相談してください」
「振り分けは?」
「ひとまずは一人四十作品を目安に読んでください。今回も恐らく、読むのが早い沼尻さんに頼ることになると思います」
そこまで言って颯馬は沼尻を一瞥する。彼女は床のタイルに顔を向けたままだった。このまま一日、視線を合わせないつもりだろうか。
「他に確認したいことがなければ、各自、積まれている作品の下読みに掛かりましょう。リミットは六月末。いつもどおり、時間はあるようで、ないです」
言い終えて苦笑すると、他の面々も自分と似たような表情を浮かべながら笑う。
「それでは、よろしくお願いします」
その言葉を皮切りに各自が取りかかり始めたところで、颯馬は沼尻に声を掛けた。
「沼尻さ――」
「ひゃいっ」
短い悲鳴のような声を上げる沼尻にこの場の全員の視線が集中する。
「ああ、えっと、その、すいません。話しかけられると思ってなかったので」
まくし立てるように弁解する沼尻は顔を赤らめ、両手の指を胸のあたりでもじもじと組み合わせていた。颯馬が目を合わせようとしても、やはり避けられてしまう。
どうやって切り出すものか、と考えていると、おずおずとした仕草で沼尻が「あの」と訊いてきた。
「私に、用でしょうか」
「ああ、うん」
颯馬は意を決して言葉にする。
「ちょっと、廊下で話をしよう。人が居るところで話すことじゃないし」
「分かりました……」
席を立った沼尻を連れて廊下に出た颯馬は、廊下で沼尻と対峙する。先程までの態度は消え去り、怜悧で落ち着き払った様子の沼尻はどこか話しかけづらい印象を与えてくる。
けれど、颯馬としても、ここで躊躇う道理はない。伝えなければならないことは、しっかり口にしなければ。
「申し訳ないんだけど、沼尻さんにはもうちょっと通過作品を増やして欲しいんだ。別に強制ってわけじゃないんだけど」
「そう、なんですか……」
沼尻は少しだけ、声のトーンを落とした。けれど、はっきりした口調で、「でも、それは、お約束できません」と言い切った。
「できないって、どうして」
「だって……評価軸は譲れませんから」
「でも、磨けば光る原石も拾って欲しいんだよ。それは、分かってもらえるか?」
「磨けば光る、ですか……」
「俺たちが向き合う作品には、創作者の魂が籠ってる。ここにあるのは、作家になりたいという熱意と血の滲むような想いから生まれてきた作品たちだ。それがいまの時点で完璧なものじゃないってだけの理由で掬い上げないのは、流石にやりすぎだってことなんだけど」
「私なりに、作品とは真剣に向き合っています。磨けば光るものだって、あげているつもりです。藤代くんと違うスタンスかもしれません。でも、取り組む目的と姿勢は、同じ方向を向いているはずです」
颯馬の言葉に、沼尻は全く折れず、そう断言してみせる。そこで初めて、沼尻が颯馬の目を見た。珠のように綺麗な目が、僅かに潤んでいる。そこには、はっきりとした沼尻の強い信念が宿っているように思えた。
「沼尻がそう思っているなら、それでいい、よ」
沼尻の目に宿る力に気圧されそうだった。彼女を説得することは、できそうにない。どこかでその信条が間違っていたのだと気付くまで、彼女はきっと変われない。そう思えるほどの固い意志をぶつけられたのだ。
作品に求めるものが高すぎる沼尻の姿勢。あまりにもぶれない評価軸。それを決して手放さないよう、大事に抱え込んでしまっている。
いまの颯馬がそれをどうにかするなんてことはできそうにない。
「それでは、私も取りかかります」
沼尻は颯馬からすっと目を離すと、軽く頭を下げ、部屋へ戻っていく。颯馬も後を追う。部屋に戻った沼尻は颯馬に眼を合わせることもなく、選考作品が詰め込まれたダンボールの元へ足早に向かっていった。もはや話すことはもうない、とその背中が語っている。
気持ちが伝わったかどうかは分からないけれど、やれることはやった。颯馬にできることは、もうない。
沼尻が真剣に作品を選んでいるのを眺めていると、「嫌な役回り、お疲れ」と声を掛けられた。
「柄にもなく熱い言葉をどうも、藤代くん」
「聞いてたんですか」
「ちょっとだけね。でも、俺は嫌いじゃないぜ、藤代くんみたいな情熱はさ」
「心に響いたのなら富樫さんもちゃんとやってくださいね。読むの、一番遅いんですから」
「分かってるって。これでも少しはこの独特な文章に慣れてきたつもりだから」
軽い調子の富樫が颯馬の隣に座る。手元には、枚数が少なめの作品が一つ。ライトノベルらしい文体が苦手だから馴れるようにする、という数か月前の彼の言葉を信じるしかない。
颯馬も自分の席に持ってきたパソコンと携帯を置き、ダンボール箱の山へと向かう。少し吟味して、整然と積まれた中から三つほど封筒を手に取った。
颯馬の動きに倣う形で他の社員やアルバイトも次々と作品を掴んでいく。
封筒から書類の束を取り出して深呼吸をする者。肩を回す者。服の袖を捲り上げる者。思い思いに気合いを入れる。血反吐を吐き、血の滲むような葛藤の末にここまで辿り着いた作品と向き合い始める。
ふぅっ、と短く息を吐いて、颯馬も目の前に置いた作品の世界に飛び込んでいく。
そんな風にして一次選考が始まり、六月も終盤に差し掛かった頃のこと。
日程的には本当にぎりぎりだったものの、選考も順調に進み、未評価作品は残すところ五十を切るところまで来ている。一次選考を通過させても良いだろうと判断した作品数は三十二作品。四十あたりをボーダーに考えていた颯馬にとっては理想的な数だ。
颯馬は、この日も朝一番から社員に混じって選考作品と向き合っていた。正午を過ぎる頃には授業を終えた沼尻が合流し、日が暮れ始めるにつれて他のバイトも重苦しい雰囲気の会議室にそろそろと入ってくる。
読み方は人それぞれだ。音楽を聴きながら。速読して二度三度と読み返しながら。メモをつけながら。そうしてすべて読み終えて、選評シートに書き込んでいく。幾つかのコメント欄と評価軸に対してAからEまでの五段階評価。そして総合評価。
総合評価でBかAがついた作品だけ、一次選考を通過する。
舞台設定のオリジナル性、登場人物のキャッチーさ、起承転結と物語の盛り上げ方。純粋な面白さや読みやすさ。語彙力や場面描写力。あらゆる尺度で作品の完成度と商業化を前提とした評価をしていく。
夕陽がビルの影に隠れ、空調を入れずとも過ごしやすい時間帯になってきた所で、颯馬は休憩のために会議室を出て喫煙ルームに向かった。流石にずっと文字を読み通していると、あちこちに疲労が溜まる。
喫煙ルームのある二階まで階段で降りると、エレベーターから氷山が降りてきた。
「あれ、氷山さん」
「おう、お疲れ。お前も煙草か」
「一日中詰めてたんで、流石にきつくて」
「私もだ」
年中無休のような業界だからか、彼女に限らず煙草の愛好家は多い。
喫煙ルームでは、仕事場では絶対に見せない氷山の気が抜けた素顔を拝める。颯馬はそんな彼女の表情がどことなく好きだった。少しだけ気が緩んで、ガードを緩くする。クールなのは変わりないが、隙を見せてくれる。
煙たい部屋の中、煙草を取り出した氷山がライターで火を灯す。
「進捗は?」
「早けりゃ
「ご苦労さん。で、どんな感じだ?」
「ぼちぼち、ですかね。前回大賞の『分断されしアルクメディアート』と比べると、見劣りはしますけど」
「あれと比べるなよ。アルメディはここ数年で久々に見るレベルの作品だったろう。編集たちの間ではポスト・ドリーム・リアライザーなんて呼ばれてる」
氷山が『アルメディ』と略した前回の大賞作品。荒廃した未来魔術と科学という既視感のある設定だが、断続的に発生する天災とそこから生まれる異形の怪物との遭遇と人類生存を賭けた大規模な戦闘描写をふんだんに織り込んだ、生への執着をテーマとした群像劇だ。
複数の登場人物を描きながらも主人公やヒロイン象を明確に抽出しながら文字で魅せていく圧倒的な展開は他の投稿作品と比べても頭一つ抜けていた。登場人物たちがそれぞれに生に執着する生々しさ、キャラクター同士の緊迫したやり取りと駆け引き、怪物とのバトル描写の臨場感、そういった要素の完成度も高く、また、それらの繋がりと作品全体を通した緩急の付け方も素人ではない域で、投稿されてきた段階でほぼ完璧な作品だった。
高く評価される形で、最終選考では満場一致の大賞受賞だったと聞く。
それでも、ドリーム・リアライザーには遠く及ばない。一次選考でアルメディを読んで評価した颯馬はそう思っている。
「ドリーム・リアライザーだって終わったわけじゃないってのに。作品の世界観からしてパイの食い合いにはならないとは思いますけど、ポストなんてのは、気にくわないっすね」
颯馬が煙草に火を点けるためにジッポを鳴らす音と、氷山が「私も同感だ」という声が重なった。二人して煙草に口をつけ、肺に溜まった白煙を吐き出す。白く濁った空気が違いに絡み合い、溶けていく。
「ま、それはそれとして、だ。話を聞いてる限りだと、残り数十ある作品の中に度肝を抜いてくれる作品があることを期待するしかなさそうだな」
「ほぼクロージングですから、審美眼が備わったこの段階だと厳しいかもしれませんよ」
「難しいけど、発掘するのがお前たちの仕事だろ? 最後まで同じクオリティでやってのけろ」
それじゃあな、とまだ半分も残っている煙草の火を消して部屋を出た氷山の背中を見送りながら、颯馬も残り半分の煙草を吸い終える。エレベーターに乗り込み、気合いを入れ直した。
エレベーターを降りると、一直線に伸びる廊下の向こう側からカツカツと急ぐような足音をたてて沼尻が小走りで駆けてくる。すれ違いざまに声を掛けようとするが、彼女はずっと俯いていた。手元にはハンカチが握られている。
「沼尻、どうした」
「ちょっと。すいません」
両手で顔を覆い隠しながらすれ違う沼尻の声が、震えていた。呼び止める間もなく、彼女は女子トイレに駆け込んでいってしまった。
嫌な予感がした。彼女が出てくるのを待とうか迷ったが、いつまでも出てこない可能性も否定できなかったので、足早に会議室に戻ることにした。会議室の扉を開けると案の定、選考委員は怪訝な顔をして入口を見ていたり、沼尻が座っていた席に集まってこそこそと話をしている。
「一体どうしたんですかっ」
颯馬の切羽詰まった言葉に反応したアルバイトの一人が「それが……」と呟いて、机の上に置かれたままの作品に目を落とした。
「選評していたら、急に沼尻さんがすすり泣き始めたんだ。それからすぐに席を立って出てったってわけ」
アルバイトに代わって富樫が状況を要約する。
「彼女になにか不幸があったとか、体調が悪くなったとか」
「それはないだろうな。スマホとか見ていたわけでもなかったし、体調不良って感じでもなかった」
「じゃあ一体……」
颯馬は沼尻の席へ歩み寄った。
机に視線を移すと、読みかけの作品は残り数枚という終盤だった。その紙面に、黒く濡れた水滴の跡。薄く付けているマスカラが落ちたのだろうか。側に置かれた選評シートには、既に総合A評価の記載がされている。そこにも、黒い染みがついていた。
「あの沼尻さんが、A評価、だって……!?」
声を上げたのは富樫だった。
滅多なことではA評価をつけない、あの沼尻が。
まさか、という疑念と同時、確信めいたものがこの部屋を支配した。
冷血の令嬢とまで言われる沼尻が、この作品に泣かされたのか?
そんな疑念を抱いてしまったら、押さえつけるのもやっとだ。興味が湧かない、わけがない。
一次選評を終えたら、自分もこの作品に目を通してみたいという欲求が込み上げてくる。自分が下読みしている作品もよりも、これを、と思ってしまう。
沼尻が投稿作品を読んで感情を露わにするという現場に遭遇したのは、颯馬が知る限りこれが初めてで、それほどの衝撃だった。
彼女が戻ってくる前に作品名と作者だけでも確認しておきたいと、ここにいる全員が興味を抑えきれないでいる。「確認させてください」と、この空気に耐えきれなくなった社員が一番先頭の頁を捲り、全員が身を乗り出して確認した。
プロフィール欄を見た瞬間、「ああ……」と思わず声が出て、颯馬は天井を仰いだ。
もしそうだとしたら、沼尻に読まれることだけは避けてくれ、と願った事態がこうして起こってしまった。
だけど。
ただ一つの予想外は、冷血の令嬢に流れている感情を涙に変えて引き出してしまうほどの作品を書きあげてきた、という事実だった。
作品名――本物の愛を、僕らは知らない
ペンネーム――愛生文香
本名――愛生文香
人物描写:B
独創性:A
同世代性:C
ストーリー:A
文章力:A
評価:
主人公やヒロインはいずれも孤児院で育った環境であるという設定、高校の入学式での偶然の再会から幕が開ける序盤の展開、主人公たちを取り巻く交友関係やヒロイン枠となる人物の人間性がしっかりと魅力あるものとして描かれ、一見して導入に苦慮しない学園ラブコメを想定させる。しかし序盤から張り巡らされた伏線や、思春期特有の感情や心情のこじらせ方、抱える闇や暗い過去をタイミングとテンポよく織り交ぜて展開させていく先に見せる中盤以降の恋愛模様は、現在主流のコメディタッチではなく、真正面から堂々と読者に「愛とはなにか」を問いかけている、清純な物語と言える。中盤を繋ぐイベントと登場人物の感情のゆらぎを緩急つけて表現しているあたりも飽きさせない。そして、終盤はしっかりと、作品が掲げたこのテーマに対して作者が主人公の行動を通して一つの解を提示すると共に、読者へのカタルシスを提供している。ライトノベルというカテゴリを考慮すれば同世代性という点では他作品に多少見劣りするものの、それを補ってあまりあるほどに、ストーリーの構成力と文章力、キャラの魅力が勝る。ありふれたラブストーリーではなく、読者層が抱えるものと類似する闇を闇として魅せながらも光を当てて昇華していく力量は、他作品では類を見ないものと思われる。
総合評価:A
評定者:沼沢楓
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