(二)愛生 文香

「終わった……」


 原稿の末尾に『了』と打ち終えたしたところで精魂尽き果てた文香は、USBメモリーに原稿データを保存して、作業デスクに突っ伏した。


 大学の授業を一週間すっぽかしてまで、取り憑かれたようにキーボードを打鍵し続けていた。もう、まともなご飯だって何日も食べていない。最後に何を食べたのかさえ思い出せない。


 思考回路がショートしても、肩が上がらなくなっても、構わない。そんな気概で書いた。


 そして、書ききった。


 この瞬間に吐き出さないと腐ってしまう感情のすべてを、物語に落とし込んだ。


 先週の土曜日からパソコンと向かい合い、家から一歩も出ず、頭をくしゃくしゃにしながら、一から文字を起こして、二百頁あまりの初稿を叩き上げた。


 顔を上げ、虚な目で机に転がっている時計を見る。木曜日の夕方、そろそろ日が沈む時間。


 つまり、月末まであと五日。伸びることのない締切りが目前まで迫っている。


 けれど、なんとか終わらせることができた。過去を引きずり出すことができた。


 想いを物語へ昇華することが、できた。


 力の入らない足を叱咤しったして、椅子から腰を上げる。頭に血が通っていないせいで意識が朦朧もうろうとする。眩暈めまいと吐き気が襲ってきて、倦怠感けんたいかんが全身を包む。


 もう倒れたい。眠たい。寝たい。駄目だ。寝てはいけない。駄目だけど。駄目だ。

 蜜のような甘い本能に抗うことなんか到底できなくて、文香はそのままベッドに倒れ伏せた。



 そうして次に目覚めた時は、とっくに金曜日なんか終わっていて、窓の外には綺麗な朝焼けが広がっていた。カーテンを閉め忘れていたな、なんて今更野暮なことを思ったりもした。


 窓を開けて、外に出る。


「ああ……」


 五月最後の土曜日は、優しさに満ちていた。


 朝ってこんなにも、綺麗で壮大だったんだ、と素直に思えた。


 空気が暖まり始めて、太陽と朝焼けの空を歓迎するように穏やかな風が走っている。


 空っぽになった頭と身体に陽の光を浴び、全身の細胞を入れ換えるようにして大きく、何度も深呼吸をした。たったそれだけの挙動で、生きていることを実感する。あれだけの過去を抱えながら、私はこうやってしっかりと自分の足で地を踏みしめている。


 そう実感した瞬間、自然と涙が溢れてきて、止めどなかった。


 悲しくもないし、嬉しくもないし、感動しているわけでもないというのに。すべてを出し切ってがらんどうになったはずの身体から流れ出たそれは、血の通った暖かさを伴って頬を伝い、風に吹かれて空気に紛れていった。


 部屋に戻ると、えた匂いが鼻についた。何日も風呂に入っていないのだから当然か、と糖分の行き渡っていない頭でゆったりと思った。窓を開けたまま、簡単にシャワーだけを浴びる。呆けたままに着替えを済ませ、洗面台で適当に髪にドライヤーをあてて乾かす。


「とにかく、なんか食べないと」


 痩せこけた顔を合わせ鏡で確認しながら、最寄りの牛丼チェーン店で朝飯を食べることに決めた。散歩しながらゆったりと朝を楽しむのもいいかな。そう考えて、ジーンズに財布を突っ込み、部屋を出る。


「あ……」


 外に出ると、バイクが嘶きのような重低音を響かせていた。


 文香がそのバイクから視界を外すより前に、その持ち主が駐車場から二階廊下を仰ぎ見る。


「お、愛生だ。なんか久しぶりに見かけたな」

「おはよう、藤代くん」

「おう、こんな朝っぱらに奇遇だな」


 もう知り合ってから二ヶ月も経つというのに、いまだに彼は「愛生」と苗字で呼んでくる。それは彼のポリシーなのかもしれない。いずれ彼に大事な人ができたときも、苗字なのかな。それとも、やっぱりそこは名前で呼ぶのかな。階段を降りるちょっとした間に、そんなどうでもいいことを考えた。


「なんだ、散歩か?」

「まぁ、そんな所かな」

「そうか」


 颯馬との会話はいつもこんな風に端的で短い。お互いに深く干渉するような関係でもなければ、かといって無視するような間柄でもない。あまり干渉をしない、薄い関係。


「そ、それじゃ、またね」

「ああ、またな」


 一向に乗り出す気配のない颯馬の横を通り過ぎ、店まで歩いて向かう。


 十分ほどで辿りついた店の中には客がおらず、二人の店員が忙しなく仕込みをしていた。朝食セットを注文して、贅沢にも窓際の四人席を陣取る。お茶を飲み干して一息つくと、出入り口に括り付けてある鈴が鳴った。


「散歩じゃなかったのか、お前」

「へっ?」


 散歩、お前、という言葉に反応して文香が顔を上げると、入口に颯馬の姿があった。


「ど、どうして」

「どうしてもなにも、飯を食いにくる以外に理由はないけど」

「ま、まあ……そうだよね」


 颯馬が文香の斜向いに座り、同じ朝食セットを注文する。それきり会話も続かず、お互いに注文したものが運ばれてくるのをじっと待っていた。なんとも言えない空気が文香にとっては重苦しく感じる。


「なんか、疲れてるか?」


 颯馬が唐突に聞いてきたので、文香は「えっ?」と声を上げた。


「痩せたような気がするし、顔色も良くないから。大丈夫かと思って」

「う、うん。そうかも。ちょっと色々と立て込んでてね」

「そうか。何にしても気を付けろよ。倒れたら元も子もねぇからな」


 自分では少し頬がけたくらいにしか思っていなかったけれど、他人目線だとはっきりと違いが見て取れるらしい。心配されるほどにやつれているということだ。


「修羅場みたいなものは乗り越えたから。もう大丈夫」

「そうか。ならいいけどな。あのアパートには、いまの愛生みたいにやつれたまま学校にいく奴が他にもいるからさ。そういう顔を見ているとどうにも心配になる」


 颯馬が言う『奴』というのは優希のことだろう。彼女は活力があるけれど、目の下にできている隈はとても濃い。


「心配かけない程度に頑張るよ、色々と」


 そこで朝食セットが運ばれてきて、自然と会話が断ち切れになる。牛丼を搔き込む颯馬を目の端に留めながら、文香も箸を動かした。


 久しぶりにちゃんとした物を食べるせいか、なかなか喉を通らない。たった一杯の味噌汁が全身を駆け巡る感覚に身悶みもだえている間に、彼はほとんど食べ尽くしていた。


「食べるの、早いね」

「これから仕事だし、あんまし飯に時間をかけたくないからな」

「そうなんだ。頑張ってね、バイト」

「愛生も。無理しない程度に頑張れな。根詰めすぎるなよ」

「う、うん。ありがとう」


 一口分しか減っていない牛丼を前に、文香はバイクに跨がった颯馬の背中が消えていくのをじっと眺めながら頭を悩ませた。


「どうしよう。もう、お腹いっぱいだ……」

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