藤代颯馬は天を仰ぐ
(一)御堂 美冬
五月病患者がぽつぽつと大学へ復帰しはじめる五月下旬のこと。
美冬が優希と学食で遅めのランチを嗜んでいると、渚から「ちょっと話がある」とメールがあった。給茶機の近くにいることを伝えると、返信があるより前に姿を現した彼は心なしかしょげた顔をしていた。
「なんか……大変なことになってるわね」
渚は松葉杖をついていた。ゴールデンウィーク以来、姿を見かけていなかったのはこういうことか、と美冬は納得がいった。
「ゴールデンウィーク中に春スキーでね。ど派手に転んで、アキレス腱断裂だってさ」
痛々しさを物語るようにぐるぐると包帯を巻かれ、ギプスで固定されている右足。どうしてあのアパートの中で彼ばかり不幸な目に遭うのだろう。不思議でならない。
「優希は旨そうなもん食ってんな」
渚はあまりこのことに触れて欲しくないようで、露骨に話を変えた。
「ん? ふぁふぁひ?」
あたし? と言いたいのだろう。頬一杯にご飯を詰め込んでいる優希は、吹き出さないように口元をすぼめて息を出すのが精一杯らしかった。もうちょっと上品にできないのだろうか。
「昼から大盛りのとんかつか。大した食欲と胃袋だな」
「こう見えても、実は三日ぶりの食事だから。ユーキにはがっつり補給してもらわないとだし」
「なんだそりゃ」
大盛りのヒレカツ定食にがっつく優希に代わって、美冬が答える。
渚が驚くのも無理はない。
優希はこの数日、授業に出る傍ら、新刊のプロット作りと、雑誌に掲載する短編の執筆を掛け持ちしていた。優希はこの山場を乗り切るために、レモンティーとチョコと三時間程度の睡眠だけで己の身体を持たせていたのだ。
常人のやることじゃない。
そうして書き上げた短編の原稿を担当編集の氷山に送ったのが昨日から今日へと日を跨ぐ頃。そこから、こうやって美冬が連れ出すまで半日以上も死んだように眠っていたのだから、その生活スタイルには呆れてしまう他ない。
そんな裏話は露知らず、単純に三日一食の生活をしていることに対して渚は呆れていた。
「すげぇ生活してんだな、優希って。そんなんだと早死にすっぞ」
「もうちょっと女性らしくとか、肌に気を使ってとか、言いたいことはあるんだけど、もうね、駄目なのよ。どれだけ言っても直そうとしないから」
「……んくっ。だって、食事って面倒じゃん。生きるために必要だってのは分かるけど、すっごい手間。ほんと、人間って不便だよね」
頬に詰め込んでいたご飯を飲み込んだ優希がふて腐れたようにして言う。
「こんなどうでもいい話はいいからさ。美冬に用なんでしょ」
「ああ、そうだった」
優希に促された渚は、鞄の中から封筒を取りだした。折ってあった口を開き、中からチケットのようなものを二枚取り出す。
「これ、どうかなと思ってさ。二枚連番で」
「どうして私に?」
「語学のクラスで仲いい奴から譲ってもらったんだけど、見ての通りこんなんだからさ。で、ほら、美冬が好きなアーティストだったのを思い出したから、どうかなって」
「それってどこのチケット?」
「美冬の大好きなアーティストのやつだよ。見て驚け」
渚からチケットを受け取った美冬は、そこに書かれた内容に目を通す。字面を見て、渚の言葉通り目を見開いた。
「スカーレットだ!」
「うん。そう。渋谷の小さな箱でやるやつね」
美冬が熱を入れているロックバンド――スカーレット・フォース。
彼らが渋谷の小さなライブハウスで三百人規模のライブを行うことは半年前から知っていた。美冬はファンクラブに加入しているし、チケットだってファンクラブ先行抽選があったから。勿論申し込んだ。でも、そもそもファンクラブ会員は三万人を超えていて、それでたった数百人規模の収容人数でライブとなると倍率は何十倍にもなる。美冬もチケットを確保できなかった大多数のうちの一人だ。
でも、まさかこんな、超がつくほどのプレミアなチケットが回ってくるだなんて。
「こんな貴重なチケット、本当にいいの?」
ファンからしたら垂涎必須のライブ。一般発売はないと聞き及んでいたし、ファンクラブ会員の、しかも幸運な持ち主しか手に入れることのできないチケットだ。そんなものがこうやって転がってくることに、興奮よりも申し訳なさが込み上げてくる。
「僕もあんまし知らないんだけど、凄い倍率だったってのは聞いたよ」
でも、と渚は付け足す。
「なんか、譲ってもらった奴も処理に困ってたみたいでさ。だったら僕が学校休んででも行くからって買い取ったんだけど、ね」
渚は苦笑いを浮かべながらギブスで固定されている右足を擦った。この怪我では満足に楽しめないから、と。そういうことのようだ。
「そっか……それじゃ、これはありがたく私が頂くわ」
「おう。そうしてくれるとありがたい。……っと、そろそろ時間か。そんじゃあ行くわ。次の授業、席がすぐに埋っちゃうから。お代はあとでな」
「あ、うん」
チケットを手渡した渚はどこか晴れ晴れとした表情を浮かべ、足を引き摺るようにして閑散とした食堂を後にしていった。その背中が見えなくなったところで、もぐもぐと口を動かしていた優希が言う。
「やっぱり渚って不幸だなあ。不幸の神様に愛されすぎてる」
「確かに、渚くんは不幸を呼び込む体質よね」
「そして渚が不幸なだけ、あたしの手元にはネタが集まるのさ。ふっふっふ」
「本当にユーキってば……」
悪びれずにそう言ってのける優希に、美冬は呆れた視線を向けるしかない。
本音をおくびにも出さないということを知らない彼女が、この世界できちんと生きて金を稼いでいるということが不思議でたまらない。どころか、こんなずれた感性を持った作家が多くの読者を唸らせるのだから、世の中、分からないことだらけだ。
「あたしが、なに?」
優希がヒレカツに箸を刺しながら小首を傾げた。
「いや……。ユーキって、よく大学に入れたよね、って今更ながらにそんなことを思って」
古い付き合いだからこその一言で誤魔化すと、優希は自信ありげに続ける。
「それはもう、単純にあたしが頭よかったからじゃん」
「私と同じ大学に行きたい一心で勉強して、たった半年で偏差値を二十もあげちゃうんだから。大したもんだよね」
「あたしってばできる子だから。やろうと思ったこと、大抵できちゃうんだよねー」
世の中には、こういう天才がいる。執筆をしながら勉強もこなし、高校三年の夏に受けた模試の結果からだと無謀にも思えた東央大学への進学を果たしてしまう、そんな種類の人間が。
「できる子、か」
「天才作家って呼ばれてるしね」
「本当にそのまんまよね」
「良い響きだよ、ほんと。揶揄されてる感じがないあたりが良い」
真顔でそんなことをいうものだから、優希の言葉には嫌みを感じない。
彼女は、周囲からどう見られているのか、それを理解してなお、大胆な口振りを
そして実際に優希は天才だから、周囲も否定のしようがない。謙遜することのない態度は自負の現れでもあり、友野ユーキというキャラクターそのものでもある。立ち位置を完璧に把握した上での立ち振る舞いは、美冬から見ても悔しいほど似合っている。
クリエイターだからこそ感じ取れるオーラというものがあって、特に優希が
そんな天才と仕事をしていると、ふとした瞬間に、格の違いを突き付けられて苦しくなる。逃げ出したくなるときだってある。尊敬と羨望とが入り混じった感情を抱くことも数え切れない。
それでも美冬は、友野ユーキという存在から離れようと考えたことは一度たりとてなかった。
だって、美冬は彼女に選ばれたのだ。その名誉を失ってまで離れようとは微塵も思わない。「あなたの絵、凄いよ。本当に凄い」なんて言われたら、認められたと思うほかない。
「食べたー。あー、お腹いっぱいだ」
昼飯を平らげた優希が椅子に深く身体を預けて、だらけた顔になる。なんとも幸せそうだ。
美冬はいつものように、リュックサックからイラストブックを取り出した。真っ新な白紙の上にさっとペンを走らせ、眼前で食欲を満たした優希を描き落としていく。
食休みがてらの落描きは、美冬にとっては幸せを噛みしめることのできる数少ない儀式の一つ。
そんな儀式を前に、描写対象の瞼が開いては閉じてを繰り返す。久々に食事をしたせいか強い眠気に襲われているらしい。
「あたしなんか描いても調理しようがないでしょー」
「いいのいいの。こういうデトックスも必要なんだし」
「その感覚だけはわっかんないなー。あれでしょ? 絵を描くことに疲れたから休憩時間に落書きってやつ。あたし絶対にそんなことできないよ」
そう断言する優希。けれど、美冬は知っている。
いまだって、優希はこんな日常のワンシーンを頭の中にあるスペースへ無意識に詰め込んでいる。そしていつか、こうやって戯れている事すら日常の一風景として文字で表現してしまうのだろう。躊躇いもなく、二人だけの日常を脚色して売り物にしてしまうのだろう。
それを悪だとか、酷いとか、言うつもりはない。でも、そうやって魂と共に思い出を削ってしまった後、彼女の中には大切な記憶は残るのだろうか。
そんな美冬の心配をよそに、優希がゆったりとした口調で言う。
「まあ、美冬がそれで羽を伸ばせるんだったらあたしは何も言うことないけどね。あ、そうそう。そのチケット、もう一枚はどうするの?」
優希が、使い捨ての割り箸でテーブルに置かれたチケットを指す。
美冬の脳裏ぱっと一人だけ人影が浮かんだ。果たしてスカーレットのライブに誘ったとして、ついてくるだろうか。
「誰もいないんだったらあたしがついていってあげるけど」
気を利かせてくれているのだろう、優希か小首を傾げて言った。
「ありがと、ユーキ。でも、まだ時間もあるから、一緒にいける人を探してみるよ。もし見つからなかったら誘うから、できれば予定はあけておいて」
「はいはーい。見つかることを祈ってるよー、ふふっ」
生返事をしながらにっこりと笑う優希。なにがそんなにおかしいのだろう。口元が妙ににやけている。そうころころと表情を変えられると、口元の描写が定まらないのに。
結局、美冬はほぼ完成しつつあったイラストにすっと薄く一本の線を引いた。どうせ落描きなのだから、口元は細部まで拘らなくていいか、と諦める。
「ほら、これ」
「おおお、あたしってこんな綺麗?」
「三割増しにしてるよ。ニキビ跡とか目尻の隈とかないし」
「むー。あたしの感動を返してよー」
執筆中と束の間の休息のときとでは肌艶が別人のようになる優希。今日は原稿をあげた直後だからか、肌が荒野のようにがさついている。不摂生がそのまま悪さを働いていた。
頬の上側で存在を主張している腫物を、彼女が憂鬱な表情で擦る。
「これ、直んないんだよ」
「もっとちゃんとした食事しなさいよ。肉ばかり食べて、しかも二日三日で一食とか馬鹿なことやってるからでしょ? 自業自得よ」
「だって食べるの面倒なんだもん」
またそれだ。
作ることではなく、食べる時間すら勿体ないだなんて。いつまでもそんな考えでは、食事が遠ざかるのは当たり前だ。こうして部屋から無理矢理引っ張ってこなかったら今日だってなにも胃袋にいれなかったに違いない。
「女なんだから、ちょっとは洒落っ気だしたり肌に気を使ったりしないと駄目だって」
「でも、面倒だし」
「そうやって興味ないことからとことん逃げてると孤独になって早死にするよ?」
「早死になんてしてたまるかっての。大丈夫だよ。まだあたしにはやること沢山あるから、神様もおいそれと殺したりしないって」
その根拠はどこからやってくるのだろう。
そうやって身体に無理を強いていると、いつかどこかで必ず壊れてしまう。そうなってしまってからでは遅いから気を付けろと言っているのに。遠い未来のことに気が回らない。だから、いつまでたっても子どもなのだ。もっと先を見据えないといけないはずの歳だというのに、どうしてずっとこのままでいられるのだろう。
「大丈夫じゃないでしょ。お金があるんだから、外食したりしてちゃんと食べなって」
「外食もなあ。外に出るの面倒だし……あ、そうか、渚がいるじゃん!」
「……もしかして渚くんに作ってもらおうって魂胆なの?」
「その通りだよ。作ってもらうならハンバーグかロールキャベツがいいな」
目を輝かせて即答する優希は、すでに渚シェフへのリクエストで頭がいっぱいのようだ。
「作るのはいいけど食材は自分で調達してって言ってたよね、確か」
「それなら帰りに生協で買っていけばいいし。今日は野菜の直売やってるじゃん」
春スキーで重傷を負って、予定のダブルブッキングでスカーレットのライブにもいけず、こうして優希にひょんなことで思い出されては飯を作るはめになる渚のことが気の毒でしょうがない。本当に彼はついてない。
美冬は釘を刺すように優希に告げる。
「突然行くのも失礼になるから、ちゃんとメールでお願いくらいしておきなさいよ。しかも彼、怪我してるんだから。前もって良いか悪いか聞いておかないと駄目だよ」
「分かってるってば。子どもじゃあるまいし」
そう口にしながらもこの場で連絡をしようとしない優希は、食器の乗ったトレイを返却口に返し、そのまま生協へと向かっていく。
「だから連絡しないとって言ってるのに……しょうがないなぁ、本当に」
一人ぼやきながら、美冬はすかさず渚にメールを入れる。
『さっきはチケットありがと、ところでお願いなんだけど、今日の晩ご飯、作ってもらえない? ユーキの分』
送ると、すぐに返信があった。
『了解。ちなみに何か食べたいものはある?』
『それは、またあとで連絡する』
『決まったら教えてくれ。冷凍庫に挽肉があるから、それも使おう』
『ユーキに伝えておくね』
『おう。それじゃ、また』
と、やり取りを一通り終えて、美冬はふと思う。
「……もしかして、ユーキが独り立ちできないのって、私のせいなのかな」
担当編集の氷山から優希の世話役を仰せつかっているだけに、美冬の中に形容しがたい小さな罪悪感のようなものが芽生えた。
「美冬、置いていくよー」
優希が少し離れた場所から美冬を呼ぶ。
「いま行くから。渚くん、冷凍庫に挽肉があるってさ」
「だったら、がっつりハンバーグ作ってもらおう」
生協へと駆けていく優希の後を追うために、美冬も荷物をまとめながら立ち上がる。
「さっきあれだけの量を平らげてまだ食い気があるだなんて……」
胃袋の底知れなさに呆れつつ、テーブルに置いてあるチケットを忘れずにリュックサックに突っ込んで、美冬も食堂を後にした。
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