愛生文香は闇を覗く
愛生 文香
平穏な日々の
文香の場合、それは十数年と聞いてきた優しい声だった。
最も親しみのある声が、日常を紡いでいたはずの音色が、瞬く間に崩壊の元凶へと変わり果てていく。幼かった文香には、その
けれど、聞き慣れた音だからこそすべてを壊すことができるのだと、幼いながらに理解してしまえた。
中学三年になって、もう少しで夏休みに入る頃のことだった。
アスファルトに降り注ぐ太陽の日射しと、やかましく空気を震わせる蝉時雨に辟易していたのだけは覚えている。どんな授業があっただとか、友達とどういう話をしたかなんてことは一切合切忘れてしまったのに、どうしてか、あの鬱陶しさだけは身体の芯にこびりついたままだ。
普段と変わらない、何気ない一日で終わるはずだったあの猛暑日に平穏が音を立てて崩れるなんて、想像できるわけがなかった。
暑さに身をやつしながら家に帰ると、両親が激しく口論していた。いままで聞いたことのない罵声が飛び交う非常さに耳を疑った。
許せない。
ふざけるな。
離婚だ、慰謝料だ。
間違いなく、言い争いをしているのは文香の両親だった。そんな言葉が飛び交う光景を目の当たりにして、文香は玄関で凍り付いた。
ドラマで見たことのあるやりとり。
あんなものは、フィクションの世界に閉じ込めてある誰かの想像の産物でしかない。日常の中に、ちょっとした、自分の生活とは無関係な場所で発生する非日常を目撃したいと望んだ大多数のために用意されたシナリオでしかあり得ない。こんな非日常的なイベントなど起こるわけがない。
どこまでも他人事のようにしか思えなかった劇中のワンシーンが、両親の姿に重なる。画面のこちら側で見てきた映像が、目の前に実体として展開されている。生々しい本物の感情が張り詰めている。
父の言葉ですぐに事情が飲み込めた。
母が、浮気していたのだ。
いつの間に? どこで? 誰と?
疑問が頭の中で湧き出てきて、胸の奥からいっぺんに溢れかえってくる。
「どういうこと?」と問い質す文香の声に、母は取り合ってくれない。
怒気を撒き散らす父と、それ以上に激昂する母。実の娘がすぐ側にいるというのに、欠片も遠慮することなく罵り合う。お互いに手こそ出しはしまいと堪えるように、父も母も見たことのない剣幕で握り拳を作っていて、我慢がいつ爆発してもおかしくない空気だった。破裂しそうなほどに張り詰めた空気は、とにかく息苦しい。逃げ出したい。でも脚が震えて動けない。かろうじて廊下にあがったはいいものの、そのまま床に頽れた文香はただただその光景を眺めているしかなかった。
ついには呼吸することさえ苦しくなって、文香は自分の手で何度も胸元を擦る。
「文香はあたしが引き取るからね」
射竦めるような眼差しで一人娘を一瞥した母が声を張り上げる。「それじゃ、さよなら」と吐き捨て、床にへたり込んだ娘の手をとり、玄関へと引き摺っていく。
「お母さん、ちょっと」
ちょっと待ってよ。
それじゃ、ってなんなの。さよならって、どういうこと?
どこへ私を連れていくつもりなの。
話の流れを理解することを脳が拒絶している。母の決断に、納得なんて到底できない。
文香は心の奥底から湧き上がった恐怖に任せ、
抵抗されることなど微塵も考えていなかったのだろう、驚愕と憤りを綯い交ぜにした表情を浮かべる母が「はっ?」と短く息を吐く。
――なにをやっているの、逆らうだなんて絶対に許さない。
愛娘に弾圧の視線を向ける母の怒りが膨れあがっていく。
「お母さん、なに、やってるの」
「見て分からない? そんな想像力に乏しい子に育てた覚えはないけど」
母は事務連絡をするかのように説明する。言い返せないままでいると、文香の手首を再び強く握った。
「お母さんとお父さんね、これから別々に暮らすの。ああ、そうそう。この家を出たら、もうこの人はお父さんじゃなくなるから」
あんまりな言葉に、文香は固まってしまう。声を出そうとしても、喉元が痙攣して上手く動かない。声を発した瞬間に母の堪忍袋ごと裂けてしまうような気がして、どんな感情も言葉にならない。
「さ、行きましょう」
氷のような温度を
それだけは、いけない。離婚なんて、そんなこと。
とにかく、この状況は、駄目だ。
良いのか悪いのか判断のしようがないけれど、とにかく、駄目なのだ。
「ダメ! 駄目だよっ! なにやってるの! お母さん!」
あらゆる負の感情を乗り越えた言葉が、文香の口から吐き出される。
けれど、叫ぶ声は母の心に届かない。
「あんたはこれからお母さんと暮らすの。新しいお父さんも一緒よ」
その言葉に文香は総毛立つ。
お父さんは目の前にいるじゃないか。
あれが父でなくて、誰が父なのだ。
好きな人を鞍替えするのとはわけが違う。勝手だって違う。私には父の血が流れている。どうして母の
「やめて……やめてよ」
「こんなどうしようもない人が住んでる家からさっさと出るわよ。ちんたらしてないの、文香」
どうしようもないのは、愛想を尽かして赤の他人と好き勝手に浮気したあんただろうが!
心の中で叫び、母を
私、こんな人の血を半分受け継いでいるだなんて。
この身体が、とても汚らわしいものに思えて、文香は空いた手で何度も身体をさする。
「わかんないよ、なんでこんなことになってるのか、説明してよ」
「説明は後っ。とにかくここを出るの。早くしなさいっ!」
母は文香を手首ごと強引に引っ張り上げる。反動で肩が外れそうになって「痛いっ」と喚いたが、掴む手の力はそれでも弱まらない。
「やめてよっ! やめてってえ!」
この家に相応しくない金切り声が玄関に響き、らしくない言葉に驚いた母が動揺した。強く握られていた手首が母の手元から離れる。必死に後ずさると、父の脚とぶつかった。
文香が見上げた場所にあった父の顔からは、感情が抜け落ちていた。喜怒哀楽を含んだ、ありとあらゆる衝動を殺しているかのようだった。そんな父の姿が痛々しくて、文香はすぐに父の顔から目を背ける。
「出ていくのなら、出ていけばいい。でも、文香は別だ。親として、この子の意志も尊重してやらないといけない」
「娘はかわいいから置いていけってこと? 今更そんな愛情見せつけられても反吐が出るだけだってのに。ふざけないで」
「黙れ。今は、僕もお前も、文香の意志を尊重するところだろ」
母を一喝した父は文香に優しく問いかける。
「文香、どうする? 今日はここにいるか? それともお母さんと一緒に行くか?」
「どう……って……」
父と母と暮らす。どうして三人一緒という選択肢がないの? どれだけ泣き縋っても、取り戻せない世界なの?
一縷の懇願はただただ虚しいだけだった。どこを探しても、この家には理想の選択肢なんてものは見つからない。学校で友達と日常を過ごしている間に、儚く砕け散ってしまっていた。
壊れるだなんて想像しなかった世界。それは修復不可能なほどにずたずたにされていて、文香の力ではどうすることもできないものになってしまっていた。
そう理解した瞬間、文香は悟った。
――この非情な世界には、神様なんていない。
唐突に、すとんと、心に突き刺さった。あまりにも心ない現実が、感情のど真ん中を染める。私の核。感情の発露を担う部分が、鈍く濁っていく。いまこの瞬間のできごとが、消えない過去になって、未来の自分を一生縛り続ける一瞬になっていくのが自覚できてしまった。
「ごめん、なさい。今日は、ここにいさせて、下さい」
誰に謝っているのか、なぜこんなことをしているのか。わけも分からず、ただただ文香は本能のままに頭を下げた。それが正しいとか間違っているとか関係なく、そうすることで事態が上手く進むと願って。
「ふざけないでっ!」
鬼女と化した母が声を張り上げて怒号を飛ばす。釣り上がった双眸に怒りを
あれが、私の母親? あんな、だったっけ。
温厚で
違う。もう、そうじゃない。
文香に注いでいた優しさを、家族が知らない男にも分け与えていた、飢えた女。
そんな母と触れ合っていた男となど、一緒に暮らせるわけがない。
「文香の気持ちを
見たことのない憤怒の表情を貼り付けた母が、父の言葉に反応もせず、無言のまま家を出て行く。バタン、と玄関口の引き戸を勢いよく締める音が張り詰めた空気を揺さぶる。
その振動が、すべてを物語っていた。
もう、この家族は無理だ。三人で一緒にいることなど、永遠に不可能になってしまったのだ。
「文香、ごめんな」
父は文香に何度も謝った。けれど、それで事態が戻ることもないし、気持ちだってなに一つ晴れやしない。
どれだけ日が経っても、母は帰ってこなかった。この家の敷居を跨ぐこともなければ、手紙や電話の一つもよこさない。母が出て行って、部屋は少しだけ広くなった。それ以上に父娘の間で会話が減り、笑顔が消えて、生活は苦しくなった。
やがて母の名前が書かれた封筒がいくつか届いた。
離婚で、慰謝料。裁判だと。
和解しようなんて気はさらさらないあの女は、親権と金をせびってきたのだ。
ふざけるな、と思った。ただただ、怒りが込み上げた。
もう二度と顔も拝みたくないのに。どうしてそこまでしてくるのか。文香は理解に苦しんだ。
文香と父が負った悲しみと、母の傲慢を同じ土俵に立たせるだなんて、正気の沙汰ではない。金の亡者なんて表現では足りない。もっとおぞましいなにか。あの女は、鬼や悪魔といった得体の知れない化物に取り憑かれている。
「あんな女の所にはいかないから、安心して、お父さん」
自分の居場所を確かめるように何度も、文香は父に言い続けた。
父は毎日のように夕方過ぎに帰ってくるようになった。慣れない台所に立ち、危なっかしい手つきで包丁を握り、フライパンを振るう。遅くまで仕事をしていたはずなのに、それがとんとなくなった。休日には溜まった洗濯物を干し、掃除機をかける。風呂場や台所を磨き、ごみを捨てる。母がやっていた家事を、不器用にこなしていく。
「文香が大学生になるまであと数年はお父さんが頑張るから、文香も頑張れ。一人で生きていける力を付けろ」
まるで父が自分自身に言い聞かせるかのような言葉は、
あの女のようにだけはなりたくない。
女の武器は、周囲を破滅に導く凶器になりうる。身をもってその破壊力を知った文香は、人として強くなろうと思った。この辛い生活を耐え抜けば、きっと報われると信じて。
父が残業をしなくなってから、使えるお金が極端に減ってしまった。小遣いも減り、外出することも贅沢することもなくなった。お金がないから塾にも通えない。お金の無駄になるから娯楽にも手を出さなくなった
身を以て、思い知る。
生きるには、金が必要だ。
独学で頑張って、良い高校に行く。大学も卒業して、給料のいい会社に就職する。そうしなければ母のようになってしまう。
人を不幸にするような人間にだけはなりたくない。
不幸に、なりたくない。
そんな強迫観念を胸に、文香は勉強を続けた。
高校受験の時期が近づくにつれ、土日も休まずに稼働する父の姿を見ながら、けれど自分は机と参考書にしがみつく行為にどうしてか罪悪感を覚えた。その頃から、市営の図書館に自然と足が向かうようになった。
とはいったところで、図書館で勉強する気なんてろくに起きなかった。そんな習慣が元々なかったこともあったし、図書館は中途半端に静かで、落ち着かない。結局は図書館に蔵書されている膨大な本の山を、それこそ端から切り崩すような日々を過ごした。幸いなことに時間を潰すのには困らなかった。本に没頭していれば、時間は流れていくから。
離婚や浮気、家庭裁判といったフィクション作品に自然と手が伸びた。物語を読み終えて、自分の経験と比較する。その度に、現実はこんなもんじゃないし、もっと不幸で陰惨なのだと叫びたくなる衝動に駆られた。
分かってない。この作者も、あの作者も、なにも分かっちゃいないんだ。
彩りをもつはずの世界が灰色になるのを文香は知っている。途方に暮れるしかなくなるし、他人のことが信用できなくなる。浮気をする人間の血が流れているこの身体を卑しく感じ、いずれ自分もああなってしまうのではないか、と不安に苛まれる。あの一瞬に記憶と感情を縛られる。何度も思い出すし、その度に心が腐っていく感覚に苛まれる。そういう、後ろ暗さを抱えて生きる人間の醜さというものは、確かに存在するのだ。
どの作品にも足りないと思った。不幸や絶望の色。負の感情と、人間の陰湿さ。そういった感情が欲しかった。生半可な昇華では、文香の心は納得できなかった。
生々しい感情を探した。文香の中にはない語彙で、あの夏の日に抱いた感情に名前を付けたくて探し求めた。こんな自傷行為、馬鹿馬鹿しいと思う。それでもやめられなかった。物語を読んで、幻滅して、次の一冊を手に取ることを繰り返す。
数え切れないほどの物語に飛び込んだ。そのどれも、最後には幸せが待っていた。どの物語も、結局は幸せへ向かっていく。長く苦しい地獄の果てにある救い。そこに辿りつくだけで、文香は微かな幸せを感じた。あれだけ凄惨をフィクションに求めたのに、どうしてか、読後に残るのは、暖かくて優しい感情だった。
本当に求めるものが見つけられなくても、感情の中心に根付いた過去が少しずつ浄化されて、病んだ闇が晴れていく。私もこういう幸せが得られるだろうか、と作品を読み終わってからふと考えるようにもなった。
そうしているうちに、いつしか目的が変わった。ここに描かれているような幸せが恋しい。物語に縋り、救いを求めるようになった。
もっと幸せになりたい。あんな女になりたくない。そのためには、大人になったときに後悔しないためには、どうすればいいか。
その決意が、学業に注力するための新たな原動力になった。
母のようになりたくないという強迫観念がすべてだった。そこに、夢のようなものがくっついた。作家になれば印税とやらでお金が入ってくることは知っている。ベストセラーになればもっと稼げる。だから、頑張ろうと心に決めた。
離婚してから、愛生文香は変わった。陰気で、付き合いづらい生徒になった。友達も細々と、徐々にその数を減らした。色々と理由を聞かれた。どれだけ親しい仲であったとしても、話せるはずがない。綺麗な理由で周囲を
けれど、思春期で多感な時期を過ごす中学生の洞察力とか妄想力というものは侮れない。父のため、家計のため、という上っ面を塗り固めるための上品な嘘は、いつしか見抜かれていた。
放っておいてほしかった。一人でも生きていけるから静かにしておいてほしかった。なのに、どれだけ糊塗しても周囲は段々と気付き始める。真相を突き止める。ああ、ムラ社会ってこういうことなのか、と文香は以前に図書館で読み漁った文化人類学の教本に書かれていたことを思い出す。
人の不幸は蜜の味。文香ではどうすることもできない家庭の事情は、多少の不幸で思い詰める同級生の格好の餌食になった。世界はどこまでも残酷だった。学校の誰もが海辺の浅瀬でくるぶしか膝下まで浸かるような不幸の背比べをしておきながら、足のつかない海の底へ沈んでいく私をさらに追い詰めていく。自分より不幸者がいるということに安堵して、それを手放さないように、私から手を離し、嘲笑する。深海の闇を照らす悪意の光が、焼けるように痛かった。
「文香のお母さん、不倫だったんだって」
クラスメイトがあちこちでそう噂する。それも、文香に聞こえるように。辱めるように。
否定のしようがない事実を耳にして、その度に体の奥底が凍り付く。母が母なら、娘も娘。文香も悪い子よね、こっわーい。
そんなの、真っ赤な嘘だ。男をたぶらかすような性悪まで遺伝するだなんて生物学上あり得ない。私は、母のようにはならない。なりたくないからこうして青春を犠牲にして勉強をしている。だというのに、誰も、私のことを信用はしてくれない。理由は明白で、理解もしている。信用しても、楽しくないし、面白くもないからだ。中高生の人間関係に、嘘とか真なんてものは些細な価値観だ。もっと重要な多数意見のほうが信憑性があるのだから、愛生文香が一人で真実を叫ぼうとも、誰も聞く耳は持ってくれない。
噂があちこちから出てきては飛び火して、尾ひれがついて、文香を逃げ場のない場所へと追い込んでいく。数少ない友人関係すら壊れていく。孤独になっていく世界の中に、救いの手を差し伸べてくれる人はいなかった。
現実はやはり、どこまでも非情だった。神はいないのだ。
逃げ場を失った文香は、本の世界に一層潜り込んだ。けれど、離婚、浮気、裁判と、その字面を追っているだけで吐き気が込み上げてくるようになってしまった。
追い詰められた文香は、そこで初めて、派手な装丁のノベルズに手を出したのだ。
それまで手を取ろうとは思えず敬遠していた作品の数々。一風変わったタイトル。
馬鹿馬鹿しい話もあれば、ファンタジーもある。軍記物、歴史、日常系、ミステリー、青春活劇、SF。とにかくなんでも揃っていた。どの小説の主人公も文香と年が近い。文面に躍る彼らの心情にどことなく共感できた。いや、現実から逃避して、共感したかった。こういう物語で生きていられればどれだけよかったろうと、自分の惨めな境遇と比較して、空想に耽ることのできる小説。そういうものに初めて触れた。辛いとか、苦しいとか、そういうものを忘れさせてくれる、そういう代物だった。
狙っているようなコミカルな演出も、泣かせてくる展開も、不思議と抵抗を感じない。いくつかの作品のあとがきを読んでいるうちに、手にしているこれは『ライトノベル』というジャンルなのだと知った。
読んでいる間は、純粋に「面白かった」「楽しかった」と、そう思えた。青少年向けに書き下ろされた、軽快で痛快で独創的な物語。エッジのかかった自由な文体。開放的な世界観。これまで読み耽っていた離婚や裁判をテーマにした重々しい――いうなれば大人の小説とはまるで違う。逃避の文学に近いかも、と感じた。
現実世界の辛いことを一瞬でも忘れさせてくれる物語にずぶずぶはまっていく。時間を忘れ、図書館の閉館まで漁ることもしばしば。それを繰り返しているうちに、ライトノベルが必要不可欠な存在になっていくのが自覚できた。
文香は、ライトノベルの世界から生きる
高校受験は終わってみれば拍子抜けするほど簡単だった。文香は一縷(いちる)たりとも不合格を疑わないまま、希望校の合格発表を見ることができた。学区内で一番偏差値の高い、お金のかからない都立の高校。東京都内でもかなりの上位校で、大学受験のフォローも手厚い。
塾に行かずとも勉強できる環境を確保できる。そのことに文香は安堵した。
けれど、合格発表を素直に喜ぶことはできなかった。
合格発表前日に送られてきた裁判所からの呼び出しで、言いようのない不安に駆られた。
大丈夫だと信じたい。あんな悪魔と暮らすことなどあり得ない。だから、どうか。
三月中旬。中学の卒業式を終えてそのまま裁判所へ向かい、文香は祈るようにして和解案を聞いた。
「ごめんな、文香」という父の声を、裁判所の待合室でただただ聞いた。
一人娘の親権は父に残った。あの女は、数千万円の慰謝料をもぎ取っていった。
父と文香の側から消えていったあの悪魔は、最後の最後、金を選んだ。腹を痛めて産んだ子どもになんの未練もない、という顔をして。あたしについてこなかったのが悪い、と見下すような、勝ち誇った眼差しを湛えて、傍聴席の向こう側から文香を見ていた。
弁護人と肩を並べて薄気味悪い笑みを浮かべた女は、もはや文香の知る母ではなかった。母の面を被った鬼。金の亡者。
「ごめんな」
母との決別を終えてから、それが口癖になった父は更に痩せこけた。
悪いのはすべてあの女なのに。どうしてお父さんが謝るの? 謝罪すべきなのは、出て行ったあの女のはずなのに。どうして。
「私、大丈夫だから。お父さんがいてくれるだけで、大丈夫だから」
愛生家は一層貧しくなった。多額の借金を抱えた父は、文香の高校生活が始まる直前に引っ越しを提案した。
「近場に、少し狭いけど、二人暮らしには丁度いいくらいのアパートがあるんだ」と疲れた顔をして部屋を片付けていく父の背中が、小さく見えた。
「ここに住み続けることで僕も文香も疲れてしまうなら、いっそ、ね」
言い訳をするような父の言葉は、誰に対してのものだったのだろうか。
離婚の事実は、銀行員だった父のキャリアに少なからず影響を与えた。
半年以上も定時で帰宅するようになって、出世街道から外される。そこにこの離婚が追打ちをかけ、根も葉もない噂がばらまかれる。火のないところに煙はたたないというけれど、火種がいくら小さかろうと、野次馬が
世の中に、神はいない。誰かが幸せになるだけ、他の誰かは不幸になっていく。世界が許容できる幸せの総量には限界があるから。
それが世界の真理だ。
そう思わないと、やっていられない。誰かを恨まないと、やっていけない。
「大学に、行かせてやれないかもしれない」
「そっか」
「ごめんな……」
「いいよ。いいって」
高校生活も一年時を終えるころ、父にそう言われ、文香は決意した。
進学するなら、特待生枠を狙うしかない。
もし枠が取れなければ、大学進学を諦めて、手に職を付ける。決して母のようにはならない。
それが、一人で生きていくということなのだから。
父に迷惑はかけられない。高校を卒業したら、できるだけ一人でお金を工面できるようにしていくしかない。
二年次に進級してから、大学の受験料と生活費、それに少しばかりの小遣いのために近所の書店でバイトを始めた。
高校に通いながら、部活はせず、あくせくとバイトをこなして身銭を工面する日々。通学に必要な電車代と学費の一部を払うためにも、青春は犠牲にするしかないと文香は割り切った。どうせ学校にいたって、勉強する以外にやることもないのだから。ドラマや漫画、ライトノベルで見るような華やかな青春は、私には必要ない。そう自分に言い聞かせた。
現実なんてそんなものだ。出会いとか、恋愛とか、そういうものを望んでも、できない人間というのはいる。物語の主人公を主人公たらしめるのは、作家たる神の気分とさじ加減次第。この世界に神などいないのだから、当然のように出会いなんてものはなかった。
都立の進学校とあって、有名な私大の付属高校に不合格となって流れてくる生徒も多かった。そんな彼らとは生活レベルも違ければ趣味も話も噛み合わない。金銭面で
貧しさ。それは高校生活のあらゆる面で
贅沢はほとんど無理だった。大学に行く資金を稼ぐために、勉強する時間を削ってバイトに励む毎日。それほどまでに逼迫した家計。なんとも皮肉なもんだな、とバイト中にニヒルに笑ってしまうこともしばしばだった。
バイト代だけでは足りないことくらい分かっていた。もっと、金が欲しい。バイト代だけではなくて、もっと、もっと。必要最低限度の文化的な生活をするための生活環境が欲しい。本音をいえば友達と休日を過ごしたいし、現金なことで悩みたくない。
政治経済で学んだ日本国憲法は、この私を救ってくれはしない。自分を救えるのは、自分だけ。
もっと、お金が欲しい。
そんな見苦しい欲望で一杯一杯になりかけたとき、小説の新人賞が掲載された雑誌をバイト先で見かけた。目に飛び込んできた『新人賞発表』の文字。
雑誌には、受賞した作品の枕部分が十数頁分、続いて受賞者の言葉、最後に評定者の所感が掲載されていた。ハードカバーでの刊行は数ヶ月後になる、という一文がでかでかと掲載され、選考委員も絶賛、という派手な広告。
そんな内容にざっと目を通して辿りついた最終頁、次期の新人賞募集の記事に、文香の目が止まる。
「……うそ。なに、これ…………」
思わず口に出してしまうほどの衝撃。その金額に釘付けになる。
大賞受賞者には投稿作品での出版確約と一千万円を授与する。それが一等大きな謳い文句のように大文字で書かれていた。
一千万円。
それが束になっている光景を、文香はいよいよ想像できない。
「一千万円あれば……」
金に釣られた
多額の賞金は、作家としての道が開けるかもしれない、という淡い期待よりも遥かに大きな引力をもっていた。
似たような雑誌をあたってみると、小説家になるための登竜門となる新人賞はそれなりな数があることを知った。一千万円という大金こそ他にはなかったものの、大賞を受賞できれば少なくとも数百万円を獲得できるものが多い。
賞にもきちんとジャンル区分があって、自分の作風とマッチするテーマを売りにする出版社の新人賞に投稿する、というのがセオリーということも知った。図書館で本を読み漁っていたときは出版社を意識したことはなかったものの、書店で書籍を陳列していると、出版社ごとにジャンルの偏りは確かに存在した。
なんにせよ、大賞を取れば何百万というお金が手に入るし、その後も連載してヒットを当てればそれなりに印税収入も見込める。将来を考えれば専業ではなく兼業もできる。
これならいけるかもしれない。
どうしてこう思ってしまったのか。思えてしまったのか。なにがいける、なのか。どれも曖昧で、明確な根拠もない。ただ、漠然とした感覚ははっきりと熱をもっていた。
なんとかなるかもしれない。どうにかできるかもしれない。
こうして始まった執筆活動は、バイトに明け暮れ、青春を切り捨てたはずの文香が見つけた、数少ない趣味の一つになった。
「やっぱり、ファンタジーだよね」
文香は鳳凰文庫の新人賞に的を絞った。理由は、お気に入りの作品である村野先生の六家帝国物語シリーズが鳳凰文庫だということと、そのタイトルを持っている大本の出版社――鳳凰書店が、ファンタジー風味の強い作品を数多く出していたからだ。
尊敬している作家と、同じ出版社から自分の本を出す。
賞金のことがありながら、そんな夢のような未来を思うと心が躍った。
鳳凰文庫作品は、軽い、という言葉がぴったりな、三百頁ほどの小説が大半を占めている。
メインの読者層は、青春真っ盛りの中高生。妄想力が豊かな読者を相手にしていかなければならない。年代としても、絶望のどん底にいた文香自身がターゲットになる。
ライトノベルという作品群の中でもベストセラーとなっているシリーズは、高校に在籍している司書のおかげで図書室にも蔵書されていた。お気に入りの作品である六家帝国物語も全シリーズが揃っている。
誰からも忘れられたような学校の図書室は、独特の
図書委員だった文香は、独特の雰囲気を漂わせる図書室で本を手にしながら暇な時間に執筆を始めた。更には委員という名の権力を振るい、予算を使い果たさんばかりに書籍を注文した。ライトノベル、一般文芸、ハードカバー、ノベルズ、創作の参考になる歴史書や資料まで。
ただでさえ数少ない利用者の意見と要望を酌んでくれていた司書も、文香からの要請には度肝を抜かれたようだった。それでも、事情を話すと快諾してくれた。
「実は小説を書いてるんです。本をたくさん注文したいのは、私が参考にしたいからって個人的なお願いなんですけど」
「へぇ、小説を書いてるんだ。凄いじゃない」
「全然凄くないよ。難しいし、試行錯誤してる。書いてみると難しいんだね」
「読むのは数時間で終わっちゃうのにね」
「書くのは大変だけど、面白いよ。あっという間に時間が過ぎていくし」
「愛生さんの小説を心待ちにしてるわね。これは、その先行投資ってことにしておくから」
「うん。ありがと、先生」
作家になることを打ち明けたのはこれが初めてだった。あれ以降、ただ一人を除いて、誰にも語ったことのなかった秘め事。
同級生に言えば、作家デビューなど夢物語だと言われるだろうことも、呆れ半分で馬鹿にされるだろうことも分かっていた。だから、誰にも打ち明けず、創作の世界に籠った。
数か月分のバイト代をつぎ込んでノートパソコンを手に入れ、本格的に執筆を始めたのは梅雨の時期。鳳凰文庫の新人賞投稿の締切りである八月末に向けて駆け出すことにした。
何度も書いては消してを繰り返した。そうしてできあがった処女作は、高校二年生の真っ盛り、締切りの一週間前に完成した。
予定通り、鳳凰文庫の新人賞にそのまま投稿して。
そんな処女作は、あっけなく一次選考で落選した。
「まぁ、なんとなく分かってた。こうなることくらい」
誰にも評価されず、文香の中で静かに朽ち果てていく。誰にも触れられず、陽の光を浴びることもなく、駄作というレッテルとともに記憶の奥底へ沈殿していく。
最初から上手くいくだなんて期待はしていなかったけれど、なんだか自分の作品をこけにされたような気分を覚えた。そして、その感情を抱けたことに安堵もした。
ああ、私はちゃんと自分の作品を愛せるんだ。
その子のためにも、これからも私は創作を続けよう。
そんなことの積み重ねを何年も続けて。
もう、あの頃から、ずっと書いてきたんだ。
「どうしよう……」
鳳凰文庫新人賞の投稿締切りまであと二週間を切った、五月中旬。
もう、時間がない。
優希に読んでもらった作品を書き直している暇はない。一度壊して再構築するのは、あまりにも手間が掛かる。それならいっそ、引きずり出せる感情から新しい何かを起こした方が早い。
「プロット、やろう」
玄関からデスクに戻り、パソコンを立ち上げる。
「あっ…………」
そのタイミングで文香の元に届いた一通のメールは、緊張する暇すら与えてくれず、藻搔き続けることを嘲笑うかように、ひどくあっさりした通知だった。
『応募いただきありがとうございました。あなたが投稿された作品は一次選考に落選しました』
「……こたえるなあ、ほんと」
あの大雪が降り積もった日に鳳凰文庫に送った作品は、久々の一次落選。椅子に背中を
一次落選。
たった四文字が、
執筆を始めて二年あまり。十を超える作品を書き続けてきた今になって、まさかこんな場所で躓くだなんて。
――作品に魂と感情を込めようよ。
文香は、モニターの側に積み重なったライトノベルの山を
手が届かない。これだけ書いても悩んでも、追いつけない。並べない。
そのもどかしさに溺れそうになる。滲んでくる悔しさに潰されそうになる。
泣きたくなる気持ちを抑えたくて、新人賞作品が連なる山の頂点に置かれた作品を手に取った。表紙を捲り、そこにある言葉を何度も目でなぞる。
『いつまでも、待っています』
これを書いた本人は、文香のことも、この本にこんな言葉を書いたことも忘れているに違いない。
でも、この言葉があったから、どんな辛いときも書き続けてこられた。賞金を目当てにするだけじゃ絶対に保てなかったモチベーションを支えてくれたのは、こんなにも簡単な約束。
たった一つの言葉なのだ。
「はやく、優希の隣に立ちたいよ」
辿りつく方法は一つだけ。
その願いを叶えるには。
書くしかないのだ。物語を。
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