(三)愛生 文香


 文香は憤っていた。


 自分にはとことん創作の才能がないことはとっくの昔にわかりきっていたはずなのに、他人に凡人であることを指摘されると、とてつもない腹立たしさを覚えた。腸が煮えくり返るような黒い感情が、胸のなかで激しく渦巻く。


 そして、そんな怒気を抱ける自分が酷く浅ましい存在に思えてならなかった。


「文香ってさ、なにが書きたいの?」


 読み終えた書類を机の上で整えながら文香に問うてくる声が核心を突く。

 なにが書きたいのか。


 私は、物語を書きたい。面白い小説が書きたい。それ以外に答えなどあるわけがない。


 どうしてそんなわかりきったことを問うてくるのかが理解できない。


「文香が書きたいことが、見えてこない」


 そんなはずはない。


 これは、私が面白いと信じて描いた舞台と物語。妄想を重ね、空想で彩り、様々な物語を読んできたからこそ生み出せた創造の形が詰まっている。


 そのはずなのに。


「ここに文香の感情はないし、情熱もない。面白くない。駄目駄目だよ、これ」


「そんなこと、ないはず、だよ」


 途端に熱を失い、自信がなくなる。あなたの感覚は間違っていて、私こそがただしいと否定すればいい。ただそれだけのことなのに、できない。


「自分で何度も読み返して、納得がいった? 自分で書いていて、泣けた? 憤った? 胸を打たれた? カタルシスを感じた? どうしようもなく感情が乱れる一幕はあった? 魂を込めた? たった一言に情熱を込めた? そういう基本的なことを含めて、文香がいない。文香の痕跡が、匂いが、魂が感じられないよ」


 難産だった。苦しんだし、悩んだ。


「悩んだし、苦しんだし、頑張ったって顔してるね。だけど、それ、みんな通った道なんだよ。自分だけが辛いと思うな。辛いから報われるほど人生は甘くない。小説舐めんな」


 懊悩しながら捻り出すようにして書き連ねた一作。魂だってきちんと込めている。


 なのに、どうしてあなたは汲み取ってくれないの?


 声にならない文香の訴えを一蹴するように、彼女は畳み掛けてくる。


「作品に魂と感情を込めようよ。これを読ませたい人間に熱意をぶつけないと駄目だって。これが面白いだろ、って試すような姿勢じゃなくて、自分にはこれしかないんだって全身全霊をぶつけないと。落選したときに中途半端な諦めをつけられるような、そんな生半可な拙作は誰も欲しがらない。しょうもない気持ちしか宿っていない作品には、誰も惹かれない」


 返す言葉がなかった。本心を見透かされたような気がした。


 気がした、という感覚があってから文香は思い知る。


 自分のなかに読者を侮る気持ちがあっただなんて思いもよらなくて、愕然がくぜんとする。


「誰からも愛されない作品は、世界から見放される。中身が詰まっていない作品を手に取った読者がなにを思うか、文香なら嫌と言うほど分かるでしょ? 期待を踏みにじられる、その絶望感。落胆。後悔。文香は、自分の作品を手に取ってもらった人たちに、そんなものは与えたくないでしょう?」


「そんなの、嫌に決まってるじゃない」


「だったら中途半端な技巧に頼るな。表現が多少拙くなってもいいから、全部をぶつけるんだよ。自分に甘えるな。自分の人生くらい切り売りしてみせなよ。こんな綺麗事ばかりの話、逆に作り物って感じが満載で気持ちが悪い」


 原稿用紙を文香に返した彼女は、「それから、最後にね」と、真剣な面持ちではっきりと口にする。


「これだけは覚えておいて。読者を侮る行為は、作品を冒涜することに他ならないよ」


 その言葉を置き土産に、優希は文香の部屋を去って行った。その背中に何も言えず呆けたまま、文香はゆっくりと原稿用紙に目を落とす。


 異世界ファンタジーの舞台設定に世界を旅する少年と少女の物語。笑いとバトルを織り交ぜて、掛け合いの会話を面白おかしくした、コメディタッチを売りにした十万字を超える長編。いま流行のものを詰め込んだから、確かにミーハーと言われても仕方がないけれど。


 こんな作品では誰にも届かない、そう言い切られてしまった。


 これで駄目だというのなら、本当に、切り出すしかなくなる。


「……いまの私になら、できるのかな」


 とてつもなく深い闇。どこまでも否定しようのない黒く陰惨な現実の積み重ね。

 覗き込んで、掘り進めれば、その断面からはあらゆる感情が滲み出てくる。それを、記号にすることができるだろうか。その黒い記憶に引きずり込まれることなく、源泉を汲み上げ、物語の素材として扱いきることができるだろうか。


 拙くとも、すべてをぶつけてみろと、優希はそう言った。


 足りないのは熱量と感情だと、文香の怠惰を見抜いた。そのつもりはなかったけれど、もしかしたら、無意識のうちに甘えていたのかも知れない。


 血反吐で物語を書くことは当たり前なのだ、と。自分の過去や闇に手を出して、飲まれそうになりながら全霊を尽くすことは作家の業なのだ、と。それすらやってのけないで、なにが作家だ、と。


「ほんと、敵わないな……」

 立ち尽くし、原稿用紙を強く握りしめたまま、文香は深く息を吐いた。

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