友野優希は思い悩む

(一)藤代 颯馬


 桜もすっかり新緑を宿し始めた五月。


 アパート・サンライズから一般道と首都高速道路をバイクで走り抜けて小一時間。


 都内は新宿某所。摩天楼まてんろうのような不気味な輝きを放つ超高層ビル群の一角にて。地下の車庫にバイクを止めてヘルメットを脱いだ颯馬は、荷物入れから社員証を取り出し、玄関へと続く階段を上っていく。


 地下から外に出ると、出迎えたのは鬱陶しいほどの日射しだった。五月も半ばだというのに早くも夏日を記録すると予報されているだけあって、朝っぱらから容赦なく照りつける日射しに嫌気がさす。


 熱したアスファルトから逃げるようにして正面玄関からビルに駆け込み、カウンターで社員証を提示してエレベーターホールへ出る。メインロビーでは徹夜明けで退勤する社員と欠伸をしながら出勤してきた社員が入り混じり、どんよりした空気が漂っていた。


 誰一人として会話もしない静かなエレベーターにぎゅうぎゅう詰めで運ばれ、十三階。


 株式会社鳳凰書店の編集部。


 一週間ぶりに訪れた職場は、朝からけたたましい印刷音と電話の呼び出し音が鳴り響いている。


 鳳凰書店は一般文芸作品から青少年向けの文庫本、コミック誌、漫画まで手広く取り扱う大手の出版社で、就職ランキングにおける学生の志望度も高い。一人が担当する仕事量は尋常じんじょうではなく、正社員はいつ休暇を取っているのかと不思議に思うほど常に忙殺されている。体力と胆力がなければ、とてもじゃないが勤まらない。


 颯馬は編集部のアルバイトとして働き始めてようやく二年目になったばかりの新米だが、休みらしい休みをとったのは昨日までの一週間が初めてだった。担当していた作品の一区切りとゴールデンウィークが重なったのを契機に休暇を申請したら、編集デスクの大崎から快諾が得られたのだ。


 颯馬は自分の席に荷物を置き、一週間ぶりに顔を合わせる大崎の元へ向かう。


 大崎の酒で膨れた小腹が、高級ブランドの灰色セーターの下でぽっこりと存在感を主張している。欠伸を噛み殺しながら新聞を読んでいるところに、颯馬は低頭して歩み寄った。


「お久しぶりです。デスク」


 声をかけると、大崎が顔をあげた。


「おお、藤代じゃないか。久しぶりだな。ゴールデンウィークは満喫できたか」

「おかげさまで。長い休暇をありがとうございました」

「羽を伸ばした分、しっかり働いてもらうからな。これからの仕事については氷山ひやまに伝えてある。これまでとはひと味違うだろうが、どっしりやってみろ」

「うすっ」


「ほら、持ち場に戻れ」と肩を叩かれ机に戻ると、大崎に挨拶している間に出社してきたのだろう、直属の上司である氷山がブラックコーヒーを片手に、颯馬の隣の席でパソコンの画面を凝視していた。


 氷山ひやまさえ。入社八年目にして人気タイトルを幾つも抱える敏腕編集者。新卒入社の成り上がりで、編集部の筆頭主任。彼女が編集として関わるライトノベル作品のうち、三つはすでに今年度のテレビアニメ化が決定している。夏に一本、秋に一本、そして冬にもう一本。そして、目下氷山が仕込に専念しているのが、この秋から放映開始が予定されている『ドリーム・リアライザー』だ。


「おはようございます。氷山さん」

「おはよう、藤代。昨日のうちにメールは読んだか?」

「いや、すんません。所用があって見らんない状況にあったんで、これから目を通そうかと」


 ばつ・・の悪さを覚えながら軽く頭を下げると、氷山は「そうか」と無表情に言い、ロングスカートの中で足を組み直しながらコーヒー缶を机の端に置いた。パソコンからこちらに振り返る仕草で、ポニーテール風にゆるくまとめた黒髪が揺れる。


「じゃあ、これから口頭で話す」


 こほん、と咳払いを挟んだ氷山は、表情一つ変えずに口を開いた。


「前にも伝えていたとおり、今日から息の長い作品に関わってもらう。基本的にはこれまで通り私のヘルプだけどな。作品名は知っての通り、ドリーム・リアライザーだ」

「……マジ、ですか」

「こんなんで嘘ついてどうする」

「い、いや。すんません。素直に驚いただけです」


 颯馬はポーカーフェイスを貫きながら、心の中でぐっと拳を握る。

 大人気作に関われるのだ。これ以上に嬉しいことはない。


「言っておくけど長期戦になるからな。アニメで大コケさえしなけりゃ間を置いて二期も続く。いや、あたしが続けさせる。ってなわけだから人気タイトルだけに失敗は許されない。来月号からは特集を組んで、そこで公式に今秋のアニメ化発表。原作絵での雑誌の表紙、数頁に渡る作者インタビュー。私にとっても久方ぶりの、初っ端からでかい仕事になる。これまであんたがやってきた仕事と違って、一段と質の求められる仕事になるから。覚悟しておいて」


 月刊誌の表紙とインタビューにアニメ化発表。盛り沢山だ。自分もその内容作りに関わることができる。それは純粋に嬉しい。けれど。


「でも、こんな人気作のヘルプ、俺で良かったんですか?」


 編集部には、沢山とは言わないまでも、新卒社員や若手、中堅どころの敏腕編集がいる。そんな中で、バイト歴一年の学生が稼ぎ頭の編集補助に抜擢ばってきされるのだ。周囲の目が気にならないといえば嘘になる。


「どうしてそんなことを聞くんだ?」

「いや、だって、他に沢山、できる人がいるのに俺でいいのかって」


 言うと、「はんっ」と氷山が鼻で笑った。


「さてはビビったか? その図体で」

「滅そうもない。怖さとか、怯えとか、失敗したらどうしようとか、そんな気持ちはさらさらないっすよ。っつか、図体は関係ないですし」

「ならよし。あと、勘違いしているようだが、社運を掛けた作品レベルでない限り、複数の編集がつくなんて普通はないからな。社員は社員で、どれだけ新米だろうが自分の担当作品を主として持つの。従役なんてない。どころか主担当の作品でてんてこ舞いな奴らばかりだし、そんな無能どもに稼ぎ頭のヘルプやサブを任せられるわけないでしょ。適当な仕事されちゃ困るんだから」


 ……それは、暗に俺ならサブを任せられるという理解で間違いないよな?

 颯馬が発言の意図を掴みかねているうちに、氷山はてきぱきと動き出す。


「いつまでぼけーっとしてるの。行くよ、会議室」

「えっ、へっ?」

「へっ? じゃなくて。メールの通り、これから友野先生のインタビューやるから。あんたも来るの」


 取材道具一式を持ってさっさと会議室へ出向いてしまう氷山の背中に「わ、あ、待った、待ってくださいっ」と情けない声を出しながら、颯馬は机に置かれた資料を乱雑に掴んで後を追う。


 追いつくと、先に会議室のドアを開いた氷山が、「おはようございます」と挨拶していた。


 まさかそこに、すぐそこに、友野先生がいるのか?


 颯馬の心臓が早鐘を打つ。身体の内側が燃えるように熱い。


 こんな風に緊張するのは久しぶりだ。


 あと一歩で先生と対面するところまで来て、深く深呼吸をした。心の中で「うしっ」気合いを入れる。そのまま腰を低くして、


「失礼、します」


 廊下から恐る恐る部屋の中を覗くと、氷山のほかに二人の女性が座っていた。その二人が同時に颯馬へと振り向く。


 その顔。姿。目の前に広がる光景に、颯馬は言葉を失った。


「ああ、氷山さんのヘルプって、あんただったんだ」


 雑な金色に染まった穂先を揺らしながら、見覚えのある顔が至極つまらなそうな表情で呟いた。気怠そうな態度を変えることもなく。初めて出会った時と同じように、ノートパソコンを打鍵している。


 いや、こんな偶然、ありうるのか?


「久しぶりだね、颯馬くん。にしても、ゴールデンウィーク終わって大学で会うより先にこんな所で合うだなんてね。ユーキともども、よろしく」


 FUYUMIこと、御堂美冬が慎ましい笑顔を浮かべ、他人行儀よろしく、そう口にした。

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