(五)藤代 颯馬

 颯馬が目覚めると、大学の入学式が始まる三十分前だった。


「……あっ?」


 窓の外から差し込んでくる陽光の眩しさでおぼろげに眼が覚めた。目をしばたたいて、枕許まくらもとのデジタル時計を何度も確認する。とっくのとうに八時半を過ぎている。


 もしかしたらこの時計が故障しているのかもしれない。そうであってほしい。一縷いちるの願いを込めて充電済みと表示されたスマートフォンを手に取ったが、非情にも同時刻を表示している。


 思いっきり顔を引っぱたく。


「……ってぇ」


 夢――ではない。頬がひりひりとした痛みを伴って、これが現実であることを訴えている。


「まじ、か」


 半ば茫然としながら、颯馬はよろよろと身体を起こした。


 変な時間に頭が冴えてしまって、読書をしながら眠気を待っていたのだけは覚えているのだが、はていつの間に寝落ちしてしまったのだろうか。そして不運にも、目覚まし時計は用をなさなかったらしい。動いているのだから予定時刻にけたたましく朝の到来を告げていたはずだが、止めた覚えがまるでない。


 いまからだと、どれだけ急いだところで入学式には間に合わない。

 

 だったら無理して行く必要などない。

 

 どうせ、学長と学生代表の話を聞くだけのつまらない式だ。出席する必要はない。

 

 そう思い直した颯馬は、風呂場でさっと熱湯を浴びてドライヤーで髪を乾かし、ワックスでツーブロックに整え、ストライプの入ったグレーのスーツに身を通した。鏡の前に立ち、改めて自分の姿をまじまじと見る。


 社会人と間違えられる容姿。


 バイトで着こなしているスーツは所々皺が寄っていて、精悍な顔立ちもどこか草臥くたびれている。確かに、社会人に間違えられても不思議ではない。しかし実際の所、今日をもって大学生なのだ。適法に酒も飲めるようになったのも今日。


「サークルのビラとかもらえんのかな、こんなんで」


 もらったところでどうせゴミ箱行きになるんだよな、勿体ないな、とも思う。


 サークル活動ができるほど暇ではない。四月もバイト三昧になるのは確定事項だ。


 上司からは「学業に専念せい」と釘を刺されているが、ありったけシフトを突っ込んでいる。なにをするよりも、編集のバイトをしながら経験を積む方が楽しいし勉強になる。バイト先の出版社に就職する予定だから、進路で困ることはなにもない。


 ただ、大学は出ておかないと自分を知らない人に舐められる。だから大学に進学したまでのことで、卒業さえできればそれでいい。


 身支度を整え、寝ぼけた顔を両手で叩く。短く息を吐いてから、布団の上に転がるスマートフォンを手に取った。「一緒に入学式に行こう」と約束した三人には申し訳ないことをしたと反省して、メールを送っておく。


『入学式は行かない。終わったら学食の一階に来てくれ。そこで時間を潰してる』


 送信してポケットにスマートフォンを突っ込もうとした矢先、振動が着信を伝えてきた。


「寝坊か(笑) by渚」

「分かった。終わったら連絡する 愛生」

「あいよー @美冬」


 三者三様の返信に一通り目を通した所で、あらためてポケットに仕舞い込む。


「とりあえず、どっかで本でも読んで暇潰すか」


 入学式に出る必要はないが、バイト先への諸々の手続きで必須になってくるから、学生証だけは今日中に受け取っておかないといけない。


 昨夜読みかけだった本と財布、それからパスケースを鞄にまとめて放り込み、ゆったりとした足取りで颯馬は大学へと向かう。


 九時を過ぎたので入学式はとうに始まっている。校内の大通りに新入生の姿は当然、ない。在校生にしても、入学生を捕まえるための下準備をしている頃合いなのだろう、校門から学食のある棟までの道のりは閑散としていた。


 雲一つない春の日射しがアスファルトを照らす。その照り返しがじんわりとした熱をもって襲い掛ってくる。じっとりと額に汗が滲む。スーツが灰色なのがまだ救いだ。一刻も早く棟内に入りたい一心で競歩するように文学部棟と図書館の前を突っ切り、学食棟に入った。冷房が効いているようで、吹き出した汗が冷えていくのが分かる。


 学食棟は一階から四階までがすべて食堂になっている。なかでも二階部分には生協があって、そこからは隣接する商学部棟への空中廊下もある。在学生が屯するにはうってつけのメインフロである一階は、すでに新歓活動に精を入れる在校生で溢れかえっていた。


 空いているのは四人掛けのテーブルが二つだけ。タイミングがいい。上級生に陣取られる前に颯馬は間近の空いているテーブルに鞄を置いて席を確保する。そのまま椅子に腰掛け、イヤホンを耳にして鞄から本を取り出した。そして、自分だけの世界に入り込む。


 寝坊した一因は、これだ。


 鳳凰文庫でトップクラスの人気を誇るライトノベル『ドリーム・リアライザー』。


 主人公が作家になるという夢を叶えるまでの軌跡きせきを描いた物語。登場人物の台詞は胸に染みるし、現実世界とも無理なくリンクする部分が多いだけに没入感がある。主人公たちが夢と現実の狭間で揺れ、挫折し、苦悩し、それでもいつか届くことを信じて夢を追い続ける姿が胸をつ。いまどき珍しい、苦難が際立つ作風のライトノベルだ。


 アクションや恋愛色は薄く、バトルもない。各巻の終盤に展開される爽快さは独特の味わいがあり、そこに繋がるまでの物語の展開や伏線の仕込も非情に丁寧。しかし、徹底的に恋愛模様が取り除かれ、時としていきすぎた陰鬱描写も盛り込まれるが故に、ライトノベルにはそぐわないのではないか、と発売当初は囁かれていた。


 だが、蓋を開けてみればそんな前評判を嘲り笑うかのように読者の心を鷲掴みにした。


 お気に入りである一巻は、紙がぼろぼろになるほど読み返した。処女作にして見事な王道の構成と文章。原作者である友野ユーキの地力は凄まじい、そう思える書処女作。作家として必須な感性や表現力にしたって、近年デビューした中でも随一と評されているほどだ。


「この席、あんただけ?」

「……あ?」


 颯馬が物語に没入していると、頭上から声が降ってきた。


 中盤からクライマックスシーンに向けて怒濤のように畳み掛けるいい所だったのに、と声には出さず、颯馬は忌々いまいましげに声の主に視線を向ける。


 雑に染めた金髪の女子だった。明らかに寝不足な顔。黒縁の眼鏡では隠しきれないほどの酷い隈が浮かんでいる。頬には腫物。不細工とまではいかないが、お世辞にも綺麗だとか可愛いとは言い難い。大学のロゴマークがペイントされたスウェットに、ユニクロで販売されている無地の黒色パーカー。お洒落や外見などなんのその、と言わんばかりの身なり。肩に提げた鞄はそれなりに荷物が詰まっているように見えるが、肝心の頭は空っぽいう、典型的な底辺大学生にしか見えない。どうせ鞄の中は化粧道具とかなんだろう。


 厄介な女子に絡まれた、と颯馬は小さく溜息を漏らす。


「いや、だから、ここ。いいかって聞いてるんだけど」

「あそこの席、空いてるだろ」

「どこよ」

「いや、あそこだって――」


 颯馬は空席になっているはずの四人掛けテーブルを指差した。しかし、そこでは四人の大学生が携帯ゲーム機を突き合せ、無言のまま真剣な眼差しを画面に落としていた。


 一体いつの間に。


「あんね、こんな風に四人席がめてるの、あんただけだから。あたしも座りたいし」


「……悪かった。荷物どかす」


 テーブルに置いていた鞄を空いている椅子の上に寄せて、颯馬は、スペースを空けた。


 そして挨拶もなく彼女はノートパソコンを広げたかと思うと、勢いよくタイピングを始めた。まるでそう打鍵するようプログラミングされた機械のように、淡々と打ち込んでいく。授業のレポートだろうか。それにしたってこんな五月蠅い所でしたため始める道理もないはず。


「入学式じゃないの」


 しばらくすると、唐突に彼女が口を開いた。少しの逡巡の後、颯馬は答えることにした。無論、黙っていると「無視すんな」とか剣呑な態度を突き付けられると判断しての対応だ。


「俺は寝坊したからな。入学式は出なかった」

「出席しないつもりなのにスーツなのはどうしてさ」

「これからバイトなんだ。スーツ着用が義務になってんの」

「ふうん。で、ライトノベル読んで暇潰してるってわけ、そんななりで」

「そんななりって……」


 初対面なのに随分と失礼な女子大生だな。


「俺の勝手だろ。どんななりだろうと関係ない」

「確かに関係ないか。ドリーム・リアライザーは万人受けの作品だしね。どんな人が読んでいても不思議じゃない」


 そう言われて、颯馬は咄嗟に手元の本と彼女を交互に見た。


 どうして分かったんだ。無地のブックカバーで表紙を隠しているから、なにを読んでいるのか分からないはずなのに……。


 そんな疑問が顔に出ていたからだろうか、彼女は颯馬の顔を一瞥いちべつし、すぐに目線を画面に戻して続ける。


「さっき一瞬だけ、あんたの後ろからちらっと中身が見えたから」


 どうやら声を掛けられる前に、じっと見られていたらしい。気付かなかった。


「一巻はあたしもそれなりに読み返したよ。主人公が熱弁するシーンね。彼が凡庸だからこそ、心に響くんだよね」


「まぁ、そうだな」


 特に一巻は見せ場も多い。終盤は主人公が熱弁するシーンが続く。


 ――想いは口にしなくちゃ伝わらない。夢は言葉にしなきゃ叶わない。だから俺は夢を語る。誰に見放されようとも、自分だけは自分の可能性を信じて突き進む。根拠なんかない。それでも、自分が自分を諦めない限り、進む道の先にある想いは、きっと報われるって信じてる。


 夢半ばな半端者はんぱものの世迷い言だとか、実力を伴わない餓鬼がき妄言もうげんだとか、果てには、いい年して愚直ぐちょくすぎ、なんて周囲の人間に散々と言われながら、それでも主人公は己を信じて、夢である作家への道を突き進む。


 不器用な彼の台詞が、読者をってくる。愚直な言葉の数々が訴えかけてくる。物語の中で躍動するキーマンも主人公の言動に揺り動かされ、影響されていく。その過程も丁寧に描かれているから、読者の共感を呼ぶ。


 遠い昔に忘れて、捨ててきたはずの夢を追いかけたい衝動に駆られるのだ。


「不器用でどうしようもない主人公のくせして、言うことだけは格好いいんだよね。口にするのも恥ずかしいっつうのに、そんなことを惜しげもなく言うから、心に響くっていうか」


 パソコンから目を離さず、彼女は言う。その言葉に颯馬も頷く。


「分かるわ、それ」


 颯馬は思わず、そう口にしていた。


 読み終わると、自分にだってなにかできるはず、やならいといけないんだ、という前向きな気分にさせてくれる。それがこの小説だ。


「いいわよね、ドリーム・リアライザー」

「そうだな。何遍読み返しても良い作品はいつも心に訴えかけてくるもんがある」


 そう断言したところで、颯馬の携帯が鳴り響いた。相手は渚だ。


『もしもーし、起きてる? 二度寝してない?』

「起きてるし大学にも来てる。学食にいるよ」

『こっちは式も終わって、そっちに向かってるよ。美冬と文香も一緒』

「分かった」


 渚との会話を終えて一息つき、本を鞄に仕舞い込む。


「俺、そろそろここを出るから」

「そう」


 入学式が終わったからだろう、周囲がにわかに慌ただしくなっていく。

 藁半紙わらばんしで刷ったビラを抱えて外へ出ていく者、机の上に広げた菓子をいそいそと片付ける者、手鏡を取り出して髪型や化粧を直す者。誰もが入学生を捕まえようと目をギラつかせている。


「お、いたいた。お待たせ」

「あれ、早かったな、久留米」


 ここを出る支度を終えて間もないうちに、三人は顔を見せた。みんな、髪の穂先が少しだけ濡れている。熱にあてられたのか、きっちりした黒のスーツに身を通している文香は心なしかふらついているようにも見える。


「暑い。なんで冷房効いてないんだよ。涼しいと思ったのに」


 渚が愚痴るように言う。


「まあいいや。長居もしないし。学生証は早いもん勝ちで発行らしいから、さっさと行こうぜ」

「そうだな」


 颯馬が渚の言葉に頷いて立ち上がると同時、対面に居座っていた金髪ギャルがおもむろにパソコンを閉じて顔を上げる。


「美冬が言ってた人って……ああ、なるほど。そういうことね。へぇ、ふぅん。そっか」


 その言葉に颯馬が疑問符を浮かべると、状況を理解したらしい美冬が「あ、そうか」と付け加える。


「そっかそっか。昨日、二人ってすれ違いだったんだっけ。ユーキ、彼は同じアパートに住んでるんだよ。それにしたって偶然だね、お互い知らない人同士なのに相席してたなんて。縁でもあるんじゃないかしら」

「さあ、どうだろ」


 悪戯っぽい笑みを浮かべる美冬の言葉に、涼しい顔をして受け流したユーキと呼ばれた彼女が、颯馬に面と向かって軽く頭を下げた。


「友野優希です。よろしく」

「ああん? なんだ、急に新たまって」

「だから、美冬が言ったでしょ? あたしら、同じアパートなの。顔合わせの会でタイミング悪く席を外していたけど、そういうことだから」

「……藤代颯馬。経済学部だ」


 さきほどまで優希が見せていたぞんざいな態度を完全に消化しきれていない颯馬は、無愛想に自己紹介をする。


「急に白けちゃって、どうしたの」

「どうもこうもない。これがデフォルトだ。っつか、そっちこそ白々しい」

「あ、そ。まぁ、それはお互い様ってことで相殺ね」

「待って待って。あんたたち、自己紹介すらしてなかったの」


 驚いた表情で颯馬と優希を交互にみやる美冬に、颯馬が釈明する。


「そもそも、新入生だとすら思わなかった。なんでこんな在学生カラーに染まってるんだよ」

「式に出ないんだからはかまとかスーツ着る意味ないじゃん。それに、スウェットは楽だし」

「ほんと、世間ずれしてるよね、ユーキってば」


 からかうように美冬が言う。世間ずれというよりも、常識とかそういったものまで一緒に欠落しているのでは、とすら思えるほど颯馬には衝撃的ですらある。入学式に出る気すらさらさらなかったとは。


「世間とか総意とかに従うのって面倒だし。入学式に出ても時間の無駄でしょ」


 その見解だけは一致してしまい、颯馬はどこか残念に気持ちになる。


「ユーキには敵わないなあ」


 あだ名で呼び合う仲の美冬も、苦笑するしかないようだった。


「で、渚の言うことが本当ならさっさと行かないと。並ぶの嫌だし」


 そう言いながらパソコンを仕舞った鞄を肩に担いだ優希が混雑の中を強引に掻き分けていく。


 嵐のような女だな。


 颯馬は優希にそんな印象を抱きながら、置いてけぼりを食らった三人と共に彼女の背中を追いかけた。

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