(四)愛生 文香
管理人主催の顔合わせ会も小一時間が経って、場も和やかなムードになっていた。野村だけは缶チューハイを片手に、頬を朱に染めている。
「じゃあ、次は文香の番な」
慣れ親しんだように下の名前で文香を呼ぶ渚の声。緊張が抜けて、どこか弾んでいる。
自己紹介も一通り終え、料理もそこそこに舌鼓を打っている所で、話題は趣味のことになっていた。それは自己紹介の定番だ。けれど、文香にとっては一番避けたいテーマでもあった。
――趣味の話とか得意じゃないのに。
「私も、読書かな」
トップバッターの渚が
でも、仕方がないのだ。趣味にお金を費やせるほど豊かな生活をしてきていないのだから。
それに、とてもじゃないけれど、ライトノベルの執筆が趣味だなんてことは言えない。作家になるのが夢だなんて、口が裂けても言い出せない。
「ちなみにどんなジャンルが好きなの?」
渚が食い付いてきた。文香は返答に窮してしまう。
揺るがなく好きなジャンルは当然、ライトノベルだ。有名どころの作品は一通り押さえているし、一通りは自分なりの書評もできるほどに読み込んでいる。
けれど、この場でそんな趣味を引けらかすなんてのは無理だ。恥ずかしい。
「ええと。特にこれと言って特定のジャンルを好むってことはないかな。エッセイだとかノンフィクションも、気になる事件や人のものであれば手に取るし」
嘘だ。それはずっと昔のことで、いまはもう、ノンフィクションもエッセイもほとんど手を出していない。
「ノンファクションか」
「うん。ああいうのって、すべてがリアルなのに、こんなことって現実に起こりうるんだって話が色々あったりするんだよ」
古い記憶を辿って適当に答える文香の額に、じっとりと嫌な汗が浮かぶ。どうして嘘ついてまで誤魔化そうとしているのか、自分で自分のことが分からなくなりそうだ。
酷く緊張している。その理由は趣味の話で追い詰められている以外の、明確な理由があった。
じっと見られている。
斜向いに座る優希の視線が、気になって仕方がない。
(私が優希を意識しすぎているだけなのかもしれないけど……)
そう思うも、目の端で捉える彼女の視線はずっと文香に向けられていた。服装や所作までじっくりと、まるで写生をする美術部員のような、鋭く真剣な眼光。
(そんなに私の格好、おかしいかな……)
あまりの熱視線に、文香は手でぱたぱたと頬を仰ぐ。溶けてしまうのではないかと錯覚してしまうほどに、じっと見られている。
「あんましノンフィクションには手を出したことがないんだよな」
文香の動揺も知らずして、箸でご飯を突きながら渚が言う。そこで、程よくアルコールが回っている野村がちっちっちっと指を振った。
「ノンフィクションはね、年が経つと心に響いてきたりするのよ。現実は小説よりも奇なり、って言葉があるくらいしだし」
「そうなんすか。今度、書店で探してみようかな。何かオススメはあります?」
「最近だとね――」
それからというもの、渚と野村はノンフィクションについて熱い談議をはじめてしまった。弾き出された女子三人は、お互いに目を合わせてから各々に海鮮ちらしを口に運ぶ。そこに連続性のある会話は成立しない。
文香からこの二人に話題を振る度胸なんてない。この二人と同じ釜の飯をつついている、ただそれだけで全身が強張ってしまっているというのに、無理だ。
文香は何度も対面に座る二人を見る。
あり得ない光景だ。あり得ない。嘘だ。
夢でも見ているのか、と頬の内側を甘噛みしてみるが、どうにも
紛れもない本物が、目の前でご飯をつついている。それが信じられない。
どうして、ここにいる。
ライトノベル作家――
イラストレーター――
二人こそ、鳳凰文庫から出版されている大人気ライトノベル『ドリーム・リアライザー』の原作者と挿絵を担当するイラストレーターに他ならない。何度も握手会やサイン会に足を運び、その容姿を脳に焼き付けている文香が、見間違えるはずがない。
――あなたに目の前でサインだって書いてもらってるの、友野先生っ!
そう叫びたくてたまらない。
あり得ない。信じられない。どうして。
どうしてここにいるの。あり得ない。
そう心の中で叫き散らすのをやめられない。
優希の視線を意識してしまってからというもの、自分の身だしなみが気になってしょうがないのはそういうわけだった。イベントがある時はお気に入りの一着に身を通し、二人のお眼鏡に適うような格好をするというのに。今日は着飾る必要もないと思っていたから、自然体でいられるジャージに『I LOVE NY』と書かれた品のないTシャツだ。
どうして、こうもずぼらな服装のままこの会に参加してしまったんだろう。恥ずかしくてしょうがない。
早く終わってくれ、という気持ちで手首に巻いた腕時計を見た。時刻は七時を過ぎた頃合いだ。二時間の会だから、ちょうど折り返し地点。
発狂しかねない鼓動の高鳴りで胸が苦しい。呼吸の荒さもはっきりと自覚できる。
残り一時間、この熱い眼差しに耐えることができるだろうか。 正常な意識を保っていられるだろうか。
そんな不安に駆られた矢先、目の前の席からがたっと音が立った。
「最後までここに居ようと心してたんだけど、無理になった。本当に、ごめんなさい。今日はもう部屋に帰って籠ります」
あまりにも唐突な優希の申し出に、渚が「ええっ」と声を上げる。
「もしかして、食事が口に合わなかったかな? さして箸が進んでいたようにもみえなかったし、もしそうだとしたら今度埋め合わせを――」
「いや、そういうことじゃなくってね。料理は凄く美味しかったよ。久しぶりにこんな楽しい食事ができた。みんなとわいわい盛り上がったし。だから思いついちゃったわけだけど。うん。本当にごめん、申し訳ない」
「そ、そうか。気を悪くしたのかと思ったよ」
「断じてそんなことはないよ。むしろ毎日振る舞ってほしいくらいだったし。ああでも、渚の行動があたしを途中退場させたと言っても過言じゃないかな。ということは、やっぱりあんたのせいかもね」
「え、嘘。そうだとしたらやっぱり謝らないと駄目じゃんか」
ごめん、と頭を下げようとした渚を手で制して、「なんてのは冗談。感謝してるってば。本当にありがとね」と微笑んだ優希は、そのままそそくさと部屋を出て行ってしまった。
優希の言動に虚を突かれて立ち尽くしす渚に、美冬が「ごめんね」と言った。
「渚くん、ショックを受ける必要はないよ。あの子はなにか思い立つといつもああだから」
「いつもああっていうのは?」
「彼女、何か面白いことを思いつくと、ノートにメモする癖があるのよ。今日は初対面の人ばかりだし、癖は封印しようと決意してきたみたいだったけど、いよいよ押さえきれなかったみたいね」
「そう……なんだ。なんというか、面白い癖だな」
渚にそう評されて、美冬は「まあ、ね」と曖昧に笑った。
きっと優希は部屋に戻って原稿に戻ったんじゃないだろうか。いても立ってもいられなくなったのだろう。きっとそう。違いない。
思いついた構想をノートにメモをするというのは、執筆をする人間にとっては手癖というよりも習慣に近いものだ。文香にしたって、暇さえあれば物語や登場人物の行動を
「気を悪くしてないならいいけども」
座りなおし、釈然としない面持ちで渚がローストビーフを口に運ぶ。
それから少しして、ぽかりと空いた音の隙間を埋めるように、インターホンが鳴り響いた。
「戻ってきたのかな」
淡い期待を寄せる渚だったが、「いやあ、あの子に限ってそれはない」と間髪入れない美冬の言葉にがくりと肩を落とした。落ち込んだ調子で渚が応答すると、モニター越しに「藤代です」という声。
どうやら、入れ替わりで最後の一人がやってきたらしい。
「悪い、待たせた。……って、一人足りない気がするんだが」
「入れ違いで部屋に戻ってったよ。用事を思い出したらしくってな」
彼の疑問に渚が応える。それを聞いて「そっか。首都高飛ばしたんだけど、間に合わなかったか」と申し訳なさそうな顔を浮かべながら、彼は空いている席に腰を下ろした。
「
「だろ? 俺が手塩に掛けて準備したんだ。がっつり食ってくれ!」
「男なのにこんなレベルの自炊できるとか羨ましいな。そんじゃ、遠慮なくいただくぜ」
颯馬は自己紹介をさっと済ませて水炊きに箸を伸ばしはじめた。続けざまにローストビーフに手を出していく。
「そういや、みんなの自己紹介は流石にもう終わっちまったよな」
「まあね。でも改めてやるとするか。僕は久留米渚だ。んで、そちらに座っているのが御堂美冬さん」
「どうも、颯馬くん」
「それで、僕の隣に座ってるのが、愛生文香さん」
「ど、どうも」
渚は矢継早に文香と美冬を紹介し終えると、「で、野村さん。他にオススメ紹介してくださいよ」とすぐにまた野村との談議に戻ってしまった。またもや三人して置いてけぼりをくらい、お互いに戸惑い混じりの視線を交わす。
「ええと……そういうわけで、宜しくな。御堂さんに、愛生さん」
ぎこちなく言った颯馬の表情を真正面から見て、文香ははっと息を止めてしまう。
切れ目で、口元から鼻筋にかけては薄く、少し焼けた肌は艶がある。スーツ姿が妙に似合うのは、オールバックに固めた髪のせいだろうか。とにかくもう、顔の造形が美男子のそれだ。メンズ雑誌のモデルと言われれば本気で信じてしまいそうな顔立ちとスタイル。
格好いいという言葉をそのまま具現化すると、彼みたいになるのかもしれない。そう表現しても過言じゃない。世の中に、こんな男子が存在するのか。
「俺、一浪してるんだ。親に迷惑もかけらんないし、学費とか趣味に費やすお金とか色々稼ぐためにバイトしててさ。休日もずっとバイト先に籠りっぱなしで。そんなわけだから一緒につるむ機会がもてないかも。でも、年上だけど敬語とかは勘弁してくれな。慣れてないからさ」
「分かった。ちなみにバイト先はどこなの?」
「出版関係だよ」
「具体的には? 出版社って言っても色々あるでしょ」
美冬が首を傾げながら訊ねるも、颯馬は首を横に振った。
「それは企業秘密だ。どこどこの企業だって具体的に知られると色々と面倒だし。俺が出版社でバイトしてるってことも、ここだけの話にしておいてくれると助かる」
「そっかそっか。そういう情報管理も大変なのね、出版社って」
「まあ、そうだな。色々と大変だよ。その分楽しいけどな」
二人の会話を聞きながら、文香はふと想像した。
もしかしたら、優希、美冬、颯馬の三人は細い糸で繋がっているかもしれない。お互いに初対面のようだけれど、これからの活躍次第で、そうなる可能性は充分にある。小説にお決まりのボーイミーツガールはこういう些細な縁から始まるものだし。
そうか。ボーイミーrツガールをテーマにするの、いいかもしれないな、と文香はそこで閃いてしまう。
ああ、忘れないうちにメモをしておきたい。生憎と、相棒は部屋の机に広げたままだ。なんでこんなタイミングで、面白そうなネタが浮かんできちゃうかな。
「……ごめん。私も少し部屋に戻る」
文香は
足の踏み場もない書籍の海を渡り、文机に腰を下ろして方眼紙とサインペンを手に取る。二日ぶりに栄養を取ったからだろうか。思考が異様な速度で回転する。湯水のように湧き出てくるアイデアをどうにか溢さないように
青春活劇にしよう。主人公は高校生。メインヒロインは女子二人。一人は幼馴染みでもう一人は転校生。転入時の自己紹介。夕焼けの校舎。共通項の多い主人公と転入生。物語が盛り上がる一歩手前で、幼馴染みとの掛け合いを一枚噛ませて。
文香は次々と出てくる設定や展開を乱雑に、そして一心不乱に方眼紙に書き殴っていく。筆を動かしていると次々にプロットが浮かんでくる。久しぶりに筆が走る。このごろずっと机に突っ伏して頭を抱えていたのが嘘のように、爽快に世界が広がっていく。
「……っできた!」
十分足らずでプロットと設定と登場人物のラフが書き上がった。荒削りだけれど、いまはこれでいい。もう、頭の中は空っぽだ。よし、と意気込んでから再び一階に駆け戻る。
文香が一○二号室の扉を開けた瞬間、突き抜けるような笑いが飛んできた。
「あっはははははっ!」
リビングまで戻ると、空の缶チューハイをテーブルにばんばんと叩き付けながら野村が抱腹していた。堪えきれないとばかりに、あははっ、と笑い声をあげている。視線の先には、床に
「な、なにが、あったの」
文香が恐々として尋ねると、苦笑いを浮かべた颯馬が言う。
「たったいま、渚が電話で彼女に振られたんだ。遠距離は無理だって。耐えられないって。こいつ、長野に彼女を置いてきたんだってさ。それで彼女、淋しい気持ちに浸っている所に偶然知り合った人を好きになったって」
「え、えええっ」
まさか、そんな展開が現実世界で起ころうとは。
どんな慰めの言葉も思い浮かばない文香は、「残念だったね」と当たり障りなく言い添える。
そう口にする一方でこうも思う。そんな簡単に
文香の経験からして、そんな女は百害あって一利もないと断言できる。
「新しい恋を見つければいいんだよ」
渚は涙混じりに声を上げて何度も頷く。
「そう、だよな。そうだよな……。人生、これからだもんな」
「そうそう。人生も恋もこれからだって」なんて颯馬も続く。
「まあまあ、久留米くん。とりあえず落ち着こう。くくっ、あっはははははっ!」
「いづまで笑っでるんでずかっ」
泣きすぎて声が嗄れたのか
「いや、だって、こんな、明日始業式ってタイミングで別れ話って、絶妙、すぎるでしょ。あなた、本当に持ってるわ」
「持ってないですよ! 全然ツイてない」
「いいえ、持ってるわよ、あなたは凄いものを持ってるのよ。誇らしく思ってもいいほどだわ」
「う、ううっ」
渚が亀のように背中を丸め、床を濡らす。
「これはもう、慰め会にするしかなさそうね」
「だな。これはもうどうしようもない。おい、久留米、今夜は慰め会に変更だ!」
「みとめだくないのにっ!」
美冬と颯馬の言うとおり、残りの時間は、元カノにこっぴどい形で振られた渚にエールを送ることに終始した会になってしまった。
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