第39話 失業の魔王

 ただしその源は俺の顔面、正確には鼻からである。


 こんなことをすれば、当然相手女性からの報復によるものと思われるだろう。

 しかし今回に限っては、死さえ受け入れようとしていたリンデが応戦するはずもない。

 俺が一人で暴走した結末なのだ。


 どんな形であれ、俺が向かってくる敵に反応してしまうのは最早本能。

 その本能を打ち消す為に、別の本能を利用したのだ。

 つまり毒を以って毒を制す。


 前置きが長くなったが、つまり俺は本能の赴くまま、彼女の胸を鷲づかみにしていた。

 腰の刀を取った左手を右肘で押さえ込み、その延長にある右手で。

 柔らかさを感じ取るには、多少障害のある端末器官でも十分事足りてしまう。


 不本意な出血は、その類いの欲求不満が刺激されてのこと。

 己の沽券に関わるので弁解はしておくが、決してそれだけの理由ではない。

 その結論に至るまで、俺の中では様々な葛藤や呵責が乱立し、飛び交い、そして激突し合っていた。

 例えるなら、頭の回路が何本も何本も引き千切られるような感覚。

 その反動による、ある意味名誉の負傷といったところである。

 しかしそれを自分で言葉にしてしまえば、信憑性に欠けてしまう。


 結局俺は、女性の胸を触って鼻血を出した、客観的な事実を受け入れなければならない。



「えーっと、私はどう反応すればいいのだ?」


 そんな彼女のきょとんとした様子により、俺は少しだけ我を取り戻した。

 それでも右手はそのまま蠢き続けているくらい動揺はしている。


「殴るとか、してみるとか?」


 あの布切れの時の鉄拳を思い出し、俺はまるで他人事のように提案する。

 心理的にやや不安定でも口は滑らかだったが、やはりどこかずれていることは自覚できる。


「言ったろう、許せないのなら斬ってもよいと。これくらいで済まされるのであれば、な?」


 胸に触れた俺の手に自身の手を重ね合わせながら、彼女はそう言った。

 全くこの期に及んで男前な女性である。

 その一方で、本能を理由にしている俺が馬鹿みたいにしか思えない。

 鼻血がまさにそれを物語っているのだ。



「なぁ、さっきの答えだが、聞かせてくれるか?」


 そんな俺を嘲り笑うこともなく、彼女は俺を見つめる。


「悪い、どういう話だったっけ?」


 己の中で色々ありすぎて、俺はつい先程の会話すら失念していた。

 しかし彼女がそこで赤面したことにより想起する。

 ただの方便かと思っていたが、そうではなかったらしい。


 もう一度言葉にするのは恥かしかったのだろう、彼女は空いた方の手で前掛けの裾を持ち横に広げて見せる。

 つまり、その衣装がリンデに似合っているかどうかということ。

 俺の顔を見ていられなかったのだろう、顔は正面のまま視線だけを逸らしている。

 先ほどの男らしい振る舞いとのおかしな相違が、また俺の男心を直撃した。


 勿論俺の答えは最初から決まっている。

 そうでなければ鼻血なんて失態は犯さないだろう。

 しかしただ肯定するだけでは俺の気が済まない。


 何度も言うが、リンデは剣士としての俺を十二分に理解してくれている。

 時には親しい者が殺されても、理を知るが故に感情を押し殺し。

 そして己の命が尽きようとしても、その包容力は変わらない。

 だから俺は思っていることを正直に告げる。


「嫁さんにしたいくらいだ」


 どこかで言ったような台詞かもしれないが、今は彼女だけもの。


 このまま彼女を押し倒したくなる衝動にもかられる。

 今の彼女なら俺の劣情すら優しく包み込んでくれる。

 そう確信すると尚更理性が吹っ飛びそうになる。


 しかしここで抑えなければ俺の言葉は、今だけを凌ぐ陳腐な想いとなってしまう。

 たとえ彼女がそれを許すとしても、俺は許さない、絶対に。


「そうか、それは嬉しいぞ」


 そのはにかんだ笑顔を見ていると、我慢してよかったとさえ思える。

 これでリンデとの別れにも悔いは残らない。


 そこでまた地震が起こる。


 先程とは違って、実に良い頃合だ。

 これから湿っぽくなるだろう流れは、出来れば遠慮したい。


 今度は辛うじてリンデも立っていられるが、相対的に長く続いている。

 これはボスの仕業であり、この遺跡の入り口を塞ぐつもりでいるのだ。

 ここが我等のアジト、迷宮最深部とも繋がっていることを危惧してのこと。

 最早この地に用はない。


 一度目の大きな揺れは撤退準備の合図であり、そして二度目は速やかに撤収せよとの口裏合わせがなされている。

 俺は直ぐに遺跡内部へ向かわなければならない。

 普通は地震が起これば逆であるが、魔王の拠点は他ならぬ地下なのだから。

 それに、このまま魔王が地上を歩いて帰るのも想像がつかない。


「ワイルのことは頼んだぜ?」


 俺は彼女にそう声をかけつつ駆け出した。

 彼はまだ倒れたままだが、死んだわけではない。

 殺し合いをしていたとはいえ、むざむざ夜の寒さで凍死させる必要はないのだ。

 彼がどう思おうと、生きていれば再戦の機会もある。

 それで俺が死ぬようなことになっても、あの血沸き肉踊る瞬間が再び味わえるのであれば、それは俺の望むところなのだから。


 それに、もし彼が本当に結婚を予定しているのであれば、是非とも生かしておきたかった。

 殺した男の結婚相手に会うなんて、なんの罰ゲームかと自問する展開は避けたいのだ。

 あと、ボスが説く死亡決定事象なるものを否定してやりたい気分でもあった。

 今の俺には、彼女に対して抱くべき不満もあるのだから。


「待ってくれ、お主にはまだ訊きたいこと……」


 リンデは思い出したように何かを伝えようとするが、その声に耳を傾けている暇はない。

 そして俺が彼女から遠のくにつれて、俺の耳は地響きしか聞こえなくなっていった。




「あははははは!」


 無事生還した後、ボスは俺の顔をみるやいなや、思いっきり笑い飛ばしてくれた。

 鼻血まで出して何の笑い話かと皮肉られる始末であったが、俺は黙ってその仕打ちに耐えた。


 彼女がひとしきり笑った後、俺は今回の地震についてボスを咎めた。

 下手をすれば俺はリンデを殺めるところだったのだ。

 俺をあれだけ笑っていたのなら事の次第は理解していたはず。

 知らなかったとか、偶然だとか、言わせるつもりはない。


「あのまま貴方との接点がなければ、あまりにも彼女が可哀そうとは思わないかしら」


 そう言われてしまえば、俺は言葉を失う。

 そんな俺を尻目にボスは続ける。


「彼女が貴方のことを雇い主に報告していたのは、あの四人での生活を出来るだけ長く引き伸ばす為の苦肉の選択だったのよ」


 何故ボスがそのことを知っているのかは、あえてもう聞くまい。


 さておき、俺はてっきり、それは彼女の愚直さのなせる業だと思っていた。

 しかしボスの話では、俺との交渉が決裂したにも関わらず、カーシがサミエを左遷させずにいたのも、そういう取引があってのこと。

 

 今思うと、彼女が出し抜けに俺を剣術指南役に勧誘してきたのは、カーシのスパイのようなこともしたくなかったからだろう。

 俺の気が変わらなかったことで、密告者という後ろめたさに耐えながら、誰よりも俺の穏やかな日々をサポートしていたのだ。



「もし、あの地震で貴方とのやり取りがなければ、彼女は自ら命を絶っていたかもしれないわ」


 確かにそこまでしてくれた末、俺が素っ気ない態度のままであれば、彼女自身の存在すら否定されたことになる。

 ならば、たとえあのまま俺の凶刃に倒れたとしても、そのほうが彼女にとっては救いだったのだろうか。

 あの死をも受け入れようとしていた穏やかな表情、それを思い浮かべると、最悪の事態よりはましだったのだろうか。


 俺は改めて彼女を殺めなかったことに、今更感謝の念で一杯な、その胸をなでおろした。

 


「で、俺はこれからどうなるんだ?」


 ボスには礼を言っておかなくてはならなかったが、何だか照れくさくなって、俺は別の話を切り出した。


 一応彼女は俺の願いを叶えることとなったので、俺にはもう彼女に従う理由がなくなってしまった。

 しかしながら、毒食わば皿まで、引き続き魔王であるのも悪くはない。

 少なくとも俺はそのつもりだった。


「あなたは、もうクビよ」


 しかし彼女は、まるで俺の言葉を予想していたかのように、そう言い放った。


「よくも私の正体をばらしてくれたわね。お陰でこの迷宮は閉鎖しなければならないわ」


 彼女は憎しみを込めてそう言うのではなく、少々嫌味じみていただけ。


「そうか、クビか」


 俺は何となくそうなるとは思っていた。

 彼女がそう言うなら従うまでだ。


 そして、それは迷宮を閉鎖する体のいい理由でもあるかもしれない。

 彼女がその気になれば、情報操作も簡単なはず。

 それでも彼女が何もしないのであれば、そういうことなのだ。

 恐らく自分から止めると言ってしまっては、示しがつかないのだろう。


「それじゃあ、しようがないな」


 俺が魔王を続けてもいいと思った心情には裏があった。

 確かに彼女は俺の望みを叶えてくれたのであるが、正直言うと、ある要素が足りない。

 それ故のことなのだが、そこまで彼女を当てにするのは酷なのだろう。



 こうして俺は魔王廃業となったのである。


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