第四章

「んっ」

 朝日が射し込む自室のベッドの上で、アリシアは目を覚ます。

「んん~~っ、いい朝ね」

 伸びを一つして立ち上がると、ルナを起こすべく部屋を出る。

「ルナー? 起きてるかしら?」

「……」

 いつものように返事がない。どうやら今日もまだ寝ているようだ。

「入るわよ?」

 今度はルナの返事を待たず、ドアに手をかける。

 ドアの向こうでは、ルナがベッドの上で気持ちよさそうに寝息を立てている。

「ん~、……母様、お父……、待っ……ださい……」

「!?」

 ベッドに腰掛けルナの寝顔を眺めていたアリシアは、ルナの寝言に、心臓を捕まれる。

 ルナは、きっと両親が連れて行かれた時のことを夢に見ているのだろう。

 直人たちにはごまかしているが、ルナの両親が家にいないのは、仕事のせいではない。ルナの両親は、政府のバックにいる魔族によって危険分子としてみなされ、監禁されているのだ。

 もちろん魔族は馬鹿ではない。王国の名門貴族であるブレンフォードを、表向きの正当な理由もなく取り潰しになどしようものなら、いかに民衆を精神操作していようとも、異常に気が付く者が増えかねない。そのため、表向きは政府の魔法研究所で泊まり込みで働いていることになっている。

 祖国のためにも、ルナのためにも、絶対に、政府を魔族の手から解放しなければと改めて心に決める。

「ルナ、朝よ。起きなさい!」

「ふえっ、な、なにごと?」

「ルナ、もう朝よ」

「なんだ、そういうことでしたか。起こしてくれてありがとう、アリシア。おはようございます」

「はい、おはよう。それじゃあ、私は先に顔を洗ってくるから、ルナはナオトたちを起こしてくれるかしら? これ客間の鍵ね」

 そう言ってアリシアは鍵を投げてよこす。

「わわ、っと。もう、危ないじゃないですか」

「ごめんごめん、それじゃあよろしくね?」

「ええ、わかりました」

 ルナは、姿見で軽く身だしなみを整えると、客間へと向かう。

 昨日の朝の状況をアリシアから聞いていたルナは、今日も何かあるのではないかと警戒する。おそらく、アリシアもそれを恐れてルナに丸投げしたのではないだろうか?

 ひとまずノックして反応がないことを確認したルナは、静かに鍵を開け、意を決してドアを開ける。

 ドアを開け目に飛び込んできたその光景は、貴族の令嬢として育てられたルナには刺激が強すぎた。ルナはパニックに陥り、なぜか後ろ手にドアを閉めると、客間の床にへたり込んでしまう。

 とはいえ、ルナとて年頃の少女である。そういったことに興味がないわけではなく、ベッドの上の状況を誰に見られているわけでもないのに、チラチラとうかがう。ベッドの上では、真ん中の直人の右腕を千紗が、左腕をリリーがそれぞれに抱き抱え、直人に添い寝していた。

 昨日も似たような状況だったらしいが、聞くと見るとでは大違いである。

 あまりの事態に声が出ないルナ。逃げておけばいいものを、変なところで使命感が強いために、アリシアから言われた通り、直人たちを起こすべくベッドへと近づくことを決心してしまう。

 壁に手をついてどうにか立ち上がり、フラフラと危なっかしい足取りでベッドへと一歩一歩進んでいくルナだったが、そこにルナがなかなか降りて来ない事を心配したアリシアが、背後から声をかけてしまう。

「ルナ? 何かあったの?」

 ルナが閉めたドアの向こうから、アリシアの声が聞こえたことで、なぜかいけない事をしている気になったルナは、急いで直人たちを起こそうと思い、おぼつかない足でベットへと向かおうとする。

「わっ……!」

 足をもつれさせ、直人の上に倒れ込んだところで、アリシアがドアを開ける。

「えーと……。なんだかごめんなさいね? 昨日といい今日といい、邪魔しちゃったみたいね。ルナも今夜からこの部屋で寝たらどうかしら?」

 起床早々に既視感のある光景を目にした直人は、おおもとの原因であることが明白な左右の二人は一旦無視し、今しがた直人の上に落ちてきたルナに視線を向ける。

「これはどういう状況だ?」

「あの、えっと……」

 直人の上で口ごもるルナは、顔を真っ赤にしている。

「わかった、じゃあとりあえず、俺の上から降りてくれるか?」

「えっ、あっ、はいっ!」

 ルナは、更に顔を紅潮させ、慌てて直人の上から降りる。

「それで、改めて聞くが、どうしてルナは俺の上に落ちてきたんだ?」

 昨日同様、あらぬ誤解をして出ていったであろうアリシアの方も気になったが、まずはルナがなぜ直人の上にいたのかを知らなければ、アリシアの後を追っていたところで説得することはできないだろう。

「えーとですね、私はアリシアに頼まれて、ナオトくんたちを起こしに来たんですが、三人の状況を見て気が動転してしまいまして……それでも諦めずに起こそうと思い、ベッドに近づいている時に、アリシアの声に驚いて慌てて走ったら、転んでしまって……」

 三人の状況を改めて確認し、顔を伏せたルナだったが、どうにか最後まで話しきる。

「それで、俺の上に落ちてきたと?」

「駄目ですよ、ルナ。この程度の状況にいちいち驚いていては」

「そうだぞ、チサの言う通りだ。最初から見ていたが、私たちの状況を見たくらいで腰を抜かすとは、少し箱入りがすぎるのではないか?」

 いっそう強く直人の腕を抱きしめ、ルナに見せつけるようにしながら話す二人に、直人はあきれてしまう。

「もしかしてとは思っていたが、お前ら二人とも起きていたのか」

「ええ、まあ。私は、ルナがノックしてきたあたりから起きていましたから」

「因みに私もルナがノックするところから起きていたぞ」

「起きてたなら返事してやれよ……」

 あきれた視線を向ける直人から、目を逸らす二人。

「起きているのがわかったら、ナオトに引き剥がされてしまうだろう?」

「起きているのがわかったら、兄さんに引き剥がされてしまうじゃないですか」

 再び直人を抱きしめる腕に力を込め、二人はそっぽを向いたまま、同じようなことを言う。

「そうか、よくわかってるじゃない、かっ!」

 美少女二人に抱きつかれている状況は、男冥利に尽きるのだが、このままではルナがもたないだろう。二人の予想通り、直人は、二人を引き剥がしにかかる。

「ふふ、私の力を上乗せされているとはいえ、力の使い方はまだまだのようだな」

「兄さんは、胸を押し付けると腕の力が抜けることはわかっています」

 リリーも千紗も意外な抵抗を見せる。

 結局、直人が二人を引き剥がして朝食の席についたのは、それから三十分以上たった後だった。

「それでは、二人一組になって柔軟してください」

 芝のグラウンドに集まった生徒たちの前に立った千紗が、生徒たちに指示をすると、皆それぞれに親しいものとペアを組み始める。

「ナオト、私と組もう」

「それは構わないが、いいのか?」

 リリーにペアを組むことを請われた直人は、彼女の後ろで様子をうかがっているクラスメイトの少女たちに目をやる。

「ああ、私はナオトと組みたいんだ。ナオトは私と組むのが嫌なのか?」

 断られることを恐れるように聞かれてしまうと、直人には断ることができない。それに直人とて、リリーと組むことは嫌ではない。

「そんなわけないだろう? 一緒に組もうぜ」

「そうか! それでは始めよう!」

 途端に笑顔を輝かせ、直人に背中を向けて座るリリー。普通に男子同士で組んでいた連中の視線が痛かったが、今は気にしないことにする。

 リリーの後ろにしゃがむと、直人の鼻にシャンプーの甘い匂いが飛び込んでくる。リリーの髪から香るその匂いにドギマギする直人だったが、努めて平静を装う。

「じゃあ、押すぞ?」

「ああ、頼む」

 リリーの小さな背に手を置き、軽く力を込める。

「んっ、もう少し、強く押しても大丈夫、だ」

「わ、わかった」

 夢の中のリリーを彷彿とさせるような艶めかしい吐息に、今度は動揺を隠しきれない。

 直人が動揺している間に、リリーの体は完全に芝生につき、柔軟が終わる。

 立ち上がったリリーは、なぜか上機嫌だった。

「ふふ、ナオト、私にドキドキしていただろう?」

「そ、そんなことねーよ」

 羞恥から顔をそらした直人を見て、リリーはますます上機嫌になる。

「まあ、そういうことにしておいてやろう。ほら次はナオトの番だぞ?」

 リリーに促され、直人が座った直後、急な胸騒ぎを感じた直人は、慌ててあたりを見渡す。

「おい、リリー! あれ!」

 直人のただならぬ様子に慌ててその指差した方向を見やる。

「なっ!」

 直人が、指差したグラウンドの中央には、いるはずのない人物が立っていた。リリーはあまりの事態に言葉を失う。

「お前は、マーク=ヴァルコラキ! どうしてお前がここにいる⁉」

 激しく糾弾するリリーに、周囲の生徒が何事かとリリーの方を見る。どうやら直人とリリー以外がマークの存在に気がついていないらしい。

 なぜ、彼がここにいるのか。いや、そもそもなぜこの学園の敷居をまたぐことができたのか。この学園の結界は、それこそ都市全体に張られているものとは比べ物にならない強度を誇っている。本来なら、学院関係者の使い魔以外の魔族は無条件に弾かれるはずだ。

「お久しぶりです、ミスアスワン。相変わらずお美しい」

 マークは、さも当然といった様子で飄々として答える。

「リリー、知り合いなのか?」

 直人にはただの影の塊にしか見えない相手の正体を看破したということは、おそらくリリーと何らかの関わりのある魔族なのだろう。

「ああ、あいつはマーク=ヴァルコラキ。アスワン傘下の吸魔族の一族、ヴァルコラキ家の一員だった男だ」

「だった、ってことは、今は違うのか?」

「それは……」

 リリーは急に黙り込んでしまう。そんなリリーに代わって、マークが話し始める。

「おや、ミスアスワンのマスター殿は、何も知らないのですか?」

「……どういうことだ?」

 マークは直人に憐れみの視線を向ける。

「ヴァルコラキ家の者は私を除いて、そこのミスアスワンに殺されたのですよ」

「⁉」

「何を驚いているのですか? 彼女が殺したのは、何も我らヴァルコラキ家だけではありませんよ? なにせ彼女は、最後には実の父親さえ――」

「やめろ! お願いだから、やめてくれ……っ」

 マークの言葉を遮り、頭を抱えて座り込んでしまうリリーに、直人はマークが言っていることが真実なのだと悟る。直人は、しゃがんで座り込んでしまったリリーの肩に手を置く。

「そうですか、そんなに言うならやめてあげましょう。どうせこの人間たちとも今日でお別れですしね」

「何を、言っている?」

 座り込み、頭を抱えていたリリーは、絶望に染まった顔をあげる。

「こういうことですよ!」

 叫ぶと同時に、マークは千紗に向かって疾走すると、その存在を認識していない千紗に何らかの魔法を行使する。その直後、リリーは千紗の人格が入れ替わるのを見た。

「お前、千紗に何をした!」

 リリーと異なり、千紗の変化を見ることができなかった直人は、マークを糾弾する。

「おそらく、千紗は今幼い人格と入れ替わっている」

「どうしてだ?」

「理由は私にもわからない」

 直人とリリーが困惑している間に、千紗は顔をあげ、リリーの肩に手を置いている直人を見止める。

「やーっぱり、お兄ちゃんは千紗よりリリーの方が好きなんだ! もう、おしおきしちゃうんだから!」

 突如として幼稚な口調で話し始めた千紗に、クラスメイトたちは静まり返っているが、直人たちはそれどころではない。千紗が魔法を行使し始めていたのだ。

『この地にて起こりし魔の躍動を封じよ』

 千紗の詠唱に呼応して展開された魔法陣が、光を放つ。

「くっ、これは!?」

「流石に気がついたようですね。その通りです」

 マークが得意気に告げると同時に、千紗が意識を失い倒れる。

「千紗っ⁉」

 千紗受け止めようとして駆け出した直人は、全身の力が抜けて転んでしまう。魔力による身体操作を無意識に使用していた体から、その制御が失われる感覚に、直人は覚えがあった。

(また、急に……一体何なんだこれは?)

 グラウンドの芝生に倒れ伏した直人の横を素通りし、マークは、魔力による身体操作を封じられ、ただの小柄な少女の力しかなくなってしまったリリーを抱きかかえる。

「それでは、皆さんごきげんよう。っと」

「リリーは、渡さない!」

 自身の筋力のみでの動きで起き上がり、マークに拳を振るった直人だったが、難なく避けられてしまう。

「やめろ直人!」

 マークに、抱えられているリリーは、直人を止めようとする。

「断る、リリーはそこでおとなしくしてろ!」

 そう啖呵を切って、再びマークに襲いかかる直人だったが、その実力差は歴然だ。

(魔力による身体操作を封じられている以上、それが封じられていない魔族の方がやはり優位なのか?)

「無駄ですよ。ナオト君といいましたっけ? 今の貴方では、私に拳をかすらせることもできないでしょう」

「うるせえ、やってみなくちゃ分かんねーだろ!」

 マークの言葉を無視し、再度襲い掛かってくる直人に、マークは憐れみの視線を向ける。

「そうですか、できるだけ手荒な真似はしたくなかったんですが、ねっ!」

 直人の攻撃の難なく躱し、直人の腹部へ拳を叩き込む。

「ぐはっ!」

 直人は、倒れ込み、起き上がることができない。

「それでは、改めて、皆さんごきげんよう」

 去りゆくマークの後ろ姿を眺めることしかできない直人に、リリーは何かを悟った様な、何かを諦めた様な笑顔を浮かべる。

 薄れ行く意識の中、リリーのその笑顔が、直人のまぶたに焼き付いていた。

「ここ、は」

 直人が意識を取り戻したのは、学院の保健室だった。

 窓から射し込むオレンジの日差しで、直人が意識を失ってから少なくとも数時間が経過しているとはかる。

「目が覚めましたか、兄さん」

 ベッドの横に置かれた椅子で眠っていた千紗が、直人の声で目を覚ます。

 意識の失う前に起こった出来事を思い出し、直人は慌てて体を起こすと、勢いよく千紗の肩を掴む。

「千紗、あれからどのくらいたった!?」

「っっ。あれからほぼ一日が経過しています。今はリリーがさらわれた日の翌日の早朝です。それと、痛いです、兄さん」

「ああ、悪かった。でも、どうして千紗はそんなに落ち着いているんだ? リリーがさらわれたんだぞ?」

「はあ〜。確かに私も意識を取り戻した時はパニックに陥りましたが、もう心の整理はつきました。それに、目の前でそんなに慌てられると、逆に落ち着いてしまいますよ」

「すまん……」

 妹に諭されてしまい、少しばかり落ち込む直人だったが、すぐに気持ちを切り替える。

「それで、これからどうするんだ?」

「はい、まずは兄さんにいくつかお聞きしたいことがあります」

「なんだ?」

「兄さんには、敵の正体が見えていたのでしょうか?」

「いや、俺には影の塊のようなものが喋っているようにしか見えなかった」

 直人は、正直な感想を伝える。

「そうですか、私たちには、何も見えていていませんでした。私が意識を失った後のことは、生徒たちから聞きましたが、他の生徒も誰一人として見ていないそうです」

 それは、直人も予想していたことだった。そうでなければ、あの場はパニックに陥っていたはずだ。しかし実際にはそうはならなかったのだから、やはり他のクラスメイトたちには見えていなかったのだろう。

「兄さん、次の質問をしてもよろしいでしょうか?」

「あ、ああ。大丈夫だ」

「兄さんはどうしたいですか?」

「は?」

 直人は、抽象的かつ理解しがたい質問に、答えることができない。どうしたいとは、どういうことだろうか?そんなことは聞かなくともわかっているはずだ。

「きっと兄さんはリリーを助けに行きたいのでしょう。私もそうですが、今の私たちにはそれを為すだけの力がありません。みすみす命を落とすくらいなら、最悪の場合リリーのことは……」

 つまり千紗は、リリーを助けることに命まで懸ける必要は無いと言っているのだ。確かに死んでしまっては元も子もない。別れ際のリリーの笑顔は、どこかでこうなることがわかっていたような、諦めと覚悟が感じられるものだった。もしかすると、リリーは直人たちが命の危険を犯してまで助けに来ることを望んではいないのかもしれない。

 しかし、ここで諦めることを、直人は受け入れられなかった。

 リリーにあんな笑顔をさせる奴らのことを直人は許すことができなかった。

 リリーには、もっと幸せな笑顔を浮かべていてほしいと思ったのだ。

「いや、たとえ命の危険があっても、俺はリリーを助けに行く」

「兄さん……。そうですか、そうでしょうね。兄さんはそんな人でしたね。だそうですよ?」

 千紗は、あきれた口調とは裏腹に、どこか嬉しそうだ。

「よく言ったわ、ナオト!」

 声とともにドアが開き、アリシアとルナが入ってくる。

「どうしたんだ、二人とも」

「どうしたんだ、じゃないわよまったく。あなた、使い魔の一人も守れないの?」

 そう言ってアリシアは直人を詰る。

「もう、アリシアはすぐにそういうことを言うんですから。ナオト君、気にしないでくださいね? アリシアも本気で言っているわけじゃないでしょうから」

「ああ、それは別にいいんだが、二人はどうしてここに来たんだ」

 直人のもっともな疑問に対する答えは、二人以外からもたらされる。

「兄さん、先ほどは嘘をついてしまいました。実は、私たちにはリリーと助け出せるだけの力があります。しかしそれには兄さんの協力が不可欠でした。なので、あえて絶望的な状況であると思い込ませた上で、リリーを助け出すことを望むだけの意志があるかどうかを問うことで、兄さんの覚悟を試させて貰ったというわけです」

「俺は、そんなに覚悟がいることをさせられるのか?」

 リリーを助けたいという気持ちに嘘はないが、こんなに脅されると、少々不安になってくる。

「まあね、とりあえずは剣術の修行ね」

「剣術?」

 てっきり魔法の修行をさせられるものだとばかり思っていた直人は、突然出てきた聞き覚えのない単語に思わず反芻してしまう。

「ええ、その名の通り剣を用いて戦う技術のことよ」

「なんで剣術なんだ?」

「ナオトくんは、一度見た魔法は、直感的に発動できるようなるんですよね?」

「そうみたいだな」

 簡単な魔法なら見なくても行使できるようだが、複雑な魔法は一度目にする必要があることが、これまでの学院生活で判明している。

「でしたら、魔法はチサ先生や私、アリシアが目の前で発動して見せればいいので、習得に時間はかかりません」

 なるほど、確かにそれは一理あるだろう。習得に時間がかからないならば、魔法の修行はする必要がない。

「ナオト、あなたどうしてリリーをさらった魔族に負けたと思う?」

「どうしてって、千紗が行使した魔法で俺とリリーの魔力による身体操作が封じられたからだろう?」

「それは違うわ、そうよねチサ?」

「ええ、兄さんとリリーが影響を受けた私の魔法は、意識を取り戻した後に確認したのですが、その時まだグラウンドに残っていた魔法陣から見て、私が始めて行使したときとまったく同じものだと判明しました。すなわち、魔法行使時に指定領域内にいたすべての魔族の魔力による身体操作を半日間封じる、というものです」

「ありがとう、チサ。これでわかったでしょう? あなたは純粋な力比べで負けたのよ」

「でも、相手は魔族だぞ? 魔力による身体操作がなくても、ただの人間よりは強いだろう?」

 実力差で負けたのだと言われ、思わず反論する直人に、アリシアは目を丸くする。

「何言ってるの? 魔族は人間よ?」

「えっ?」

 思わず千紗を見る直人に、千紗は頷く。

「その通りですよ、兄さん。てっきり気がついているかと思っていたんですが……」

「いや、だって、吸魔族とか淫魔族とかいうからてっきりそういうものとして生まれたものだと思ってたんだけど……」

 やっと得心がいったという表情で、アリシアは直人に語る。

「その吸魔族とか淫魔族とかっていうのは、言ってみれば通称なのよ。魔族っていうのは、魔法を極めるため、自身の肉体すら魔法に最適化するために変化させた魔法使いとその子孫たちのことを指すの。例えば、通称で吸魔族と呼ばれる一族は、他者からのエネルギーの吸収や肉体の非物質化等の魔法を研究する一族のことを指すわ。リリーだって、姿形はただの女の子でしょう?」

「確かにな。それじゃあ魔王ってのは?」

「魔王も血筋的には人間よ。彼がもっとも魔法を極めた存在であるというだけのことね」

 まさか魔王まで本質的には人間だったとは驚きだ。おそらく、魔族の王であることから魔王と呼ばれているのだろう。

「それで、話を戻すとナオトはただの人間に負けたということになるわ。それじゃあどうして負けたかわかるかしら?」

 まったく手も足も出なかった直人には、正直に言ってなぜ負けたのかなどわかるはずもなかった。

 黙り込む直人に、アリシアは遠慮無く言い放つ。

「簡単な話よ。ナオトあなたが負けたのは、あなたが弱いからよ」

「そんなこと……っ! いや、そうだな、俺は弱いみたいだ」

 直人は運動神経にこそ自信があるが、戦闘経験は皆無である。そもそも現代日本においては、格闘技等の経験が無い限り、対人戦闘の経験など無い者がほとんどだろう。

「ええ、あなたはまだ弱いわ。まだ、ね。でも、その弱さを自覚できるなら、あなたには強くなれる余地がある」

「本当か?」

「もちろん! 私が保証するわ」

 正面から直人を見つめ返し、アリシアは断言する。

「わかった、アリシアを信じるよ。それで、俺は何をすれば強くなれるんだ? さっきは剣術とか言ってたけど」

「そうね、まずは自分の実力を把握することね。付いて来なさい」

 直人たちは、アリシアに連れられて、早朝のグラウンドにやってくる。

 到着するやいなや、アリシアはその体に魔力を帯びさせる。

『剣よ、我が求めに応じ顕現せよ』

 前に突き出したアリシアの手に、二本の剣が現れる。

「はい、これがあなたの分ね」

 一方の剣を手渡された直人だが、何をすればいいのかわからず、アリシアを見る。

「私は一切攻撃しないわ。私は十分間あなたの攻撃を受けなければ勝ち、あなたは私に一発でも攻撃を当てれば勝ち。簡単でしょう?」

 挑発的に微笑むアリシアからは、万に一つも自分が負けるはずがないという自信が感じられる。

 女の子にそこまで言われて引き下がるほど、直人は軟弱では無い。

「いいのか、そんなこと言って? 今の俺は魔族を同等の動きができるんだぞ?」

「ええ、わかっているわ。それとも怖いのかしら?」

「そうか、そこまで言うなら手加減なしだ。千紗、審判頼む」

「は、はいっ。それでは――」

 千紗の声に、直人は体に魔力を込める。

 対するアリシアは、剣を構えることすらせず、ただそこに立っているだけだ。

「始め!」

 千紗の声と同時、瞬時にアリシアの懐へと肉薄した直人は、剣を振り下ろす。直人は殺してしまわないように剣の腹を叩きつけたが、これで勝負はあったと確信する。

 次の瞬間、直人の体は芝の上に叩きつけられ、肺から空気が奪われる。

「⁉」

 咳き込みながら、仰向けで寝転がる直人の上から、呼吸一つ乱していないアリシアの声がする。

「私を殺さないように剣の腹を向けてくれたのは嬉しいけれど、少し私を舐め過ぎじゃ無いかしら?」

 悠然と微笑むその様からは、何か特別なことをしたという感じはしない。事実、アリシアにとってはなんでもないことをしただけなのだ。

「まだやりたいかしら?」

「ああ、このまま引き下がれねーよ。こう見えて負けず嫌いなんで、ねっ!」

 起き上がりざまに斬りかかる直人を、ひらりと躱し、アリシアは距離を取る。

「そう。それじゃあ約束通り、十分間だけ付き合ってあげるわ」

「そりゃどうも」

 結局のところ、十分間絶えず攻め続けた直人だったが、ついにアリシアに掠ることすら無かった。

「アリシアっ!」

 兄が全力でアリシアに斬りかかるのを目にし、思わず叫ぶ千紗だが、隣りにいるルナは、落ち着いたものだった。

「大丈夫ですよ、ほら」

 グラウンドに叩きつけられた直人を見て、さも当然といった様子で告げるルナの声は、しかしながら千紗には届いていない。

「えっ?」

 千紗はあまりの事態に言葉を失っていた。なにせ身を案じた方が悠然と立っていて、攻撃を仕掛けた兄の方が倒れているのだから、無理も無いだろう。

「アリシア、やりすぎですよ……。まあ、今のは半分以上ナオト君の自業自得ですが」

「どういうことです? ルナは何が起きたかわかったのですか?」

 千紗の問いに、ルナは首を横に振る。

「いえ、私の動体視力では具体的に何が起きたかはわかりませんでしたよ。ですが、ナオトくんを倒したのが間違いなくアリシアであることはわかります」

「彼女は何者なんですか?」

 千紗には、アリシアが魔法のあまり得意ではない、元皇女の少女であるという認識しかない。

「『魅惑の剣聖』アリシア=ブレンフォード。その美貌と剣の冴えからアリシアにつけられた二つ名です。現状、人類でアリシア以上の剣の使い手はいません」

「誰も、ですか?」

「はい、誰も、です。加えて言うなら、チサさんもご存知の通りアリシアの魔法技術は、平均以上ではあるものの、その程度でしかありません。なので、彼女は剣技に一切の魔法を用いていません。それでも、魔法を併用している魔法騎士を圧倒するのですよ?」

 にわかには信じがたい千紗だったが、ルナの説明の聞いている間も呼吸一つ乱さず、時折直人に助言する余裕すら見せながら、その攻撃を躱し続けているの見せられては、信じざるを得ない。

 結局、一矢報いることも無く十分が経過し、直人は大きく呼吸を乱しグラウンドへと倒れ込んだ。

「立てる?」

 ようやく呼吸を整えた直人に、アリシアが手を差し伸べる。

「ああ、助かる」

 素直に手を取った直人は、立ち上がると、アリシアを正面から観察する。

 あれだけ激しく攻撃をされておきながら、アリシアは髪すら乱れていなかった。

「一体アリシアは何者なんだ?」

「あら、今体験したじゃない、ただの剣術が強い美少女よ?」

「美少女って、自分で言うか、普通」

「だって事実だもの、それとも直人は、違うって言うの?」

「いや、確かにアリシアは可愛いけど」

「そうでしょう?」

 フフン、と胸を張るその様は、先ほどまで直人を圧倒していた少女と同一人物だとは思えない。

「兄さん、アリシアは『魅惑の剣聖』の二つ名を持つ、人類最強の剣士らしいですよ」

「なんだよそれ、もとから俺に勝ち目なんか無かったんじゃねーか」

「最初からそのつもりで私と戦ってもらったのよ。強さの分からない人に修行してもらっても、身が入らないでしょう?」

「なんだ、アリシアが剣術を教えてくれるのか?」

「そうよ。基本的に私は弟子を取らないんだから、ありがたく思いなさいよね」

「良かったですね、ナオト君。アリシアの弟子になりたくても慣れない人は本当に多いんですよ?」

「とは言っても、嫌なら断ってもいいのよ?」

「いや、断る理由なんかねーよ、今日からよろしく頼むぜ、師匠。それに負けっぱなしってのは、悔しいしな」

「ふふっ、そうこなくっちゃね。それじゃあ、さっそく屋敷に帰って最初の訓練に入るわよ!」

「おう!」

 素振りに始まった直人の剣術修行は、リリーがさらわれて三日経った現在、藁人形への打ち込みへと移っていた。

(やっぱり、筋がいいなんてもんじゃないわね……)

 直人は、本来ならば習得するのに、早くとも一年近くかかる基本的な素振りの動作と、それを用いた基本型の習得をわずか三日で完成させてしまった。

 神童と名高いアリシアでも同じことができるようになるまでに、一週間かかったのだ。それでも、国中で噂になったのだから、直人のことが公になれば、アリシアの時以上の騒ぎになってしまうだろう。

「そろそろ休憩にしましょうか」

「わかった、こいつが潰れたら休憩にするよ」

 直人は、魔力に頼らず筋力のみでの剣を振るっている。これはアリシアの指示で、基本的な体の動きを身につけるために、あえて魔力を使わないようにさせているのだ。

 そのため、今まで剣術に触れたことすら無い直人にとってはそうとうにきついはずなのだが、弱音の一つも吐かずに黙々と取り組んでいる。その姿には、アリシアも素直に感心していた。

「よし、終わった」

 直人の一撃で、とうとう形を保てなくなった藁人形が崩れ落ちる。

「また早くなったわね。この修行も今日中に終えられるかしら」

「どうだろうな、そうだ師匠、もう一回お手本を見せてくれよ」

 アリシアにやられたあの時からずっと、直人はアリシアのことを師匠と呼んでいた。アリシアもそう呼ばれることが嬉しいようで、師匠と呼ばれて頼まれると、嬉しそうに応じていた。

「いいけど、よく見ておきなさいよ?」

「ああ……」

 確認するまでもなく、一挙手一投足を見逃すまいとこちらを凝視する直人は、生返事を返す。

 自然体で新しい藁人形の前に立ったアリシアは、木製の模造剣を構えると、スッと藁人形を袈裟斬りにする。どこも力んだ様子がない動きだが、次の瞬間、両断された藁人形が崩れ落ちる。

「おお……!」

 もうこれで何度目かわからないほどに見ている直人だったが、毎度毎度思わず感嘆の声を上げてしまう。

 因みに、先ほどの直人は、十回以上模造剣ではない本物の剣で打ち込み、やっとのことで藁人形を破壊した。

「何度も言ってるけれど、コツは全身から無駄な力を抜くことよ。まあ、今まで通り驚異的な速度で上達しているし、遅くとも明日にはこれくらいできるようになるわよ」

 いや、模造剣で藁人形を両断できるほどまでに上達しなくともリリーを救い出せるのでは? アリシアのそれはもう人間技じゃないのでは? などと思わないこともない直人だったが、師匠ができるようになると言うのだから、信じてやるだけである。

「それじゃあ、再開ね」

「了解」

 そして二人は今日も、日が暮れるまで修行を続けるのだった。

 直人とアリシアが修行に勤しんでいる間も、日常は続いている。

 直人とリリーが欠席している教室で一日の授業を終えた千紗は、ルナと共に屋敷に帰っていた。

「リリーは大丈夫でしょうか?」

 何度目かわからない質問に、ルナも何度目かわからない答えを返す。

「そうですね、リリーちゃんをさらった連中に見当はついているので、私の見当違いでなければ、彼らがリリーちゃんを殺したりするようなことはしないはずですが……」

 ルナは、千紗から情報が直人に渡り、直人が単身敵地に向かうようなことがないように、敵の正体については明言せずにいた。

「その連中というのは、政府のバックにいる魔族のことですか?」

「どうしてそれを!?」

 ルナはヒントすら与えていないというのに、バレていたことに驚愕する。

「安心してください、兄さんには秘密にしておきます。ルナがリリーの居場所の見当がついていながら言わなかったのも、アリシアが修行を兄さんの体力の限界までやっているのも、兄さんが一人でリリーを助けに行かないようにするためなのでしょう?」

 どうやらすべてお見通しということらしい。こんなことなら千紗には最初から話しておけばよかった。

「でも、どうしてわかったんですか?」

 ルナの心を読みでもしない限り、魔法に関して以外はこの世界のことをほとんど知らないはずの千紗には、その解答に到れるだけの情報がないはずだ。

「ルナの疑問はもっともですが、簡単なことですよ。疲れぐっすり寝ていた兄さんにバレないように魔法を使って、兄さんとリリーの間の魔力のつながりを辿っただけです。その魔力の流れが、この近くの王城につながっていたので、政府のバックにいる魔族の仕業だろうと考えただけですよ」

 造作も無いことのように言ってのける千紗だが、魔力の流れを辿るのは簡単なことではない。天性の魔法的才能を持つ千紗にとっては造作も無いことかもしれないが、ルナには一生できるようにはならないだろ。

「やっぱり、チサさんはすごいですね」

「ん? そうなんですか?」

 自分がやったことの高度さに全く自覚がない千紗に、ルナは苦笑を漏らすのだった。

 結局、直人は模造剣で藁人形を両断できるようになり、今ではアリシアと打ち合える程度には上達していた。

「これだけ戦えるようになれば大丈夫かしらね」

「……まったく大丈夫な気がしないんだが」

 打ち合えるようにはなった。そう、打ち合えるようにはなっただけで、未だアリシアに一撃も入れることができない直人は、最初の頃と違い攻撃を仕掛けてくるアリシアの攻撃を体の至る所にもろに食らっては倒れる、の繰り返しでボロボロになっている。

「私に勝とうと思ったら、それこそ何年かかるかわからないわよ? それに魔族の身体能力を使えば、もう少し戦えるでしょうし、そっちだって前より使いこなせるはずよ」

「そういえば、修行続きで忘れてたが、リリーの居場所はわかるのか?」

 どうにかなるだろうと、師匠に太鼓判をもらえたところで、リリーの居場所がわからなければ助けに行くことはできない。

「ああ、それなら大丈夫よ。あなたの優秀な妹が、リリーを探す方法を開発したらしいから。ナオトはチサに感謝しないとね? あんな兄思いな妹なかなかいないわよ?」

 目先の修行に精一杯だった直人に変わり、千紗がリリーの居場所を突き止める方法を見つけてくれていたことは、本当にありがたかった。

「そうだな、修行で怪我した時も手当てしてくれるし、リリーを連れ戻せたら何かお礼をしないとな」

「それがいいと思うわ。とにかく、明日リリーを取り返しに行くわよ」

「ああ!」

「それでは、リリー救出作戦の手順を説明しますね」

 食堂に集まった三人の前で、千紗が説明を始める。

「今回、リリーの居場所はこの近くの王城です。リリーをさらったのは、アリシアたちブレンフォード家と対立している、政府のバックにいる魔族たちでしょう」

 敵の正体がわかったことは、いいことかもしれないが、王城に乗り込む必要があるとなると素直に喜べない。

「王城って……どうやって突入するんだ? この世界ではどうなのか知らんが、少なくとも王城とかそういう場所は入るだけでも許可がいるんじゃないのか」

「はい、ですから正面から入ったりはしません」

「ふ~ん、じゃあどうするんだ?」

「今回は逆召喚の魔法を使います」

「「逆召喚ですって!?(ですか⁉)」」

 わけがわからない直人を置き去りにして、アリシアとルナは異口同音に驚く。

「チサ、あなた逆召喚が使えるの!?」

「ええ、ですが完全なものではありませんよ。完全な逆召喚は、その性質上、無尽蔵に魔力が必要になってしまい、実現不可能ですから」

「それでもすごいですよ! 制限付きの逆召喚だって、極一部の魔法使いしか行使できないんですから」

 ルナにしては珍しく、興奮した様子で千紗を見ている。

「それで、今回の逆召喚? ってやつの制限は何なんだ?」

「今回は、行使する魔法使いと同伴者一名のみしか逆召喚できず、逆召喚したいポイントの特定に使えるのは、行使する魔法使い及び同伴者の使い魔に限る。というものです」

「要するに、俺と千紗しかリリーのところには行けないってことか?」

「そうなりますね」

「そう、それじゃあ仕方がないわね。ナオト今のあなたなら大丈夫よ。圧勝とはいかないでしょうけど、負けはしないはずよ」

 それがさっき直人をこてんぱんに倒したやつの言うことか、と思ったが、負けはしない、という厳しい評価が本音であると感じられてかえって自信になる。

「頑張ってきてくださいね」

 ルナも精一杯の声援をくれる。

「おう、任せとけ!」

「それでは、明日の早朝に決行します」

 千紗の言葉を最後に、四人は解散し、明日に備えて体を休めるのだった。

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