第三章
学院初日をつつがなく終えた直人たちは、一緒に屋敷に帰っていた。
「放課後は生徒会活動は無いのか?」
「ええ、今は特に大きな行事も無いので」
先行するルナが振り返らずに答える。
「生徒会っていっても年がら年中忙しいわけじゃないわ。今日の朝だって、私たちが生徒会室を開ける当番だったから早く行っただけだしね」
そこで言葉を切ったアリシアは、自分とルナについて後ろを歩く三人に振り返り、後ろ歩きする。
「それで、三人とも初めて学院の授業を受けた感想はどうだったかしら?」
「そうだな、まずアリシア、すまなかった!」
突然の謝罪を受けたアリシアは、驚くことはなく、またか、という呆れの色を見せた。
直人は自分がリリーのマスターになってしまい、結果としてアリシアから使い魔を奪う形になってしまったことを謝っているのだが、この謝罪は最初の休み時間から続いており、一階目の謝罪でアリシアは直人を許している。
そもそもアリシアは、使い魔の召喚に失敗しており、本来なら使い魔は手に入らないはずだった。
そこに、直人が召喚した千紗がやってきて、魔法陣を改変し、リリーを召喚したのだ。
つまり直人がいなければ、そもそもリリーは召喚できていない。
加えてアリシアには、使い魔契約の儀式を忘れていたという過失がある。
そのような理由からアリシアは直人を早々に許したのだが、当の直人が納得していないようで、こうして何度も謝罪してくるのだからアリシアとしてははずかしいことこの上ない。
なにせ直人を説得するために、何度も自分の失敗を説明しなければならないのだから。
「そのことならもういいって言ったでしょう? あなたもそれでいいのよね、リリー?」
「ええ、問題ありません。そもそも私が提案したことですし。……それともナオトは、私なんかを使い魔にするのは嫌?」
そういって涙ぐんでみせるリリーに、思わずたじろぐ直人。
こう何回も謝られては、二人とて居心地が悪い。
そこで、アリシアとリリーは協力することにしたのだ。
そして、生み出されたのが今の流れ、すなわち、アリシアが許し、リリーに話を振って、リリーが泣き落とし、という流れである。
この方法は画期的で、直人をたじろがせるだけでなく、リリーが涙を見せることで、周囲が一気にリリーの味方になるという得点付きだ。
「わかった。悪かったなリリー。ごめんな?」
観念した様子の直人は、リリーの頭を撫でてやる。
目を細めて気持ちよさそうにしているその姿からは、先ほどまで泣きそうになっていたとは思えない。
リリーは、相当直人に懐いているようだ。
「それで、学院はどうだったの?」
じゃれあう直人とリリーに呆れつつも、アリシアはおだやか口調で問いかける。
アリシアの質問に、直人に撫でられていたリリーが答える。
「聞いてくれ、アリシア。ナオトはすごいのだぞ? 全く理解していない術式を、なんとなくで発動させてしまうのだ」
リリーにしては珍しく、少し興奮しているようだ。
「二年生の教室でも噂になっていたけど、まさか本当だったなんてね。まったく……でたらめね、ナオト」
「そうはいってもな……」
「それなら、リリーちゃんも流石でしたよ? 兄さんと同じで、ほとんどの魔法を一度教えただけで完璧に行使出来るんですから」
千紗がリリーの頭を撫でる。
「そこだ、私が気になっていたのは」
「どこだ?」
「うむ、ナオト。ナオトは、私と契約する前から、直感的に魔法を行使できたのか?」
「そうね、チサを召喚したのはナオトだし、そのときのナオトは召喚魔法なんて知らないはずだもの」
「そうか、ではナオトが直感的に魔法を行使できるは、もとからなのだな?」
「ええ、信じられないことだけどおそらくね」
本当に信じられないけどね、とアリシアは付け加える。
「それではもう一つ質問だ、私は、魔族の中でも平均を遙かに上回る身体能力を持っている。ナオトはその私よりも速く走っていたのだが、ナオトはもとからこんなに人間離れした身体能力の持ち主だったのか?」
この質問には、直人を含めた全員が首をひねる。
しばらくして、千紗が何かを思い出したように顔を上げる。
「それはおそらく、使い魔契約の影響です」
「使い魔契約の影響? なんだそれ?」
「はい、私が構築した使い魔契約の儀式の術式は、こちらのものではなく、私たちの世界のものをこちらの世界でも使えるようにアレンジしたものです。そして、私たちの世界の使い魔契約には、こちらの使い魔契約には無いある特徴があります」
「ある特徴? なによそれ、私なにも聞いてなかったんだけど?」
アリシアは、自分が行うかもしれなかった魔法について、知らされていなかったことがあると知り、不満そうに問い返す。
「そうですね、すみませんでした。しかし、この特徴が私たちの世界のもの使い魔契約に特有なものだと気が付いたのは、今日の講義中のことです。決して意図して隠していたわけではありません」
「そうね、そんなことしてもチサが何か得する訳でもないでしょうしね。こっちこそごめんなさい、続けてくれるかしら?」
「はい、私たちがもといた世界に魔族はいないということは、お気付きでしょうか?」
「ええ、ナオトやチサの反応から何となくだけどね」
直人や千紗には、この世界で人類の敵として存在する魔族に対する感情が、傍目に見てまったく無いように、アリシアは感じていた。
アリシアは、初めて魔族のことを話した際の、魔族に対し否定的感情も無く肯定的な感情も無いようなその様子から、それは二人が全くの無知であることに起因するのではないか、と予想していたのだ。
その結果、今現在の二人の中には、極めて善良かつ理性的な魔族であるリリー以外の魔族に関する知識が無く、結果として現在の二人の対魔族感情は、目に見えて肯定的なものになっている。
「ですので、私たちの世界で魔法使いの使い魔とは、通常ただの動物です。そして、その使用もこちらの世界のように戦闘を目的としたものではなく、偵察や情報の伝達などです。そういった側面を持っているため、私たちの世界の使い魔契約には、視覚や聴覚といった感覚共有の機能が盛り込まれています。その機能を十全に用いるため、魔法使い側は自身の能力に使い魔の能力を上乗せされます」
「どうして、感覚共有を使いこなすために、自身の能力に使い魔の能力を上乗せする必要があるんですか?」
今まで聞き手にまわっていたルナが、千紗に振り返り質問する。
「少し考えればわかることですよ。そうですね、例えば、ルナが鷹のような猛禽類を使い魔にして、視覚の共有を行ったとしましょう。そうすると、ルナの視界は突然狭くなり、今まで見えていなかった距離のものが見えるようになりますね。この場合、能力の上乗せがないとなにが起こると思いますか?」
「……? なにが起こるんでしょうか?」
ルナは頭をひねって必死に考えているが、どうやら答えは思いつかないらしい。
「わかったわ! 距離感がつかめなくなるんじゃないかしら?」
「正解です、アリシア。さすがですね」
そういって千紗は、アリシアの頭を撫でる。
「アリシアが言ってくれた通り、能力の上乗せがなければ、距離感が掴めなくなります。なにせ自分の視力が一瞬で変わるわけですからね。例えば他にも、犬を使い魔にし、嗅覚の共有を行ったとしましょう。その一瞬だけ犬の嗅覚を得たところで、どれが目的の臭いかわからなければ意味がありませんよね? そのような事態を解消するために組み込まれた効果なのです」
千紗は、そこまで話してみんなの顔を見回す。
「何か質問があるようですね、兄さん」
「ああ、その使い魔契約だと、契約する動物によっては、人間社会での生活に支障をきたさないか?」
「だからこその上乗せです。例えば先ほどの例でいうと、鷹を使い魔したとき、視覚共有した時以外は、人間は視野をそのままに、鷹の視界の分だけ視力が向上します」
「なるほど、それなら慣れれば生活できるか」
どうやら、人間として社会で生きていく力を捨てなければならなくなるような事態は発生しないらしい。
「それじゃあ複数の種類の動物と契約したらどうなるのかしら」
「複数の能力が上乗せされますが、その場合は注意が必要です」
「どんな注意が必要なの」
「人間とは人間が思っているほど小型の動物ではありません。熊や獅子と言った大型肉食獣に比べか弱く小型だというだけで、牙や爪といった攻撃手段を抜きにした力比べでは、人間多くの生物に勝ります。つまり、大抵の動物は使い魔にしたところで、筋力面で人間の限界を超えるほどの上乗せは起こり得ません。しかし、複数の、あるいは複数種類の動物と使い魔契約をすると――」
「人間の限界を超えた上乗せが起こり得る、か」
先ほど、明らかに人間の限界を超える速さで走った直人が、先を引き継ぐ。
「はい、加えて、ほとんどの動物の骨格は、その動物に最適化されています。これは人間も例外ではありません。なので、この術式は骨格の上乗せはしないように構築されています」
「それじゃあ、その状態で人間を超える筋力を使ったら……」
ルナが顔を青ざめさせる。
「その通りです、自分の筋力で骨折します」
「じゃあ、どうして俺は無事なんだ?」
そう、しかしながらその理屈では、直人はどうして無事なのか? という疑問が生じるのである。
「その答えは、リリーが知っていると思いますよ? リリー、説明してもらってもいいですか?」
「ああ、構わない。おそらくだが、チサが知りたいのは、私たち魔族がどのように身体能力を高めているかということだろう?」
「理解が早くて助かります」
そういって、柔らかく微笑み、リリーの頭を撫でる。
「なに、大したことじゃない」
謙遜しつつも、嬉しさを隠しきれていないリリーは見ていて微笑ましい。
直人たちの視線に気が付いたのか、リリーはこほん、と咳払いをすると、表情を引き締めて話し始める。
「私たち魔族は、体の基本構造は人間と全く同じだ。違うのは、体に魔力をながし、力を増幅出来るかどうかだ。要するに魔族は、体を動かすのに筋力ではなく、魔力を使っているというわけだ」
「魔力で体を動かすのと、筋力で動かすのじゃそんなに違いがあるように思えないんだが。結局骨はやられちまうんじゃないのか?」
筋力で動かそうと魔力で動かそうと、結局動いている骨が受ける影響は同じではないか、と直人は考えたのだが、どうやらそうではないらしい。
「魔力で動かす際は、実質的に物体を動かしているのに近い。ナオト、何でもいいから何かものを私に向かって投げてくれないか?」
「? 別にいいけど……」
直人は、今朝メイドに渡されたカバン中に入っていた布製の筆箱を投げる。
すると、筆箱はリリーの前を通過し、二つの角を足のように交互に地面につけ走り出した。
筆箱はリリーの周りを一周して、直人の下に帰ってくる。
「おおー!」
直人は思わず感嘆し、声を上げる。
「魔族が体を動かす時は、これと同じことをしているんだ。もちろん、人間の限界を超えた動きをする時だけだけどな。ナオト、筆箱をよく見てみてくれるか?」
言われるままに、筆箱を見る直人だが、特に何も異常は見られない。
直人が困惑しているのを見て、満足そうに頷くと、リリーが種明かしをする。
「なんにも異常が見つからないだろう? それこそが異常なのだ。なにせその筆箱は、ただの布なのに関わらず、レンガの上を走って、全くこすれてもいないのだから」
改めて筆箱を、先ほど足のようになって走り回っていたところをよく見てみるが、やはりなにも異常がない。
そのことの異常性に、直人はようやく気が付き、驚愕する。
「これは、魔族の繊細な魔力操作がなせる技だ。魔族は、人間の限界を超えた運動をする際には、体にかかる圧力や衝撃を反対の力を同時に加えることで緩和している。これの上手さが魔族における、身体能力の優劣を決める要素、人間で言うところの運動神経だ」
「それじゃあ、俺がさっき高速で走っても無傷だったのは、それが出来ていたからなのか?」
「ああ、驚くべきことにな。だからこそ、使い魔契約の効果ではないかと気が付いたんだが。これがもとから出来る人間は、ほぼいないといっていいからな」
「それじゃあ、俺の方が速かったってのは、俺の魔力にリリーの魔力が上乗せされて、俺の方が魔力量が多くなったからか?」
「そうだろうな。ナオトの魔力操作のセンスは魔族である私に比肩しうる。そうなれば、身体能力の優劣を決定づける要素は、魔力量しかないからな」
二人の会話が一段落したところで、屋敷に到着した。
*
「ターゲットがブレンフォードの屋敷に入りました」
直人たちを尾行していた男が、口もとに展開された魔法陣に向かって報告する。
『やはり、あいつらはブレンフォード側の人間だったか』
男の報告を受け、別の男の声が耳もとの魔法陣から発せられる。
「そのようです、ですがまさか、『鮮血の魔女』がブレンフォード側にいるとは思いませんでしたが……ドレイクさん、どうします?」
『どうするもこうするも、今の俺たちでは、『鮮血の魔女』はどうすることもできんよ。今はまだ、な』
まるで時がくれば『鮮血の魔女』をどうにかできる様な物言いに、困惑する男だったが、今が任務中であることを忘れるほど愚かではない。
男はすぐに気を取り直して指示を仰ぐ。
「……そうですね、それで俺はこれからどうすれば?」
『マークは一旦本部へ帰還しろ』
「了解」
その言葉を最後に、マークと呼ばれた男は虚空に姿を消した。
*
直人たちは、それぞれの部屋に行って、荷物を置き、私服に着替えてから再び食堂に集合した。
「それでアリシア、話ってなんだ?」
直人たちは、屋敷の玄関で分かれる際に、話があるから着替えて食堂に集合と言われ、今こうして食堂に集合していた。
「ナオトは、教室にいるとき敵対的な視線を感じなかったかしら?」
「どうだろうな? ローザが話しかけてきてくれる前は、リリーを敵視しているやつがほとんどだったが、ローザが話しかけてきてくれて以降は、みんな友好的だったと思うけど」
「そう、それならいいの。学院はその性質上、平等に生徒を募集しないといけないから、政府のスパイの疑いがある人でも、無碍にはできない。だから全員が味方というわけではないの。ナオトも気をつけておいて」
「わかった、気をつける」
素直に頷く直人に満足した様子のアリシアは、直人を安心させるように告げる。
「それから、ローザは私たちブレンフォード側の人間だから安心していいわよ」
クラスで最初にできた友人が、とりあえず敵ではないことがわかり、直人は安心する。
アリシアは、食堂にいた全員を見渡たした。
「長くなってしまってごめんなさい。本題はここからよ」
そういって、直人と千紗、リリーの三人に目を向ける。
「ごめんなさい! 三人の部屋だけど、今日も昨日と同じ部屋で寝てほしいの」
「どうしてだ? 一晩だけって話じゃなかったのか?」
直人に指摘され、ばつが悪そうに目をそらすアリシア。
「その予定だったんだけど、ナオトたちを今日から学院に通えるようにするために、三人の編入手続きとか身分証の作成とか、制服の仕立て直しとか、そういった細々としたことを徹夜でしてくれたメイドさんが、今朝ナオトたちを送り出した後で倒れちゃったみたいで、部屋の用意ができてないの。本当にごめんなさい」
自分たちのために頑張ってくれたメイドさんを責めるわけにもいかず、直人たち三人は顔を見合わせる。
「そういうことならしょうがないだろ。昨日も何事もなかったし、俺は大丈夫だ」
「私もだ、昨日は何事もなかったのだしな!」
やたらと、“昨日なにもなかった”ということを強調する直人とリリーに、不審に思うアリシアだったが、おおかた今朝アリシアが見た光景について、まだアリシアが誤解をしていると思い、その誤解を解きたいとでも考えているのだろうと結論づける。
「チサもそれでいいのよね」
「……」
先ほどの直人とリリーの発言を聞いてから沈黙している千紗は、アリシアの声にも答えない。
「チサ!」
「えっ、あ! はい、なんですか?」
大きな声で呼ばれようやく顔を上げた千紗は、驚いたようにアリシアを見る。
「チサも昨日と同じ部屋で三人一緒に寝ることになるんだけど、いいかしら?」
どこから聞いていなかったかわからない千紗に、丁寧に説明し直すところにアリシアの真面目さがうかがえる。
「はい、問題ありません」
「そう、それじゃあ申し訳ないけど後一晩だけ同じ部屋で寝てちょうだい」
そういうと、アリシアはルナと共に立ち上がる。
「それじゃあ、私たちはメイドさんの看病に行ってくるわ」
「待って、アリシア。メイドさんがいないと夜ごはんを作る人がいなくないかな?」
「それもそうね、三人の中で料理ができる人はいるかしら」
そう問われて、直人とリリーは顔を見合わせる。
念話を使うまでもなく、お互いがお互いに対し、こいつは料理ができないな、と悟った。
そんな二人視線を受けた千紗が、嘆息して手を挙げる。
「……それでは今日の夕飯は私が作りましょう」
「それじゃあ、悪いけどお願いするわね? 材料は何でも好きなものを使ってくれてかまわないわ」
「わかりました」
そう言って三人は食堂を後にする。
千紗が出て行ったのを確認して、直人とリリーは大きく息を吐き出す。
「これは、ごまかせたのか?」
リリーの問いかけに、直人は首を横に振る。
「いや、千紗はそんなに甘くない。おそらく、今日の夜が危ないな。教室の前の時といい、さっきといい、昨日の夜に何かあったことには気が付いたみたいだし……」
直人とリリーがむきになって否定したせいで、千紗に昨日の夜に何かあったことがバレてしまったことは確実だろう。
突然のことで慌てていたとはいえ、先ほどの振る舞いは明らかに失策だった。
「……ということは?」
リリーが恐る恐るといった様子で直人に問いかける。
最高位魔族の少女にこれだけ恐れられるとは、我が妹ながら恐ろしい限りだ。
「今日の夜は、覚悟しておいた方がいい」
「まさか夕食に一服盛られたりは……」
顔を青ざめさせつぶやくリリー。
「いや、さすがにそこまでは……」
「おい、どうしてそこでいいよどむ? おい! ナオト!?」
「……」
昔はただのデレデレ妹だったが、こっちの世界にきてから、ヤンデレ妹になりつつあると感じている直人は、その可能性を否定しきれなかった。
*
直人たちと別れた後、千紗はキッチンに直行することはなく、直人や千紗、リリーが召喚された、屋敷一大きな広間に足を運んでいた。
(やはり、兄さんとリリーは何か隠していますね)
とはいっても、一度追及しようとして逃げられているため、なにも対策せずにもう一度追及したとしても、逃げられるのがオチだ。
その対策を講じるためにわざわざ広間に来たのである。
千紗は広間の中央に立つと、その身に魔力を帯びさせる。
『この地にて起こりし魔の躍動を封じよ』
千紗の詠唱を受け、その足下に魔法陣が展開し……突如消滅した。
千紗にとっては予想通りの結果だが、思わずため息をつく。
この術式は、先ほどリリーから魔族の身体能力の原理について教わった後に、それを封殺するべく、ついさっき新たに作り出した術式だ。
兄と違い、一度見ればあらゆる術式の意味が理解できる千紗だが、魔法を行使する才能は兄に大きく劣る。
それでも、数度発動すれば修得できるのだから、平均を遙かに上回る才能の持ち主なのだが、どうしても兄と自分を比べてしまい、思わずため息をついてしまったのだ。
(まあ、しかたないですよね)
千紗は再びその身に魔力を帯びさせる。
その後も何度か失敗し、結局十回目にして、術式は発動した。
少々疲れた様子の千紗はしかしながら満足げに広間を後にし、キッチンへと向かった。
*
「おおう」
千紗に呼ばれて食堂にやってきた直人は、思わず声を上げる。
テーブルの上には、千紗謹製の料理が所狭しと並んでいる。
「これ、本当に全部千紗が作ったのか?」
千紗作の料理とは思えない、素直においしそうだと思える見た目をした料理に、直人は感心する。
少なくとも見た目は改善されているようだ。
正直なところ直人は、あの千紗がこんなに立派な(現状判断できるのは見た目だけだが)料理を作れる日が来るとは、夢にも思っていなかった。
直人の記憶の中の千紗は、直人の為に料理を作るのだといって料理をし、残念なクオリティの料理(千紗の名誉に為にいっておくと、不味くはない、がおいしくもない)を量産し、全て食べ終わるまで直人の向かい側の席で嬉しそうにこちらを見ているという、正直勘弁してほしいことをしていた。
まあ、昔からなんだかんだといって妹に甘かった直人が、正直に答えずにおいしいと言ってしまっていたのが原因でもある。
直人が昔のことを思い出し、微妙な表情になっていることに千紗が気付く。
「兄さん、その、昔はいろいろとご迷惑をおかけしていたようで……」
申しわけなさそうに直人に頭を下げる。
「……気が付いたのか、俺の方こそごめんな、頑張って作ってくれるから、素直に微妙だとも言えなくてな……」
「いいんですよ。兄さんは優しいですから」
まだ少し申しわけなさそうにしているが、千紗は笑顔で続ける。
「兄さんがあっちの世界で亡くなってから、私は叔母さんのところに預かられたのですが、叔母さんに初めて料理を作ってあげたときに、私のためだと言って素直な感想をいただきまして……」
「そうか、なんて言われたんだ?」
「『千紗、言いづらいんだけど、あなたちゃんと味見しながら作っているかしら?』と苦笑しながら」
案外ストレートなものいいだなと思ったが、そのおかげで、今直人が救われていることは間違いない。
「それ以降、魔法の師であった叔母は料理の師にもなりました」
「そうか、それなら安心……って、叔母さんが千紗の魔法の師匠なのか!?」
正直料理のことなど吹き飛ぶような衝撃を受けた直人だが、千紗は首を傾げている。
「言ってませんでしたっけ?」
「言ってませんでしたよ?」
動揺のあまり思わず千紗の敬語がうつる。
「叔母さんは、もともとあちらの世界の魔法使いの家系の方で、こちらの世界とは無関係の魔法使いです。お父さんに自分の死後、私に魔法を教える様に頼まれていたらしく、事故直後に私の前に現れたんです」
「まさかあの叔母さんがねえ」
確かに、直人の知る限りあれほど謎の多い人もいなかったかもしれない。
年齢不詳の美女で、とても上品な女性だったのは覚えているが、逆にそれ以外の情報を直人は持ち合わせていない。
毎年会っている親族の中でこれだけ何も知らないのは、あの叔母くらいのものだろう。
「しかし、お父さんとお母さんがこちらの世界の人間だとしたら、叔母さんと私たちの関係って――」
「いいかげん、もう食べていいか?」
直人と千紗が話し込んでいたために食事を始められなかった三人を代表して、リリーが二人に尋ねる。
食事を前にお預けを食らい、目に見えて不機嫌そうである。
直人と千紗は、申しわけなさそうに席に着いた。
*
「おいしかったな、リリー」
「そうだな、本当においしかった」
後片付けの手伝いを申し出たものの、後片付けまでが料理だと言って片付けを固辞した千紗にキッチンを追い出された二人は、三人の寝室に戻ってきていた。
千紗の料理は文句なしにおいしかった。
昔の千紗の料理の知る直人には、千紗が並大抵ではない努力で、料理の腕前を磨いたのであろうことがうかがえた。
千紗が帰ってきたら褒めてやりたいところだが、今はそれどころではない。
直人とリリーは、キングサイズベッドの上で向かい合い、運命の時を待つ。
本当は、料理の後片付けを手伝うことで、少しでも千紗の機嫌を取っておこうと思っていたのだが、見透かされていたのか、断られてしまった。
こうなっては、もう残された手段は逃走しかない。
「リリー、いけるか?」
念話が使えることも忘れてしまうほど追い込まれた直人が、リリーに顔を近づけ、声を潜める。
「ああ、いつでも大丈夫だ」
リリーも同様に念話ができることをすっかり忘れ、直人に顔を近づけ、直人と同じく声を潜める。
「いくぞ!」
体の制御を神経から魔力に切り替えた途端、一瞬全身にみなぎった力が、瞬時に失われる。
「「っっっ……!?」」
突然のことに、体の制御を神経に戻すこともできず、二人は絡み合いながらベッドに落下する。
「んっ、やぁっ」
潤んだ瞳でこちらを見ているリリーが小さく喘いだ。
リリーのかすかな、しかし確かな弾力を持った双丘が、直人の手のひらに収まっている。
「わ、悪い! 今どくから!」
慌てて立ち上がろうとする直人だが、うまく力が入らず、リリーの胸に顔をうずめる形になってしまう。
そして、考えうる限り最悪のタイミングで、扉が開く音がした。
恐る恐る振り返った直人と、絶対零度の笑みを浮かべた千紗と目が合う。
「ち、千紗? いや、これは違うんだ! 千紗から逃げようとしたら……じゃなくて、その、とにかく事故なんだ! な? そうだよな、リリー?」
必死に弁明する直人に組み敷かれているように見えるリリーも、我に返って頷く。
しかし、顔を真っ赤にして涙目なリリーが頷いたところで、直人に脅迫されている様にしか見えなかった。
「そうですか。事故ですか」
「あ、ああ、そうなんだ、わかってくれたか?」
千紗はわかってなどいない、そんなことは直人でもわかる。
目が笑っていない上に、一切の抑揚のない声で告げられて、どうして言葉通りに受け取れるというのか。
「それでは兄さん、そこに正座してください」
千紗の口調は丁寧なものだったが、それゆえに千紗の怒りが伝わってくる。
「え?」
「聞こえなかったのですか? そこに正座してください、と言ったんですよ?」
「俺だけ?」
「ええ、兄さんだけで結構です。なんでもいいから早く正座してください?」
有無を言わせぬ迫力に、直人は兄の威厳などというものはかなぐり捨てた。
「あ、はい」
素直に床に正座した直人の方へ歩いてきた千紗は、直人の横を素通りし、未だベッドに横たわったままのリリーを抱き上げて戻ってくる。
リリーを後ろにかばうようにしながら直人の前に立った千紗は、冷たい視線を直人に向ける。
「それでは、妹である私だけでは飽きたらず、いたいけな少女までもその毒牙にかけようとし、その上逃亡を図ろうとした、ヘタレシスコンロリコン兄さん、何か弁明はありますか?」
明らかに事実無根の内容が含まれていたが、今それを指摘すると、今以上に話がややこしくなるのでやめておくことにした。
「さっきの本当に事故なんだ」
直人を訝しげに身ながら、リリーを後ろで庇っている腕に力を入れる。
「俺とリリーは、千紗から逃げるために、魔力で体を操って身体能力を上げて逃走を試みようとした。だけど……」
そこで、ようやく力が入るようになったリリーが、千紗の後ろから出てきて千紗の前に立つ。
「私たちが魔力を体に込めた直後、私たちの体から魔力が霧散し、バランスを崩したのだ。だから私たちはあんなことに……」
そこまで言って、直人の方を見たリリーは再び頬を染めると、千紗の後ろに隠れてしまう。
「では、本当に事故なのですね?」
千紗は、確認するように直人に問いかける。
「ああ、本当だ。信じてくれたか?」
「ええ、まあ……」
何か心当たりがあるのか、どこか歯切れが悪かったが、とにかく許してくれたのならここでそのことを追及しても、やぶ蛇にしかないので黙っておく。
「それでは、本題に移りましょう」
そう言うと、千紗はリリーをベッドに腰掛けさせる。
なお、直人は未だに床に正座させられたままだ。
「それでは兄さん、どうしてリリーと使い魔契約の儀式ができたのか教えて貰いましょうか」
直人の方を見る千紗の視界の端で、リリーが真っ赤になったのを、千紗は見逃さなかった。
「それは……」
「リリー、あなたが教えてくれてもいいんですよ?」
直人を追及する時とはうって変わって、優しい声音で問いかける千紗。
その声に、どうやら自分が責められる事はなさそうだと思ったリリーは、羞恥心を我慢して話し始める。
「ナオト以外には誰にも言っていないが、私は純粋な吸魔族でなくてな。私は、吸魔族の父と淫魔族の母を持つハーフだ」
それで、と無言で続きを促す千紗に頷いて、リリーは先を続ける。
「昨日の夜、千紗が寝た後、すぐには寝付けなかったナオトが、私のことを教えてほしいと言いだしたんだ。私はただ教えるのもおもしろくないと思い、ナオトに淫魔族の魔法をかけた。そして、ナオトを夢の世界に連れて行き誘惑したというわけだ」
「なるほど、あのとき二人の様子に何の異常も見受けられなかったのは、夢の中でことが起こっていたからなのですね」
「ああ、それよりも私は、寝ていた千紗が私の魔法行使に気が付いていたことの方に驚きだけどね」
「いえ、あのとき私は起きていましたから……それで、二人はどこまでいったのですか?」
平然ととんでもないことを聞いてくる千紗に、聞かれた直人とリリーの方が、羞恥に顔を染める。
「どこまでって、俺たちはなにもしていない。なあ、リリー?」
話を振られたリリーは、羞恥に染めていた顔を一変させ、いたずらな笑みを浮かべる。
「ナオト、お前本気でそんなことを言っているのか? お前がそんなに外道だったとは……っ! 夢の中とはいえ私の初めてを奪っておきながら!」
「なっ」
あまりの事態に直人は言葉を失う。
どうやら、千紗が自分に甘いことに気が付いたリリーは、完全に被害者になることで、自分の身を守るつもりのようだ。
極めて懸命な判断だが、加害者に仕立て上げられた直人はたまったものではない。
「兄さん?」
整った顔に絶対零度の笑みを浮かべた我が妹君は、直人を射殺さんとするかのごとき眼光でこちらを見ている。
「ひどい! お兄ちゃんの初めては千紗のものなのにー」
そう言い放ち、走って部屋から出て行ってしまった。
最悪だ。
直人が想定していた中で最悪の結果になってしまった。
千紗のあまりの豹変ぶりに、なにが起こったのかわからないリリーは呆然と直人の方へ振り返る。
「なんだったんだ? 飛び出していく直前、千紗の様子がおかしかったが……」
「はあ、これは千紗の癖っていうか……。千紗はな、不機嫌さがピークに達すると駄々っ子に幼児退行するという悪癖を持ってる」
「それではつまり?」
「ああ、リリーが夢の中で俺に初めてを奪われたなんて嘘を言うから……」
それを聞いて、リリーはしゅんとしてしまう。
リリーとしては、これで直人が少し多めに怒られるだけで自分は怒られずに済むし、リリーが淫魔族でありながら誘惑しきれなかったという事実も隠しておけるし、一石二鳥だと思っただけなのだ。
決して千紗を傷つけようだなんて考えてなかったのだが、リリーの考えが甘かったらしい。
この前夢の中でも自分を大切にしろと直人に言われていたのだから、夢の中ならなにをしてもいい、という自分の考えが、直人たちとずれていることに気がつけたはずなのに……。
「ナオト、私が悪かった。チサを探して謝りたい。一緒に探してくれるか?」
自分の行動を激しく後悔するリリーだったが、今は後悔している場合ではない。
「もちろんだ、俺にも非はあるしな」
もとはと言えば、直人が自分で言うのが恥ずかしくてリリー話を振ったのが原因でもあるのだ。
それに、あの状態になった千紗は、直人でも元に戻すのは難しい、ましてや他人には無理だろう。
直人とリリーは、千紗を探すべく、寝室を後にした。
*
「もう、お兄ちゃんのバカバカバカバカっ。千紗というものがありながら、他の女の子に手を出すなんて!」
完全に精神が子供になった千紗は、屋敷の中を宛もなく歩き回る。
『チサ』
屋敷を出て、庭を歩いている時に、千紗を呼ぶ声があった。
暗闇の中、影の固まりのようなものから発せられる声は、男のようにも女のようにも聞こえ、年若いようにも年老いたようにも聞こえた。
「あなた誰?」
普段の千紗であれば、正体不明の相手に警戒し、話しかけたりなどしないだろうが、今回はタイミングが悪かったとしかいいようがない。
正体不明の影は、チサの問いかけには答えず、一方的に話し続ける。
『ひどいお兄さんだね。君はお兄さんのことを愛しているのに、その愛に応えてくれないなんて』
「そうなの、お兄ちゃんたらひどいんだから!」
初対面のはずの相手が、自分の事情を知っていることに、わずかな違和感を感じた千紗だったが、それだけだった。今の千紗に、それを危機と判断する聡明さはない。
『お兄さんを懲らしめたいかい?』
「うん、お兄ちゃんを懲らしめたい!」
感情のままに叫ぶ千紗に、顔のないはずの影が、ニヤリと笑った気がした。
『それじゃあ、そのときがきたらお兄さんを懲らしめようか。その時までは、ゆっくりお休み」
そう言って影が消えると同時に、千紗の意識は混濁する。
「あ、れ……?」
そして、千紗は意識を失った。
*
直人とリリーは、千紗を探して屋敷の中を歩き回っていた。
手分けして探すという手もあったが、どちらかが先に見つけられたとしても、それを連絡する手段がない以上あまり効果はないと考え、二人は行動をともにしている。
「千紗ー、どこだー」
「チサー、あれは誤解なんだ、とにかく出てきて話を聞いてくれー」
直人たちの寝室がある三階から、二階へと捜索範囲を移そうという時、リリーが千紗を探しながら話しかけてくる。
「ナオト、チサは昔からあんなに激しく幼児退行していたのか?」
あくまで世間話の一つといった様子で、軽く問うリリー。
「あんなに激しく? どういうことだ? さっきもいったが、千紗の幼児退行癖は昔からの事だし、正確には幼児退行したような言動でこちらを困らせる幼児退行したふりだぞ?」
直人の言葉を聞き、勢いよく直人を振り返ったリリーは、今度は真剣な声音で問う。
「あれがふりだと? そんなはずはない、間違いなくチサは別の人格に入れ替わっていたぞ?」
「はあ? どういうことだ、そりゃあ」
「そのままの意味だ。私は淫魔族の血を引いている。相手の精神状態を読み取ることにかけては自信があるんだ、間違いない」
どういうことだ? 直人の知る千紗は、幼児退行したときでも、根っこの部分はもとの千紗のままだった。そのことは、今までの経験からはっきりしている。
「そんなはずはない、今までの千紗なら、本当に幼児退行したりしてなかったはずだ」
「つまり、ナオトと離れていた五年間の間に何事かがあって、チサは本当に幼児退行するようになったと?」
「たぶんな」
信じられないが、この状況で嘘をつくことに何のメリットも無いリリーが、嘘をついているとは考えづらい。それならば、五年間の間に何かあったと考える方が自然だろう。
胸騒ぎがした直人は、歩調を早める。
「急いだ方が良さそうだ」
いつもの幼児退行のふりなら、とたいした心配もしていなかった直人だが、本当に幼児退行してしまっているなら、なにが起こるかわからない。
結果として、直人の胸騒ぎは勘違いではなく、二人は庭で倒れている千紗を発見する。
「千紗!」
慌てて駆け寄った直人は、千紗の抱き起こし、安否を確認する。
「どうだ?」
隣に走ってきたリリーが、真剣な表情で直人の顔を覗き込む。
「大丈夫だ。息はしている。気を失っているだけだろう」
直人の言葉に、リリーは安堵する。
しかし、どうして千紗は、庭で倒れていたのだろうか?
「んっ……にい、さん?」
リリーが思考の海に沈みかけたところで、千紗が目を覚ます。
「千紗! 気が付いたのか? いったいなにがあったんだ?」
「なにって……? ここはどこですか? 屋敷の庭?」
千紗はまるで記憶喪失にでもなったかのように、あたりを見渡し、ここがどこかと尋ねてくる。
「まさか、覚えていないのか?」
千紗はしばし考え、自身の記憶を辿る。
「私の記憶は、リリーが兄さんと夢の中でしたというところでとぎれています」
「そうか、やっぱり覚えてないんだな? それと、それは誤解だ」
千紗がまだ少し朦朧としているうちに、誤解を解いておこうという、直人の意図を汲み取ったリリーが直人の後に続く。
「すまなかった。先ほどのは嘘だ。実際のナオトは、私が初めて男性を誘惑していることを見抜いたばかりか、私の不安にも気が付き、私のために私の誘惑を拒絶した」
「そうですか、まったく、ヘタレですね、兄さん」
言葉こそ直人を罵ってはいるが、その口調に非難の色は含まれておらず、羞恥が見てとれた。リリーの言葉を、疑いもせずに真に受けてしまったことが恥ずかしかったのかもしれない。
「もう、ヘタレでいいよ……。それで、本当に覚えていないんだな?」
「はい、私はどうしてここにいるのですか?」
本当にわからないと言った様子で首を傾げている千紗。
「なんで庭にいるのか、ということの正確なところはわからないが、状況だけならわかる。千紗、お前は幼児退行していた、正確には、幼い千紗の人格が今の千紗と入れ替わっていた」
「!?」
千紗の反応は、初めての出来事に驚くものではなく、どこか心当たりがあるようだった。
「何か知っているのか?」
千紗はしばし逡巡したの後に、小さく頷く。
「ええ、私自身は会ったことはありません、なにせ私と入れ替わりですから。しかし、叔母さんにその存在は聞いていました、幼い私の人格が存在すると。叔母さんが言うには、私の許容限界を越える不安を私が感じると、主人格である私と入れ替わるそうです」
「なるほど、にわかには信じがたいけど、さっき実際に見てるからなあ。それで、原因はわかっているのか? 少なくとも俺があっちで生きている間はそんなこと無かっただろう?」
「はい、これは推測ですが、この人格は家族を失った精神的なダメージから私の心を守るために生み出されたものだと思われます」
直人の体感時間では、千紗と離れていた時間はほんの一瞬だが、千紗にとって五年間なのである。加えて、死後の世界で両親と話した直人と異なり、千紗は目の前で突然両親を失った。その衝撃は直人とは比べものにならないだろ。
そのことに気が付いた瞬間、直人は思わず千紗を抱きしめていた。
「ちょ、ちょっと、兄さん!?」
突然のことに慌てる千紗だが、抵抗はしない。
「ごめんな、今まで気が付かなくて。辛かったよな、千紗」
そう言って、直人は千紗を抱く腕に力を込める。
「どうしたんですか、突然」
「俺、自分のことに精一杯で、千紗のことを考える余裕がなかった。千紗が成長してるってことは、千紗はそれだけ一人で過ごしていたんだってことにだって、少し考えればわかったのに……」
自分の不甲斐なさが恥ずかしい。直人の目には涙が浮かんでいた。
「兄さん……」
自分を抱きしめ、涙を流す兄の髪をそっと撫でる。
「千紗?」
「いいんですよ、私のことなんて。私は兄さんにもう一度会えただけで十分幸せなんです。だから、もう泣かないで、お兄ちゃん」
千紗は優しい声で、直人を慰める。
その仕草に、よりいっそう泣きそうになる直人だったが、最愛の妹が泣かないで、と言っているのだから、兄としてこれ以上泣くわけにはいかない。
無理やり涙を止めた直人は、ゆっくりと千紗を離す。
「ありがとうな、千紗」
まだ少し目元が赤かったが、直人は笑顔で千紗に礼を言う。
「いえ、気にしないでください。それより……」
そこで口ごもった千紗は、リリーの手を引いて、直人から少し離れる。
直人には聞かれたくないようなことなのだろう、と予想したリリーは、こちらを見ている直人を片手で制すると、声を潜めて話す。
「どうしたんだ、チサ?」
「リリー、幼い私は何か変なことを言ってませんでしたか?」
「変なこと、か。そんなことをいわれてもな。なにせ、入れ替わったと思ったら私とナオトの前から姿を消してしまい、見つけた時にはここで意識を失っていたのだ……。私たちが聞いたのは『ひどい! お兄ちゃんの初めては千紗のものなのにー』という捨て台詞だけだな」
それを聞いて千紗は耳まで真っ赤になる。まさか、兄の初めては自分のものだと言い放つとは、もう一人の私は、いささか素直すぎるようだ。
「そ、そうですか。ありがとうございます」
「なに、そんなに落ち込むことはない。ふふっ。私は、ああいうやんちゃなチサも嫌いじゃないぞ?」
千紗は、なんとしてもあの人格を表に出さないようにしよう、と心に決めるのだった。
*
「行ってきましたよ、ドレイクさん」
影の塊から声が発せられると同時に、会議室に一人の男性が現れる。
「ご苦労だったな、マーク」
もとから会議室にいたドレイクは、金色の短髪を揺らして頷く。
「それで、これからどうするんです?」
「何度もいわせるな。今はまだ時ではない」
「はいはい、わかりましたよ。それじゃあ、監視を継続ってことで?」
「ああ、引き続き監視を頼む。見つからんようにな」
「へいへい」
軽く答えたマークの姿が虚空へと消え、そこには一点の影があるのみとなった。
*
「そういえば、チサが入ってきた時に私とナオトがベッドで重なって倒れる原因となった魔力の霧散について何か知っている様だったが、心当たりがあるのか」
リリーは、大浴場のいすに腰掛け、その長く美しい金糸のごとき髪を洗っている。
水を滴らせ、ろうそくの光を反射し、キラキラと輝く金髪と白磁の柔肌は、同性の千紗が見てもため息がでるほど美しい。
「ええ、まあ。そもそも、兄さんとリリーがバランスを崩した現象を起こしたのは私ですし」
「どういうことだ?」
頭を洗い終わり、体を洗い始めていたリリーは、振り返らずに問う。
「そのままの意味ですよ。私が発動した結界魔法の一種で、発動時領域内にいた者の魔力による身体能力の向上を一定時間封じる術式です」
こともなげに言う千紗だったが、リリーはその恐ろしさに言葉を失う。もし、本当に魔族の身体能力を奪えるならば、人類魔族の戦局は、人類側へと大きく傾くだろう。
体を洗い終えたリリーは、湯船に入り、千紗の前に座る。
「チサ、その術式は危険だ。おそらく、それの存在を知れば、人間側のからも魔族側からも狙われることになる。だから、チサ、この術式の存在は私たち以外の誰にも言ってはダメだ。わかったか?」
いつになく真剣な口調で語るリリーに、千紗も真剣に耳を傾ける。
この世界のことはまだあまり知らない千紗だが、人間と魔族が戦争状態なのくらいは知っている。
「もしその術式が、人間側に渡った場合、今の均衡状態は崩れ、人間と魔族の間で交わされた停戦協定は破棄されるだろう」
確かに、領域内の魔族を弱体化させることができるこの術式が人間側に渡れば、魔族が劣勢にたたされることは想像に難くない。
「また、魔族の手に渡ったとしても、状況は大きく動くことになるだろう。例えばだが、この術式を手に入れた者によるクーデターが発生し、現魔王が妥当されれば、魔族側の方針が変わり、人間側に総力戦を挑んでくることも考えられる」
「なるほど、魔族の事情を知るリリーが言うのだからそうなのでしょう。この術式はできる限り隠しておくことにします」
「そうしてくれ、私は争いが好きではないからな……」
昔を思い出しているのか、リリーは目を細めて黙り込む。
過去に何かあったのは明らかだが、それを尋ねるには、二人の仲は浅すぎた。
リリーはしばらくそうしていたが、不意に千紗の方を見ると、その視線が顔の下あたりで固定される。
「……けしからんな」
リリーが羨望と嫉妬の混じった視線で、千紗ににじり寄る。
「な、なんですか? リリー」
「いやなに、チサはずいぶん立派なものを持っているな、と思ってな?」
リリーが危ない目をしたまま、千紗の目の前までやってくる。
「えーと、念のため聞きますが、立派なものとは?」
「もちろん、その湯船に浮かんでいるおっぱいのことだ!」
リリーはそう言うと、千紗の胸をむんずと掴み、揉みしだく。
「ふむ、これは素晴らしい!」
大人しい子だと思っていたリリーの行動に、しばらく硬直していた千紗だったが、ようやくリリーを引きはがすべく動き始める。
「やめ……あっ、やめて下さい!」
千紗は言葉と共に全身に力を込め、ようやくリリーを引き剥がす。
「どうしちゃったんですか? リリーはそんな子だったのですか?」
千紗に非難されているにもかかわらず、むしろ胸を張ったリリーは、きっぱりと断じる。
「こればっかりは仕方がない! 私は半分とはいえ淫魔族だ。男性を惑わすそのおっぱいを目の前にして、その神秘を探らない訳にはいくまい?」
「いくまい? じゃないですよ、まったく、自信満々に何言ってるんですか……」
「それに、誰にだってするわけではない、これは私なりの愛情表現だ。そう起こらんでくれ」
「そうですか、それなら仕方ありま――ってそんなわけ無いでしょう? 仕方あります! こうなったら、リリーお返しです!」
そう言って、今度は千紗がリリーに襲いかかり、リリーの頭をその大きな胸の間に挟み抱きしめる。
「わぷっ」
「やっぱりリリーはちっちゃくて可愛いですね~。実は私、昔からリリーみたいに小柄で可愛らしい妹が欲しかったんですよ。本当ですよ? なにせ自分好みの妹が欲しくて、アリシアの要求には無かったとびきり可愛いって条件を追加したのは私ですから!」
堰を切ったように話続ける千紗の胸の間で、願ったり叶ったりの状況に、逃げる理由もないリリーは、千紗の言葉を聞いて驚いていた。誰にも言っていないことだが、本当に最後の決め手となったのはとびきり可愛いという条件だったのだ。まさかそれを条件として入れたのが千紗だったとは。
リリーは、千紗の背中に手を回す。
「――そうだ、リリー、どうせなら本当に私の妹に――どうしました?」
まだ何事か話続けていた千紗は、リリーの手が自身の背に回され、抱きつかれていることに気が付いて言葉を切る。
「ありがとう、チサ。全部チサのおかげだ」
「なんのことです?」
突然お礼を言われた千紗は、どうしてお礼を言われたのかわからないようだったが、リリーは無視した。いつかしっかりとお礼をしようと心に決めて。
「なんでもない」
「そうですか?」
「ああ、そうだ。それよりそろそろ上がろう。いい加減のぼせてしまう」
「そうですね、上がりましょうか」
そう言って二人は浴室を後にした。
*
その日の夜。
今日は直人が一番最初に眠りにつき、リリーと千紗が話していた。
「リリー、淫魔族の魔法と言うのを体験してみたいのですが、私にかけることはできますか」
お互いの昔のことについて話していたところに、唐突に千紗が切り出す。
「残念だがそれは不可能だ。淫魔族である私が魔法を使える対象は、男性に限定される」
「そうですか……」
どうやらよほど気になっていたのだろう、薄暗がりの中でも落胆した様子が見て取れる。
「しかし、チサを夢の世界に連れて行くことだけならできないこともない」
「本当ですか!?」
千紗はベッドを揺らさないように、リリーの前に移動する。
「手順は簡単だ。まず、ナオトの夢の中に私が魔法で入る。そこにチサを呼び込むんだ。本来は誘惑している対象の意中の相手を夢の中に呼ぶことで、精気の収集を効率化する為のものなのだが、まあ今回は私の力で何とかしよう」
「なるほど、それでは兄さんも一緒ということですね?」
「ああ、そういうことになるな。嫌か?」
答えはわかりきっていたが、一応確認しておく。
「いえ、むしろ好都合です。それではお願いしていいですか?」
「ああ、まかせてくれ。チサは――そうだな、私と反対側のナオトの隣に横になっていてくれ。それとできればナオトに触れていてくれると助かる」
「わかりました」
千紗は先ほど同様ベッドを揺らさないように気をつけながら移動し、直人の隣に寝ころぶと、その背中にそっと抱きつく。
その様子に思わず苦笑しながら、リリーは魔法を行使する。
「んっ」
千紗は、さっきまでと同じベッドの上で目を覚ます。
「あれ、魔法は?」
魔法の発動した様子が感じられず、千紗が首を傾げていると、背後から聞き慣れたような、しかしながら初めて聞くはずの、艶のある声が千紗を呼ぶ。
「ふふ、チサ、もうここは夢の中だぞ?」
「リリー?」
振り向いた千紗は、リリー? の姿を見て言葉を失う。
「いかにも、私はリリーだ。この姿は魔法をかけられた対象が持つ願望に従って構築されるもので、今の姿は直人の願望を反映した結果だな」
どこか幼さの残る顔立ちと、成熟した体つきとが生み出すアンバランスさは蠱惑的であり、リリーが淫魔族であるということを嫌が上にも理解させられる。
「すごいんですね、淫魔族の魔法というものは。夢の中に入れるだけでなく、自分の外見を変えることまでできるなんて」
「本当にな。まあ俺としては、夢の中に大人姿のリリーが現れたと思ったら、妹まで現れたことの方が驚きだけどな」
「いいだろう? 両手に花だぞ?」
リリーは妖艶に微笑むと、直人の左腕を抱き抱えるようにして添い寝する。
豊満な体つきの今のリリーにそんなことをされれば、直人の腕にいろいろとあたってしまい、精神衛生上よろしくないのだが、どうにか平静を装う。
「それで、なんで千紗がここにいるんだ?」
「私が頼んだんですよ。それにしても驚きでした。兄さんは本当にヘタレなんですか? こんな美女の据え膳を食らわないなら、いったいどんな女性ならいいのですか?」
千紗は、大人リリーをまじまじと見つめる。
「確かに見た目はそうかもしれんが、中身は一つ年下のリリーのままだ。この前の時だって、初めて異性に魔法を使ったみたいで、リリーの奴ふ、うぐっ――」
リリーの胸に顔をふさがれた直人の視界は暗転し、それ以上言葉を発することができなかった。
きっと、美女の胸に顔を埋めるというのは全男性の夢だろう。しかし、何事にも限度というものがある。端的に言って、リリーの胸は大きすぎるのだ。直人の欲望を反映してこの大きさなのだから、自業自得なのかもしれないが、このままでは窒息死してしまう。
脱出を試みてもがく直人をよそに、リリーは千紗と話し始める。
ちなみに、ここはリリーが支配する夢の中なので、直人が脱出できる可能性はゼロに近いが、同様に窒息死する事もない。
「なんでもないんだ、チサ。この前のときは、その途中で魔法が解けてしまってな。断じて私が震えていたとか、それに気が付いたナオトに慰められただとか、そんなことはない! 本当だぞ?」
パニックになり、結局ほとんどのことを自分でばらしてしまっていることに、リリーは気が付いていない。
「そ、そうですか。わかりました。それから、そろそろ兄さんを解放してあげて下さい」
はっとして自身の胸元を見たリリーは、慌てて腕の力を緩める。
「ぷはっ、はあ、はあ、はあ、死ぬかと思った」
ようやく解放された直人は、ベッドに仰向けになり、どうにか呼吸を整える。
「兄さん、気持ちよかったですか?」
その声はどこかとげがある。
「そりゃ、まあな。でも、途中からは命の危険を感じてそれどころじゃなかったよ」
「そうですか……」
そう言うと、ベッドに横になっていた直人の右腕を抱きかけるようにして添い寝する。
「リリーは反対側をお願いします」
千紗は有無をいわせぬ口調で命じる。
「あ、ああ。わかった」
千紗の迫力に、本来この夢の世界の支配者であるリリーも、素直に従ってしまう。
結果として、直人はベッドの中央に横たわり、右腕を千紗、左腕をリリーに抱き抱えるられていた。美女二人を左右に侍らせた姿は、まさに両手に花だったが、現実はそんなに良いものでない。
「それで、兄さんは私とリリーのどちらがタイプですか?」
突然の爆弾発言に、空気が凍る。
「何言ってるんだ、俺と千紗は兄妹だろう?」
本当はいとこらしいが、千紗はそれを知らないはずだ。
「ええ、ですが兄さん、気が付いているかと思いますが、私は兄さんが好きです。家族としてではなく、一人の男性として、です」
「っっっ……!?」
確かに察してはいたが、実際に面と向かって告白される日がこようとは夢にも思っていなかっただけに、直人はとっさに言葉が出てこない。
言葉を失っている直人をひとまず無視し、千紗はリリーに話しかける。
「リリーはどうなのですか? 兄さんのことをどう思っているのですか?」
「わ、私は、どうなのだろうか? 正直よくわからない。なにぶん今まで恋したことなど無いからな……」
リリーの言葉に、嘘偽りは無かった。そもそも人間魔族問わず、この六年ほどの間、他人といえる人物と関わりを持っていなかったのだから当然である。
「そうですか、それでは、兄さんを誘惑する事に抵抗はありましたか?」
しばし考えた後、はっきりと答える。
「いや、そういわれると無かったな、ナオトならいいかなと思った」
「そうですか。それでは、兄さんと一緒に寝るのは嫌ですか?」
今度は間髪入れずに断言する。
「全然嫌ではない。むしろナオトを一緒に寝ると安心する」
「そうですか。それでは最後の質問です。リリーいったん兄さんから離れて下さい」
「ああ、わかった」
千紗の真意が読めず困惑するリリーだったが、とりあえず指示通りにする。
「これを見てどう思いますか?」
そう言うと、千紗は直人に腕を回し、抱きしめる。
その瞬間、リリーは自身の胸がちくりと痛んだ気がした。
「今、リリーはどんな気持ちですか?」
千紗は、ナオトをいっそう強く抱きしめると、勝ち誇ったような表情をリリーに向ける。
「なんというか、とても不快だ」
「そうですか。では、私にどうして欲しいですか?」
「……ナオトから離れて欲しい」
千紗は、先ほどまでの勝ち誇ったような表情を消すと、直人から離れ、リリーの前に座る。
「リリー、それが嫉妬というものです。嫉妬するということは、リリーも兄さんのことが好きなのでしょう」
そう言って、千紗は柔らかく微笑む。
「私が、ナオトのことを?」
「ええ、だってさっき、兄さんのことを一人占めしたいと思いませんでしたか?」
「!? ああ、確かにそう思った、ナオトは私のものだ、と。しかし、どうしてわかる? チサは心が読めるのか?」
「心は読めませんよ。でも私も同じですから……」
千紗も直人のことが好きだからわかるということだろう。
「なるほどな、そういうことか」
「そういうことです」
どうやら、二人は納得したようである。
「それで、話が終わったなら、そろそろ寝てもいいか?」
先ほどから長らく話題の中心でありながら、放置され続けた直人は、赤面しながら苦笑いしている。
直人からすれば、左腕に女の子が抱きついている状態で、右腕に抱きついている女の子から告白されたのだ。赤面してしまうのは当然の反応だろう。加えて、千紗がリリーの直人に対する恋愛感情を自覚させる場面でも、直人は二人の間にいたわけで……。正直にいって、直人は羞恥で死にそうだった。
「いや、待ってくれ」
少しでも早くこの空間から逃れたい直人を、リリーが引き止める。
「ナオト、どうやら私もナオトのことが好きなようだ」
「ああ、知ってる。さっきの話の間中、俺は二人の間にいたんだぞ? 知らないわけがない」
「そうだな、それもそうだ。しかし、改めて伝えておきたくてな。それと――」
リリーは千紗に視線を移す。
「チサ、私は友としてチサのことは気に入っている。しかし、ナオトは私のものだ。それは譲れない」
真剣な表情で宣戦布告するリリーを、千紗はしっかりと見据える。
「私もです、リリー。私もリリーのことは妹みたいで気に入っていますが、生まれたときから兄さんは私のものです。それは譲れません」
「そうだろうな」
「ええ」
そう言って頷き合った二人は、再び直人の左右の腕をそれぞれに抱き抱えるようにして、直人に添い寝する。
「これからは」
「正々堂々と」
「ナオトの」
「兄さんの」
「「奪い合いをしよう」」
異口同音に言い、直人の体をまたいで固く握手を交わす。
もうやめてくれ、という羞恥からくる直人の心の叫びは、残念ながら二人には届いていないようだった。
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