第二章

「んっ」

 翌朝、直人は開いたままになっていたカーテンから差し込む朝日で目を覚ます。

(リリーのやつ、強制的に寝かせやがったな……)

 目を閉じたまま半覚醒の頭で昨夜のことを思い出す。

 むにょん。

(それにしても、あれが淫魔族の魔法か)

 むにょんむにょん。

(そうそう、昨日のリリーの胸はこんな感じの柔らかさだった……)

 むにょんむにょんむにょん

(っっっ!?)

 そこでようやく自分の背に当たる柔らかな感触に気が付いた直人は、目を開き、慌てて後ろに寝返りを打とうとして失敗する。

 直人の腕の中には、夢の中とは違い、幼い姿をしたリリーが、すっぽりと収まっていた。

 どうやら、直人はリリーを抱き枕にして寝ていた様である。

 これではっきりしたが、今直人の背に当てられている柔らかいものは、千紗の胸だろう。

 再会時には、聡明で落ち着いた印象与えた我が妹君の本質的な部分は、残念なことに変わっていないらしい。

 今までなら、千紗に抱きつかれてもなんともなかったが、実は本当の妹ではないとわかった上に、いきなりこんなに成長してしまった現在ではそうもいかない。

(それにこの動き、絶対起きてるだろ……)

 とりあえず、ブラコン妹は放置し、リリーを起こすことにした。

「リリー? 朝だぞー。起きろー」

 リリーの肩に両手を置いて軽く揺する。

 それにしても、リリーがどうしてこんなところで寝ているのだろうか。

 自分が一方的に抱きついたのではないか、と軽い自己嫌悪にみまわれる直人だったが、実際は直人を寝かした後、リリーが自分で潜り込んだのだ。しかし、直人がそのことを知るはずもない。

「んっ……。おお、ナオト、おはよう」

 考え事をしている間にリリーが起きたようである。

「ああ、おはよう、じゃなくってだな、リリー、これはどういう状況なんだ?」

「どんな状況とは、あまりに失礼ではないか? 昨晩はあんなに私を求めてくれたというのに……」

「なんのことだ!」

 寝起きとは思えない、完璧なしらばっくれかたである。

 おそらく、リリーも最初から起きていたのだろう。

「なんのことかだと? いたいけな少女になにを言わせるんだ!?」

 そう言って、頬を染め、わざとらしく自らの肩を抱くリリー。

 まったく朝から元気なことである。

 放っておいてもよかったのだが、背後からの確信犯的胸の押し付けを止め、先ほどから殺気を放っている妹の誤解を説くためにも、リリーはどうにかしなければならないだろう。

「まったく、全部夢の中の話で、しかも最後にはちゃんと止めただろ?」

「ふふ、すまない、悪ふざけが過ぎたな。そうだったな、直人はへたれだもんな?」

 自分の誘惑が効かなかったことが悔しかったのだろう、と勝手に解釈した直人だが、リリーは直人に可愛いと言われたことが恥ずかしかっただけである。

「はいはい、そういうことでいいよ」

 そう言って苦笑しながらリリーの頭に手を伸ばし、その柔らかく艶のある金髪を撫でてやる。

 少し恥ずかしそうにしながらも、直人の手を払ったりしないあたり、リリーも撫でられるのは嫌いでは無いようである。

「千紗もいつまでも寝たふりなんてしてるなよ?」

 再び、直人の背中に胸を押し付けてきていた千紗は、不満そうに反論する。

「寝たふりなんてしていませんよ? 兄さんが私の胸に背中を押し付けてきてるんじゃないですか。それと、いつまでリリーの頭を撫でているつもりですか」

 最後は方は、少し怒っているように、聞こえたが気にしないことにする。

 その時、ガチャリと音を立ててドアが開く。

「ナオト? チサ? リリー? もう起きているか……し……ら……?」

 アリシアは、ベッドの上でじゃれあっているようにしか見えない直人たち三人を目にし硬直する。

 そして、高速で踵を返す。

「あ、あはは、なんというかお邪魔しちゃったみたいね。そ、それじゃあ、ごゆっくり~。朝ご飯はできているから、気が済んだら下りてきてちょうだい」

 明らかに誤解したセリフを口にして勢いよくドアを閉めて行ってしまう。

「「「………」」」

 直人たちは顔を見合わせると、着替えもせずに急いで食堂に向かうのだった。

 結局、誤解を解くことが出来なかった直人は、食事の間中アリシアとアリシアから話を聞いたと思われるルナの冷たい視線にさらされ続けた。

 せっかくの料理の味が全くわからなかった直人だったが、食事が終わる頃には、アリシアもルナ落ち着いた(おそらく直人と千紗とリリーの様子が昨日と変わらなかったため、自然と誤解が解けたのだろう)ので、話題は今日予定へと移っていた。

「さっそく今日から三人には学院に行ってもらうわ」

「随分と急なんだな。手続きとか大丈夫なのか?」

 昨日の今日でまさか学院に行くことになるとは思っていなかった直人は、驚きよりもそんなことして大丈夫なのかという不安の方が勝っていた。

「それなら問題ありませんよ。昨日の夜のうちに父に手紙を送って、今朝返事を受け取っていますので、後は三人の了解を得られればいつでも学院に通うことが出来ます」

「そういえば、ルナのお母さんとお父さんはどこにいるんだ?」

「私の父は学院の理事長兼教授ですから、忙しく滅多に家には帰ってきません。母も同じく学院の教授ですから、父が帰ってくるときにしか帰ってきません」

 両親について語るルナからは寂しさは感じられず、むしろ、家に帰れないほど忙しく働いている両親を心配しているようだ。

「ルナ優しいんだな。俺なら文句の一つでも言ってやりたいところだ」

「?」

 ルナは何に対して優しいと言われたのか分からない様子だったが、ルナ問い返す前に、アリシアが話し始める。

「それで、ナオトたちは今日から学院に行くってことでいいのかしら?」

「リリーが今日から行くなら、俺も今日からでいいよ。何回も編入があったら不自然だろうしな」

「兄さんが行くのなら私も今日からでお願いします」

「わかったわ。それとリリー、マスターとしてお願いするわ。これからしばらくはナオトのそばにいてもらえるかしら? 学院に生徒として編入できるように、もろもろ手続きは済ませてあるわ」

「それはいいですが、理由をお聞きしても?」

「ナオトはこの世界のことを知らないわ。だから、あなたの出来る範囲でいいから、ナオトのサポートをしてあげてほしいの」

「なるほど、承りました」

 リリーが了承してくれたとき、アリシアは何か大切なことを忘れている気がしたが、思い出せずにとりあえず保留する事にした。

 三人より先に食べ始めていたアリシアとルナの二人は、口を拭って立ち上がる。

「それじゃあ、私たちは生徒会の仕事があるから先に行くわ」

「リリーちゃん、これが学院までの地図です。魔力を込めれば学院の正しい道順の方向を光が教えてくれます」

 リリーに地図を託すと、朝食時から着ていた白のブラウスの下に、真紅のスカートという制服姿の上からローブを羽織り、少し慌ただしく屋敷を出て行った。

 アリシアたちが身支度を整えている間に朝食を食べ終えた直人は、同じく食べ終えていた千紗とリリーと共に席を立つ。

「それで、俺たちの制服はどこにあるんだ?」

「こちらでございます」

 どこからともなく現れたメイドさんに制服を手渡される。

 直人が渡されたのは、白い学ランのようなものというか、金色の縁取りがはいっている以外は、ただ白いだけの学ランだった。

 ひとまず制服を受け取った三人は男女に分かれて着替えた後、食堂に戻ってくる。

 リリーは、アリシアたちと同様の格好をしていたが、小柄な彼女には大きすぎたのか、ローブの裾を引きずってしまっていた。

 千紗は白いブラウスに金のチェーンが付いた紺のブレザー、下はブレザーと同じ紺色のタイトスカートと、女性士官の様な格好だったが、千紗の雰囲気によくあっており、なかなか様になっていた。

 先に着替えを終え、食堂で待っていた直人の前にやってきた二人は、なぜだか無言でたたずんでいる。

 直人は二人がどうしたのかわからずに二人を見ていると、二人の顔に落胆の色が見え始めた。

 ますます訳が分からず、ただ二人を見るだけの直人にあきれたように千紗がため息をつく。

「兄さん、私たちの制服姿を見た感想をお願いします」

 二人が直人の感想待ちだということを、言われて初めて気が付いた直人は慌てて感想を述べる。

「そういうことだったのか、気がつけなくて悪かった。リリー、よく似合ってる。やっぱりリリーはもとが可愛いから、何着ても可愛いな」

「っっっ~~……!」

 直人にストレートに可愛いと言われ、リリーは頬を染めてうつむく。

「千紗、何というかその、その服は千紗の雰囲気にあっていてとてもよく似合っている。可愛いぞ」

「ありがとうございます」

 口調こそ平静を装っていたが、直人にほめられたことがうれしいらしく、口もとは少しゆるんでいた。

 直人たちは、メイドさん(またどこからともなく現れたのだが、この世界のメイドはどうなっているんだろうか)に屋敷の戸締まりを任せ、学校へと出発した。

「そういえば、俺たちは初めて屋敷から出るんじゃないか?」

「言われてみればそうですね」

「私はこちらの世界の住人だから、今日が初めてではないのだが、人間の街の中を歩くのは今日が初めてだな」

 頼みの綱のリリーが、不安になることを言っている。

 屋敷の外の街並みは、屋敷と同じく中世ヨーロッパ然としており、ほとんどが煉瓦づくりの建物で、直人には今一つ違いが分からないため、すぐに迷ってしまうだろうことは容易に想像できた。

 リリーは、例の地図を取り出すと魔力を込める。

 リリーの魔力を込められたら地図はまばゆいほどの光を放ち、学園へと続く道を示す。

「おお……! これはすごいな!」

 いかにもファンタジーな様子にはしゃぐ直人だったが、対照的に千紗は落ち着いていた。その関心は地図が光ったことよりも、地図を機能させている魔法の術式の方に向かっているようで、地図を凝視しながら何事かつぶやいている。

「なにをそんなに驚いているんだ? 初めての召喚魔法で、異世界から妹を召喚したことに比べ、これは魔力が扱えれば誰でも出来るようなことだぞ?」

「俺がやったことってそんなにすごいことなのか?」

「ええ、召喚魔法は高位魔法の一つで、一朝一夕で出来るようになるものではありません。ましてや魔法を使ったことすらない兄さんが、父さんが作った変則的な召喚魔法の魔法陣を一目見ただけで、それをさらにアレンジした上で発動するなんて本来ならありえないことです」

「まあ、そういうことだ。直人はどうやらそうとうの才能を持った魔法使いらしい」

 リリーが千紗の言葉に頷いて言う。

「でも、俺としてはなんとなくやっただけなんだけどな。あの魔法陣だってどういう意味だったのかなんて全く理解してないし」

 そうなのだ、実際直人はあの魔法陣にどういう意味があったのか全くわからない。ましてや千紗のように改変するなど不可能である。

「それで魔法を行使できるのがおかしいのだ、普通は完全に理解しその上で何度も練習して習得するものなんだぞ?」

「そうなのか?」

 リリーとは反対側を歩いていた千紗を振り返る。

「そうですね。私の場合は一度見れば理解はできるんですが、完全に行使できる様になるには何度か練習が必要です」

「一度見るだけで理解できるのも十分異常なんだがな……」

 何なんだこの兄妹は、とリリーはあきれる。

 そんな話をしながら、屋敷を出て十分ほどが経過した頃、三人は学院に到着した。

 先頭を歩いていたリリーは、正門の前に立って足を止める。

「これは……」

 リリーは、正門の上空を見て憎々しげにつぶやいた。

 訳が分からない直人に千紗が説明する。

「この正門というか、この学院全体に、対魔族用の結界が張られているようです」

「じゃあ、リリーは入れないってことか?」

「いえ、術式を見るに、本来ならアリシアの使い魔であるリリーは、問題なく通過できるはずなのですが……」

(なるほど使い魔契約の儀式を行った魔族に限り進入可能、ですか)

 千紗は、そこで言葉を切り考え込む。

「どうしたんだ」

 考え込んだ末に、千紗はリリーの前に立つ。

「リリー、少しいいですか?」

「あ、ああ。何か策があるのか?」

 リリーは、対魔族用の結界は魔族による魔法干渉を受け付けないために、どうすることも出来ずにいた。

 千紗に何か策があるなら、それに乗るしかない。

「リリー、あなたはアリシアと使い魔の契約を完遂していませんね」

「? どういうことだ? 私はアリシアに使い魔になると言ったぞ?」

「はあ、やっぱりそうでしたか」

「? だから、どういうことだ?」

「要するにですね、リリーもアリシアも使い魔契約の儀式を行っていないということです」

「「使い魔契約の儀式?」」

 リリーと直人は異口同音に尋ね返し、揃って首を傾げる。

「はい、てっきり私が見ていないところで済ませたものだと思っていたんですが、おそらくアリシアは兄さんや私が召喚された上に、リリーが召喚されたことで、契約の儀式のことを忘れてしまったのでしょう」

 やれやれと、首を振る千紗。

「それで、その契約の儀式ってのは何なんだ?」

「はい、私の知る限り、契約の儀式とは、儀式魔法の一つです。ただ、魔法といっても難しいものではありません。加えてこちらの世界では、私たちの世界で言うところの行政手続きに近いもののようです」

 千紗は、術式を読み取りながら、すらすらと答えていく。

 行政手続きみたいなものというと、住民票の登録とか、そう言った感じなのだろうか?

「それで、それをすると何が出来るようになるんだ?」

「私たちの世界に魔族はいなかったので、あちらでは、使い魔契約の儀式を行うことは、使い魔に対する礼を示すなどの意味しかなかったのですが、こちらでは、安全な魔族かどうかの判断基準として機能しているようです。つまり、使い魔契約の儀式を行われている魔族は人間の作った対魔族結界に感知されなくなる、ということのようですね」

「それじゃあどうするんだよ?」

 そうなるとアリシアがいなければいけないわけだが、今ここに彼女はいない。

 生徒会の仕事がどこで行われているのかも知らない。

 それは、千紗にもわかっているようで、同じく黙って考え込んでいる。

「一ついいだろうか?」

 二人が黙考していると、リリーが唐突に片手をあげて話し始める。

「つまり、使い魔契約の儀式とやらが終わればいいのだろう?ならば答えは簡単だ」

「どういうことだ?」

 アリシアがいないのにどうやってこの事態を解決するというのか。

「私とナオトが契約の儀式を行えばいいではないか」

「それが出来れば確かに簡単に解決するが、千紗、そんなことが出来るのか?」

「不可能ではないと思いますが、そこ為には、兄さんとリリーの間に、魔力的なつながりが必要です。これは通常、召喚時に術者と使い魔の間にかってに形成されるはずのものですが、今回は兄さんが召喚者ではないので。例えば、そうですね。魔法によって一時的にでも精神をつなげれば、使い魔契約の儀式に必要な程度の弱い魔力的なつながりは形成できるでしょう」

 魔法によって精神をつなげるといわれても、そんなことすぐに出来るのだろうか。

 どうすればいいかさっぱりわからない直人の隣で、リリーは一人、顔を真っ赤にしていた。

「リリー? どうしたのですか?」

 千紗が優しく微笑んでリリーに問いかける。

「いや、えっと、あの……」

 いつもはっきりとものを言うリリーが、珍しく口ごもっている。

 何事か言いたいことがあるのは確かなようなので、二人はリリーが話し始めるまで待つことにした。

 リリーは一つ深呼吸すると、話し始める。

「チサ、試しにナオトに使い魔契約の儀式の術式を見せてやってくれないだろうか? それで、ナオトは私と使い魔契約の儀式をやってみてくれ」

「しかしそれでは、二人の間に魔力的なつながりが無いので、術式は成功しないはずですが」

「いいんだ、私の予想が正しければ、私とナオトの間には魔力的なつながりがもう存在している」

「? そうなのですか? 兄さん?」

 千紗に話を振られた直人は、リリーに会ってからのことを思い出し、一つの結論を得る。

「ああ、多分大丈夫だ。昨日のうぐっ――」

 何事か言おうとした直人の口を、まだほんのりと顔の赤いリリー慌ててふさぐ。

 リリーは直人の耳元に口を寄せ、

「恥ずかしいから黙っててくれ!」

とささやく。

 リリーの意図を理解した直人は、とりあえずこの場は黙っておくことにした。

「悪いな、千紗。詳細は話せないが、俺も問題はないと思う。とにかく一回術式を見せてくれ」

「……わかりました。兄さんまでそう言うのでしたらお見せします」

 そう言って千紗はその身に魔力を帯びる。

『我の呼びかけに呼応し、気高き人ならざるものよ。ここに我の従僕となることを誓い、我と契約の契りを交わしたまえ』

 千紗の詠唱が進むに従い、その足下には輝く魔法陣が形成されていく。

 詠唱を終了し、千紗が息を吐くと魔法陣は霧散する。

「これで完了です。出来そうですか兄さん?」

「ああ、多分な。だけど、その呪文はそれじゃないとだめなのか?」

「いえ、その必要はありません。さっき私が魔法を行使したとき、魔法陣が段階的に構築されていきませんでしたか?」

 直人が頷いたのを確認して、千紗は続ける。

「呪文は記憶術の一種で、呪文の文言と魔法陣の各部の映像を関連付けて記憶するためのものです。ですから、一度に魔法陣を完全に覚えられるのであれば、呪文どんなものでも構いませんし、もっと言えば詠唱の必要もありません。ですが、そんなことが出来る人はほとんどいないので、それぞれの魔法の魔法陣に対し、長い時間をかけて洗練された記憶しやすい呪文というものが存在し、基本はそれを用いて魔法を発動するんですけどね」

「なるほどな、納得した。なにせ、俺が千紗を召喚した時なんて、『こんな感じじゃないか?』としか言ってないしな」

「まったく、でたらめですね兄さんは……」

 なんて適当な呪文で召喚されたのだ、と思った千紗だったが、それが出来ることには素直に驚いていた。

「それじゃあ、早速やってみますか」

 そう言ってその身に魔力を帯びさせた直人の足下にはすでに魔法陣が完成していた。

「リリー、俺の使い魔になってくれるか?」

 リリーは、本当に無詠唱で魔法を発動するとは思っていなかったのか、不意を突かれ目を丸くしてこちらを見ている。

「リリー?」

「!? すまない。了解だ。ナオトの使い魔になろう」

「よし、契約完了だな」

 そう言って直人がリリーの手を取ると、二人を淡い光が包み込み、すぐに霧散する。

「無事契約完了したようですね」

「そのようだな。二人とも手間をとらせて悪かったな」

「いやいや、リリーは悪くない。悪いのは完全に忘れてたアリシアだ」

「まあまあ、結果としてはアリシアだって自分の使い魔を兄さんにとられたわけですから、そう責めてはかわいそうですよ?」

「それもそうか。ともかく改めてこれからよろしくな、リリー」

 直人は、リリーの頭にポンと手を置き、ゆっくりと撫でる。

「む、兄さんに頭を撫でてもらうなんて、ずるいですよリリー」

 直人が関わると途端に子供の顔を覗かせる千紗は、わざとらしく拗ねて見せる。

 あきれながらも直人が、もう一方の手を千紗の頭に伸ばそうとしたとき、何かを思い出したように、千紗が突然直人たち二人に振り返る。

「そういえば、さっきの使い魔契約の儀式が無事成功した理由を聞いて無かったですね? もしかして今朝夢がどうのこうのいっていたあれと何か関りが?」

「「っっっ!?」」

 これはいけない。

 ここで昨日の夜のことを千紗に聞かれてしまうのは非常によろしくない。

(リリー、逃げるぞ)

(了解だ、マスター)

 示し合わせたように一斉に走り出したリリーと直人は、千紗を置き去りにして昇降口へと駆ける。

「あっ、こら! 二人とも待ちなさい!」

 千紗も慌てて追いかける。

 しかし、あちらの世界でスポーツ推薦で大学に進学できることが確実視されていたほど運動神経の良い直人が、いっさい手を抜かずに走っているのだ。

 そして、身体能力が人間に勝っている場合がほとんどである魔族の傾向にもれず、直人に平然とついていけるリリーもまた、一切手を抜かずに走っている。

 一方の千紗は、運動が出来るといっても一般女性以上という程度で、基本的に頭脳労働派である。

 当然ながら、追いつけるはずが無かった。

 なお、この時初めて直人とリリーは、使い魔契約を行うことで可能となる念話を使ったのだが、逃げることに必死だった二人はそのことに気が付いていない。

 直人を追及するだけなら後でも出来るか、と一つため息をついて気を取り直した千紗は、一人寂しく職員室を探して歩き始めた。

「もう巻いたか?」

 後続のリリーに、直人が振り返らずに問う。

「ああ、おそらく大丈夫だろう。それにしても、マスターは足が速いんだな。魔族の私と同等かそれ以上だ」

「そうか? 確かに速い方ではあると思うが」

「いや、速い方とか、もはやそういう次元ではないと思うんだがな……」

 明らかに人間の限界を越えた速度で走っていたはずなのだが、当の直人に自覚は無いらしい。

 実は、使い魔の能力を上乗せし、任意で自分の能力として行使できるという使い魔契約の儀式の効果を直人が無意識に行使していたのだが、二人はその効果の存在をそもそも知らなかった。

「まあ、今はそんなことはいいだろう? それよりこの後俺たちはどこに行けばいいんだ?」

「ふむ、そうだな……メモによると、職員室に行けばいいらしい」

「普通に考えればそうだろうな。じゃっ、行きますか」

「そうだな、マスター」

「……リリー、そのマスターって呼び方やめてくれないか?」

 直人が何を言っているのかわからないといった様子で首を傾げるリリー。

「? どうしてだ?」

「うーん、うまく言えないんだが、なんかそれじゃあ、リリーが俺の手下みたいじゃないか?」

 今度こそ本当に直人が何を言っているのかわからない、と再び首を傾げる。

「何を言っているんだ? その通りだぞマスター」

「確かにそうかも知れないが……とにかく、俺はリリーと対等の関係でありたいと思ってる。だから、マスターって呼ぶのはやめてくれ」

「……わかった。……直人。これでいいか?」

 リリーは、不承不承といった様子だったが直人の要求を受け入れてくれた。

「ああ、その方が気が楽だ。ありがとうな、リリー」

 そう言って、リリーの頭を二三撫で、踵を返して歩き出す。

「さあ、それじゃあ気を取り直して職員室に行こうか。道はわかるのか?」

「ああ、ここ地図は職員室までの道順も教えてくれるらしい。こっちだそうだ」

 直人を抜かして職員室へと向かうリリーの背中を追いかけて、直人も職員室に向かうのだった。

 先に職員室についたのは直人たちだった。

 二人が職員から簡単な説明を受け、応接室でまだ来ていないという担任講師を待っていると、先ほど職員に先導されて千紗が入ってくる。

「今日からあなた達の担任講師となる、チサ=アラタニです。新任なのでまだまだ至らないところもあるかと思いますが、よろしくお願いしますね、ナオト君、リリーさん」

 あくまで講師の一人として振る舞う千紗に、直人とリリーは合わせることにした。

「「よろしくお願いします」」

「それでは、チサ先生、後のことは先ほど説明したとおりですから、お願いして大丈夫ですね?」

「はい」

 千紗が答えるのを聞き、職員は頷くと踵を返して部屋を出ていく。

「それではこれから教室に向かうので、ついてきてください」

 そう言って千紗も踵を返し、部屋を出ていくので、二人も後に続く。

 ほどなくして教室の前につくと、千紗が声を潜めて二人に話しかける。

「私が先に入って、自己紹介をしてきます。その後二人を呼びますから入ってきてください」

「わかった」

「ナオト君、講師には敬語を使いましょうね?」

「わかり、ました」

「よろしい。あ、あとそれから――」

 そう言うと、千紗が急に距離を詰め、直人の耳元でささやく

「-先ほどの件は、屋敷に帰ってからゆっくりと聞かせていただきますからね、兄さん?」

「っっっ!?」

 どうにか声を上げるのをこらえた直人だが、隣にいたリリーには気づかれてしまう。

(どうした? まあ、だいたいの予想はつくが……)

 千紗が教室へ入っていったことを確認したリリーは、千紗に気づかれないように念話で話しかけてくる。

(さっきのことは屋敷に帰ってからゆっくり聞かせてもらうってさ)

(やはり諦めていなかったか……しかたあるまい、覚悟だけしておこう)

(そうだな)

『――。それでは、皆さんに転入生を紹介します。二人とも入ってきてください』

 扉の向こうから千紗の呼ぶ声が聞こえたので、直人とリリーは扉を開け教室へ入る。

 黒板前に立った二人は、階段状に存在する座席に座る五十人ほどの生徒全員からの視線を受けた。正確には、平凡な容姿の直人はほとんど視界に入っていないようで、リリーが全員の視線を受けていた。

 その視線に応えるように、リリーが一歩前に出る。

「私は、リリー=アスワンという。アスワン家から亡命した魔族で、今はこのナオトの使い魔をしている。すぐには無理だろうが、皆に危害を加える気は全くないから、どうか怖がらないでほしい。これからよろしく頼む」

 先ほどまで静寂を保っていた教室がざわつき始める。

 「えっ、アスワンてあの!?」や「いくら可愛くても魔族じゃなあ」といった声に教室が包まれていくのを千紗が制する。

「皆さん、静かにしてください」

 厳しい口調でこそ無いものの、確かな気迫が込められたら千紗の声に、教室は水を打ったように静まり返る。

 千紗に目配せされ、次に直人が一歩前に出た。

「俺は、ナオト=アラタニだ。そこのチサとは、親戚同士で、リリーは俺の使い魔だ。リリーも言っていたように、急には無理かも知れないが、少しずつでいいから仲良くしてやってほしい。これからよろしくな」

 リリーがアスワンの魔族であったことが相当に衝撃的だったのか、直人の自己紹介に対する拍手はまばらなものだった。

「それでは、二人は……そうですね、真ん中一番後ろの席に座って下さい」

 言われるままに腰掛けた直人とリリーに、隣の少女が話しかけてくる。

「よろしくね、ナオト君、リリーさん。私は、ローザ。ローザ=クロムウェル」

 明るい茶髪のショートカットで、活発そうな笑顔が印象的なかわいらしい少女だ。

「あ、ああ。よろしくな。ところでローザはリリーが怖くないのか?」

「まあね、そりゃあアスワンってのには驚いたけど、怖くはないかな。私、家は一般家庭なんだけど、両親が魔法使いだから、両親の使い魔で魔族の家政婦さんがいてね、その人に育てられたの」 

「そういう家もあるんだな。やっぱりこの学院だとそういう家庭も多いのか?」

「さあ、他を知らないからなんとも言えないけど、多いんじゃないかな? うちの学院はよそと比べれば魔族に寛容だってよく聞くしね。だから、ほとんどのみんなはアスワンっていうのに驚いただけだと思う。一部魔族そのものを敵視してるのもいるけどね」

「なるほどな、教えてくれてありがとうな、正直助かった。改めてこれからよろしく」

「こちらこそ~、リリーさんもよろしくね」

「ああ、よろしく頼む」

 直人、リリーと順に握手を交わしたローザを見て、他のクラスメイトたちも、ほっとした様子だ。

 おそらく、直人とリリーの言葉だけでは、リリー本当に安全だと確信することは出来なかったのだろ。

 ローザの活躍でクラスメイトたちからの警戒を解かれたリリーは、次の休み時間から男子生徒のみならず女子生徒にも囲まれていた。

 直人はというと、数人の男子生徒に話しかけられたら程度で、転入生の割には注目されることなく、一日目を終えたのだった。

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