プロローグ
「ほら、お兄ちゃん。もう朝だよ」
いつものように起こしに来た千紗は、その程度では直人が起きない事は毎朝のことでわかっているはずだろうに、こりもせず直人を揺する。
ふわりと石鹸のにおいを香らせ、千紗の朝日を浴びて輝く黒髪が直人の鼻をくすぐるが、直人は起きようとしない。
「おにーちゃーん? おーきーてー」
「あー、あれだ、後五分」
いい加減鬱陶しくなってきた直人は、布団をかぶって二度寝を決め込む。
「後五分禁止ーー!」
そう言って無慈悲にも直人の布団を引き剥がすと、途端に千紗はわざとらしく絶句した。
(はあ、また始まったのか)
「お兄ちゃん、それ…」
千紗の指は直人の股間を指している。
普通ならここで男としても恥ずかしいのかもしれないが、そもそも毎日同じことをしている上に、妹相手では恥ずかしいなどと言うことはあり得ない。
なので、直人も毎朝のように無視し無反応を貫くことにした。
そんな直人の反応に飽きたのか、千紗もわざとらしい絶句を止める。
「朝ご飯できてるからね、ダーリン♪」
そんなこといいながら直人の頬に一つ口づけると、そのまま部屋を出ていった。
「全くあいつは、何がダーリンだっての」
結局起こされてしまった直人も千紗を追ってリビングへと向かう。
それにしても、休日だというのに、なぜこんなに早く起こされなければならないのだろう?
健全な高校生である直人は、休日は昼頃まで寝ているのが常だ。
「あら、おはよう。いい加減直人も自分で起きなさいよ?」
朝食を配膳していた母がこちらを振り返ることなく、直人を注意する。
「えー、お兄ちゃんは私が起こすからいいのー」
そう言って千紗は口をとがらせる。
「本当に千紗はお兄ちゃんが好きね、もう結婚しちゃえばいいんじゃない?」
などと冗談めかして言う我が母に、すかさず賛同する我が妹。
「うん、するー」
「千紗に母さんまで何言ってんだよ……」
「どうして? 千紗は親の贔屓目を抜いても十分可愛いと思うんだけど」
先ほどより少しまじめな様子で首を傾げる母。
「それ以前の問題だろ、法律とか」
確かに、客観的に見ても千紗は可愛い。
腰のあたりまで伸ばした緑の黒髪は、艶やかで癖が無く、目鼻立ちは整っているし、肌は白磁のように白くきめ細かい。それでいて、これだけの美貌を鼻にかけることもなく、誰とでも分け隔て無く接するのだからモテないはずはなく、毎日誰かから告白されていると聞く。
(断る理由に使われる側の身にもなってくれると助かるんだがな)
それというのも、断る理由が「私は、お兄ちゃんのお嫁さんになるの」なせいで、直人は千紗に告白した全男子から恨まれているのだからたまったものではない。
そんな事情もあり、直人は千紗のことを異性として見ることはない。やはり妹は妹なのである。
そうこうしているうちに父が居間に入ってきた。
「おう、おはよう。直人も今日は早いな」
「おはよう。ホントだよ、何でこんなに早く起こされたんだ? 今日はまだシルバーウィークだろうに」
直人の発言に父が答えようとしたが、それを遮るように、千紗がため息をつく。
「お兄ちゃん、今日はみんなで紅葉狩りに行くって決めてたでしょう?」
直人の分のコーヒーをカップに注いで、直人の前に置きながら、あきれたように言う。
「紅葉狩りって、前から疑問だったんだが、何が楽しいんだ? ただ紅葉を見に行くだけだろう? それに何を狩るんだ? 紅葉は食べたられないだろう?」
今の直人は、親の行楽につき合わされ、不平を言う男子高校生の典型そのものだった。
「いいじゃない、たまには家族行事に付き合いなさい?」
「まあ、いいけどさ」
そこまで反発するつもりも無かった直人は乗り気ではないが承諾する。
「直人もそのうち紅葉狩りの良さがわかるさ。それより、ごはんにしよう」
「そうね」
「「「「いただきます」」」」
*
朝食を食べ終えた一同は身支度を済ませ、車に乗り込む。
父の運転する車は山道に差し掛かると、シルバーウィークにもかかわらず、不自然に空いていた。
「なあ、千紗。何か変じゃないか?」
ごく自然に直人にしなだれかかっていた千紗は、直人の腕を抱いたまま、特に何も考えずに返答する。
「うーん? 何が?」
妹が兄の腕を抱いているのは変なことと言えばその通りなのだが、今更何を言っても意味がないとわかっている直人も、そのことを変だと言ったのではない。
「シルバーウィークなのに車が少なすぎないか」
「朝早いしこんなもん何じゃないの? それにここ山道だし」
まだ不審に思っていた直人だったが、早朝だからだろうと納得することにした。
直人の直感が危機を告げたてから十分ほどがたった頃。
「千紗」
「なあに、お父さん」
「直人を頼んだぞ」
「?」
千紗は、突然のことに訳が分からないといった様子だ。
「お母さんからもお願い。直人を頼んだわよ」
「?」
真剣な表情で千紗に語りかける両親の様子に困惑し、何を言えばいいのかわからなくなっている千紗に代わり、直人が問いかける。
「? どうしたんだよ急に?」
「直人、ごめんなさいね」
「ああ、悪いな直人」
同じく真剣な表情で直人にも語りかける両親。
「本当に、二人ともどうし――」
両親に問いかける直人の言葉は、車を襲った衝撃によって遮られる。
「お、おい。父さん! 前! 前!」
自分が運転する車が、ガードレールを突き破り、崖の下に落ちていっているというのに、なぜだか父は全く動揺した様子がない。
「悪かったな、直人」
父が後ろを振り返りそう言った直後、二度目の衝撃が車を襲い、そこで直人の意識は途切れた。
*
(何が、起こったの?)
落下した車の中で意識を取り戻した千紗は、自身のおかれている状況を確認する。
視界は暗闇に包まれており、周囲の状況はよくわからない。
落下の際に打ったのか、体の節々が痛かったが、特にどこが動かないなどということがないところを見ると、骨折はしていないようだ。
皆は、無事だろうか?
「そうだ、スマホ……」
ポケットからスマートフォンを取り出し、懐中電灯のアプリを起動しようと画面をつけた千紗は、ついでに時間を確認する。
(車が事故を起こして、ガードレールを突き破って、崖の下に落っこちたのが朝の六時で今が夕方の五時だから……うそ、もう十時間以上たってるの?)
しかし、この時期のこの時間帯にしては暗すぎる気がしたが、自身の状況を思いだして納得する。
つまり、ここは崖の下なのだろう。
本来の目的を思いだし、懐中電灯のアプリを起動した千紗はあまりの光景に言葉を失った。
前方に座っていた両親はその姿を確認できないほどに押しつぶされ、生存は絶望的だろう。
しかし、千紗が言葉を失ったのは、両親の死に対してではない。
確かに両親の死も悲しいが、千紗にとって家族の中で一番大切なのは、兄である直人だからだ。
その直人は自分に覆い被さるようにして、落下の衝撃で変形した車体の屋根の部分に貫かれていた。
直人はとっさに千紗をかばって命を落としていたのだ。
「おにい、ちゃん……?」
絶望的な状況であると知りながら、それでも思わず口をついた千紗の呼びかけに、どこからともなく別の声が答える。
「かわいそうに、これは苦しんで死んだだろうね。両親は即死だったみたいだけど」
「誰?」
普通に考えれば人がいるはずのない場所に現れた女性の声に、警戒する余裕もなく問い返す。
「私かい?私は君の叔母だ」
そう言って千紗のスマートフォンの明かりの届くところに見知った顔の女性が現れる。
「どうしてここに?」
千紗は呆然として問いかる。
「まあいろいろとあってね……。それより、今は君の救助が先だ、とりあえずそこからだしてあげよう」
叔母の言葉に自分がおかれている状況を思い出した千紗は、急に動揺する。
「私よりお兄ちゃんを先に助けてあげないと!」
慌てて兄を救助しようとする千紗に叔母は沈痛な表情で告げる。
「君のお兄さんは、もう死んでいるよ」
「で、でも、もしかしたら……っっ」
直人に触れた途端千紗の手が止まり、力なく手をおろした。
「わかったかい」
「……うん」
千紗は自分の手についた直人の血を見つめ硬直する。
千紗が触れた直人の体は、とても冷たかった。
*
(ここはどこだ?)
直人は肉体の覚醒を伴わず、意識だけ覚醒するという未知の体験をする。
とりあえず立ち上がろうとしたところで強烈な違和感が直人を襲い、その違和感が消える瞬間には、何もない空間に立ち上がっていた。
そこで直前の記憶を呼び起こし、自分の状況を理解する。
(そうか、俺千紗をかばって……)
車が谷底に着地する寸前、直人はとっさ千紗をかばい、それ以降の記憶ない。
漠然と数時間苦しんだような気もするが、要するに自分は死んだのだろうと直人は理解した。
しかし、死後の世界がこんなに何もないものだとは……。期待していたわけではないが、正直拍子抜けである。
少なくとも先に死んだ人々がいるものだと思っていたが、やはりどこかの宗教に属していないのがいけなかったのだろうか?
しかし、今からそれを悔いてもどうしようもない。
しかたなく、行く宛もないまま歩き始めた直人の背後から、聞き慣れた声が聞こえた。
「おーい、直人ー!」
「え、父さん?」
まさか死後の世界で最初に父と会うとは。よく見れば父の向こうには母の姿も見える。
「そっか、父さんも母さんも死んだのか……」
「ああ、でも安心しろ。直人がかばった千紗なら無事みたいだ」
「そうか、なら良かったけ……って、どうしてそんなことがわかるんだ?」
直人の当然の質問に答えたのは母だった。
「人は死ぬと、その魂は例外なくこの何もない空間に送られるの。ここは一時的に魂をおいておくための場所で、地球と同じ面積を持った空間だそうよ」
「へー」
どうして一介の主婦でしかない母がそんなことを知っているのか甚だ疑問だったが、今は続きを聞きたいので黙っておくことにする。
「そして、俺たち三人が同じ場所にいることからもわかる通り、基本的に死亡した位置と同期している地点に送られる。東京大空襲や原爆投下クラスの局所的かつ大量の死者が出るようなことがない限り、原則としては同じ場所に転送されるってことみたいだ」
「つまり今ここに千紗がいないってことは、生きてるってことなんだな?」
「そういうことだ」
「それでこれから俺たちはどうなるんだ? 閻魔様のところにでも行くのか?」
「いや、俺と母さんがどうなるのかは俺にもわからない」
「? 父さんと母さんがどうなるかわからないのはわかったけど、俺はどうなるんだよ?」
「直人は異世界に召喚される」
「は?」
意味が分からない。この父親は何を言っているのか。
そう思って母に視線を移すが、母も黙って頷いているところを見ると、どうにも父が冗談を言っている訳ではないらしい。
「召喚されるっていっても、いったい誰が俺なんて召喚するんだよ?」
「直人を召喚するのは、世界だ」
「世界?」
「そうだ、因果を調律するために、世界が直人を召喚する」
「調律しなければいけないということは、その世界は乱れているのか?」
「ああ、今から二十年前にこちらの世界に逃げ込んできた二人の魔法使いのせいでな」
「魔法使いって急にファンタジーな話だな」
「まあな、それでそのとき逃げ込んできた魔法使いが男女一組で男が十六歳、女が十九歳だったらしい」
「それで同じ年齢の俺を異世界に召喚することでつじつま合わせをしようってとか?」
「そんなところだろうな」
「でも、どうしてそんなことを父さんが知ってるんだよ?」
「俺もさっき聞いたんだ。この空間の管理者を名乗る人物からな」
管理者なる人物がいたとは驚きである。
しかしなぜそいつは直人のところには現れないのだろか。
「そいつは今どこに?」
「……直人が現れる前に消えたよ」
快活な父にしては珍しく、どこか歯切れ悪そうに答える。
違和感を感じた直人だが、あえて指摘するほどのことでもないので、無視することにした。
「そうか、しかしそれだと、女のほうも召喚しないといけなくないか?」
「それについては問題ないらしい」
先ほどと打って変わって、まるでこちらの質問を予期していたかのように、即答する父。
「どういうことだ?」
「直人が異世界に行って使い魔を召喚すれば、それですむらしい」
「それだと俺に十九歳の女の子の使い魔ができることになるんだが」
「何だ?いやなのか」
「そんなこと無いけど」
「ならいいいじゃないか」
「……父さん、何か俺に隠していることがあるんじゃないか?」
とたんに言葉に詰まる父。
なかなか話し始めない父に代わり、今度は母が話し始める。
「直人、落ち着いて聞きなさい」
真剣な様子の母の雰囲気に気圧されながらも、なんとか頷く。
今の母はまるで母では無いかのような威圧感を放っている。
「単刀直入に言うと、直人と千紗は本当兄妹じゃないわ」
あまりの事実に一瞬頭が真っ白になる。
(俺と千紗が本当の兄妹じゃない?)
母の言葉を頭の中で反芻し、直人はようやく理解する。
「どういう、ことだ…?」
「そのままの意味よ。もっと詳しく言うなら、直人が私の連れ子で、千紗は父さんの連れ子ね」
直人は混乱する頭を整理しながら、父に目を向ける。
「その通りだ、直人は俺にとっては本当の子ではない」
申しわけなさそうにしながらも、はっきりと断言する父。
それでは、本当の父親は誰なのかと、直人が問おうとしたところで、世界が光に包まれる。
「…時間みたいだな」
「そうね」
「ちょっと待ってくれ、母さん、俺の本当のー―」
直人の最後の問いは最後まで形になることはなく、光が消えるとそこに直人の姿は無かった。
*
「お兄さんを助けたいかい?」
絶望に沈む千紗だったが、直人を助けたか、という問いを聞き、はじかれたように顔を上げる。
「そんなことできるの!?」
大慌てで車から這い出ようとする千紗に手を貸しながら、叔母は静かに頷く。
「直人を救う方法はある。しかしそれには君の協力が必要不可欠だ。それも、これからの数年間のすべてをかけるような、ね。それでも直人を助けたいかい?」
千紗の努力が無くとも直人は助かることを知っている叔母は、心痛めつつも、千紗にこれからの数年間を棒に振る覚悟はあるのかと問いかける。
「はい」
千紗は静かに、叔母の目を見て答える。
その目には、確かな決意が宿っていた。
*
光にやられた目が機能を回復すると、直人はどこかの屋敷の広間に立っていた。
中世ヨーロッパの王侯貴族の屋敷を彷彿とさせる内装の屋敷の広間には、しかしながら、直人の常識とは決定的に異なる点があった。直人を中心として、大きな魔法陣のようなものが描かれていたのだ。
直径十メートルにもなろうかというその魔法陣の端に二人の少女が立っていた。
日本ではまず見かけないようなサファイアブルーの髪を頭の右側で一つ結びにしている。澄んだ翠の瞳は細められ、警戒心もあらわに、こちらにワンドの様なものを向けている。
その少女の後ろに隠れる様にして、もう一人の少女は立っていた。
燭台に灯るろうそくの光を写し、ほのかにオレンジがかって見える銀色の髪を腰まで伸ばし、ルビーの瞳を潤ませてこちらをうかがっている。
しびれを切らしたのか、手前のサファイアブルーの髪をした少女がこちらにやってくる。
「わわっ、アリシア、待ってー」
それを慌てて後ろの少女が追う。
どうやらサファイアブルーの彼女は、アリシアという名前らしい。
「ルナ、あなたは次期当主なんだからいい加減に……じゃなくって! あなた、名前は?」
ルナと呼ばれた銀髪の少女にお説教を始めようとして、おもいどどまった少女は、直人に誰何する。
中世ヨーロッパ然とした屋敷で、アリシアとルナという名前の少女から名を問われ、直人どう答えるべきか迷った末に、とりあえず海外に準じた名乗り方をすることにした
「俺の名前はナオト=アラタニだ、そっちはアリシアでいいのか?」
「ええ、私があなたのマスターのアリシア=ブレンフォードよ。こっちはルナ=ブレンフォードで私の姉」
ルナは相変わらずアリシアの後ろに隠れたままだったが、直人に向かってペコリと頭を下げる。
まさか、ルナの方が姉だったとは意外だったが、それ以上に聞き捨てならないことがあった。
「ところでアリシアが俺のマスターってのはどういうことだ?」
きょとんとして首を傾げるアリシア。
どうやら本気で何を言っているのかわからないらしい。
「だってあなた魔族でしょう?人間の召喚魔法に応じて召喚されることを受け入れたってことは、あなた人間の使い魔になることを了承して今ここにいるんじゃないの?」
まるでそれが常識かのように語るアリシア。
(どういうことだ? 俺は世界に召喚されるはずじゃ無かったのか? それが何で女の子に召喚されてるんだ? それに魔族って……)
思考の海に沈み始めた直人はルナの声で、現実へと引き戻される。
「待って、アリシア。よく見て? アリシアの手首にもナオト君の首にも契約の紋章が浮かんでないよ?」
ルナに指摘され、自身の手首と直人の首をまじまじとみるアリシア。
その顔はみるみるうちに驚愕に染まっていく。
「有り得ないわ! それじゃああなたはどうしてここにいるの!」
「さあ?」
そんなことを聞かれても、直人とてなぜこんなことになっているのかわからないのだから答えようがない。
本気でわからない様子の直人に、あきらめたのか、アリシアが踵を返す。
「はあ、まあいいわ。とりあえずついてきて」
「どこへ行くんだ?」
「客間よ。とりあえず続きはそっちでしましょう」
そういって、一人でドンドン歩いて行ってしまう。
またも慌てて後ろについていくルナの後ろに直人もついて行くのだった。
*
山林が光に包まれる。
「はあ、はあ、はあ」
山奥の洋館の一室に、少女の姿はあった。
ジャージに身を包み、額に玉の汗浮かべ、マラソン後のように呼吸を乱して大の字に倒れているその少女に、残暑の厳しい時期であるにもかかわらずドレスに身を包んだ妙齢の女性が歩み寄る。
「だいぶ上達したわね。もう私以上かもしれないわ。流石ね、千紗」
「本当ですか? ありがとうございます」
寝転がったまま微笑む千紗に、五年前のような活発さは見られず、落ち着いた雰囲気をまとっている。
「ええ、これならいつその時が来ても大丈夫ね」
師である叔母に太鼓判をもらい、これまでの五年間を思い出す。
家族を失ったあの日、その場から叔母とともに姿を消した千紗は、家族同様死んだことになっている。
叔母につれてこられたこの洋館で魔法の修行に励むこと五年。
最初こそうまくできず何度もくじけそうになったが、ある時からその才を開花させ、最近では叔母を越える魔法使いになれたという自負もある。
(後は兄さんが召喚魔法を発動してくれれば……)
千紗は最後の練習を切り上げ、その時を待つことにした。-五年前に兄を失ったのと同日同時刻であるその時を。
*
バシン! とテーブルをたたく音が客間に響く。
突然の事に、直人よりもアリシアの隣に座るルナの方が、驚いている。
「それじゃあ、あなたは魔族ですらないっていうの?」
苛立ちを隠そうともせず直人に問いかけるアリシア。
何でそんなに怒っているのか知らないが、どうやら直人が魔族でない事はアリシアにとって、相当重要なことらしい。
「信じらんない! あの人の形見を触媒にしてまで発動した召喚魔法だったっていうのに……!」
「そんなこと俺にいわれても困るんだが…」
直人のもっともな反論に、激昂していたアリシアは少し落ち着きを取り戻す。
「ごめんなさい。ナオトが何も悪くない事はわかってる。でも……」
それでも、落胆を隠せない様子で黙り込むアリシアに代わり、ルナが銀髪を揺らして小首を傾げ、直人に問いかける。
ルナは、直人に害意がないことを感じ取り、警戒を解いたようだ。
「それでは、ナオト君はどこから来たのですか?」
「異世界、ということらしい」
「異世界、ですか? ではナオト君はこの世界の住民ではないのですか?」
驚きながらも冷静に直人の言葉を理解したルナは、さらに問いを重ねる。
「そうだな。とりあえず、俺がいた世界はもっとこう、なんていうか科学的? っていうのか?とにかく魔法なんてのは空想のもので、実在しないとされていた」
「なるほど、それは確かにこの世界ではないようです。この世界では科学が空想のものですから」
そう言われて周囲を見渡した直人は、ろうそくが火を灯し続けているにもかかわらず、先ほどからその長さが変化していないことに気がつく。
「じゃあ、あのろうそくも魔法で火を灯し続けているのか?」
「そうですね。極めて初歩的な魔法ですが、魔法で維持されています」
直人が素直に感心していると、ショックから立ち直ったアリシアが顔を上げる。
「どうやら、その様子じゃ本当に魔法を知らないようね。でも、それならどうしてこの世界に来たの? 事故で異世界から人間を召喚するなんて聞いたことがないわ。ナオトが何かしたんじゃないの?」
ただ落ち込んでいただけに見えたアリシアだったが、彼女は自分の魔法の手順に誤りがなかったかを、頭の中で反芻していたのだった。
「そうだアリシア、俺に召喚魔法を教えてくれないか?」
情けないことに、アリシアに目的を問われるまで、何をしなければならないのかを忘れていた直人は、慌ててアリシアに問う。
本音を言えば、父親の最期の言葉であるとはいえ、直人が素直に従ってやる義理はないのだが、右も左も分からない直人は父の言葉に従ってみるほか無い。
「召喚魔法って直人、あんた自分が何言ってるかわかってるの?」
「? 何ってだから、俺に召喚魔法を教え――」
「そういうことを言ってるんじゃない! いい? 召喚魔法は、高等魔法なのよ? 魔法の魔の字も知らないあんたなんかに使えるわけ無いじゃない!」
あたしだって習得に三年以上かかったんだから、などとアリシアの言葉は続いていたが、もはや直人の耳には届いていない。
なぜだか知らないが、感覚的に直人は召喚魔法を使える気がしていた。
根拠はわからないが、とにかくそう思ったのだ。
アリシアは、まだ何事か言っていてこちらの言葉が届きそうにないので、ルナに頼むことにした。
「ルナ、手順だけでいいから召喚魔法について教えてくれないか?」
「手順だけなら……でも私は使えませんから、本当に手順だけですよ?」
戸惑いながらも、了承してくれるルナ。
二人の様子からして、召喚魔法とは本当に高等魔法なのだろう。
まあしかし、やってみなくては何事もわからないものだ。
まだ自分の世界から帰ってこないアリシア客間に残し、ルナとともに直人が召喚された広間へと向かう。
「召喚魔法は、大きな魔法陣を描き、そこに魔力を込めることで発動させます。今回は先ほどアリシアが使ったものがありますからそれを使いましょう」
ルナは、直人を先導しながら、魔法についての説明を始める。
「そもそも、魔法の発動において魔法陣は必須ではないんですよ」
「そうなのか?」
「ええ、ほとんどの魔法は、起こしたい事象のイメージとそれに対応する呪文の詠唱を行えば発動できます」
「じゃあ、何で召喚魔法には魔法陣が必要なんだ?」
「補助です。本来は召喚魔法であっても、それ相応の実力を持った魔法使いであれば魔法陣を無しで発動することができます。これには、他の魔法にもいえることなのですが、魔法陣を覚えること、正確にいえば映像として魔法陣を覚えることが必要になります。今回はアリシアが魔法陣を覚えていないため、魔法陣を床に描いて術式を発動したんです」
「なるほどな。でも、さっきのアリシアの様子からして、魔法陣を事前に描いていても召喚魔法は難しいんだろう?」
「そうですね。そもそも魔法の難易度にはいくつかの要素が影響するんですが…っと、着きましたね。続きはまた今度ということにしましょう」
ルナに魔法について尋ねているうちに、二人は魔法陣の前にきていた。
魔法陣を前にした直人は、おもむろに手をかざす。
「ナオト君? 何をしているんですか?」
「なんとなくだけど…」
そういって、直人は魔法陣に魔力を込める。
『こんな感じじゃないか?』
そう言って直人がルナを振り向いた瞬間、広間は極光に包まれた。
*
直人が召喚魔法を発動させたことを感知した千紗は、召喚魔法のものの十倍はあろうかという魔法陣の中央で、魔法陣に魔力を込める。
ほどなくして魔法陣全体に魔力を行き渡らせた千紗は、直人の召喚魔法への干渉を済ませ、直人と同じく極光に包まれた。
*
光が収まり、直人の視界が徐々に回復する。
そこには、一人の女性が立っていた。
艶やかな黒髪は肩口をくすぐるほどにのばされ、髪色と同じ漆黒の瞳は知的な光を宿している。
その女性は、おもむろに直人に近づくと、直人の頬に手を添える。
「っっ……!」
近くでみる彼女は一層美しく、そしてどこか懐かしかった。
直人を少し見上げるようにして彼女は瞳を潤ませる。
「お久しぶりです、兄さん」
直人によって召喚された美女は、ほかならぬ直人の妹、新谷千紗その人だった。
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