神樹木の巫 ‐サクリファイス‐
ツェオに思考というものは存在しない。
あるのは機械的な状況判断と、それを可能にする指示式だけである。
たとえば、本来の機能を停止して久しい脳髄が、灰色に変色したそれが、時折メモリーの断片のようなものを吐きだしたとしても、それをもはや、彼女は理解できない。
ただの情報として、過去に類似した状況があったと、システマティックに照会するだけなのだ。
いま、彼女の
この〝セクタ〟を形成する、〝エメト〟の〝コア〟に仮接続されているためだ。
四肢の金属塊は、〝コア〟の接続端子と溶融し、もはや元の姿を保ってはいない。
融け合い、結びつき、結晶の美しさも、鋼の無骨さもなく、ただ虹色の流体と化している。
排泄器官にも計測機器の類が侵入しており、尿道や直腸の温度をたえず計測されている。
血中酸素濃度、脈拍、心拍……それらはネクロイドである彼女にしてみれば、無意味な数値だったが、ツェオに価値を見出した管理AIカンファエットからみれば、必要不可欠なものであった。
いよいよともなれば、ツェオを使い潰すことを、カンファエットは躊躇わないだろう。
そのAIもまた、機械的ルーチンで判断しているにすぎないからだ。
適合手術によって構築された脊髄の第二脳に、いまは情報流体アンプルに代わって〝苗木〟の
彼女の内部は、まるでカビの菌糸に汚染された乳製品のような有様だ。
見開かれたままの両の瞳は虚空を写すばかりで、それすら情報を読み取るためのマスクバイザーによってさえぎられてしまう。
口の端からはとろとろと唾液がこぼれ落ち、顔色は普段にまして青い。
ツェオ・ジ・ゼルは、まさにいま、ネクロイドとしての役割を喪失し、ただの機械──生体部品のひとつになり果てようとしていた。
もし、いまの彼女に感情があったならば、この状況に類似する記憶から、こう思うだろう──懐かしいと。
おのれの起源を、思うことだろう。
だが、そう言った思考は生じない。
ただただ、主たる人物のことを、この施設にきて自分に戦えと口にしなかった主人のことを、無垢に想うだけである。
少女の想いなどどうでもいいカンファエットは、電磁場を操作した。
ツェオの口元に最後の検査/侵蝕器具の接続を行おうと、眼前の端末へと指示式を飛ばす。
『SI──これで──月種──運命──人類は、ふたたび──』
AIが、まるで人間のような独り言を零した、その
響き渡る重低音。
床面を揺らす──階層すらも
そして、ゴゥン……ゴゥン……と連続する地鳴りの直後、それは床面を階層ごと割り砕き、姿を現した。
初期型開拓者──その化石。
百を超えるマニピュレーターを半強制的に使役され、触れる場所すべてを滑車に書き換えることで強引に上昇してきた、朽ちた機械の塊、死せる
砕け散りながら飛翔し、空中分解をはじめる開拓者の。
その内部から、外装を蹴破って、ひとりの男が飛びだす。
「ツェオ!」
ゲオルグ・ファウスト。
散乱し、降り注ぐ瓦礫の雨を掻い潜り、決死の表情で跳躍する彼は、迎撃の体制をとったカンファエットに対し、背負っていた棺桶を
総重量2000キログラムを超える超質量の塊が、たんなるインターフェイスへとぶち当たる。
『S──I──』
尋常ではない衝撃に
だが、管理AIたる〝彼女〟も、ただ無作為に悠久の時間を浪費していたわけではなかった。
その姿が、ブッロクノイズとなって解ける。
周囲のセラミックスが電離、珪素粒子の嵐となってゲオルグへと殺到する。
「──!」
空中でトンボを切り、反転する彼の左足を、暴風が掠める。
刹那、その部分が血煙と化した。
やすりをかけられたように消滅する自身の肉体を
弾倉内のすべての炸薬が起動し、大爆発。
シリコンを制御する電磁波を、一時的に麻痺させる。
「──」
『SI──』
ゲオルグが着地するのと、カンファエットが新たな素体を構築するのはほとんど同時だった。
悪魔的な似姿のオートマンが地を蹴る。
その両腕は、兇悪な破壊力を有する電磁投射砲へと変化していた。
音速を超える回避不可能な弾体。
その射出口がゲオルグへと狙いを定めた。
彼の視線は自らの左足に向く。
足首から先がないそれは、到底この状況から、死の宣告から逃れえる物ではなかった。
電磁投射装置に、莫大な電力が集中する──
「まだか──」
「──いいえ、終わりよ」
その声に振り向いたのは誰だったのか。
投擲され、放置されていた棺桶のふたが開く。内部から転がり落ちたのは、干からびた木乃伊の頭部。
それが、ツェオに──その先の〝中核〟へと接触する。
『S──は、廃棄処分の分際がッ──I』
「ええ、でも──もうあんたより、あたしは高位の情報知性体よ、
量子モノクルであっても、そのとき繰り広げられた応酬のすべてを知覚することはできなかった。
ゲオルグにわかったのは、とんでもない情報量の破壊工作がたがいに向かって行われたということであり──
鳴り響く、一度聞いた警報音。
白亜の城が、真っ赤な緊急灯に塗り潰される。
「ゲオルグ!」
名を呼ばれる前に、彼は左腕一本の力で跳躍していた。
一息に棺桶に取りつくと、それを振り上げ、最大の
棺桶の基底部が分割、そのまま半回転しながら上下に解放。
前部が十字形に排熱機構を露出させ、折りたたまれていた銃身を展開させる。
側面から無数に射出されたインテリジェンス・ケーブルが周囲の床面に突き刺さり、ヘレネーの許可を得て莫大な電力をくみ上げ
モノクルに燈る正常稼働の四文字。
グワリと空間をゆがませて、ゲオルグが投射口を向けたのは、カンファエットと、その上部にそびえる〝神樹木〟本来の〝中核〟だった。
「弾頭素材選択、荷電開始──
限定的な破壊力、貫通力に関してはアトミック・ボムすら超える超兵器が、その瞬間に破壊の奔流を投射した。
「ツェオは──俺のものだ」
キィィィィィン!!!
彼の言葉に応じる時間など、カンファエットには存在しなかった。
幕引きの一撃を受け、その上半身が極小の時間のうちに消失。さらにその背後までもが、円筒形にくりぬかれたようにこの世から完全に消滅する。
〝神樹木〟が機能を停止し、白亜の構造体自体が自壊をはじめる。
整然と立ち並んでいた円筒は次々に拉げ、圧し折れ、内容物を垂れ流しながら壊れていった。
蒼色の液体に混じるのは、吐き気を催すような赤色。
ゲオルグは見た。
培養槽のなかにあったものが、自らと同じような人間の、その醜く変貌した肉体であったことに。
「脱出しましょう」
そう声をかけられて彼が振り返ると、そこには一糸まとわぬ裸身をさらす、長身の女性が立っていた。
濡れそぼった全身から、ぽたぽたと液体を滴らせる美女。
その肩には、ぐったりとしたツェオが担がれている。
「……」
「あたしよ! ヘレネーよ! なんでそんな物騒な武装をこっちに向けようとしてるのよ!?」
「いや……」
どういうカラクリかわからず、首を傾げる彼にため息をつきながら、ヘレネーだと名乗る女性は、身動きが取れないでいるゲオルグへと肩を貸した。
「この施設ではより環境適応能力……いえ、観測者としてのランクが高い現生人類を製造していたのよ。いわば禁忌の品種改良ね……といってもわからないでしょうけど、とりあえず手近にあった素体に寄生──いや、あたしは間借りしたってこと!」
「…………」
「あーもう!
彼女の正論──というよりは剣幕に追い立てられ、ゲオルグは欠けた足で歩き出した。
崩れゆく祭壇。
崩壊するひとつの世界。
ゲオルグはそっと、屍人の少女の顔を覗き見た。
両の瞳と口元から、黒い血液を零す彼女は、しかし──どうやらまだ、活動を停止していないようだった。
「急いで! あとふたりは重い!」
文句をわめきたてるヘレネーにせかされて、彼は不器用に走りだす。
その口元に、かすかな安堵を浮かべながら。
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