悪夢の街ボンベイ 2 エイズ宣告/市民バス事情

 朝になって時間の経過とともに身体のむず痒さはひどくなっていった。特に首元は虫さされでぼこぼこになり真っ赤だ。痒さを通り越して熱くなっている。とても我慢ができなかったので、フロントに近所の医者を紹介してもらう。僕は軟膏薬が欲しくて医者に説明をした。

「昨日ホテルで南京虫にさされた」

「南京虫?」

「あー、チャイニーズインセクト」

「チャイニーズインセクト?」

「レッドインセクト、ブラッドインセクト、ライクアドラキュラ」

「?」

全くコミュニケーションが成立しない。医者は僕の全身を確認して

「お前はエイズだと思う。女を買ったか?」

「いや、買ってない。だから昨日ホテルで虫にさされたんだって」

医者は首を振り、真に残念だがという顔をして「アイ チンク ユーアー エイズ」と繰り返す。

 エイズが最初に世界を席巻したころを知っている方には説明不要だろう。アフリカで発祥した奇病だとか、ホモがなる病気だとか、空気感染するだとか、まるでSF世界の奇病のような悪評だった。90年当時の日本でやっと、性行為や輸血以外で感染する可能性はまずないし、発症しない場合もあるということが、世間的に浸透し始めたころであった。蚊を媒体に感染はしないが南京虫ならどうなのという疑問はあるが、昨日の今日で発症するはずがない。しかも下着を着ていた部分はほぼ無傷である。インドに正しいエイズの知識はまだないのだろう。医者が無理矢理入院させようとするので、僕は、今金を持っていないから明日また来ると約束して、塗り薬を貰って出てきた。

「明日必ず来いよ」医者は念を押した。僕を心配してくれたのか、実験台とみなしていたのかはわからない。


 もちろん僕は二度とその医者の所へ行かなかった。ただの虫さされなのは僕が一番知っている。入院などしていたらお金がなくなるし、下手をしたら日本に帰れなくなる。

 塗り薬のおかげで多少は痒みが収まった。


 気を取り直して、インド門を見に行くことにする。ボンベイの町中は市民バスが縦横無尽に走り回っている。都バスみたいだ。ところで都会人と田舎者を区別する一番の指標はなんだかご存じであろうか? それは都バスを十分に活用できるか否かである。生粋の下町っ子でさへも近所の5路線くらいを利用できればいいほうで、普通は2・3路線が限度、田舎者はきっと1路線も乗れないに違いない。日本語で行き先が書かれている都バスでさへ利用するのが難しいのに、ヒンディーではお手上げである。バスが来るたび頭の文字と観光局で貰ってきたパンフと見比べるのだがさっぱりわからない。

 バス亭に佇んでいても埒があかないので僕は意を決心してバスに乗り込んだ。地図とにらめっこしながらバスの動きを監視する。3つほどバス亭を過ぎると不安になってくる。間違ってわけのわからない場所に行ってしまったらどうしよう。僕は怖くなって4つめの停留所で下りてしまった。僕のバス冒険は終了だ。ボンベイのバスは手強い。

 僕はバスに乗った道程をてくてくと歩いて戻った。


 2度と町中のホテルは厭だったので駅中にある旅行者用の宿泊所で泊まることにした。値段は少し高い500ルピーだったと思う。


※結局その日、インド門には辿りつけなかった。バスを乗りこなせて立派なボンベイ人ということだろう。そんなもんにはなりたくない。


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