邂逅(Ⅱ)

 リュシール=シャト=フランシェは優雅に歩いている。その足取りは軽く、いっそスキップでもしているかのようですらあった──その背後の凄惨な光景に目を瞑れば、だが。鼻歌を歌うかのように紡がれるのは呪文、小躍りするかのように操られるのは魔術式──村娘が散歩をするかのような気軽さで、彼女は敵をしていく。正確に狙いを定められた鎌鼬が切り刻んだのは、今は地面に不様に転がっている彼らの脚だ。動きを封じるには手っ取り早い合理的な判断と言える。痛みに呻く彼らを一瞥する彼女には別にその命まで奪うつもりはないのだ、面倒だから。尤も、処置をしない脚から流れていく血の量はおびだたしい。失血で野垂れ死ぬつもりならそれでもいいが。リュシールには其処まで面倒を見てやる義理はない──の、だが。


「でも、どうせならくらいは持って帰った方がいいのかなあ」


 それも情報とか持ってそうな奴。まるで今日の夕飯をどうするか思案するかのような気軽さで投下された言葉と共に滑っていく視線に、先程足を落とされたばかりの男の喉から引き攣ったように空気が漏れた。男に向けられた彼女の視線は無機物をみるそれと大差がない。価値どころか関心のひとつすらない、景色の一部を見る視線に背筋が粟立つ──ただ殺されるだけの方がどれだけ幸福だったか!最早怪物にしか見えないそれから逃げ出そうとして、男は身体が動かないことに絶望した。

 自身の視線で顔色が青から土気色に変わった男の変化など、リュシールには大した興味もない。もしも男の思考が口から零れ落ちていれば「いやあね、失礼な」の一言くらいは言ったかもしれないが、生憎彼はただ震えているだけだった。その姿を無感動に眺めながら、どう考えても情報を持ってるようには見えないよなあ、などと考えて彼女は踵を返す。都合よく研究所の重役っぽいのとか出てこないだろか、などと嘯きながら。

 ぼうっとしていたのが悪かったのだろうか、廊下の曲がり角で悲劇が起こった。勢いよく駆けてきた何者かが鈍い音を立ててリュシールにぶつかったのだ。小柄な彼女はそれだけで数歩よろめき「いっづ!」と低い声で呻く。だがそれは相手も同様だったのだろう、手にしていたと思しき荷物を盛大にぶちまけて「いててて……」と呻いている。痛む場所をさすりながら、二人は顔を上げて同時に声を張り上げ──


「何処を見て歩いて……」

「廊下を走るとか正気で……」


 ──自身の目の前にいる相手に硬直した。

 リュシールの眼前の男が散らばしたと思しき荷物は何枚もの書類、それと蒼い結晶体。明滅するそれは言わずもがな、彼女らヘスペリスの破壊対象である。何故そんなものが此処に?だとか、そもそも此奴何だ?だとか、そういった思考がぐるぐると脳内を駆け巡っている。自分は唐突で気紛れなわりに、リュシールは突発的な出来事に弱い。

 一方、同じく彼女にぶつかった男も混乱していた。目を白黒させるその男──このネケシタスの上級研究員、アンセルム。自らがこの世において最も聡明だと言って憚らない彼は皇国の軍人のうきん共を欺くべく『異界降臨魔法アヴェヌーマン・パラディゾ』を持ち出した。無論追手も想定済みで、元々これを安置していた場所には傭兵を宛がい、その侵攻を阻むという完璧な布石。だというのに目の前にその襲撃者の一人がいるという現実はどういう事だろうか。そしてそれ以上に目の前にいる女のその顔に


(──化け猫女リュシール!!)


 彼の心中の絶叫が声として漏れ出ることはなかったのは幸いだろう。リュシールの目の前で取り乱す自分の姿はアンセルムのプライドをいたく傷付けたに違いない。何しろ、アンセルムにとって彼女は仇敵に近い。憎々しい相手に他ならないのだから。




 アンセルム=ドロゥル=ペルマナントはエブリアン皇国魔法師軍、研究部に属する研究者であった。無論、現在はテンブルクに身を寄せている以上、枕詞に『元』が付くが。

 皇国の伯爵家に生まれ落ちた彼は、生来より頭脳の回転力がその他の凡人に勝っていた、という過去がある。周囲の同年代の誰よりも早く言葉を解し、誰よりも正確に魔法式を読み取る能力を持っていた──そんな自負が彼には在った。その自負を元に形成されたプライドを以て、彼は研究部の門を叩いたのである。しかし、それはあっという間に打ち砕かれる運びとなった。言わずもがな──今彼の目の前で間抜け面でぽかんとしている小娘、リュシールのせいで。

 リュシール=シャト=フランシェは天才であった。協調性に欠け、興味の有無に左右され、省略術式は彼女以外に扱えないようなシロモノばかりが目立つ。だというのに、省略術式は彼女が扱えば他の省略術式よりも威力を出すことが出来たし、纏められた研究レポートの全てが理に適った事象を元に纏められていた。そして何よりも『事象歪曲魔法エフェ・コンベルシオン』の開発。これが彼のプライドを酷く踏み躙った。魔術式の制御権の強奪など、彼には思い至りもしなかったのだ。それをやってのけた娘は、自身の為したことに興味が無かったのだろう。歓喜に沸く研究室を冷めた目で見下ろしていた。その全てがどうでも良いと言わんばかりの冷たい視線の前に、彼のうずたかく積み上げられたプライドは初めて、そしてあまりにもあっけなく折れたのである。

 経験の無い挫折に崩れ落ちた彼は、新しい研究を始めた。しかしそのいずれも結果を残す事が出来ずに立ち消えて、彼の心は二度目の挫折に深く傷ついた。自身が他者リュシールよりも劣っていた、という事実。それを受け止めきるには彼の心はあまりにも脆かったのだろう。現状の原因を周囲のせいと思い込んで──彼はテンブルクに逃げてきた。魔法研究が盛んでなかったテンブルクにおいて、研究の進んだ皇国からやってきた彼は実に優秀な研究者であった。あっという間に昇進し、現在ではこのネケシタスの結界まで任されているのだ。

 だと、言うのに。だというのに、またこの女は自分の目の前に現れたのだ。再び自分の栄光を邪魔立てしようというのだろうか。言い様の無い怒りがアンセルムの胸の裡を焦がす。

 そんなアンセルムの内心など思いもしないだろうリュシールは、漸く我に返ったか立ち上がり口を開き──アンセルムの怒りに更に油を注いだ。


「──ソレアヴェヌーマン・パラディゾ寄越してくれる?」


 だと?このアンセルムを?お前が容易く踏み躙って行ったこの俺を?怒りで目の前が真っ白に染まる錯覚を、まさか自分が受けることになるとはアンセルムには思いもよらなかった。ぎり、と噛み締めた唇から血の味が滲むが知ったことではない。

 ──一応補足しておくならば、リュシールという娘とアンセルムは一度たりとも口を利いたことはない。実のところ他の研究員元同僚の顔もしっかりとは憶えていない彼女がそんな相手を憶えていることの方が奇跡的ではあるのだが、怒りで頭が煮え立ったアンセルムにはそんな言葉は意味を為さないのだろう。


「渡しはしないとも、==


 地を這うような声で告げられた言葉にリュシールは首を傾げた。はて、何故目の前の男が自分の名を知っているのだろうか。潜入任務中、彼女はという渾名でしか呼ばれることは無かったというのに──という思考は飛んできた光弾によって中断させられた。ひらり、と身を躱してそれをいなす。光弾を放った男の周囲に展開された魔法式によって淡く浮かび上がるその表情が憎悪に染まっているのを見て、リュシールは肩を落とした。うわ、面倒くさいのを引いたっぽい。


貴様に俺の邪魔はさせん!」


 もしかしたら以前何某かで恨みを買った相手なのかなあ、などと考えながら次々放たれる光弾を躱すリュシールは、それでも冷静に相手を見ていた。研究員の白衣に施された文様は上級研究員の証だ。『異界降臨魔法アヴェヌーマン・パラディゾ』を現在持っている時点で何も知らないということもあるまい。


「まあいっか、捕獲すれば」


 話は全部それからだ。

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