邂逅(I)
ヴィクトリア=グレイユ=アメレールを含む『ヘスペリス』の面々は走っている。研究所の深部──『
現に今、正面から斬りかかってきた男も簡単に無力化されてしまった。『
「恨んでくれるなよ」
此方も仕事だ、と続いた言葉が、心臓から折れた剣先を生やした男に届いていたのかを知る由はない。零れた血が大理石に広がるのを尻目に彼らはまた走り出す。踏みしめた血だまりの紅が足跡を残していた。
長い廊下を駆け抜けた先、鉄製の扉の前に辿り着いた一行は立ち止まった。理由は実に単純である──そう、結界だ。ヴィクトリアが扉を開こうと触れた瞬間、青白く光った扉はその手を押し戻した。ばぢり、という割れた音が侵入を拒んでいる。
「なあオリア、やっぱリュシィを囮に使ったのは失策だったんじゃねえか?」
「……私もそう思いますが、言って聴く娘でないのは既にご存知でしょう?」
ヴィルヘルムからの問いに、ヴィクトリアは苦い顔をしながら応えた。その返答はと言えば御尤もで、流石のヴィルヘルムも押し黙るしかない。囮役を引き受けた時の輝かんばかりの笑みが脳裏を過る──「囮ならお任せください」の言葉に「暴れまわる大義名分下さい」という副音声が聞こえたのは、なにもヴィクトリアだけではないのだから。
「──この際ですから壊してしまって構わないのでは?」
いないものは仕方なので、と肩を竦めたのはデフロッテだ。兎角、結界を正攻法で解除できないならば定石の手段を取ればいい。その言葉に「成程」と言わんばかりの表情をする面々を見てヴィルヘルムは口許を引き攣らせた。
──少し与太話をしよう。結界とは、エーテルから変換されたマナをそのまま結晶化させ、障壁として展開しているものを指す。即ち、結界とはエネルギーそのもので出来た硝子のようなモノだと考えればいい。但しマナは物理的な影響では破壊することは出来ない。元々は位相の違うエネルギーで展開された結晶である為、物理的なエネルギーとは反発しあうからだ。先程ヴィクトリアの手が弾かれたのもその所為である。マナに影響を及ぼすのはマナのみ──つまり、だ。結界というマナの結晶障壁を破るには、そのエネルギーに勝る同じ位相のエネルギーをぶつければいいのである。
無論、それはヴィルヘルムとてわかっている。今更そんな初歩的な説明を受ける必要はないだろう。だが、わかるからこそ受け入れられないものもある。言い方は悪いが、今デフロッテが提案したのは脳筋戦法に他ならないのだ。それは抵抗も覚えるだろう。なにしろ戦争中ならばいざ知らず、今は一応隠密行動を求められている潜入任務中であるからして。
尤も、『へスぺリス』の面々はその手の任務についてはとんと素人だ。軍人としては生き辛かろう奔放さのお陰で冒険者のふりをさせるのに然程の苦労をしなかったが故に忘れていた。だが、既に彼らの中ではその戦法で行くことは決定事項らしい。魔法の火力においては一番だというエドワールが爆裂魔法の呪文を唱えながら魔力式を展開している姿に、ヴィルヘルムの胃がきり、と軋んだ音を立てた気がした。この小隊の二つ名は、稀代の問題児集団であることを失念していた。
「
完成した呪文が結界と一緒に鉄の扉を吹き飛ばす轟音に、今度こそヴィルヘルムの胃には穴が開いた。
吹き飛ばされた鉄製の扉を潜り抜ければ、その先では相変わらず物凄い量の循環リアクターが回転している。ガンガンと響くその不快な音に眉を潜めながら慎重に奥に進んでいく彼らは思わず瞠目した。リアクターからいくつものコードが伸びたその中央に明滅する蒼い結晶は──ない。息を呑んで辺りを見回し──デフロッテは鋭い声を上げた。
「伏せろ!」
反射的に屈んだ一行の頭上を刃が通り過ぎていく。やたらに大きな刃がリアクターのコードを切断し壁に突き刺さった。漏れ出る液体化したマナが作り出した水たまりを踏みしめる脚──床に伏せた面々を何の感情も滲ませない表情で見下ろしながら、男は口を開いた。
「一足遅かったようだな」
静かな声音だが、その声には確かな殺気が込められているのを肌で感じる。びりびりと痺れるようなそれに、恐慌と──確かな渇望がデフロッテの心に滲んだ。先ほどまで戦闘とすら言えない、児戯じみた制圧をしていたせいで気が高ぶっていた所為もあるのだろう。ふるり、と身震いをしてから立ち上がる。デフロッテの蜜色の視線の先で、男は壁に突き立った剣を抜き去った。
その動作に警戒をあらわにし、同じように立ち上がり身構える仲間たちを掌で制す。戸惑ったように動いた彼らの視線の先、デフロッテの瞳が闘志に揺らめくのを見たヴィクトリアはやれやれと肩を竦めた。リュシールが猫ならばデフロッテは狼である。それ以上に破天荒な猫に振り回されているだけで、この男も生来の気質は
「無茶はするなよ」
「──善処いたします」
殆ど『No』と言っているのと大差ない返答に肩を竦めながら、ヴィクトリアは踵を返す。一行がそれに従って離脱するのを確認した男は、自身もそれを追いかけんと一歩踏み出そうとして──その眼前に突き出された槍の穂先に阻まれた。
いつの間に手にしたのか、淡い緑の宝玉をあしらった魔槍を携えたデフロッテ。その背後で小さくなっていく他の連中を見送りながら、男は問うた。
「自己犠牲か?美しい仲間意識は結構だが、時間稼ぎに意味などない」
「いいや、自己犠牲精神など俺は持ち合わせてはおらんよ」
意外にも、男の問いにデフロッテは即座に言葉を返す。悲壮さは無論のこと、迷いも躊躇いも含まぬその声音に今度こそ男は首を傾げた。
「ならば何故にこの場に留まるか」
「無論、この身は戦士なれば」
貴公との
「よかろう。我が名はイザイタロ。名乗れ、魔槍の戦士」
「デフロッテ=ロジエ=オアナ。エヴリアン皇国が魔法師軍『ホーライ』、第十小隊『へスぺリス』の『
ニィ、と歪んだ笑みは獰猛な獣にも似ていた。水を打ったかのような静謐は、次の瞬間には剣戟の音に霧散した。
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