或いは報復という名の

 ヴァノーネ伯ジリノラーナ・デ・ヴァノーネは苛立っていた。理由と言えば明白で、敵国──それもエヴリアン皇国からの侵入者が自分の管理する研究施設に潜り込んだというのだから仕方ない。そのうえそのうちの一人は自分が目をかけていた(とジリノラーナは思っている)娘──リュシィという名の少女なのだからなおのこと。敵国を自分が招いたという事実が彼の堆く積み上げられたプライドを傷つけていた。


「探せ!何としても探し出せ!」


 口から泡を飛ばす勢いで警備兵たちに指示を飛ばす。ひときわ豪奢な接待用の客間で報告を待つ間が嫌に長い。ああ、ああ、せっかくこの私が!囲い愛でてやろうとしてやったというのに!恩を仇で返されたのだ!!苛立ちのままに叩きつけたぶ厚い掌が美しく細工された飾り机に振り下ろされるその直前。

 ──轟音が空間を裂いた。

 断続的に響く音は徐々に大きさを増している。よくよく聞けば人間の悲鳴も混じるその中に、聞きなれた声が高笑いをしているのが聞こえた。それは、ジリノラーナが知る限りの彼女が今まで出したことのないような、残虐な悦を含んだ声。

 知れずジリノラーナの背に冷たい汗が浮かび上がる。口の中に溜まった唾液を呑み下す音が聞こえるような緊迫感を破裂させたかのように──木製のドアが爆風で吹き飛び部屋の中を転がっていった。


閣下かぁっか


 三日月形に吊り上がった口から零れる甘ったるい声が耳朶をくすぐる。煮詰められた蜜がゆるくとろけていくような金の瞳が自分ジリノラーナの姿を捉えてにんまりと細められて、亜麻色の髪が白い肌の上を滑るさまがやたらと目についた。

 、という声。彼女──リュシールの落とした言葉に気圧される。肉食の獣が極上の餌を前に舌なめずりをするかのような錯覚。幸いにして兵は自分の指揮下にあり、ジリノラーナには彼らを集める手段がある──優位は自分にあるはずなのに妙に強張った身体が上手く動かない。


「お誘いをいただいていたので、

「──ッ!衛兵!衛兵!!何をしているか!賊が出たぞ!!」


 にんまりと、笑みのカタチにその表情が歪んだ。怯えたジリノラーナの声に反応した警備兵が続々と集まってくるが、リュシールは気に留めた様子もなく形のいい唇から笑い声を漏らしながら佇んでいる。襲い掛かる警備兵をいなしながらもどこか無防備なその様はいっそ異様だ。その異様さに圧されて、零れる笑い声の合間に混ぜ込まれた呪文に気付くまでに時間がかかってしまった──警備兵の一人がそれに気づいた時にはすでに遅い。完成した呪文の術式が淡く緑の燐光を放ちながら彼らに向けられていた。


「『魔風斬破ディムウィンド・カッター』」


 鈴を転がしたような声で囁かれたのは死刑宣告だ。金月の瞳を細めた娘の視界の先で、放たれた風の刃が警備兵達の四肢を刻んでいく。滲む赤が吹き荒れる風に踊る様はいっそうつくしくすら見えるのがまた恐ろしい。縫い留められた視線に反してジリノラーナの身体は本能的に後退るが、恐怖で強張った身体は上手く動かず完全に腰が抜けてしまっていた。鈍い音を立てて無様に尻餅をついた彼は、それでも往生際悪く後ろに逃げようとその巨体を揺すっている。

 それが可笑しかったのか──或いは元来からの性質であろうか。獰猛な笑みが彼女の表情を彩った。微かに滲んだ愉悦の色にジリノラーナは古来より笑みとは威嚇行動であったのだと思い出す。彼女の足元で行動の自由を──或いは命すらも奪われた兵士達を時折踏みそうになりながらゆらゆらと歩く娘の影は、小柄であるはずなのに異様なほどに大きく感じるのは何故だろうか。彼の眼には牙を剥いた妖猫の幻影が見えている。

 ──無論、ジリノラーナのそんな思考などリュシールは知りもしない。ただただ己の悦を満たさんがために、彼女はわざとジリノラーナを掠めるように魔法を放つ。それは猫が面白半分に鼠を嬲る様にも似ていた。しかし、その攻防も長くは続かない。ひぃひぃと荒い呼吸を繰り返し、重い身体を引きずるように逃げ回っていた彼の背中に鈍い衝撃が走った。脂汗と涙、それからかすかに滲んだ血でぐちゃぐちゃに汚れた顔で背中を振り向いたジリノラーナは今度こそその表情を絶望に彩ることになる。

 彼の背中を止めたのは壁だ。豪奢なつくりのそれも今は見る影がない。鎌鼬によってずたずたに裂かれた壁紙を、飛び散った血が赤黒く汚している。悲鳴は最早言葉になることはなかった。


「閣下ったら、そんなにお逃げにならなくてもようございましょう?」


 くすくすくす、という笑い声がジリノラーナの耳朶を擽る。いつの間に迫ってきていたのか、気が付けば手を伸ばせばジリノラーナに触れられそうなほどの距離に彼女の影があった。竦み上がるジリノラーナの顔を覗き込んだその視線は熱を持ってどろりと溶けだしたかのような錯覚すら抱かせる。伝説の中には視線で制御する魔法──魔眼と呼ばれる魔法があるというが、それが実在したのならばきっとこんな眼なのであろう。黄金の瞳が薄暗い部屋の中で煌く様に、そんな現実逃避じみた思考が沈み込む。近づけられた顔は気付けば吐息すら感じる距離だ。囁き声が耳元で鼓膜を直に揺さぶっている。


「閣下の無様な姿、存分に堪能させて頂きましたわ。ええ、ええ。とっても愚かで醜くて痛ましくて、腹が捻じ切れてしまうかと思いましたの」


 でも、もう。そう続くその声音だけは可愛らしいのに──否、だからこそか。言葉が孕む残虐性は深く彫り込まれた細工の様に浮かび上がってはジリノラーナの怯えを擽っている。嗚呼、嗚呼!何故己はこんな怪物を飼いならせると思ってしまったのだろうか!押し寄せるこの感情を名付けるならば──


「では、左様なら」


 ──後悔だ。

 展開されていく魔術式が赤黒い光を放つ。明滅するそれに照らされた金月の瞳と、膨れ上がるように盛り上がる焔の赤が彼の視界が最期に捉えたものだ。




 遠くから響く爆音に研究所の深部へ向かっていた一行はその足を止めた。発生源は言うまでもあるまい。彼らの脳裏を過ったのはただ後始末の不安だけだ。


「派手にやったっぽいなあ」

「鬱憤溜まっていたみたいですから……」


 囮を買って出た亜麻色の髪の娘の輝く笑顔を思えば、個人的な報復が行われたことは想像に難くない。結果的に陽動としては最高の派手さであるのは事実だ。最後にはこの研究施設の破壊も視野に入っているというのも、偽りではない。

 けれども妙な不安感が胸を去来するのは、偏に彼女自身の持つ凶暴さがゆえだろう。爆炎の中で高笑いをする猫の娘の姿を脳裏に受信しながら彼らは再び走り出す──不運にも化け猫の怒りを買った哀れな男のことを思い出すことはもうない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る